2009年02月01日
女子高生が赤ちゃんを産み殺す
産んだばかりの男児を刃物で殺害容疑、高2女子を逮捕…福島(2009年1月31日22時21分 読売新聞)
ということで、女子中高生が赤ちゃんを産んで殺した事件を集めてみました。
嬰児殺(赤ちゃん殺し)統計グラフを見れば判るように、1970年以前は毎年20〜30人の10代女子が赤ちゃんを産み殺していたのですが、最近は5人以下になってましてずいぶんと減りました。
何故か昔は貧しさ故に仕方なく殺していたとなんの根拠もなく出鱈目なことを云う方がいるのですが、昔もと云うか、昔の方が適当に遊んで適当に産んで困って殺すという事件が多かったのです。
中高生以外の嬰児殺は少年犯罪データベース 児童虐待事件や、少女の殺人事件をご覧ください。
昭和30年代の中高生の事件はまだこれから調べなければなりません。グラフを見れば判るように、大人も含めると昭和30年代の赤ちゃん殺しは毎年2百件近く起きていて、1歳以上の幼児殺しも含めるとさらに多くて、中高生の産み殺しなんて珍しくもなく埋もれてしまっているんですね。
昭和27年(1952).12.21〔中3女子が学校で赤ちゃんを産み殺す〕
岩手県江刺郡の中学校で、3年生女子(15)がトイレで赤ちゃんを産み、窒息死させて死体を捨てた。12.27に逮捕。両親も学校も妊娠に気づいていなかった。
昭和45年(1970).9.24〔高1女子が赤ちゃん産み捨て〕
兵庫県飾磨郡で、高校1年女子(16)が登校途中に赤ん坊を段ボール箱に入れて草むらに捨てていたが、夕方に無事に赤ん坊は発見された。少女は22日に自宅風呂場で出産、隠していたが困って犯行に至ったもの。裕福な家で、両親は気付かないふりをしていた。
昭和46年(1971).4.〔女子中学生のえい児殺害、死体遺棄事件〕
父子2人暮しで放任された女子中学生(14歳)が、近所の高校生と関係をもち、深夜自宅便所で女児を分娩したが処置に困り、近くの川に投げこんだ。(大分4月) 警察庁「少年の補導及び保護の概況」引用。
昭和48年(1973).4.30〔中2女子が赤ん坊産み殺して捨てる〕
福井県敦賀市の自宅で、中学2年生女子(14)が赤ちゃんを産み、処置に困って窒息死させ、紙袋に入れて裏山に捨てた。5.3に死体が発見され、5.7に自白。会社員(28)と関係を持ったものだが、学校でも家庭でもまったく妊娠に気づいておらず、本人も性的知識がなかった。
昭和48年(1973).6.16〔高2女子が赤ちゃん産み殺す〕
埼玉県加須市の自宅風呂場で、高校2年生女子(16)が出産、赤ちゃんを床下に隠したが、母親が腐乱死体を発見して警察に届けた。親も教師も妊娠に気付いていなかった。
昭和49年(1974).1.25〔高3カップルが生まれたばかりの嬰児殺害〕
北海道小樽市で、定時制高校4年生のウェートレス(19)と高校3年生(17)が同棲しているアパートの部屋から赤ちゃんの死体が発見された。外で産気づきほかのアパートのトイレに侵入して出産、2人でビニール袋に入れて殺害したもの。血だらけのトイレに驚いたアパート管理人の通報で発覚。
昭和49年(1974).7.25〔中学生、赤ちゃん生み捨て死なす〕
大阪府で中学生、赤ちゃん生み捨て死なす。
昭和58年(1983).11.12〔高2女子がレイプした男に似ていると出産直後の赤ちゃん殺す〕
東京都北区の路上で、高校2年生女子(17)が産んだばかりの赤ちゃんを刺殺、死体を近所の工場に投げ捨て、11.16に殺人と死体遺棄で逮捕。去年の12月に誘いに乗って車の中で3人の男にレイプされ、自宅トイレで産んだ子供がその男に似ているので、道路に横たえ包丁で胸を9回めった刺しにして3カ所は背中まで突き抜けていた。学校をさぼって男友達の家に泊まったりしていたため停学となっていたが、両親は妊娠も停学も気づいていなかった。
昭和59年(1984).3.〔中3女子が出産した赤ん坊殺害〕
女子中学3年生(15歳)は、家族に内緒で出産した嬰児の始末に困り、自宅浴槽の水につけ嬰児を殺害した。(埼玉、3月) 警察庁「少年の補導及び保護の概況」引用。
拙著『戦前の少年犯罪』第7章「戦前は桃色交遊の時代」にも記したように、戦前の女学生はやりまくりなので、こんなややこしい事件もありました。
親も学校も妊娠に気づいていないというのはこの手の事件の定番ですが、さすがに医者なのに気づかないのはいかがなものなのか。
昭和14年(1939).11.28〔女学生(満13〜14歳)が出産して兄(満18〜19歳)と母親が赤ちゃん殺人〕
京都府京都市の自宅で、同志社高等女学校3年生(15)が、この日に病死した父親(59)の通夜の席で陣痛を起こして男の子を産んだ。驚いた母親(45)が赤ちゃんの口を塞ぎ、長男の同志社本科1年生(20)が窒息死させて遺体を父親の棺桶に入れたが、翌日の火葬中に作業員が発見して逮捕された。女学生は成績優秀でスポーツも得意、妊娠には学校も母親も本人も気づいていなかった。父親は京大講師も勤めていた医学博士の開業医で、体調がおかしいという娘を診察していたが、やはり妊娠には気づいていなかった。
ということで、女子中高生が赤ちゃんを産んで殺した事件を集めてみました。
嬰児殺(赤ちゃん殺し)統計グラフを見れば判るように、1970年以前は毎年20〜30人の10代女子が赤ちゃんを産み殺していたのですが、最近は5人以下になってましてずいぶんと減りました。
何故か昔は貧しさ故に仕方なく殺していたとなんの根拠もなく出鱈目なことを云う方がいるのですが、昔もと云うか、昔の方が適当に遊んで適当に産んで困って殺すという事件が多かったのです。
中高生以外の嬰児殺は少年犯罪データベース 児童虐待事件や、少女の殺人事件をご覧ください。
昭和30年代の中高生の事件はまだこれから調べなければなりません。グラフを見れば判るように、大人も含めると昭和30年代の赤ちゃん殺しは毎年2百件近く起きていて、1歳以上の幼児殺しも含めるとさらに多くて、中高生の産み殺しなんて珍しくもなく埋もれてしまっているんですね。
昭和27年(1952).12.21〔中3女子が学校で赤ちゃんを産み殺す〕
岩手県江刺郡の中学校で、3年生女子(15)がトイレで赤ちゃんを産み、窒息死させて死体を捨てた。12.27に逮捕。両親も学校も妊娠に気づいていなかった。
昭和45年(1970).9.24〔高1女子が赤ちゃん産み捨て〕
