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気仙坂

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定額給付金あれやこれや
☆★☆★2009年02月01日付

 「二兆円の定額給付金や景気対策などを盛り込んだ国の二次補正予算案が成立した。衆参両院の議決が異なり、憲法の衆院優先規定によって政府原案どおりになったけど、注目の定額給付金は関連法案が野党の反対でまだ通っていないため財源手当ができず、給付がいつになるか未定だとか」
 「でも放っておけば六十日後には参院で否決したとみなされ、やはり衆院の議決が優先するから、遅れたとしてもいずれは実施されるんだろ。でも、この給付って言葉はいやだねぇ。お上が下々に恵んでやるという響きがあるよ」
 「そもそも財源としている財務省管理の特別会計積立金、いわゆる霞が関埋蔵金は国民の税金じゃあないか。いずれにしても、支給は四月以降になりそうだなぁ」
 「自民党の一部から年度内に支給しようと、政府短期証券の活用が提案されているとか。関連法案が成立するまでのつなぎ資金≠チて訳か。財政法上できないことはないらしいけど、関連法案成立前に実施されたら参院、とくに野党の猛反発に遭うのは必至。国民大多数が支持している政策ならあり≠ゥもしれないけど」
 「そもそも定額給付金って何だろうと調べてみたら、公明党の定額減税の提案が発端。厳しい経済情勢下、有り難いと思ったけど、減税は税金を納めている人への恩恵にとどまる。生活苦など何らかの事情で税金を納めていない人たちにはメリットがない。そこで国民全員への定額給付金となった」
 「総務省のホームページによると、景気後退下での住民の不安に対処するため、住民への生活支援を行うとともに、広く給付することで地域の経済対策に資するとある。総額二兆三百九十五億円余、実施主体は市区町村、経費は国が全額補助するとのことだ。カネはやるから自治体で配れと、丸投げしたことも不評だ。具体的にはどうやるのか、調べてみたろ?」
 「うん。対象は全世帯で基準日の二月一日に住民票がある市区町村から一人当たり一万二千円、六十五歳以上と十八歳以下は八千円加算して支給される。受給するには振込先口座を書いた申請書と本人確認書類を市区町村に郵送するか、窓口に持って行くかして口座に振り込んでもらう。支給開始は市区町村の準備が整い次第で、期限は半年以内という」
 「例外的に役所の窓口で現金を受け取れることも認めるとのことだが、手続きは面倒かも。転勤や引っ越し、あるいはホームレスになったとか、いろんなケースにも対応するというけど、市区町村では予算編成や人事異動など多忙な年度末と重なり、混乱しそうだ」
 「その郵送費や人件費といった費用は八百億円もかかるとか。いったい何のための給付金かと言いたくなるよ。ばらまき≠ニの批判も依然として強く、どの世論調査でも雇用や医師不足対策、高齢者福祉、子育て支援など、やらなければならない政策にとの声が過半。これほど評判の悪い政策も珍しいね」
 「でも、不景気で職を失った非正規社員や低所得者ら、その日の糧に困る人にとっては貴重なお金。すぐほしいという切実な声も聞く。誰にでも一律に配れば面倒な手続きや余計な経費も掛からないのに」
 「ただ、それが消費に向かうかどうかは疑問。十年前、一定の条件を満たした国民に一人二万円の地域振興券(商品券)を配った。総額は約六千二百億円で、消費を刺激し経済活性化を狙った。貰った国民はモノを買ったが、多くは本来それを買うはずだったお金を貯蓄に回した。結局、GDPを約二千億円、0・1%押し上げただけとか。六千億円出して二千億円。なんのこっちゃ。まして今回は現金。過半の中流∴ネ上の家庭は貯金に回すんじゃないか」
 「いっそ現物を支給したらどうだ。例えば、テレビのアナログ放送停波対策として全世帯に地上デジチューナーを配るとか。アンテナと工事費込みで二万円位だから、全国五千万世帯に一台で一兆円。テレビは一家に複数ある時代だから二台だとちょうど二兆円。えっ、あるからいらない?全国民に等しくという政策は難しいねえ」(野)

