真実を知る人々は、どのような思考をするだろうか。
先ず、何かを真実と認めるということは、検証を認めないということである。検証が必要であれば、それは仮説であって真実ではない。故に、真実を知る人々は、異なる見解の存在を認めない。真実は唯一無二であり、それと異なる見解は、全て虚偽、歪曲、捏造である。異なる見解を有するということは、真実を否定することであり、罪悪に他ならない。
従って、真実を知る人々は、しばしば排他的な態度をとる。自分が真実を唱えているにも関らず、何故相手はそれを受け入れないのかと不満に思うし、真実を受け入れないのは、真実を理解する能力がないからか、あるいは真実から目を背ける不道徳な人間だからだと考える。自己と異なる見解を持つということは、それだけで不当なことであり、非難されるべきことなのだ。故に、自分と異なる主張を封殺することは、何ら問題ではない。時として、寧ろ良いことと称賛される。
また、真実を知る人々は、討論においても、自説の根拠を示したり、論証する必要はない。仮にそれを行う場合があっても、それは単に真実を伝える手段であり、妥当性を検証するための行為ではないのである。仮にその過程で根拠不足や妥当性に疑義が呈されても、真実は変わらない。真実を理解できない方が愚かなのである。
真実を知る人々の思考形態は、概ねこのようなものである。特定の民族、宗教、団体に限った話ではない。真実なのでこれでよいと考えるのも、真実を語るのは危険だと思うのも自由である。但し、このような思考は、それを信じない者にとってはカルトにしか見えないことだけは、一応、指摘おく。
思想とは真理に対する王手である。思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。
思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠し得る一連の規則を認めなければ、思想とか意見とか言ってみても無意味である。
そうした規則こそ文化の原理なのである。
議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念のないところには文化はない。
こうしたものすべてが欠如しているところに文化はないのであり、そこにあるのは最も厳密な意味での野蛮である。
José Ortega y Gasset