兵庫県飾磨郡で、高校1年女子(16)が登校途中に赤ん坊を段ボール箱に入れて草むらに捨てていたが、夕方に無事に赤ん坊は発見された。少女は22日に自宅風呂場で出産、隠していたが困って犯行に至ったもの。裕福な家で、両親は気付かないふりをしていた。
昭和46年(1971).4.〔女子中学生のえい児殺害、死体遺棄事件〕
父子2人暮しで放任された女子中学生(14歳)が、近所の高校生と関係をもち、深夜自宅便所で女児を分娩したが処置に困り、近くの川に投げこんだ。(大分4月) 警察庁「少年の補導及び保護の概況」引用。
昭和48年(1973).4.30〔中2女子が赤ん坊産み殺して捨てる〕
福井県敦賀市の自宅で、中学2年生女子(14)が赤ちゃんを産み、処置に困って窒息死させ、紙袋に入れて裏山に捨てた。5.3に死体が発見され、5.7に自白。会社員(28)と関係を持ったものだが、学校でも家庭でもまったく妊娠に気づいておらず、本人も性的知識がなかった。
昭和48年(1973).6.16〔高2女子が赤ちゃん産み殺す〕
埼玉県加須市の自宅風呂場で、高校2年生女子(16)が出産、赤ちゃんを床下に隠したが、母親が腐乱死体を発見して警察に届けた。親も教師も妊娠に気付いていなかった。
昭和49年(1974).1.25〔高3カップルが生まれたばかりの嬰児殺害〕
北海道小樽市で、定時制高校4年生のウェートレス(19)と高校3年生(17)が同棲しているアパートの部屋から赤ちゃんの死体が発見された。外で産気づきほかのアパートのトイレに侵入して出産、2人でビニール袋に入れて殺害したもの。血だらけのトイレに驚いたアパート管理人の通報で発覚。
昭和49年(1974).7.25〔中学生、赤ちゃん生み捨て死なす〕
大阪府で中学生、赤ちゃん生み捨て死なす。
昭和58年(1983).11.12〔高2女子がレイプした男に似ていると出産直後の赤ちゃん殺す〕
東京都北区の路上で、高校2年生女子(17)が産んだばかりの赤ちゃんを刺殺、死体を近所の工場に投げ捨て、11.16に殺人と死体遺棄で逮捕。去年の12月に誘いに乗って車の中で3人の男にレイプされ、自宅トイレで産んだ子供がその男に似ているので、道路に横たえ包丁で胸を9回めった刺しにして3カ所は背中まで突き抜けていた。学校をさぼって男友達の家に泊まったりしていたため停学となっていたが、両親は妊娠も停学も気づいていなかった。
昭和59年(1984).3.〔中3女子が出産した赤ん坊殺害〕
女子中学3年生(15歳)は、家族に内緒で出産した嬰児の始末に困り、自宅浴槽の水につけ嬰児を殺害した。(埼玉、3月) 警察庁「少年の補導及び保護の概況」引用。
拙著『戦前の少年犯罪』第7章「戦前は桃色交遊の時代」にも記したように、戦前の女学生はやりまくりなので、こんなややこしい事件もありました。
親も学校も妊娠に気づいていないというのはこの手の事件の定番ですが、さすがに医者なのに気づかないのはいかがなものなのか。
昭和14年(1939).11.28〔女学生(満13〜14歳)が出産して兄(満18〜19歳)と母親が赤ちゃん殺人〕
京都府京都市の自宅で、同志社高等女学校3年生(15)が、この日に病死した父親(59)の通夜の席で陣痛を起こして男の子を産んだ。驚いた母親(45)が赤ちゃんの口を塞ぎ、長男の同志社本科1年生(20)が窒息死させて遺体を父親の棺桶に入れたが、翌日の火葬中に作業員が発見して逮捕された。女学生は成績優秀でスポーツも得意、妊娠には学校も母親も本人も気づいていなかった。父親は京大講師も勤めていた医学博士の開業医で、体調がおかしいという娘を診察していたが、やはり妊娠には気づいていなかった。
2009年01月04日
大恐慌のボーナス・アーミーと日比谷公園派遣村
日比谷公園の派遣を切られた人たちのテント村が、ベルリンの壁を崩した<汎ヨーロッパ・ピクニック>みたいだという年越し派遣村はピクニックであるという記事が多くのはてブを集めてるみたいですが、普通に考えて比較するなら大恐慌時のボーナス・アーミーでしょう。
リンク先のWikipediaでは、第一次世界大戦の復員軍人たちがデモ行進をしたことが強調されてますが、そんなのは元気の良かった最初のうちだけで、帰る家もないのでワシントンD.C.の空き地に勝手にテントを張って住み着いただけなんですね。ボーナス支給の望みも断たれて、やって来てから1ヶ月以上も経っていますから元気もなくなって、帰る処のある人たちはすでに帰って数も減ってましたし。
そこにダグラス・マッカーサー指揮するパットン戦車隊が突っ込んで、幼児が犠牲になったり悲惨なことになったわけです。女子供も含めて平和に暮らしていた住居を武力で文字通り蹂躙したんですがら、デモ隊を制圧した天安門事件よりひどい。
背景としては、第一次世界大戦というのはアメリカは結構頑張ったのにヨーロッパには感謝もされずになんの見返りもなかった、大失敗だったというのが当時の一般のアメリカ人の評価で、アメリカは元の孤立主義に戻り戦争絶対反対の平和ボケになって復員軍人はベトナム復員兵並みに悲惨なあつかいを受けていたということがあります。
そんな人たちが大恐慌で生活を完全に破壊されて、どうしようもなくなって全米から首都に集まっていたわけです。まあ、いまの日本の派遣のみなさんと共通点を見つけようと思えばできるかもしれません。
日比谷公園のテント村がどういうことになるのか私は判りませんが、ボーナス・アーミーとはなんだったのかというのは興味があります。大恐慌あたりの歴史書には必ず出てくる重要な事件ですけど、歴史的にどういう意味があったのかというのはどうもよく判らず、私は何十年もずっと引っかかってきたのです。
フーヴァー大統領はあくまで威嚇をするだけで直接の武力行使は望んでいなかったのに、マッカーサーが突っ走ったために、フーヴァー政権の致命傷になったということはもちろんあります。でも、それだけなのか。Wikipediaも影響として復員兵援護法なんかが上げられているだけで、もっと大きな歴史のうねりにどういう役割を果たしたのかという処はどうもお茶をにごしてます。
このあたりのことをきっちり論じた日本語になってる本とかご存じでしたらご教示をいただければ。
『怒りの葡萄』を読むと、全米にあったこの手の大恐慌で住む家を失った人たちのテント村<フーバーヴィル>では共産主義者が勢力を伸ばしていたことが判ります。しかしあくまで水面下の活動に終って表面化するほどの運動にさえならなかったのは何故なのか。
それをまた、フーヴァーやマッカーサーはどうしてあそこまで過剰反応したのか。実際に政権の危機に繋がったであろう天安門の弾圧のほうが、まだ判りやすいのですが。