木地師と気仙大工(3)
☆★☆★2009年01月31日付

 衣食住のほとんどを自給しながら山中に住み、手先の器用さとロクロを駆使した木製品を多数生み出した木地師。一カ所に定住することなく、原木がなくなれば次の山へと移動する生活ぶりは、一つの現場が終われば次の現場へと移っていく出稼ぎ大工にどこか共通する。
 大工や左官などの出稼ぎ職人は、高度経済成長期には陸前高田市だけで三千人近い人がいたという。現在は十分の一にまで減っているが、それらの人たちで組織し、安全就労や技能継承、奉仕活動、そして互いの親睦にも取り組んできた「陸前高田市気仙大工左官親交会」が三十一日、東海社会文化賞の栄に輝く。また、結い≠フ心で地域おこしに取り組み、同時受賞となる「鷹生ふるさとの味を守る会」にも、改めて祝意と敬意を表したい。
 さて、地元気仙にとどまらず首都圏や北海道、あるいは宮城県内などでも存分に腕を振るった気仙大工は、果たしていつ、どこから誕生してきたのか。その由来の一つに「近江の木地師」説があるだけに、まず木地師の来歴を見ていきたい。
 「大股沢(住田町世田米)の中に『木地山』という地名があり、木地挽達の住んだ所である」――この書き出しで始まる大船渡市大船渡町、郷土史家・山田原三氏の『気仙之木地挽』。
 気仙木地師たちの出発点となる住田町への来住を、同町世田米大股沢の菊地家資料や陸前高田市気仙町の「吉田家文書」から明らかにする。さらには秋田、宮城、福島各県にまで調査の手を広げた労作となっている。
 それによると、木地師について秋田県湯沢山里の「こけし工房」を訪問した際の由来記を紹介。「貞観年中(八五九〜八七六)に推喬親王を祖と致し、近江(滋賀県)小椋実秀によって全国に木地が広がった」と説明する。
 近江地方に発生した木地師が、いつ東北に入ってきたかには「不明」としながらも、豊臣秀吉が天下を統一した天正十八年(一五九○)、伊達政宗に代わって会津地方(福島県)を領有した蒲生氏郷の木地師招請を紹介。『会津風土記』の一文を引用して「天正十八年、蒲生氏郷は会津への入部に、近江の木地屋を若松城下に招致す」と解説する。
 戦国武将である氏郷は、織田信長の二女・冬姫を正室に迎えたほどの強者。秀吉が天下統一の総仕上げに奥州征伐を実施した時にも従軍しているが、その後発生した葛西・大崎一揆について、「伊達政宗が陰で操った」とする情報を秀吉に密告。そのため政宗は秀吉に呼びつけられ、死を覚悟するほどの苦境に追い込まれる。
 何とか釈明に成功、というより政宗相手に戦うよりその武力を利用して奥州平定を目論む秀吉から許された政宗だったが、代わりに父祖伝来の領地は没収。一揆の余塵くすぶる葛西・大崎両氏の旧領を与えられたことで、ここで初めて政宗と、旧葛西領の気仙が関係することになった。
 一方、「これだけ明白な証拠となる書状があり、セキレイ(花押)の目に針の穴あるなしは言い逃れ」と力説する氏郷に、秀吉は政宗の旧領を与えることで葛西・大崎一揆の政宗陰謀説≠ヘ幕引きとなる。
 後年、氏郷は急死する。通説は病死との見方だが、こうした因縁もあるだけに政宗か、あるいはNHK大河ドラマの主人公で、政宗とも親交があった直江兼続による毒殺説も生じた。
 ともかく会津若松に拠点を置いた氏郷は、磐石な国づくりのため近江から商人や木地師を招いたことで、東北地方に木地師の新たな歴史が幕を開ける。歌手の小椋佳が福島滞在中、「周りの住民が小椋姓」だったということは、それらの人たちは近江木地師の末裔ということになる。
 東北の木地師は、氏郷以前の来歴も考えられるものの、本流としては会津地方から東北各地に広がったとみるのが妥当なようだ。(谷)

