坂本直行さんの入植の地
訪問記


【追加日:2008年9月29日】


このようなところで暮らしていたんだ


直行さんが住んでいた下野塚の入植の地を、2002年に訪ねてみたが、場所を特定出来ずに終わってしまった。以来、何度か訪ねたものの、場所は分からずじまいであった。しかし、最近の直行さんブームで広尾町の教育委員会が新たに案内標識を作ったとのことを聞く。そこで2008年9月27日、豊似岳に登った帰り道に訪ねてみた。国道236号線を広尾方面に向かって豊似川を越えた最初の交差点の野塚3線を左折。ひたすらまっすぐ行く。5キロ弱で道道に出て左折。500mほど行ったところの左に白い案内杭があるのでそこを左折。そして砂利道に入り、500mほど進むと左に杭が見え、ここを右折。ここからは草が覆い茂り、轍があって、慣れない人にはちょっとつらいかもしれない。500m弱進むと道は二分するが、左を取る。200m弱行ったところが直行さんの入植地となる。

当初想像していたよりも海に近いところに住んでいた。日高の山々が北から南までがきれいに見える。あいにく、11月初旬並みの寒気が入っており、国境稜線には雲がかかって、夕方の逆光であったので状況はよくなかったが、僕も直行さんの気持ちに少しは近づけただろうか。昭和11年1月にこの地に根を下ろして、昭和35年に豊似市街に移るまで、四季を問わずして、直行さんが見つめてきた風景を時代を越えて、かって彼が暮らした家の前で僕は見た。直行さんの時代と変わらぬ日高山脈の山並みが天にそびゆる姿は今も人々を魅了する。

この地は橘仁三松氏の夏季牧場であったのを直行さんが半年かけて橘氏を説得させて手に入れたとのこと。ただ、日本山岳会北海道支部長の滝本幸夫氏が2006年に書かれた『日高の風』という直行さんの自伝によると3度家を移っている。どうも、入植の地は最初の家があったところではなさそうなので(最初の家は他人の土地の上に建てていた)、二番目か最後に家があった場所を入植の地としているようであるが、そのところは、今後調べてみる価値がありそうである。著者の滝本氏は僕のバイブル『北の山の栄光と悲劇』の中で坂本直行さんの項を設け、『日高の風』のあとがきにも引用する言葉で締める。

「北の風雲児よ、自然児よ。
なぜ凍てついた大地に鍬を入れなければならなかったのか。
なぜ手をふしくれだたせて炭焼をしなければならなかったのか。
なぜ雪に埋れて朝を迎えなければならなかったのか。
北の風雲児よ、自然児よ。
貴方は人生に何を求めたのか。
貴方は山に何を語りかけたのか。」

「原野の人・自由と創造を未開の地に求めて」
『北の山の栄光と悲劇』1982年P276

今度は直行さんがよく登った標高100mに満たない丸山やナマコ山を訪ねてみようと思う。

参考:「坂本直行氏のこと」



国道236号沿いの左折ポイント。ここから先の所々に画面の白い杭が立っている。



家の土台が残っていた



ここから、直行さんは毎日日高を見ていたんだろうな。
「つり風呂や舟にゆられる心地して」直行という句が書かれている。



直行さんはこの丘に登って日高を書いていたのかしら・・・
直行さんの家からは一番近い丘で直線距離で700m。山頂には三角点があって標高66.0m。



この地図の右はもう海である。思ったよりも海に近いところに住んでいた。