『慰安婦の話いろいろ』【長文:大人向け】 | 4277|共感10
62794| JAPANnisiokatuyosi | 2007.02.10 16:59:06
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慰安婦の話

慰安婦の話 色々です

 

1日に何人程度の客を取ったのか?

よく 好奇的な 話題に のぼるのが、接客頻度の 濃密さ である。「三時間で 七六人 こなした女が いましたよ」とか、「(一日に)最悪時には 一〇〇名も」とか「ストップ・ウォッチで 計ったら 一人当りの 所要時間は 平均五分」のたぐいだが、かなりの 誇張がある ことは 否定できない。
一般の 売春婦の 話であるが、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』に「普段は そんなに 多くの 客は 来ないが、港に 船が 入った 様な 時には (客が並び)ひと晩に 三十人」と あるように、この職種では 珍らしくない 話であろう。
内務省統計では、遊客 約三千万人に 娼妓三・五万人(二九四〇年)と 記録されている から、平時の 日本の 内地 遊郭では 一人が 一日 平均 二-三人を 迎えていた 計算になる。時期は 不明だが「特飲街営業統計」によると、一日 三・五人、性交回数四・八回だったという。当然 繁閑の 差は あって、玉の井 私娼街で 元日に 十九人、なかには 四十人の 客を とった とあるから、物理的 限界は 数十人規模と 考えて よさそうだ。
戦場 慰安婦の 場合、戦況や 兵士たちの 外出日(週一回)に 制約されるから、繁閑の差は さらに 大きかった と 思われるが、ミチナ(北ビルマ)の 慰安所では 二〇人の 女性が 一日当り 百人前後を こなした というから、一人平均五人 ぐらいに なる。
兵士と 慰安婦の 比率が 不均衡の場合、彼女たちの 労働が 過重に なったことは あるにしても、平均的には 内地の 遊里と 似たりよったり だったと 考えて よいのでは ないか。

労働に対する彼女たちの考え方

接客数は、彼女たちの 収入と 直結していたから、満州の 錦州に 勤務した 磯田利一 憲兵が 書いたように、「一日 三七人の 兵隊を 相手に 五〇円を 稼いだ」と 自慢する 女が いても 不思議はない。
通過部隊が 積慶里の 慰安所へ 殺到した 時であった。過重労働で 性器を 腫らした 女が 続出したので 休業を 命じたところ、喜ぶかと思えば、ふだんは ヒマな所へ 盆と 正月が 一度に 来たような 稼ぎの チャンスなのに、と 彼女たちから 抗議された という。
客が 少なければ 良かったのでは ないようだ。
ビルマから 脱出前の 捕虜収容所での 話だが、英軍将校から 「兵士たちの 相手役を つとめる 社交的な 婦人を 10名ばかり」差し出してくれと 要請された 自治会 幹部は、クジで 選ぶしかないと 覚悟を決め、女子宿舎の 100人ばかりを 集め 打診すると、「一人も いないはずの 希望者が 全員の 半数を越える 50人以上」という 予想外の 結果となり、10人をえらぶ クジ引きを やったという。

しかも、選ばれた 女性に 英軍兵士からの プレゼントが 多いのを知って、女子 宿舎 連中の 羨望の的となったのを聞き、「幻滅感も また 大きかった」との 逸話もある。 

彼女たちの収入は?帰郷は出来たのか?
他の 職種や 平時の 娼婦 稼業と 比べて、何よりも 戦場 慰安婦の 有利な 条件は、高水準の収入だった。
料金自体も 高かったが、経営者との 配分比率(玉割)が 良かったことも 影響している。内地では 戦争中に 吉原の玉割が 二五%から 四〇%へ 増えた 頃、戦地では 五〇%が 普通で、末期の 沖縄の様に 七〇%まで 上昇したところもあった。
ミチナの 丸山連隊長が 慰安婦の 不評を買ったのは、彼女たちの 取り分を 六〇%から 五〇%へ 引き下げたからだ、と 米軍報告書は評している。
これを 収入金額で見ると、内地の 五倍以上、平壌 遊郭の 女たちに 比べると 一〇倍以上を 稼ぎ出していたことが 知れる。前借金を 早ければ 数か月で 返済し、あとは貯金や 家族送金に まわすことが できた。
文玉珠の 場合は、三年足らずで 二万五千円を貯金し、うち五千円を 家族へ送金している。
今なら 一億円前後の大金である。