遅ればせながらの御礼
☆★☆★2009年01月30日付

 年初の7日付気仙坂「『牛』の諺あれこれ」で、正月早々にもかかわらず、大変恥ずかしながらミスをしてしまった。
 しかも、読者の方からおはがきを頂戴するまで、全く気づかなかったというていたらくだ。
 『牛は人間に次ぎ二番目に数が多いほ乳類。』が気になって寝られません。「ねずみ」とかは?
 ――とおはがきにはあった。
 奥州市にある『牛の博物館』に確認の上、前回16日付で「大型ほ乳類」と訂正をさせていただいた次第。ご指摘くださった「一読者」の方に改めて感謝申し上げるとともに、読者の方々には心からお詫びさせていただきたい。
 読者の方々からは昨年も心のこもったご指摘やらご助言やら、ご感想を頂戴した。気仙坂の御礼は気仙坂で、と考えていたが、機会のないまま越年してしまった。御礼の遅れをお許しいただくと同時に、改めて感謝申し上げたい。
 さて、先月上旬のことだ。仕事を終えて帰宅すると、妻が一生懸命、柿の皮をむいていた。我が家に柿の木はない。なんでも妻が職場から戻ると、玄関に柿が入った箱が置いてあったとか。
 心当たりがなく、どうしたものかと思っていたところに、
「気仙坂を読みました」
 と電話がかかってきたという。
 どうやら原因≠ヘ私が書いた「世の中ダイエット」(12月5日付)にあったらしい。
 妻とウオーキング中、実のなったままの柿の木が話題になった。
「ずっとこのままかな」
「もったいないね。私なら皮をむいて干すのに」
 と人様の柿の木について、余計なお節介とも言える二人の会話を紹介してしまった。
 電話の主はどうも、親せきだったようだ。その家にも実を取らない柿の木があったらしく、六十個ほど収穫して届けてくれた。その厚意には感謝し、恐縮するばかり。ただ、私の書いた文章が物欲しげ≠ノ映ったのかもしれないと思うと、汗顔の至りでもあった。
 『わんこ』さんからは、気仙坂「無芸無趣味」さんへ、と題してホームページの「読者のひろば」に、「『無芸無趣味』人間」(12月12日付)に対するご感想を送っていただいた。
「読んでいてすごく和みました」
 とあった。
 物書き冥利に尽きる。
「『無芸無趣味』さん。良い方なんでしょうね」
「きっとラフランスのような人なのでは?と思わず(笑い)」
 ともあった。
 外見は確かに、ラフランスに似ているかもしれない。しかし、その中身となると到底、ラフランスには及ばない。残念ながら、どちらかといえば、まだまだ渋が抜けきらない中途半端な渋柿人間、と自分自身では思っている。
 和んでいただけたとすれば、ひとえに絵手紙を趣味とする我が友と奥さん、多士済々な我が同級生の温かくも優しい人柄のおかげ。
 「こっちは明石で勝負!」(9月12日付)を書いた時は、ある読者の方から取材の視点についてお電話でご意見を頂戴した。
「いつも同じ目線で見れば、静岡側から見ようが、山梨側から見ようが、富士山の姿は三角形で大した変わりがない。しかし、全く目線を変え、空の真上から見下ろせば別の形の富士山がある」
 あらゆる物の見方に通じる助言だった。日々漫然と過ごしがちな私への警鐘、警告と受け止めた。
 読者の方々は実に温かい。同時に、実に鋭い。果たして、読者の方々が読むに足るものを書けているか。独りよがりに陥ってはいないか。そんなこんなを考えると、時に書くことが怖くさえなる。
 気持ちを一層引き締め、読者の方々に少しでも心和んでいただけるよう、時に視点を変え、時には恥をさらしながら、今年も身の丈に合った気仙坂を書き綴っていければ、と願っている。(下)

訛ってたっていいじゃない
☆★☆★2009年01月29日付

 昨日この欄で当地の方言が話題に上ったので、ちゃっかり便乗、今回もとりとめない訛り談議。
 私は生まれも育ちも大船渡だし、一族郎党が方言を使う。だが自分自身が幼少時からどっぷり「ケセン語スピーカー」だったかというとそうでもなく、開眼≠ノはきっかけがあった。
 それは小学生のときに出演したケセン語劇。この辺でケセン語といえば必ず名前が挙がる、山浦医院の山浦玄嗣先生が脚本・演出を手がけた芝居に、ひょんなきっかけで出ることになったのだ。そこで改めて眺めたケセン語は、私の目には大変魅力あるものとして写った。
 たとえば何かを頼むとき。友達になら「〜けろ」、少し遠慮が含まれるなら「〜けらい」、目上の人などには「〜けらっせん」と言う…。それまで意識もせずに使い分けていたが、どこの方言にも丁寧語が存在するわけではないと知り、ケセン語は優しい言葉だなあ、と誇らしく思ったりした。我が家の長兄は十八で上京し、以後かの地で暮らして二十四年。だが帰省すると家中の誰よりも流暢にケセン語を使う。
 私自身「何年も出はってたのに、きれいに(?)訛っでんね」と言われる。無意識で意識的に∵aろうとしているのかもしれない。「ふるさとの訛りなつかし…」と歌った石川啄木しかり、外へ出た人間ほど、より郷里の言葉に対して思いを深くするのだろう。
 ところで、私の夫は岩手の人ではないため、二人で話すときは自然と標準語になる。同様に、地元以外の人がいる場では、訛ろうと思ってもなかなか言葉を継げなくなるから不思議だ。
 脳が「この人にこの言葉は通じる・通じない」を瞬時に判断してスイッチが切り替わるようにできているのだ。昨日の気仙坂筆者が使った言葉を借りれば、まさに「バイリンガル」?
 ある知人などは、私が家族と電話しているとき急激に訛るのを聞いて「可愛いと思ってもらおうとして、わざと方言を使っている」などと失礼千万なことを言う。訛りのない人にこの方言脳≠ヘ理解できまい、と反論するのだが。
 しかし一方で、彼の言うことにも一理ある。進学や就職でこれから他県、特に東北外へ出ようとしている子女がいたらぜひ覚えていてほしいのだが、方言は、モテます」。特に女の子!何かの拍子にふっと方言を交ぜて会話してみることをおすすめする。
 大学でも、最初の就職先でも、周囲に地方出身者が少なかったためか「方言=ふるさとがある」と羨ましがられ、お国言葉はもてはやされた。
 その経験があるので、昨日の小紙「,09インタビュー」に載った千葉奈美さん(住田町)の「田舎者なのは逆に個性」という言葉にも激しく頷けるのだ。
 方言が通じなかった例ならいくらでもある。「これから課題やるようだー」などと言うと、大抵の人が「どうして自分のことなのに、課題をやるらしい≠ニ伝聞推定で話すんだろう」といぶかしむ。ヨソでは「ようだ」が「〜しなければならない」と義務を表したりしないのだ。
 「ゴミ投げていい?」と尋ねたりすると、周りは「な、なんで怒ってるの」と慌てる。ある年の大晦日には、「元朝参り行こうか」と口にしたら「がん…?何?」と友達が一斉に首をかしげた。その場にいたのはことごとく関東圏の出身者。「初詣」以外の言い方は一度も聞いたことがないそう。「元」日の「朝」「参」るんだから分かるでしょ、と思ったが、それ以後も岩手以外で「元朝参り」の通じた試しがない。
 だが「え〜、そんな言い方するの?」と言われるのは妙に快感だったりしないだろうか?得意になって方言の講釈をぶったりとか。私は、大いにする。地元の友人と二人で京都へ行ったときには、次のようにお互い戒め合った。「おらどが蝦夷の地から来だと知っだら、京都の人がら討伐されっぞ」「んだんだ…朝廷があっだとごだがんな…征夷大将軍さ聞がれだら、コトだじゃ」。こんなバカ丸出しの会話を交わしながら、その実、どちらも田舎者バンザイ!と思っているわけ。
 岩手を出ていたときは「岩手出身です」が名刺代わりの枕詞だった。今後は「気仙育ちです」という言葉がそれに取って代わるのだ。だからこそ「訛ってるのがいいんじゃない」と胸を張れる気仙でいてもらわないとね。 (里)

