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2009-02-01 22:16:36 stanford2008の投稿

桜井淳所長の最近の講演内容-社会主義経済と資本主義経済の崩壊から何を再構築できるか-

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【講演要旨】ここ20年の間に、予想に反してと言うべきか、予想どおりと言うべきか、まず最初に、ソ連邦と東欧諸国の社会主義経済が連鎖的に崩壊し、一部のオピニオンリーダー達は、そのことをもって、資本主義経済の一方的な勝利と位置付け、得意になって、批判にもなっていないマルクス主義批判を展開しましたが、それから20年経って、今度は、近代経済学をより発展させた先端経済理論や金融工学を駆使した資本主義経済が"崩壊"の危機に直面しており(以上の主張内容は本欄バックナンバーに掲載済み)、この"崩壊"という表現は、決して、極論でも虚構でもなく、実際には、現代資本主義がかつて経験したことのない経済的リスクに直面していることは、否定できない真実であり、そのことは、"水戸"に毎日のように訪れる多くの銀行や証券会社の人達とのやり取りから、手に取るように分かり、"水戸"は、規模が小さいため、米国に発生して世界に波及した経済的リスク(低所得者層対象高金利住宅融資にともなう焦げ付き)の影響に押しつぶされるほどのかかわりもなく、規模か小さいためにリスクを回避できたわけで、ビジネスに無関係な人達でも、まとまった金額の株式投資や投資信託等に投資していれば、いまの評価額は、2007年秋頃の評価額の良くて半額、大部分の物は、三分の一かそれ以下に落ちており、もはや紙屑同然に陥っており、もちろん、売却すれば、それだけの損失ですが、そうでなければ、単なる含み損に過ぎませんが、長期にわたって評価額が好転しなければ、その見込みがないならば、損失額に等しく、今回の経済的リスクの影響とは、そのような性格であり、好転が絶望的であることを考慮すれば、近代経済学を駆使した現代資本主義経済の未来は、20年前のソ連邦と東欧諸国の経験と五十歩百歩の世界であって、では、両者の欠点を克服できる経済体制を備えた物がどのような内容であるのかということです(政治や経済は、生き物であって、理想的に運営できるはずがなく、だからこそ、好不況の繰り返しは、当然の現象であって、そのことにいちいち一喜一憂するのは、本当に大人げないため、"水戸"では、これまで、できるだけ、この問題に触れないようにしてきました)。
2009-02-01 19:14:20 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院総合文化研究科のR先生への手紙 -理工学・科学史・哲学・神学の研究室-

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R先生



私は、これまで、日本でも代表的な大学(東大)や研究機関(原研)の研究室に籍を置くか、あるいは、社会科学・科学史・哲学・神学(本欄バックナンバー参照)の研究室に必要に応じて立ち入ることがありましたが、その大部分は、理学の研究室か工学の研究室であって、社会科学、科学史、哲学、神学の研究室に出入りするようになったのは、還暦近くになってからであり(米国まで含めるともう10年早くなります)、社会科学の研究室の雰囲気は、理学や工学の研究室の雰囲気とは、大きく異なり、その原因は、部屋の配置と書籍の配置・整理法・大きさ・デザイン色彩にあることに気付き、社会科学、科学史、哲学、神学の中で、特に、これまで経験したことのない雰囲気は、東大の神学の研究室であり、大変重いものを感じ(多分に、研究者のセンスもあるでしょうが、書籍の大きさやデザイン色彩も大きな要因なように思えました)、身の引き締まる思いでしたが、その分野の原著論文等に目をとおして感じることは、問題提起や先行研究や結論の記載に特有の表現法を用いており、これまでの社会科学の研究にない不思議な重さを感じたものです。



桜井淳

2009-02-01 17:10:46 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院総合文化研究科のR先生への手紙 -科学史・哲学・神学研究に共通する手法-

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R先生



ここ5年間、東大で科学史、哲学、神学(本欄バックナンバー参照)を研究する各分野の研究者とのやり取りを繰り返してきました。おかげさまで大変深い認識に達することができました。その結果、当然のことかもしれませんが、それらの研究には、共通の手法が存在することに気づきました。ひとつは、英仏独露語は当然のことですが、古代の一次資料を解読するために、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語等の語学ができなければならないということです。二番目は史的分析が重要であるということです。三番目は代表的な文献(『旧約聖書』(46冊)及び『新約聖書』(27冊)、プラトン『国家論』、マルクス『資本論』等)を徹底的に深く吟味しなければならないということです。四番目は対象となる事項の社会構造分析が欠かせないということです。神学は、特別な研究分野ではなく、科学史研究の方法とあまり変わらず、ただひとつ異なる点は、歴史的真実のみが真理ではないということでしょうか。