はたまた、マッカーサーをクビにしろというところまで国民の怒りが湧き起こらなかったのは何故なのか。さらには、マッカーサーの日本統治にどういう影響があったのか。
考えてみることはいろいろあろうかと思います。
私は三十年戦争が欧州史を読み解く最大の鍵で、このボーナス・アーミーが米国史の最大の鍵だと常々思っていたりするのです。このふたつが判らないということは、結局のところヨーロッパもアメリカも理解したことにはならないんじゃないかと。
はてブなんかでもボーナス・アーミーに言及している人がいないのは不思議です。
『映像の世紀 第4集』に突入する可愛らしいパットン戦車隊が出てくるのでみなさん知ってると思うのですが。
ただ、威勢のいいデモ隊と突入場面が続けて流されるので誤解を与える映像になってます。前述のように1ヶ月以上のタイムラグがあって、一方は議会前のデモで、一方で突入してるのは平和でみじめなバラック村です。威勢のいい連中は故郷に帰って、残ったのは仲間にさえ見捨てられた何もできない人々、それも家族連れですから女子供のほうが圧倒的に多かったのです。
この先、大恐慌になるかどうかという分岐点の現在、分析しておくべき事項であろうかと思います。とくに革命なんかを目論んでいる方は。
私が一番印象に残った大恐慌本は『シンス・イエスタデイ―』なんですが、ひょっとしてこのご時世に絶版なんですかね。もっとも、私の読んだのはもっと古い訳の『黄昏の十年』でして、新しい訳のほうはその頃まだ出てなかったので読んでません。とにかく、『オンリー・イエスタデイ―』だけ読んでこの続編を読んでない人がいたらもったいないと思います。続編のほうがずっと出来がいいです。
リンク先のWikipediaでは、第一次世界大戦の復員軍人たちがデモ行進をしたことが強調されてますが、そんなのは元気の良かった最初のうちだけで、帰る家もないのでワシントンD.C.の空き地に勝手にテントを張って住み着いただけなんですね。ボーナス支給の望みも断たれて、やって来てから1ヶ月以上も経っていますから元気もなくなって、帰る処のある人たちはすでに帰って数も減ってましたし。
そこにダグラス・マッカーサー指揮するパットン戦車隊が突っ込んで、幼児が犠牲になったり悲惨なことになったわけです。女子供も含めて平和に暮らしていた住居を武力で文字通り蹂躙したんですがら、デモ隊を制圧した天安門事件よりひどい。
背景としては、第一次世界大戦というのはアメリカは結構頑張ったのにヨーロッパには感謝もされずになんの見返りもなかった、大失敗だったというのが当時の一般のアメリカ人の評価で、アメリカは元の孤立主義に戻り戦争絶対反対の平和ボケになって復員軍人はベトナム復員兵並みに悲惨なあつかいを受けていたということがあります。
そんな人たちが大恐慌で生活を完全に破壊されて、どうしようもなくなって全米から首都に集まっていたわけです。まあ、いまの日本の派遣のみなさんと共通点を見つけようと思えばできるかもしれません。
日比谷公園のテント村がどういうことになるのか私は判りませんが、ボーナス・アーミーとはなんだったのかというのは興味があります。大恐慌あたりの歴史書には必ず出てくる重要な事件ですけど、歴史的にどういう意味があったのかというのはどうもよく判らず、私は何十年もずっと引っかかってきたのです。
フーヴァー大統領はあくまで威嚇をするだけで直接の武力行使は望んでいなかったのに、マッカーサーが突っ走ったために、フーヴァー政権の致命傷になったということはもちろんあります。でも、それだけなのか。Wikipediaも影響として復員兵援護法なんかが上げられているだけで、もっと大きな歴史のうねりにどういう役割を果たしたのかという処はどうもお茶をにごしてます。
このあたりのことをきっちり論じた日本語になってる本とかご存じでしたらご教示をいただければ。
『怒りの葡萄』を読むと、全米にあったこの手の大恐慌で住む家を失った人たちのテント村<フーバーヴィル>では共産主義者が勢力を伸ばしていたことが判ります。しかしあくまで水面下の活動に終って表面化するほどの運動にさえならなかったのは何故なのか。
それをまた、フーヴァーやマッカーサーはどうしてあそこまで過剰反応したのか。実際に政権の危機に繋がったであろう天安門の弾圧のほうが、まだ判りやすいのですが。
はたまた、マッカーサーをクビにしろというところまで国民の怒りが湧き起こらなかったのは何故なのか。さらには、マッカーサーの日本統治にどういう影響があったのか。
考えてみることはいろいろあろうかと思います。
私は三十年戦争が欧州史を読み解く最大の鍵で、このボーナス・アーミーが米国史の最大の鍵だと常々思っていたりするのです。このふたつが判らないということは、結局のところヨーロッパもアメリカも理解したことにはならないんじゃないかと。
はてブなんかでもボーナス・アーミーに言及している人がいないのは不思議です。
『映像の世紀 第4集』に突入する可愛らしいパットン戦車隊が出てくるのでみなさん知ってると思うのですが。
ただ、威勢のいいデモ隊と突入場面が続けて流されるので誤解を与える映像になってます。前述のように1ヶ月以上のタイムラグがあって、一方は議会前のデモで、一方で突入してるのは平和でみじめなバラック村です。威勢のいい連中は故郷に帰って、残ったのは仲間にさえ見捨てられた何もできない人々、それも家族連れですから女子供のほうが圧倒的に多かったのです。
この先、大恐慌になるかどうかという分岐点の現在、分析しておくべき事項であろうかと思います。とくに革命なんかを目論んでいる方は。
私が一番印象に残った大恐慌本は『シンス・イエスタデイ―』なんですが、ひょっとしてこのご時世に絶版なんですかね。もっとも、私の読んだのはもっと古い訳の『黄昏の十年』でして、新しい訳のほうはその頃まだ出てなかったので読んでません。とにかく、『オンリー・イエスタデイ―』だけ読んでこの続編を読んでない人がいたらもったいないと思います。続編のほうがずっと出来がいいです。
2008年12月24日
江戸時代のモテない男の無差別殺人事件
8月に文楽『国言詢音頭』(くにことばくどきおんど)を観ました。
これは元文2年(1737)に大坂の北新地の遊女屋で、薩摩藩士が5人を斬り殺した実際の事件を元にしている人形浄瑠璃です。