「ケセン語」のススメ
☆★☆★2009年01月28日付

 語学は幼少期に習得するのが一番いいと、以前ある英会話スクール関係者に教えられた。耳から音のまま言葉を学ぶには、幼児の耳と脳が最適なのだとか。
 では、今年で三十路街道突入を迎える私は、どうしたら効率よく新たな言語を学べるだろう。当地に移り住んで二年目の私が「ケセン語」という、未知なる言語をマスターするには…。
 学生時代に習った英語とスペイン語はモノにならなかったが、幼少期から関東〜東海地方を転々と渡り歩いてきたおかげで、静岡弁と名古屋弁のバイリンガル♂サは達成できた。
 生まれついての小心者のため、土地の人の前で方言を話すのは大きなためらいがある。小学校六年生の時に静岡から転校した愛知では、中学入学という節目まで名古屋弁は話せなかった。単に、変な方言を使って間違ってたら恥ずかしいとの思いからで、それは外国人にカタカナ英語を話す時の恥ずかしさと同じもの。今でもその思いは消えておらず、ケセン語デビューを果たせずにいる。
 しかしこのグローバル化時代、バイリンガルごときで満足してどうしようか。太平洋の向こうではしきりにCHANGE≠ェ叫ばれている。自分も変身のため、今年の目標にケセン語マスターを掲げてみた。
 その第一弾として先日スタートした企画がケセン語タイム=B一番身近なケセン語の教師である妻との時間の中で、文字通り、会話をケセン語に限定する時間を設け、言葉に親しむものだ。
 私「今日の夕飯、何す?」
 妻「カレー作っだ。んだどもご飯まだ炊げでねぇから、も少し待ってけろ」
 とこんな調子だが、当然私が話せることなどほんのわずか。当分の間の引き出しは「〜す」のような、簡単に使える語尾変化だけ。何でもかんでも変化させればいいというわけではなさそうだが、これだけでも少し気仙人に近づけた気はする。
 これからの上達には、特有の単語はもちろん、ケセン語らしさを出す細かなニュアンスも学ぶ必要があるだろう。難しいのは「行ぐが?」のようにカ行が濁る場合。「いいか(が)ら」など、土地の人の発音は濁っているのかいないのか、私の耳では判断しかねるものも多い。あるいは人によって違うのだろうか?
 イントネーションも重要だ。妻は私の弟に最初に会った際、「ワタル」と最初の語にアクセントが付く呼び方に違和感を覚えたという。ケセン語風に言えば「ワタル」と、三文字の名前は真ん中が強調されるのが一般的らしい。
 年末には豪華なディナーを振る舞ってもらった親類宅で、感嘆表現「ば」についてご教授いただいた。いわく、おいしそうな料理が出てきた時などに驚きを表す「ばばばば」は、一番最初の「ば」にアクセントが付くとのこと。「その方がびっくりした感じが出るだろ」。うーむ、奥が深い。
 とまあ、ネイティブスピーカーの皆さんにとっては当然なことばかりで何とも退屈な内容を講釈してしまったが、それだけよそ者にしてみれば考えさせられる奥深さがケセン語にはあるということ。
 これだけの限られた地域なのに、場所によって微妙な違いがあるのも驚かされる。魚介類の呼び名などに代表される浜言葉はその差が大きく感じられ、例えばシュウリ貝(ムール貝)は綾里地域に限り「インゲ」と呼ぶのだという。「入り江ごとに文化が違う」という、リアス式海岸の地ならではの醍醐味がある。
 さて、ケセン語タイム≠ナ私が覚えた便利な言葉に「けらい」がある。方言で頼めばOKが出る!とばかりに「飯は○○にしてけらい」「○○取ってけらい」と「けらい」のオンパレードになりそうだが、「小遣い上げてけらい」は「オダヅナ」と一蹴される?(織)