桜井淳

2009-01-31 21:18:02 stanford2008の投稿

桜井淳所長から東大大学院総合文化研究科のR先生への手紙 -根源的文献としての旧約聖書と新約聖書-

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R先生



歴史をどこまで遡ったならば、本質的な議論が展開できるのか、これまで、いかなる場合にも、明確な答は、見出せませんでした。いま、神学(神学の核心は、新約聖書の核心と同じで、「イエスが主であったのは、彼が優れた言動の指導者であり奇蹟治療を行なったからではなくて、苦しみと死を通ることによって人生苦の意味を解き明かし、死に克って復活した者であったればこそなのである。哲学的に言えばSein(「在る」)の問題なのである」(犬養道子『新約聖書物語(下)』、p.35-536、新潮文庫、1980))の文献を集めています。分かりやすく言えば、新約聖書(46巻)と旧約聖書(27巻き)とその根拠となった出典資料です(それらについては、特に、聖書解釈学の研究者でもなければ、すべてに目をとおすようなことはないでしょう)。モーセ以前の世界は関係ないのでしょうか。


モーセは、紀元前約13世紀に現れた古代イスラエル人救済のための指導者(モーセは、エジプトで、ヘブライ人家族に生まれ、紆余曲折の後、ミディアンの地に住み、そこで結婚して、羊飼いをしていましたが、ある日、突然、神「ヤハウェ」(旧約聖書の「創世記」に天地創造に記されています)に遭遇し、神との契約「モーセの十戒」(①あなたには私をおいて他に神があってはならない、②あなたはいかなる像も造ってはならない、③あなたの神の名をみだりに唱えてはならない、④安息日を心にと留めこれを聖別せよ、⑤あなたの父母を敬え、⑥殺してはならない、⑦姦淫してはならない、⑧盗んではならない、⑨隣人に関して偽証してはならない、⑩隣人の家を欲してはならない)の戒めと神の使命を授かり、イスラエル人を救済するため、エジプトから約束されたパレスチナ近くのカナンへの道のりを約40年間も模索の結果、たどり着き、その後、イスラエル人は、紀元前約11世紀、イスラエル王国を築いたものの、周辺国から攻められ、紀元前721-612年に滅亡し、その後も、キリスト教誕生等、紆余曲折を経て、1948年に、パレスチナにイスラエルを建国しました)であって、旧約聖書の「モーセの五書」の著者とされており、後のユダヤ教・キリスト教(ユダヤ教が母胎となりました)・イスラム教等における最も影響力のあった預言者のひとりとされています。ユダヤ教は、特に、キリスト教誕生後に発展したとされていますが、最初から、特定の民族(ユダヤ人)のための民族宗教であり、キリスト教誕生後、中世から現代まで、影響の及ぶ範囲は、いまで言えば、イスラエルのみです。モーセに始まるユダヤ教は、歴史的に考察すれば、確かに、根源的な宗教のように受け止めることができます。


歴史的に考察して、なぜ、ユダヤ人が迫害されるのか分かりません。紀元前約13世紀には、すでに、多くのヘブライ人(ユダヤ人)は、エジプトで、奴隷として働かされていました。モーセは、神の使命を授かり、彼等を救うため、彼等を率いて、約束の地へ向かいました。現代においても、各国が、ユダヤ人への差別を続け、特に、戦争中は、ひどいものでした。私には、その歴史的根拠となる根源的な真実を見出すことができません。何が根源的な真実なのでしょうか。


「ユダがイエスを裏切ったため」というのは、根拠になっておらず、確かに、ユダは、わずか、30枚の銀貨のために、時の権力者にイエスの情報を売り、イエスの十字架刑の一因になったことは、そのとおりです。イエスをはじめ、その弟子は、全員ユダヤ人であり、ユダも誤りに気づき、権力者に30枚の銀貨を投げ返し、そして、あまりの罪の大きさに発狂してしまい、近くのいちじくの木で首を吊り、そこでけじめは、ついていたはずです。裏切行為という行為だけを永遠に罪として問うのは、不適切な解釈のように思えますが、いかがでしょうか。



桜井淳

2009-01-31 20:14:58 stanford2008の投稿

桜井淳所長から京大原子炉実験所のH先生への手紙-『科学・社会・人間』107号の感想-

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H先生



ご無沙汰しています。いただいた『科学・社会・人間』(2009年1月、通算107号)を熟読しました。一般論として言えることは、どのように注意しても、あるいは、何らかの社会的要因があって、たとえ、そのようにしたとしても、第三者には、まったく分からず、第三者の意図によっては、誤解どころか、どのような曲解も可能ですが、ただ、確実に言えることは、反論の内容には、そのひとのポテンシャルが色濃く反映されており、その意味では、同104号と106号で展開された吉岡斉先生の議論の方法は、感心しませんが、それは、彼自身の専門が原子力安全でないためであろうと受け止めています。取り急ぎお礼まで。



桜井淳

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