文楽はいまの米国ドラマなんかよりも遙かに複雑に入り組んだストーリー展開を見せるものが多いんですが、これは珍しくなんのひねりもなく、惚れた遊女に相手にされないうえに「ぶざいく」「いなかもん」「野暮」と、要するにいまで云うと「キモオタ」と陰で莫迦にされてるのを聞いてしまって怨んで殺しまくるというだけの話です。首が飛んだり、胴が真っ二つにちょん切れたり、顔がすっぱり削ぎ落とされたりといった人形ならではの凄惨な殺し場が見処となってます。
「髻掴んで掻切る首、血に染む丹花の唇をねぶり回して念晴らし」と、惚れた遊女の首を切り落として濃厚なキッスをしてから唾を吐きかけ足でぐりぐり踏むという愛憎入り交じった描写をしたうえに、胴体も突き刺してその切り口に「足踏込み、足踏込み」、抜いた足に内臓が絡んではみ出してくるというところまでやりまして、とくにこの内臓が江戸時代の観客には大受けだったそうです。
上演台本が故・鶴澤八介さんのサイトにありますから物好きは読んでみるとよろしいが、陰惨これに極まれりです。
五人殺すと晴れ晴れとして鼻歌を歌いながら悠々と去っていくところで幕なんですから、なんの救いもありません。モテない男の側から見れば、「正義は勝つ」ということなんでしょうか。ちょうど、秋葉原通り魔事件の直後だったので生々しかったです。
実際の事件については、横山正『近世演劇論叢』に当時の詳細な裁判資料が掲載されています。振った遊女の首を皮一枚残して斬って、遊女屋の主人夫婦、それに下女2人を殺害してまして、とくになんの関係もない下女は数えの17歳と12歳(満16歳と11歳)という幼さで、5回と6回の滅多切りにしたうえ手首を切り落としたと云うんですから酷いもんです。
自供によると酒の席で主人に頭を叩かれて武士のプライドを傷つけられた怨みもあったということで、大阪のツッコミ文化は薩摩武士に通じなかったものの、芝居と違って悪口とかは云われてないみたいです。
11月には歌舞伎座で、鶴屋南北の歌舞伎『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)を観ました。
これは先の北新地の五人斬り事件にお家騒動を絡ませて複雑な筋にした並木五瓶の歌舞伎『五大力恋緘』(ごたいりきこいのふうじめ)の二次創作物なんですが、上演の前年・文政7年(1824)に江戸深川の遊女屋で足軽が5人を殺害した実際の事件も取り入れています。
さらには前月に大ヒットした南北自身の『東海道四谷怪談』の続編ともなっていますので、四谷怪談と同じく忠臣蔵の話となっています。五人斬りをしたうえに、振られた芸者とその赤ん坊まで殺しまくった極悪非道の浪人がじつは赤穂浪士のメンバーで、吉良邸に討ち入りに行くところでめでたしめでたしと幕になるのです。
<義士>とか呼ばれてるけど、夜中に人の家に押し入って何人も斬り殺した赤穂浪士は、遊女屋で深夜押し入って5人斬り殺した足軽とおんなじ無差別殺人テロなんではないですかと、南北さんは云っているのでしょう。加藤智大が秋葉原で何人も殺した直後に正義の英雄になるような作品なわけです。
とくに赤ん坊殺しの場面は陰惨で、この子だけは助けてと泣いて頼む芸者の手に無理やり刀を持たせて我が子の息の根を留めさせたりするのですよ。修学旅行の高校生の団体さんとかもいましたけど、よく学校でこんなもんを観せるもんです。携帯とか禁止してる場合ではありません。
惚れた芸者を殺したあとに斬り落とした首を大事に持って帰って、首と差し向かいで「こうやってふたりで食事をしたかったのに」と云いつつしみじみご飯を食べて、食べ終わったあとに急にカッとして首にお茶をぶっかけるんですが、最近ではこのぶっかけをやらなくなっていて、モテない男の悲哀と怒りを表す一番の見処がないのは残念です。わりと原作に忠実なATG映画『修羅』では中村賀津雄がぶっかけてますけど。
実際の事件については、当時の人だった加藤曳尾庵『我衣』(『日本庶民生活史料集成 第15巻』収録)に詳しいですが、遊女4人と従業員の男1人を斬り殺し、客の1人を重体、1人を軽傷として、これだけやったのに肝心の振られた遊女は逃げて無事だったそうです。
五人斬りのあとに逃してしまった芸者の殺し場を持ってきたのは、惚れたけど相手にされない女を討ち漏らした男の無念を晴らしてやっているようでもあり、振った女だけではなくてその後に結婚した亭主と子供まで破滅させて「リア充赦すまじ」って感じで、南北さんこそモテない男の味方、本物の<義士>と呼んであげたいところです。いや、これは<非モテ忠臣蔵>だと完全に意識して作劇していたのでしょう。しかしよく考えてみるとやっぱり酷い話だ。
なお、足軽は戦国時代なら戦場で手柄を立てて武士にもなれますが、平和な江戸時代ではよほどの傑出した英才でもないかぎり一生武士ではない半端なあつかいで給料も低く、まあ非正規社員みたいなもんです。この足軽は32歳(満31歳)だったそうですから、モテないこと以外にもいろいろ鬱屈もあったのでしょう。
11月には歌舞伎座の隣りの新橋演舞場でも歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)を海老蔵だとか獅童だとか愛之助だとかの若手でやってまして、私はこの世代の歌舞伎をあんまり観る気はしないのですが、『伊勢音頭』の通しを東京でやるのは20年振りとかいうことで私も殺し場以外は観たことがなかったので、スイーツのお姉さん方ばかりの処へ混じって行ってきました。
これは寛政8年(1796)に伊勢で実際に起こった九人斬り事件を元にしています。
通しで観たおかげで初めて名刀・青江下坂の話なんかがよく判りましたが、実際の事件はそんなお家騒動はまったく関係なく、京都留学から帰って医者になったばかりの27歳(満26歳)が惚れた遊女16歳(満15歳)に相手にされなかったので遊郭で刀を振り回して斬りまくったという、秀才エリート型非モテ君です。学歴は高いのになんでモテないのだという勝手なプライドからのブチ切れだったのかもしれません。でも、落ちこぼれ足軽と同じく関係ない人ばかりを斬って、肝心の惚れた相手には逃げられてしまいました。非モテに階級差はありません。
斬られた9人のうち殺されたのは2人だとか3人だとか文献によって違いますが、重体だった客のひとりがしばらくして死んでしまったということみたいです。
ちなみに「寝刃」(ねたば)というのは使わずに鞘に納めっぱなしだったために斬れなくなった刀のことらしいですが、「恋寝刃」(こいのねたば)とは要するに、<非モテ童貞>ということですかね。現代の非モテ君もこういう言葉を使ってみればなかなかお洒落なんじゃないでしょうか。