警戒区域からみた非警戒区域
☆★☆★2009年01月27日付

 宮城県沖を震源とする巨大地震がここ十年以内に発生する確率は70%程度と、国の地震調査研究推進本部が発表した(26日付、岩手日報)。二年前の60%程度から10%もの上昇で、地震だけではなく津波という副産物まで招来しかねない自然災害の脅威に、沿岸の当地はまともに向き合わねばならない。
 ここでいう巨大地震とは震度6強以上の強烈なものが想定されている。昨年の岩手・宮城内陸地震で山が崩壊するという自然エネルギーのすさまじさを見せつけられたばかりだが、あのクラスいやそれ以上の地震がある日突然日常生活を破壊する日がやってこないという保証はまったくない。いや、確実にやってくるというのが70%の確率というものだろう。
 しかし過去何度も巨大地震が起こっているこの「地震の巣」の中で生活しているわれわれはその呪縛から逃れることはできない。03年に襲った三陸南地震で当地は震度6弱を記録したが、その時に小社内の数カ所に生じた亀裂を眺めながら、あんな生やさしいものではない超弩級がいつ襲ってくるかわからないと考えると、これはもう運と僥倖にすがるしかないという無常感にかられるが、いずれこれは記憶に新しい阪神・淡路や中越沖地震、いやそれ以上の規模と思ってよかろうから、覚悟だけはしておく必要がある。
 しかし私が案じているのは、要警戒地域のことではない。警告も発せられず、襲来の確率も低いとされている首都圏で、もしこのような巨大地震が発生したらどうなるかという想定のことである。
 いまでも語りぐさになっているほど甚大な被害をもたらした関東大震災は死者、行方不明者十四万人、負傷者十万人を出し、二十四万戸の住宅が全半壊、地震で起きた火災で四十五万戸あまりが焼失した。八十六年前の当時と現在とでは防災意識が変わっており、建物も多くが耐震構造、防火構造になっているといっても、建物も人口も密集度において当時とはまったく比較にならない。ここで巨大地震が発生したら人々はたちまちパニックに陥り、一次災害はむろんのこと二次災害の犠牲も甚だしいものになるだろう。
 ここには立法、行政、司法の中枢がすべて集中している。だからこそ毎年防災の日には大がかりな想定訓練が行われているが、首都圏が機能マヒとなる場合をなるべく考えないようにしているという印象しか受けないのである。現在ですら緊急車両さえ現場にすぐ急行できない渋滞の中で、被害者の救出、二次災害の予防などの切迫事態にはなすすべがないという深刻な状況すら起こりうるのである。
 むろんライフラインは完全にストップするだろう。食料品はたちまち店頭から姿を消し、燃料や飲み水の入手すらままならなくなるはず。巨大都市がゆえに緊急需要の量は天文学的となり、そのためになにもかもが消えて砂漠化するに違いない。そして通信が途絶し、復旧には時間がかかるため、地方から、縁者の安否を気遣っても無事の確認ができるまでには気の遠くなるような時間を要すだろう。
 自然災害は発生を確率で語ることはできない。でなかったら阪神・淡路大震災があれほどの被害を拡大することはなかったろう。「自分は大丈夫」「当地は大丈夫」などという根拠のない自信が実は災いするのである。
 恐怖心をあおる積もりは毛頭ないが、備えあれば憂いなし。備えすぎるということはないのだ。(英)