送金は 軍事郵便を 利用する例が 多かったが、内地へ飛ぶ パイロットに 頼む例もあったようだ。ラバウルの海軍爆撃隊にいた 市川靖人 飛行 兵曹は、遊んだ 相手の 朝鮮_人 慰安婦に 頼まれ、木更津から 朝鮮の 両親に 二百円の 現金を 送ってやったが、山梨県の 田舎なら 小さな家が 一軒建てられるな と思ったそうである。
ベテランの 日本人 慰安婦も 負けていない。
吉原で 十年暮した 高安やえ は、「昭和十七年秋、抱え主から 戦地へ行ってみないかと言われ すぐに応じた。内地では 若い男は 減っていたし、戦地に 行けば 今の 一〇倍は 稼げるし…稼いだら 内地へ帰って 商売を 始めようと 考えて ラバウルヘ…一人5分と限り、一晩に 二百円や 三百円 稼ぐのは わけがなかった」と回想しているから、ビルマの 文玉珠と はぼ同列だろう。
日本軍は 彼女たちが 早く 借金を 返して 帰国することには、むしろ 好意的だった と思われる。
一九四三年二月、漢口兵站司令部の 慰安係長として 着任した 山田清吉 少尉は、慰安婦 全員を 集め、「贅沢や 無駄使いは やめて、一日も 早く 借金を 返して 内地に 戻り、幸せな 家庭生活に 入れるよう」と 訓示したが、彼自身は「一年半ぐらいで 借金を返し、それ以上 働けば 少しは 貯金もできて」と判断していたようだ。
山田の同僚だった 長沢健一 軍医が 感心したのは、朝鮮の 親元へ 送金して 田畑を 買い戻した 春子とか、「三万円を 貯金し、五万円に なれば 京城へ 帰って 小料理屋を」と 励んでいた 慶子という女で、聞き知った 兵站司令官が「感心な女だ。表彰しょう」と 言い出した そうである。湖北省 当陽という 辺地で すごした 一下士官は、「花子という娘が 年期あけで 祝いをするとかで、招待された ことが あった」と回想している。送別会を してもらったわけだ。

ただし、慰安婦が 体を張って 稼いだ 軍票は 日本の敗戦と同時に 紙屑と化した。
ビルマでは 軍票を詰めた リュックを背負って 退却する 彼女たちの姿を 見かけた 兵士の手記が いくつもあるし、シッタン河を 渡る途中で 水分を 吸った リュック もろとも 流された 哀話も 伝わっている。
悪質な 業者のなかには、何かと 名目をつけて 彼女たちの 稼ぎ高を 強制貯蓄させ、 払わなかった 例も あったようだ。東部満州の 東寧に 勤務した 元兵士の杉田康一は 一九三八年、四円弱の月給から貯めた一円五十銭を持って 慰安所へ 通った 経験を語り、なじみになった 朝鮮_人慰安婦から「一銭も もらっていません。全部親方が取り上げて しまいます」と 聞いた 話を 回想する。
楼主の 不払いは 意外に 多かったとも 思われるが、それも また 終戦で 紙屑になって しまったことであろう。