なお、伊勢の遊郭では元禄期にも4人殺しがあって、近松門左衛門が『卯月九日其暁の明星が茶屋』という歌舞伎にしています。
12月には歌舞伎座で、『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)を観ました。
これは元禄9年(1696)に田舎の大金持ちが遊郭で妖刀・籠釣瓶を手に暴れた吉原百人斬り事件を元にしています。すごい事件名で、歌舞伎では何人も殺してますけど、実際に殺したのは振った遊女だけみたいです。日本刀振り回して屋根伝いに長時間逃げる大捕物となったので、見物人が五百人ほどおりまして、その見物のひとりだった庄司勝富の『洞房語園後集』(『日本随筆大成 第3期第2巻』収録)に詳しいです。
ウェブ上や文献では「元禄か享保の事件」としているところが多く、勝富さんの手記に後の時代の人が書き加えた『洞房語園異本考異』に享保だとあるからなんですが、宝暦7年(1757)の『近世江都著聞集』(『燕石十種 第5巻』収録)には、「享保のはじめにも遊女が殺されたけど、籠釣瓶の事件とは別ですよ」と書かれていて、吉原では似たような事件があって半世紀後にはすでにごっちゃになっていたことが判ります。
芝居ではものすごいブサメンだったことになってますけど、実際にはどうだったのかよく判りません。
ということで、わざわざこんなのばかり選んだわけでもないのですが、何故か今年後半は持てない男の無差別殺人の歌舞伎や文楽ばかりを観てしまいました。松竹が秋葉原事件を当て込んでこういう番組を組んだのかどうかはよく知りません。
まあ、強いて集めなくてもこれらのほかにも、文政3年(1820)に呉服屋の息子が振った深川芸者と芸者の世話係女の2人を船の上で殺した実際の事件を元にした、河竹黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい)だとか、この手の歌舞伎はいっぱいあって定番となっています。
江戸後期の秋葉原の路上で古本屋を営みながら集めた情報を書き留めて売っていた須藤由蔵の、日記と云いつつ自分の日常などはまったくなく日々の情報を綴ったまさしく<ブログ>『藤岡屋日記 全15巻』にも殺人事件が数多く出てきますけど、モテない男が振られて殺すのが結構あります。
加藤智大がモテないから無差別に殺したなんて云ってるのを聞いて驚いてる人がいましたが、昭和40年頃までは振られたり、一方的に想っているだけで相手にされないので刺したり殺したりする事件は連日新聞に出てまして、そういう理由で何故か関係ない人を刺したり殺したりする事件も毎月起きていました。
秋葉原事件というのは日本の伝統を久々に取り戻した由緒正しいものだったんだなと、改めて思ったりした次第です。また、こういう事件をすぐに芝居にして血みどろ劇を喜んでいた江戸時代の人々を見ると、いまの日本のニュースが海外とは違って血なまぐさい事件ばかりを好んで取り上げるのも判るような気がします。こういうのに血が騒ぐ国民性なんでしょう。
通り魔殺人事件 発生件数
『昭和61年警察白書』と、警察庁『犯罪情勢』による。
これは元文2年(1737)に大坂の北新地の遊女屋で、薩摩藩士が5人を斬り殺した実際の事件を元にしている人形浄瑠璃です。
文楽はいまの米国ドラマなんかよりも遙かに複雑に入り組んだストーリー展開を見せるものが多いんですが、これは珍しくなんのひねりもなく、惚れた遊女に相手にされないうえに「ぶざいく」「いなかもん」「野暮」と、要するにいまで云うと「キモオタ」と陰で莫迦にされてるのを聞いてしまって怨んで殺しまくるというだけの話です。首が飛んだり、胴が真っ二つにちょん切れたり、顔がすっぱり削ぎ落とされたりといった人形ならではの凄惨な殺し場が見処となってます。
「髻掴んで掻切る首、血に染む丹花の唇をねぶり回して念晴らし」と、惚れた遊女の首を切り落として濃厚なキッスをしてから唾を吐きかけ足でぐりぐり踏むという愛憎入り交じった描写をしたうえに、胴体も突き刺してその切り口に「足踏込み、足踏込み」、抜いた足に内臓が絡んではみ出してくるというところまでやりまして、とくにこの内臓が江戸時代の観客には大受けだったそうです。
上演台本が故・鶴澤八介さんのサイトにありますから物好きは読んでみるとよろしいが、陰惨これに極まれりです。
五人殺すと晴れ晴れとして鼻歌を歌いながら悠々と去っていくところで幕なんですから、なんの救いもありません。モテない男の側から見れば、「正義は勝つ」ということなんでしょうか。ちょうど、秋葉原通り魔事件の直後だったので生々しかったです。
実際の事件については、横山正『近世演劇論叢』に当時の詳細な裁判資料が掲載されています。振った遊女の首を皮一枚残して斬って、遊女屋の主人夫婦、それに下女2人を殺害してまして、とくになんの関係もない下女は数えの17歳と12歳(満16歳と11歳)という幼さで、5回と6回の滅多切りにしたうえ手首を切り落としたと云うんですから酷いもんです。
自供によると酒の席で主人に頭を叩かれて武士のプライドを傷つけられた怨みもあったということで、大阪のツッコミ文化は薩摩武士に通じなかったものの、芝居と違って悪口とかは云われてないみたいです。
11月には歌舞伎座で、鶴屋南北の歌舞伎『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)を観ました。
これは先の北新地の五人斬り事件にお家騒動を絡ませて複雑な筋にした並木五瓶の歌舞伎『五大力恋緘』(ごたいりきこいのふうじめ)の二次創作物なんですが、上演の前年・文政7年(1824)に江戸深川の遊女屋で足軽が5人を殺害した実際の事件も取り入れています。
さらには前月に大ヒットした南北自身の『東海道四谷怪談』の続編ともなっていますので、四谷怪談と同じく忠臣蔵の話となっています。五人斬りをしたうえに、振られた芸者とその赤ん坊まで殺しまくった極悪非道の浪人がじつは赤穂浪士のメンバーで、吉良邸に討ち入りに行くところでめでたしめでたしと幕になるのです。
<義士>とか呼ばれてるけど、夜中に人の家に押し入って何人も斬り殺した赤穂浪士は、遊女屋で深夜押し入って5人斬り殺した足軽とおんなじ無差別殺人テロなんではないですかと、南北さんは云っているのでしょう。加藤智大が秋葉原で何人も殺した直後に正義の英雄になるような作品なわけです。