本紙支える多様な投稿
☆★☆★2009年1月25日付

 さきごろ、住田町世田米の多田淨眞さんの訃報に接した。享年八十八。教員生活を終えた後、身近で感じた事柄を綴ったエッセイを幾度となく本紙にご投稿いただき、『万華鏡』欄に掲載させてもらった。このところ目にすることがなかったので、ご健康を害されたのではと心配していたところだった。
 『万華鏡』は、四百字詰め原稿用紙で一枚か一枚半程度という短めのエッセイや随想のためのコーナーなのだが、そうした投稿は意外と少なく、多田さんの随想が載ることが多かった。ある読者から「『万華鏡』は多田さんのコーナーでしょうか」と聞かれたことも。奥様との何気ない日常の会話を記した文面からにじみ出る、細やかな気配りが印象に残っている。
 本紙にご投稿下さる最高齢はこれまで、九十歳を超えた東京・練馬の鈴木けいさん(大船渡市出身)だったが、天寿を全うされ昨年亡くなられた。昨夏発刊された大船渡市老人クラブ連合会『おおふなと昔がたり』第15号に載った随想二編、「遠い日の我が家」と「思いがけぬ秩父行」が最後の作品。ご高齢をものともせず各地を旅され、かくしゃくとしたところを本紙に寄せてこられた。今月二十八日が一周忌。多田さんとともに、ご冥福を祈りたい。
 このお二方のように、随想やエッセイ、意見、提言、紀行文、文芸作品などを投稿して下さる常連さんが何人もいて、読者欄などを飾っていただいている。地元の方が大半を占めるのは当然だが、本紙を「ふるさと便り」として郵送購読されている域外や県外在住の気仙地区出身者の投稿が少なくない。
 どなたにも共通しているのが「故郷への深い愛着」。静岡・沼津市の近藤美和子さん(陸前高田市出身)、横浜市の金戸艶子さん(同)、金ケ崎町の立花邦夫さん(住田町出身)、盛岡市の金野清人さん(大船渡市出身)、埼玉・川口市の太嶋美佳子さん(同)らの文脈からは強く、熱い思いが伝わってくる。
 中には気仙での仕事を縁に、ここを第二の故郷として慕って「東京放談」を送って下さる埼玉・富士見市の横田稲光さんのように、三十年来のお付き合いという方もおられる。こうした方々からの「がんばれ気仙」「応援しています」というメッセージに、いつも励まされている。
 三年前と一昨年には大船渡市で開かれた東北学院大学公開講座を受講した中学生から高校生、一般、高齢者、教授陣の投稿が相次ぎ、昨秋スタートした五葉山自然倶楽部10周年記念の「リレーエッセイ」には、まだまだ執筆希望者がいるという。かつて、高田高女子バレーボール部を全国制覇に導いた盛岡市の菊池孝育さん(陸前高田市出身)による、「岩手の先人とカナダ」のような形での投稿もある。
 もちろん、長期間にわたって詩や短歌、俳句、川柳、時事川柳などの作品を寄せて下さる地元の愛好の方々の創作意欲にも頭の下がる思いでいっぱいだ。日々感じていることを自由に綴った随想、エッセイ、世の中にアピールする意見や提言、野鳥観察記、古文書を解読して気仙史の一断面を繙いて下さる郷土史家の寄稿なども、紙面に変化と活性化をもたらしている。
 本紙にはこのほか、おおむね三歳までの幼児を紹介する「我が家のニューフェース」、自宅で飼っているペットを自慢してもらう「我が家のペット」、昭和四十年以前の気仙の景色や街並み、祭、行事などを撮った「セピア色のふるさと写真館」、楽しい仲間たちが集う「さーくる」といった、写真による読者コーナーもある。
 個人情報の取り扱いが微妙になったため取りやめになった企画もあるが、それ以外はいつでも受け付けている。読者あっての「東海新報」なのだということ改めて肝に銘じつつ、あとは団塊世代より若い人たちの紙面参加があれば、一層元気になるのだが…と高望み≠オている。(野)

