【資料】「将軍義満に危険視された今川貞世の九州独自政権」 | 383|共感0
1677702| JAPANochimusha | 2008.01.11 09:51:04
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*これは以下の関連スレです。
【資料】「足利義満時代に用意された戦国時代に続く道」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926956
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926956)

【資料】「中国明朝と室町幕府の勘合貿易」
(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928111

(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928111)
【資料】
「九州探題を巡る守護大名達」

日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928327)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928327)


この話、日韓交流史に欠かせない筈なのだけど、何故か両国ともあまり話題にする事がない。
ある意味、豊臣秀吉の天下統一まで九州は日本の一部でなかった訳で、そんな時代の話。


【参考】将軍義満に危険視された今川貞世の九州独自政権

1370年(建徳元年/応安3年)頃

  1. 3代将軍足利義満時代に管領の細川頼之から渋川義行の後任として九州探題に推薦され、正式に任命される。
  2. 当時の九州は観応の擾乱後、南朝方の菊池氏が懐良親王を奉じて建てた征西府(やがて少弐氏を撃破して大宰府を占領や将軍尊氏の庶子たる足利直冬等がなどが分立し、南朝勢力が強くなっていた。
  3. 本国遠江で準備をした後、同年10月に京都を出発。中国地方を通過して12月に九州へ至る。大内義弘とも協力し合いながら新興国人勢力と連絡し、阿蘇氏の協力をもって豊後の菊池を、松浦党の協力をもって自ら大宰府を攻めた。

1372年(文中元年/応安5年)6月 征西府から大宰府を奪回

  1. 懐良親王、菊池武光らを筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部まで追い落として自らは大宰府を拠点にする様になった。
  2. 以降戦局は肥後へ移り、1374年7月に了俊は水島に出兵。

1375年(天授元年/永和元年)水島の陣

  1. 会戦に備え当時九州三人衆と呼ばれてた大友親世少弐冬資薩摩の島津氏久らを招聘。
  2. このうち九州探題と対立していた少弐氏の少弐冬資は着陣を拒むが、島津氏久の仲介で来陣。
  3. ところが了俊は宴の最中に冬資を謀殺してしまったので氏久は離反して帰国。以降、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになる。

朝鮮王朝成立(1992年

  1. この頃「日本国王良懐(懐良親王を指すとされている)」を冊封するために派遣された明使を抑留し、高麗から使者として訪れた鄭夢周と接っして独自の交渉を開始している。
  2. 朝鮮王朝成立後もそれは続き、大内氏と協力して倭寇(前期倭寇)鎮圧を遂行して拉致された高麗人を送還したり大蔵経を求めたりしている。

    *関連スレ
    【資料】「士林派儒臣達に祖として崇められた鄭夢周」
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926989
    韓(
    http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926989)

1395年(応永2年)九州探題罷免

  1. 7月に京都へ召喚され、8月に上京して罷免を言い渡される(後任は渋川満頼)。
  2. その後駿河(静岡県)半国の守護として赴任し甥の今川泰範と領地を分けた。
  3. 後任の探題職を望んでいた大内義弘この頃までに西国の有力大名に成長していた)は大友氏や了俊に連合を持ちかけてきたが、了俊は少なくともこの時点はあくまで拒絶。守護職としての駿河統治に専従する道を選んだといわれている。

1399年(応永6年)応永の乱

  1. ついに大内義弘が堺で挙兵して討伐された事件(これに際して功績のあった斯波義重は越前国・尾張国の守護職を与えられて以降それを世襲する様になった。しかし本人は1414年に次代将軍義持の不興を買って高野山に隠退する羽目に陥っている)。
  2. これに際して了俊は鎌倉公方の足利満兼(足利氏満の長男に乱に呼応するように呼びかけた嫌疑を掛けられ、翌年に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲定に対して貞世追討令が出された。
  3. しかし憲定や一族の助命嘆願で許され1402年の上洛時に「以降決して政界に関与しない事」を条件として赦免されている。
  4. 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動に専念して96歳前後で死去したといわれている。


そして…

  1. 室町時代中期以降、明朝及び朝鮮王朝との交易権益を巡って細川氏大内氏は激しく対立する事になった(それ以前は斯波氏細川氏の争いだったらしく、全ての鍵を握るのは比叡山を筆頭とする旧仏教勢力と対立していた新興禅宗勢力だったのだが、こちらは全国に戦乱の輪が広がるにつれて没落していってしまう)。
  2. やがて細川氏が内紛で自壊し、大内氏もまた戦国時代の下克上の風潮の中で没落していく中で欧州の貿易商人やイエスズ会他キリシタン勢力と組んだ大友氏が九州における生き残りを掛けて豊臣秀吉に縋るが、結局最後までは生き延びられなかった。
  3. こうした事があった後で「細川-今川ライン」の継承者を自認して朝鮮王朝との国交を復活させたのが、当初はその末端で先鋒隊として奴隷の様に酷使されていた徳川武士団だった訳である。
  4. そして残された最後の反体制勢力たる肥前鍋島家薩摩島津家の反撃が開始されるのは何と19世紀に入ってからだった訳である。

いや、歴史って本当に面白いですね。

*そしてここに続く、と。
【参考】日本人が意外と知らない世界史の一部としての九州史
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889879)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889879)
【東国の小京都】「「今川義元時代の駿河」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1893103)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1893103)

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【資料】「朝鮮宰相派」の祖となった鄭道伝