とくに赤ん坊殺しの場面は陰惨で、この子だけは助けてと泣いて頼む芸者の手に無理やり刀を持たせて我が子の息の根を留めさせたりするのですよ。修学旅行の高校生の団体さんとかもいましたけど、よく学校でこんなもんを観せるもんです。携帯とか禁止してる場合ではありません。
惚れた芸者を殺したあとに斬り落とした首を大事に持って帰って、首と差し向かいで「こうやってふたりで食事をしたかったのに」と云いつつしみじみご飯を食べて、食べ終わったあとに急にカッとして首にお茶をぶっかけるんですが、最近ではこのぶっかけをやらなくなっていて、モテない男の悲哀と怒りを表す一番の見処がないのは残念です。わりと原作に忠実なATG映画『修羅』では中村賀津雄がぶっかけてますけど。
実際の事件については、当時の人だった加藤曳尾庵『我衣』(『日本庶民生活史料集成 第15巻』収録)に詳しいですが、遊女4人と従業員の男1人を斬り殺し、客の1人を重体、1人を軽傷として、これだけやったのに肝心の振られた遊女は逃げて無事だったそうです。
五人斬りのあとに逃してしまった芸者の殺し場を持ってきたのは、惚れたけど相手にされない女を討ち漏らした男の無念を晴らしてやっているようでもあり、振った女だけではなくてその後に結婚した亭主と子供まで破滅させて「リア充赦すまじ」って感じで、南北さんこそモテない男の味方、本物の<義士>と呼んであげたいところです。いや、これは<非モテ忠臣蔵>だと完全に意識して作劇していたのでしょう。しかしよく考えてみるとやっぱり酷い話だ。
なお、足軽は戦国時代なら戦場で手柄を立てて武士にもなれますが、平和な江戸時代ではよほどの傑出した英才でもないかぎり一生武士ではない半端なあつかいで給料も低く、まあ非正規社員みたいなもんです。この足軽は32歳(満31歳)だったそうですから、モテないこと以外にもいろいろ鬱屈もあったのでしょう。
11月には歌舞伎座の隣りの新橋演舞場でも歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)を海老蔵だとか獅童だとか愛之助だとかの若手でやってまして、私はこの世代の歌舞伎をあんまり観る気はしないのですが、『伊勢音頭』の通しを東京でやるのは20年振りとかいうことで私も殺し場以外は観たことがなかったので、スイーツのお姉さん方ばかりの処へ混じって行ってきました。
これは寛政8年(1796)に伊勢で実際に起こった九人斬り事件を元にしています。
通しで観たおかげで初めて名刀・青江下坂の話なんかがよく判りましたが、実際の事件はそんなお家騒動はまったく関係なく、京都留学から帰って医者になったばかりの27歳(満26歳)が惚れた遊女16歳(満15歳)に相手にされなかったので遊郭で刀を振り回して斬りまくったという、秀才エリート型非モテ君です。学歴は高いのになんでモテないのだという勝手なプライドからのブチ切れだったのかもしれません。でも、落ちこぼれ足軽と同じく関係ない人ばかりを斬って、肝心の惚れた相手には逃げられてしまいました。非モテに階級差はありません。
斬られた9人のうち殺されたのは2人だとか3人だとか文献によって違いますが、重体だった客のひとりがしばらくして死んでしまったということみたいです。
ちなみに「寝刃」(ねたば)というのは使わずに鞘に納めっぱなしだったために斬れなくなった刀のことらしいですが、「恋寝刃」(こいのねたば)とは要するに、<非モテ童貞>ということですかね。現代の非モテ君もこういう言葉を使ってみればなかなかお洒落なんじゃないでしょうか。
なお、伊勢の遊郭では元禄期にも4人殺しがあって、近松門左衛門が『卯月九日其暁の明星が茶屋』という歌舞伎にしています。
12月には歌舞伎座で、『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)を観ました。
これは元禄9年(1696)に田舎の大金持ちが遊郭で妖刀・籠釣瓶を手に暴れた吉原百人斬り事件を元にしています。すごい事件名で、歌舞伎では何人も殺してますけど、実際に殺したのは振った遊女だけみたいです。日本刀振り回して屋根伝いに長時間逃げる大捕物となったので、見物人が五百人ほどおりまして、その見物のひとりだった庄司勝富の『洞房語園後集』(『日本随筆大成 第3期第2巻』収録)に詳しいです。
ウェブ上や文献では「元禄か享保の事件」としているところが多く、勝富さんの手記に後の時代の人が書き加えた『洞房語園異本考異』に享保だとあるからなんですが、宝暦7年(1757)の『近世江都著聞集』(『燕石十種 第5巻』収録)には、「享保のはじめにも遊女が殺されたけど、籠釣瓶の事件とは別ですよ」と書かれていて、吉原では似たような事件があって半世紀後にはすでにごっちゃになっていたことが判ります。
芝居ではものすごいブサメンだったことになってますけど、実際にはどうだったのかよく判りません。
ということで、わざわざこんなのばかり選んだわけでもないのですが、何故か今年後半は持てない男の無差別殺人の歌舞伎や文楽ばかりを観てしまいました。松竹が秋葉原事件を当て込んでこういう番組を組んだのかどうかはよく知りません。
まあ、強いて集めなくてもこれらのほかにも、文政3年(1820)に呉服屋の息子が振った深川芸者と芸者の世話係女の2人を船の上で殺した実際の事件を元にした、河竹黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい)だとか、この手の歌舞伎はいっぱいあって定番となっています。
江戸後期の秋葉原の路上で古本屋を営みながら集めた情報を書き留めて売っていた須藤由蔵の、日記と云いつつ自分の日常などはまったくなく日々の情報を綴ったまさしく<ブログ>『藤岡屋日記 全15巻』にも殺人事件が数多く出てきますけど、モテない男が振られて殺すのが結構あります。
加藤智大がモテないから無差別に殺したなんて云ってるのを聞いて驚いてる人がいましたが、昭和40年頃までは振られたり、一方的に想っているだけで相手にされないので刺したり殺したりする事件は連日新聞に出てまして、そういう理由で何故か関係ない人を刺したり殺したりする事件も毎月起きていました。
秋葉原事件というのは日本の伝統を久々に取り戻した由緒正しいものだったんだなと、改めて思ったりした次第です。また、こういう事件をすぐに芝居にして血みどろ劇を喜んでいた江戸時代の人々を見ると、いまの日本のニュースが海外とは違って血なまぐさい事件ばかりを好んで取り上げるのも判るような気がします。こういうのに血が騒ぐ国民性なんでしょう。
通り魔殺人事件 発生件数
