大仰なタイトルだが、ちょっとした疑問で大したスレではない。
久しぶりに福沢諭吉を読んでいたら、こんな文章があった。
左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。
(中略)
然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは(tokoi註 勝海舟の江戸開城のこと)、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものというべし。
(中略)
内国の事にても朋友間の事にても、既に事端を発するときは敵はすなわち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、国家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したるその士人を率いて、一朝敵国外患の至るに当り、能くその士気を振うて極端の苦辛に堪えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢なきものは外に対してもまた然らざるを得ず。これを筆にするも不祥ながら、億万一にも我日本国民が外敵に逢うて、時勢を見計らい手際好く自から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。
『瘠我慢の説』は勝海舟や榎本武揚に対する批判として引用されることが一般には多いが、同時に、危機に際した時の国家としてのあるべき姿に関する福沢の見解を表明したものでもある。
Naver歴史板時代から、この板では、李完用を「朝鮮を救った英雄」と評価する日本人がいる。それも一つの立場であろう。しかし、ならば、日米開戦で、「敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたる」選択を日本が取ったとしたら、彼らは支持しただろうか。
また、「敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたる」態度を非とする場合、江戸開城はどのように評価すべきだろうか。