兵士などとの比較

「大東亜戦争陸軍給与令」(昭18・7・28勅令六二五号)によると、二等兵の 月給は 七円五十銭、軍曹が二三‐三〇円、戦地手当を 入れても 約倍額にすぎず、慰安婦たちの 一〇分の一 ないし 一〇〇分の一である。中将の 年俸でも 五八〇〇円だから、文玉珠クラスになると、在ビルマ日本軍最高指揮官より 多く稼いでいたことになる。
戦地に 勤務した 女性は、慰安婦だけでは なかった。看護婦、タイピスト、日本語教員などの 職種が あったが、十八歳で 見習看護婦として 山西省の 陸軍病院に 勤務した 木内幸子は、三年働らいて 約千円の 貯金を 作り、故郷に 小さな 家を 買った と回想している。
また 傷兵 保護院 付属 看護婦 養成所を 出て、海南島の 海軍病院で 働らいた 江川キクは、九〇円の月収だったが、定期検診に 来る 慰安婦は 二五〇円の 収入が あって、仲良くなると 缶詰めや 菓子を くれたと 記す。二人とも 内地で 働らくよりは 好遇だが、慰安婦に 比べて 格投に 低いのは、当今の OLと 売春婦の 格差に 似ている。
同じ 戦場勤務でも、女性集団の 相互関係は 微妙なものが あった。前記の 江川キクは、仲間と「あの人たち、あんな きれいな 着物を 着て 楽をして 暮らせていいわね」と うらやましがったら、軍医から「お前たち 看護婦が 無事で いられるのは、こういう人たちの お陰なんだ。それを忘れるな」と たしなめられたという。


兵士たちと 慰安婦の 心情的 交流も ないわけではなく、極端な 事例を ひいて彼女たちに「性奴隷」の レッテルを 貼るのは 失礼と 言うべきだろう。

 


参考文献:『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』吉見義明、上杉聴『脱ゴーマニズム宣言』、『廓活』、吉見資料集、文玉珠『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』、『文芸家協会ニュース』、高安やえ「女のラバウル小唄」、山田渚吉「武漢兵鮎」、長沢健一『漢口慰安所』、『女たちの太平洋戦争』、『アジアの声』第11集、「遥かなる山西」、秦郁彦各論文、大石淳子他編『白の墓碑銘』、磯崎隆子『生ある限りルソンヘ』、大治保昭他編『「慰安婦」問題とアジア女性基金』、田村正太郎「ビルマ脱出記」


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haru111111|02-10 18:23
腹をくくった女は強い。
zzzz2003|02-10 18:32
翻訳文は読み難いからね、これでも長文になるんだろうね。興味深く読ませてもらいました。
kokeodoshi|02-10 19:48
当時日本軍にいた性欲の強い潮鮮人が彼女らを買わなかったとはとても思えない。韓国人は慰安婦問題で日本人を一方的に糾弾する立場にあるのだろうか?
skydiver1|02-10 21:40
なるほど。 判り易い 内容です。 推薦申し上げます。
ohjisan|02-10 21:45
ストップウォッチってあったんですか?
 → yo2103|02-12 19:53
1920年には既に商品としてあったらしいから、当時の日本軍が持っていても不思議ではないですよ。  http://zorome.net/tagheuer/2006/04/post_3.html
allforyouj|02-11 00:18
慰安婦の問題はお金をもらう売春の問題ではないです. 性奴隷という発言の軽重をタジザヌンゴッでもないです. http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=76162&st=writer_id&sw=allforyouj 私の文を参考してください.
yo2103|02-12 19:49
これを読むと「職業としての慰安婦」の存在がわかる。 韓国人は当時法的に整備された職業に対して、今も「賠償」と叫び日本からお金を強請ろうとしている気がする。 「軍票」が紙切れになった事については同情するが、それは当時の朝鮮_人だけに降りかかったことではないしな。 
string0123|02-14 16:59
丸山連隊長が経営者と慰安婦の取り分の比率を決めることができたのは何故なんだろうか?
日帝が朝鮮地を裸にした 1940‾1945年 供出 騷動 [8]
- 『慰安婦の話いろいろ』【長文:大人向け】 [9]
どうしてこちらの韓国人と日本人は争うんですか? [18]