年次 | 昭和55年 | 昭和56年 | 昭和57年 | 昭和58年 | 昭和59年 | 昭和60年 | 昭和61年 | 昭和62年 | 昭和63年 |
認知件数 | 8 | 7 | 13 | 3 | 9 | 16 | 7 | 5 | 10 |
平成1年 | 平成2年 | 平成3年 | 平成4年 | 平成5年 | 平成6年 | 平成7年 | 平成8年 | 平成9年 | 平成10年 |
2 | 2 | 5 | 1 | 5 | 2 | 5 | 11 | 4 | 10 |
平成11年 | 平成12年 | 平成13年 | 平成14年 | 平成15年 | 平成16年 | 平成17年 | 平成18年 | 平成19年 | 平成20年 |
6 | 7 | 6 | 8 | 9 | 3 | 6 | 4 | 8 |
『昭和61年警察白書』と、警察庁『犯罪情勢』による。
2008年12月17日
『実録 この殺人はすごい!』で「二俣事件の真実 死んでも残るアホーだからだ」を書きました
今日発売の『実録 この殺人はすごい!』(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)という雑誌で、「二俣事件の真実 死んでも残るアホーだからだ」という記事を書きました。
二俣事件と云っても最近では知る人も少なくなり、また知っているつもりの方も古い時代の拷問冤罪事件だという程度の認識しかないのではないかと思います。
この事件も含めた終戦直後の冤罪に関する本は過去数多く出されておりますが、左翼的書き手が国家による権力犯罪を断罪するというスタンスのものがほとんどで、左翼イデオロギーのひとつのパターンに嵌め込んでしまっているためにほんとうに恐ろしい実像が覆い隠されています。
「幸浦事件」「二俣事件」「小島事件」という冤罪事件を立て続けに引き起こした紅林麻雄警部補は、そんなちゃちなパターンにとうてい納まることのない複雑怪奇なる怪物です。
私は探偵小説にはあまり詳しくないのですが、彼のように自ら巧みなトリックを仕掛けて、華麗な推理でそのトリックを見破り見事に事件を<解決>することによって無差別大量殺人を、それも完全犯罪としてやってのけてしまうような探偵兼犯人なんてのはいるのでしょうか。どなたか探偵作家の方は、<名刑事・紅林麻雄シリーズ>なんてのを執筆されてもいいと思うのですが。
これほどの異様なる魅力を備えた傑物を、これまで類型的パターンによって覆い隠してしまっていたのです。
また、彼の部下たちによって後に引き起こされた「島田事件」「丸正事件」なども含めて、一連の冤罪事件は17歳の少年による戦時中の「浜松9人連続殺人事件」がすべての起点となって繋がっていたのでした。
さらにはこの紅林麻雄警部補と徹底的に対峙した、南部清松氏と山崎兵八氏というおふたりの元刑事も浜松事件から島田事件まで関係するという、ほとんどクトゥルー神話かデビルマンかというような壮大なる正邪対決のサーガが静岡を舞台として繰り広げられていたのですよ。
こうやって仕掛ける者と暴く者の両者がいて、初めて冤罪事件というのは成り立つわけです。暴かれないと完全犯罪として埋もれてしまいますし。元々の一家4人虐殺事件はどっかに行ってしまって、何故か文学的才能を持つ特異なキャラたちばかりが偶然にも関わってしまったことによって、壮麗なる物語が打ち建てられたのでした。
とくに紅林との闘いに一生を捧げ尽くした山崎氏の最後までを追ったのは、今回の私の記事が初めてとなります。この人の生き方と執念には心底感動しました。これまで埋もれていた山崎氏の人生を多少なりとも広めることができて、ほんとうに良かったと思っています。遠いとこまではるばる取材に行った甲斐がありました。
14ページの長い記事となってしまいましたが、最後まで読んでいただければ。
ところで、前回に記事を書いた『実録殺人事件がわかる本』が1号で、今回がその2号だとばかり思っていたのですが、これはMurder Watcherというシリーズの第4弾で、毎回誌名が変わるのですな。たったいま気づきましたよ。
取材中もずっと勘違いしてとんちんかんなことを云ってたわけだ。どうも、私にとっては58年前の事件よりも現代のほうが遠い時代で理解が難しいみたいです。
二俣事件と云っても最近では知る人も少なくなり、また知っているつもりの方も古い時代の拷問冤罪事件だという程度の認識しかないのではないかと思います。
この事件も含めた終戦直後の冤罪に関する本は過去数多く出されておりますが、左翼的書き手が国家による権力犯罪を断罪するというスタンスのものがほとんどで、左翼イデオロギーのひとつのパターンに嵌め込んでしまっているためにほんとうに恐ろしい実像が覆い隠されています。
「幸浦事件」「二俣事件」「小島事件」という冤罪事件を立て続けに引き起こした紅林麻雄警部補は、そんなちゃちなパターンにとうてい納まることのない複雑怪奇なる怪物です。
私は探偵小説にはあまり詳しくないのですが、彼のように自ら巧みなトリックを仕掛けて、華麗な推理でそのトリックを見破り見事に事件を<解決>することによって無差別大量殺人を、それも完全犯罪としてやってのけてしまうような探偵兼犯人なんてのはいるのでしょうか。どなたか探偵作家の方は、<名刑事・紅林麻雄シリーズ>なんてのを執筆されてもいいと思うのですが。
これほどの異様なる魅力を備えた傑物を、これまで類型的パターンによって覆い隠してしまっていたのです。
また、彼の部下たちによって後に引き起こされた「島田事件」「丸正事件」なども含めて、一連の冤罪事件は17歳の少年による戦時中の「浜松9人連続殺人事件」がすべての起点となって繋がっていたのでした。
さらにはこの紅林麻雄警部補と徹底的に対峙した、南部清松氏と山崎兵八氏というおふたりの元刑事も浜松事件から島田事件まで関係するという、ほとんどクトゥルー神話かデビルマンかというような壮大なる正邪対決のサーガが静岡を舞台として繰り広げられていたのですよ。
こうやって仕掛ける者と暴く者の両者がいて、初めて冤罪事件というのは成り立つわけです。暴かれないと完全犯罪として埋もれてしまいますし。元々の一家4人虐殺事件はどっかに行ってしまって、何故か文学的才能を持つ特異なキャラたちばかりが偶然にも関わってしまったことによって、壮麗なる物語が打ち建てられたのでした。
とくに紅林との闘いに一生を捧げ尽くした山崎氏の最後までを追ったのは、今回の私の記事が初めてとなります。この人の生き方と執念には心底感動しました。これまで埋もれていた山崎氏の人生を多少なりとも広めることができて、ほんとうに良かったと思っています。遠いとこまではるばる取材に行った甲斐がありました。