木地師と気仙大工(2)
☆★☆★2009年1月24日付

 食器や玩具は、今でこそ金属や瀬戸物、プラスチックなどが主流となっているが、江戸時代までは「木」が主役だった。
 お膳やお椀、鉢物、箸といった生活必需品はもちろん、子どもたちのオモチャとなるこま、だるま落とし、木鉄砲、やじろべえ、あるいは土産品として人気のこけしなど、とにかく木製品が身近なところに溢れていた。それらをロクロ加工の駆使もあって、次々に生み出していったのが木地師だ。
 近江国小椋(滋賀県)を発祥地とする木地師。その祖は、朝廷内の権力争いから身を山間地に潜めた平安期の推喬親王だっただけに、初期の頃から山中に隠棲。しかも一カ所に定住せず、山を移動する性格があった。
 村里離れた地に住み、しかも移動するのは「身を隠すため」という理由も親王にはあったようだが、後に誕生した木地師にとっては別の理由があった。それは、山中には原材料の木が豊富にあり、伐り出しが容易なこと。また、いい素材となる木を伐ってしまった後は、必然的に別の山を求めるという事情もあった。
 こうした理由から、近江の地にとどまらず全国に木地師とその技術が広がることとなったが、「近江木地師」にはもう一つ別の性格も付与されていた。それは、自分の利益だけでなく相手の利益も大切にしたことで厚い信用を得た近江商人の古里だけに、木地師は生産技能者でありながら直接販売にも携わることを苦にしなかった。今日でいう製造・販売の能力を兼ね備えていた集団だったと言える。
 木地師発祥の地・滋賀で、伝統の「大山こま」を作っている職人たちは、今日でも土産品の直売店を経営している例が少なくないという。
 江戸時代には、「こまの回りには金運がついて回る」という縁起の良さから、関東各地から大山詣で≠ェ繁盛。近くの神社を参拝し、帰りには大山こまをはじめとする玩具をお土産に買って帰るというスタイルが定着した。
 ちなみに、「おみやげ」という語源の一説に、「御宮笥=おみやけ」がある。宮は神社、笥は食べ物を入れる容器のこと。つまりオミヤゲは神仏に参拝してきたご利益を、隣近所や親しい間柄の人にお分けしましょう、という意味があったことになる。
 ともかく、木地師はその出発点から他の職業にはない幾つかの特徴があった。山中に住むということは、すなわちできるだけ住む場所も食べ物も自前で調達することになる。手先が器用で、木を伐ったり加工したりする集団が「住居を用意する」行為は、大工を連想させられる。
 山中で食べ物を調達するには、水田は無理なので焼き畑を行うことになり、それは農業行為そのもの。また、正月向けの製品をこしらえた後、日本は全国的に厳冬期を迎える。木々の葉が落ち見通しがよく、雪で動物の足跡を辿ることもできるこの季節は、狩猟には最適となる。必ずしも、そこからマタギが誕生したとは言わないまでも、集団で獲物を追う行動をしたことは想像に難くない。
 弥生時代以降、日本人の主食は米となる。しかし、山中ではどうしても米は手に入らない。そこで、米を手に入れるには自分たちが作ったお膳やお椀を売る商い行動をし、その代金で米を買って山に帰るという生活パターンもあったことになる。
 技能者、農業生産、狩猟、商売など多彩な性格を持つ木地師。彼らはいつ東北に、気仙にやって来たのだろうか。そして、どのように展開し、今日にもその伝統が伝わっているのだろうか。もし、時代の波の中で消えてしまったとしたら、痕跡は何か残っているのだろうか。
 さまざまな疑問が生じてくるが、この問いに真っ向挑戦したのが、大船渡市大船渡町在住の郷土史家・山田原三氏だ。精魂込めた調査資料集『気仙之木地挽・古里の足跡2』の内容を次回に見ていきたい。(谷)

その時、「怨親平等」を知る
☆★☆★2009年1月23日付

 テレビでは、オバマ米大統領の就任演説が何度も何度も流れている。
 「…われわれは危機の最中にある。米国は暴力と憎悪の根深いネットワークに対する戦争を遂行中だ…。多宗教を尊重し、友人やかつての敵と協調しながら平和構築に全力を注ぐ…」
 世界をリードする新大統領の耳障りのいい演説を、アラブやイスラム圏の人たちはどのような気持ちで聞いていたのか察するすべもないが、米国トップの憎悪との決別$骭セは、暗雲に一筋の光明を見るような気がした。
 その二日前、ある取材で大阪市にある法楽寺というお寺さんと 結縁≠オた。
 十二世紀末、気仙郡の産金が、平重盛(清盛の長男)を通して中国(宋)の育王山に寄進され、その返礼となる「仏舎利二顆」が法楽寺にあった(詳細は21日付1面)との歴史的≠ネご縁である。
 事前にインターネットのホームページで法楽寺を調べてみた。「田辺のお不動さん」として親しまれ、近畿三十六不動尊霊場の三番札所や大阪十三仏霊場の一番札所になるなど、けっこう有名な寺院である。
 ご住職の小松庸祐さんとは、電話でのわずか十数分ほどの会話だったが、とても実のあるお話をしていただいた。
 その中で、小松住職が何度も仰ったのは、「怨親平等」(おんしんびょうどう)という言葉だった。曰く、源平の戦などで命を落とした人々の菩提を、敵味方なく篤く弔ったことを意味するという。
 岩波仏教辞典によると、「戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を越えて平等に極楽往生させること」とあった。世にあまたの宗教はあるが、このような崇高な慰霊の理念はほかにあるだろうか。
 遡って平泉藤原氏の時代。長い動乱の世に、数寄な運命をたどった藤原清衡が北方の王者となっての願いは、前九年・後三年の役などの戦で死んでいった人々の霊を慰め、仏教による平和な郷土を建設することだった。
 その並々ならぬ決意は「中尊寺落慶供養願文」の中にこう吐露されている。
 「私は前九年・後三年の役で死んだ多くの人たちの霊を慰め浄土に導きたい。今までの奥州は蝦夷≠ニ蔑視され、理由もなく戦をしかけられた。これは京都に並ぶ文化がなかったからだ。今、京都に劣らぬ立派な寺院が落慶した…。この平泉を中心に奥州の人々の永遠の平和を祈る」
 まさに、「怨親平等」の精神を地でいくこの初代清衡の悲願は、二代基衡、三代秀衡へと引き継がれ、基衡は毛越寺、秀衡は無量光院の大寺院を建立し、ここに三代にわたる独特の黄金文化が花を咲かせることになる。
 法楽寺を創建した平重盛はそのころ、気仙郡を荘園としていた。育王山に黄金を寄進するほど仏法に厚かった重盛の早逝は、父清盛を暴走させ、やがて平家滅亡、平泉崩壊につながる。その後の日本は、あの「怨親平等」の心が風化するかのごとく、幾度となく戦火にまみれていくのである。
 テレビでは、まだオバマ大統領が熱弁を振るっている。
 「米国のパッチワークの伝統は、強さであり弱みではない。われわれは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、そして無神論者の国。南北戦争や人種差別のつらい経験を経てきたからこそ、憎悪をいつの日か乗り越えられると信じている」
 多くの宗教を色々なパッチワークに見立てるあたりは、庶民的なオバマらしさが光る。世界に広がるさまざまな「綻び」をしっかり繕っていくという責任と決意に可能性を感じた。(孝)