14ページの長い記事となってしまいましたが、最後まで読んでいただければ。
ところで、前回に記事を書いた『実録殺人事件がわかる本』が1号で、今回がその2号だとばかり思っていたのですが、これはMurder Watcherというシリーズの第4弾で、毎回誌名が変わるのですな。たったいま気づきましたよ。
取材中もずっと勘違いしてとんちんかんなことを云ってたわけだ。どうも、私にとっては58年前の事件よりも現代のほうが遠い時代で理解が難しいみたいです。
2008年11月26日
修学旅行で集団万引き 北海道栄高校以外の事件
北海道栄高:米ロスで集団万引き 21人停学処分 毎日新聞 2008年11月26日 2時30分
ということで、修学旅行先での万引き事件としてはこんなのがありました。
昔はこの手の事件が多くてデータ化が追いつかないので、これはほんとにごく一部だけです。
最初の法政二高の事件の直後には、こんな思わぬ波及もあってなかなか大変でした。この時代は心中がはやりで、若いもんはほいほい簡単に死んでたということもあるのですが。
海外で、野球部員というと、こんな事件もありました。
昔の修学旅行生は無茶苦茶で、こんなのがごく普通だったのです。
ナイフで刺すケンカは当たり前で、殺人レイプ強盗放火新幹線爆破テロ、果ては出産となんでもありです。あんまり数が多いので、少年犯罪データベース 学校関係の事件で見てください。
昭和三十年代なんかは中高生の修学旅行に大勢の親がついてきたりしていろいろ凄かったのですが、そのうちまとめてみます。
少年犯罪データベース 万引き事件も参照してください。
ということで、修学旅行先での万引き事件としてはこんなのがありました。
昭和32年(1957).11.1〔高3修学旅行生22人が集団万引き〕 神奈川県川崎市の法政二高校3年生22人が、修学旅行に来ていた博多駅の売店で土産物37点や雑誌、果物など3万円分を集団万引きし書類送検された。品物は列車の窓から捨てたりしていた。この年の大卒銀行員初任給12,700円。 昭和35年(1960).6.1〔中3の修学旅行が集団万引き〕 福島県磐梯町で、修学旅行に来ていた千葉県の中学3年生28人がみやげもの屋で数十点1万円分を万引きして捕まった。 昭和40年(1965).2.24〔高2の3人が国宝を盗んでどぶに捨てる〕 奈良県の東大寺戒壇院の国宝、持国天像の宝剣が盗まれ、拝観者名簿から東京都北区の都立高校2年の修学旅行生3人(いずれも17)が捕まった。説明を聞いてなかったので国宝と知らずに盗み出したがニュースを聞いて怖くなり、20片に折り、20ヶ所の下水溝に捨てていた。 昭和43年(1968).6.13〔高3らが修学旅行中に船や列車内の表示板を盗む〕 東京都私立和光学園高等学部3年生らが、船内における救命胴衣の所在、列車内の非常口の位置を示す表示板の計37枚を盗んでいた。修学旅行で北海道へ向かう途中の出来事で、青函連絡船で函館に到着したときに発覚。旅行は即時中止になった。 昭和46年(1971).4.〔修学旅行先での集団万引き事件〕 九州方面に修学旅行した高校2年生122人が、解放感と群衆心理からホテルのみやげ物店等からペンダント、ブローチ等380点(20万円相当)を万引きしたほか、ホテル内で飲酒、喫煙等の不良行為をした。(兵庫4月) 警察庁「少年の補導及び保護の概況」引用。 昭和50年(1975).5.19〔中3の5人が修学旅行で乱暴狼藉〕 大阪府大阪市の中学3年生5人(15)が、修学旅行帰りの新幹線で教師(41)と生徒(15)に暴行を加え、物販品倉庫に侵入、缶ビールやアイスを飲み食いした上、放送室にも乱入して性的なイタズラ放送をした揚げ句、鉄道警察に逮捕された。17日にも旅館で同級生(15)を「生意気だ」とリンチ、18日にも同生徒をハンガーで殴り、足を骨折させていた。 |
昔はこの手の事件が多くてデータ化が追いつかないので、これはほんとにごく一部だけです。
最初の法政二高の事件の直後には、こんな思わぬ波及もあってなかなか大変でした。この時代は心中がはやりで、若いもんはほいほい簡単に死んでたということもあるのですが。
昭和32年(1957).12.18〔18歳ら大学生が心中未遂〕 愛媛県松山市の旅館で、学習院大学2年生(19)と学習院短大1年生女子(18)が睡眠薬を飲んで手首を切って心中を図って重体となったが命を取り留めた。11.1に修学旅行先で集団万引きをした法政二高の校長の長男で、父親が九州にお詫びに行った14日に家出していた。夏休みに2人で北海道旅行をしたことを親に注意され、万引き事件や天城山心中の影響。 |
海外で、野球部員というと、こんな事件もありました。
昭和53年(1978).1.6〔中学生2人が台湾で万引き〕 東京都台東区の中学生2人が、台湾で電子腕時計を万引きして捕まり、少年法廷に送致された。台湾チームとの親善試合に訪れていた東京の野球チームの一員。 |
昔の修学旅行生は無茶苦茶で、こんなのがごく普通だったのです。
昭和26年(1951).10.31〔修学旅行での乱行 読売新聞引用〕 戦後の修学旅行はイナゴやネズミの旅行にくらべられるほどひどいもので、児童生徒の交通道徳や社会道徳の欠陥は目に余るらしい。今年は十一月から運賃が値上げになることもあり、九月、十月は例年になく修学旅行が多い。だからというわけでなかろうがひどいもの。十月になっての乱行をチェックすると、 ▽熱海駅で高校生が酒を飲んで汽車に乗らず発車を遅らせる。 ▽静岡駅では停車中みやげもの屋に二、三十人が殺到して金を払わず逃げる。 ▽東京上野のデパートでは釜石の中学三年生七人がおみやげ欲しさに文具などを集団万引。 また文部省が十月上旬、修学旅行のメッカ、奈良、京都でその実情を調査したところ、 ▽宿屋の畳を切ったり、敷布を被く。 ▽夜通く男女生徒が二人で外出。 ▽屋外での飲酒、喫煙がふえ、盛り場や娼婦街をうろつく者さえ見られる、等の例。 (読売新聞10.31) |
ナイフで刺すケンカは当たり前で、殺人レイプ強盗放火新幹線爆破テロ、果ては出産となんでもありです。あんまり数が多いので、少年犯罪データベース 学校関係の事件で見てください。
昭和三十年代なんかは中高生の修学旅行に大勢の親がついてきたりしていろいろ凄かったのですが、そのうちまとめてみます。
少年犯罪データベース 万引き事件も参照してください。