「誠意」と「真実」
☆★☆★2009年1月22日付

 高層、大型化が進むホテル戦争が激烈な首都東京で、半世紀以上も生き残ってきた小型のホテルがある。
 ヒルトップの愛称で知られ、多くの文化人に愛された神田の駿河台にある、その「山の上ホテル」について、この欄で、竹馬の友たちとの旅で宿泊した時のことを書いたが、創業者の吉田俊男さんの人物像についてほとんど知らなかった。
 「誠意」と「真実」を掲げ、ホテル業に邁進した創業者について、知りたくなった。
 作家たちは執筆のために、この山の上ホテルを利用し小説を書いた。
 山の上ホテルを一番好きなホテルだという奥州市(旧水沢市)生まれの作家、常盤新平さんが書いた「山の上ホテル物語」を読んだ。創業者の吉田さんの魅力的な人柄やそのホテル哲学について書いている。
 それによると、吉田さんは大正二年に東京に生まれ、平成三年に七十七歳で亡くなった。父親は国文学者で、吉田さん自身は昭和十二年、東京商大(現一橋大学)卒業後、旭硝子に入社した。渉外課長、経理部長付を経て、三十八歳で退職し、スキヤ橋教文館に国際経済研究所(市場調査研究所)を設立した。市場調査の重要さを知っていたという。
 山の上ホテルを開業したのは、昭和二十九年一月。建物は、太平洋戦争の開戦時は海軍に、戦後は米軍に接収され、宿舎として使われた。米軍から返還された時、吉田さんが受け継ぎホテルにした。
 本館のエレベーターは、かつては手動式で、聖心女子大出の言葉遣いの美しい女性がエレベーターを動かしていた。慎み深い応対で、山の上ホテルに気品を添えていたという。
 今年で創業五十五年の歴史を刻むヒルトップは、外観も内装も趣きがある。
 常盤さんは、創業者の吉田さんについて、「東京や京都ばかりでなく、東北の田舎町の美味しい菓子をなぜか知っていた。うまいものには独特の嗅覚があった。庶民が好きな食べ物を愛した」と書いている。
 吉田さんはまた、海外や国内のホテル事情を見学させるために社員を派遣し、一人ひとりに勉強をする機会を与えた。
 「これらの人たちが他の同業者の良いものを謙虚に学んで来ることは、勿論第一の願ひでありますが、同時にホテルの良さといふことが、設備や装備の華美に依るのではなく、温かい、さうして、出しやばらないホスピタリティの程度に係るのだといふ点を体得して貰へば目的は達せられるわけでございます」という吉田さん自身が書き遺した文を紹介している。
 「もし、人が他人に与へられる最高のものが、誠意と真実であるなら、ホテルがお客様に差し上げられるものも、それ以外にはない筈だと思います」――との­言葉は、吉田さんが語ったホテル哲学を表すものだが、その言葉には続きがあって、「さうして、私がこヽの従業員に期待するものとは、一人一人が一日も早く立派な大人になり、仮りに、この小ホテルが不況の波につぶされる様なことがあっても、直ちに立派な社会人として独立して行ける、良いひととなりを持つ様になってくれることでございゐます」。
 創業者のこのような「志」は、山の上ホテルを定宿とする人たちの胸にも染みわたっていたという。
 「小」なりとも、光り輝き続けることのできるヒントが、そこにあるような気がする。(ゆ)


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