
その時、歴史が動いた
-北東アジアの再編成 白村江の戦い-
miki_enjoy
「みなさん、こんばんは。
松平・・・じゃなかったmiki_enjoyです。
今晩の"その時歴史は動いた"は、西暦663年8月27日。
唐と日本、当時の大和が戦った「白村江の戦い」です。
一般的には百済滅亡につながる海戦、として知られています。
しかし、その戦いは北東アジアの運命、そして未来をも変える戦いでした。
コメンテーターには、NEVER有識者の方を迎えて有意義なお話を伺おうかと思います。
それでは、なぜこの戦いが起ったのか?それに至る経緯から紐解いてみたいと思います。」

当時の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の3国と、加羅(任那)と呼ばれる地域に分かれていました。
3国はそれぞれが、覇権を争い、時には共闘し、時には互いに争う事を続けていました。
しかし、7世紀半ば、この状況に変化が生じます。
百済が加羅(任那)に侵攻し、その領域を支配したのです。
加羅(任那)は、百済・新羅にとっての一種の緩衝地帯であり、同時に係争地でもありました。
百済に対する強い警戒感を感じた新羅はすぐさま、軍事行動を起こします。
しかし、同程度の軍事力を持つ百済はこれに対して頑強に抵抗、逆に新羅を攻めます。
こうしたなか、西暦660年に新羅は、百済に対抗するべく当時中国に誕生した巨大帝国・唐への軍事介入を要請するのです。
西暦618年に隋が滅亡し、その後中国の統一を果たした唐にとって、新羅の要請とはどんな意味を持っていたのでしょう?
当時の唐は、安全保障体制の再編、そして一向に服属を誓わない高句麗と争っていました。
1度は陸からの軍事攻撃を行ったものの、それは厳しい気候と補給面での不備が原因で失敗します。
新羅の要請は、そうした状況を打破する最善策となるのです。
高句麗の勢力圏外である百済を屈服させる事によって、南方、つまり背中から新羅の軍隊も使う事によって高句麗を攻撃する。
唐は新羅の要請を受けた同じ年である西暦660年、百済侵攻の艦隊と陸上兵力を編成し、百済への侵攻を開始するのです。
「白村江の戦い」その3年前の事です。

強大な唐の軍隊が参戦した事により百済軍は、各地で敗退します。
そして西暦660年、百済滅亡。
百済滅亡の時、多くの女官が崖から身を投げたと伝えられています。
捕らえられた百済王族、地方有力者、そして民衆1万以上には別な運命が待っていました。
彼らは唐に連行され、中国でその生涯を閉じる事になります。
旧百済領土は新羅と唐の軍により統治され、高句麗攻撃の補給基地とするべく準備が進められます。
しかし、そうしたなか各所で旧百済遺臣・民衆が蜂起、唐は反乱鎮圧に奔走する事になります。
これらの蜂起は、単発的な反乱ではなく、組織だって行われていました。
指揮していたのは鬼室福信。
地方の将軍だった彼は、本格的な祖国復興の為には、援軍と王族の推戴が必要と考え、大和-当時の日本に赴く事になります。
当時、大和には百済王族である扶余豊璋が滞在していました。
大和との友好関係を望んだ百済が送った王子で、
唐に連れ去られた王族を除けば、唯一の王位継承者でした。
また、半島情勢介入に対して積極的だった大和は、援軍の派遣要請を承諾します。
西暦660年、扶余豊璋は百済に帰国。
百済王として即位し、精神的支柱を得た百済軍は各所で唐・新羅軍を撃破していきます。
西暦661年、第1次援軍1万人余りとが大和を出発。
翌年、第2時援軍2万7千人が朝鮮半島に到着し、唐・新羅連合軍との熾烈な戦いを始めました。
これら一連の軍事作戦で、旧百済領の一部を奪還する事に成功します。
大和は翌663年に第3次援軍を派遣する事を決定します。
兵員は1万人余り。
「白村江の戦い」その1年前の事です。

西暦663年、衝撃的な事件が百済に発生します。
祖国復興の初期から活躍していた鬼室福信が"叛逆"の容疑で処刑されたのです。
それまで、軍事・政治・外交面で中心的な役割を果たしていた彼の死は、大きな影響を与えました。
百済軍の士気は下がり各所で敗退、首都や支配下にある地方都市も包囲されてしまいます。
大和もこれらの情報は知っていました。
しかし、包囲されているからこそ援軍を出さない分けないは行きません。
西暦663年7月。
第3次援軍が大和を出撃します。
目的地は、百済首都に近い白村江。
「白村江の戦い」その1ヶ月前の事です。
miki_Enjoy
「百済再興に賭けた百済と日本、その戦いはいよいよクライマックスを迎えます。
今晩の"その時、歴史は動いた"西暦663年8月27日が始まります。」

大和の作戦とは別に、唐も新たな攻勢を考えていました。
7000人の兵士を援軍として百済領に派遣し、また艦隊によって洋上も封鎖する作戦です。
8月中旬に到着して海上封鎖を行っていた唐の艦隊は8月26日、白村江で敵の艦隊と遭遇します。
西暦663年8月26日、両軍の戦闘が始まりました。
援軍を送り込む為、大和の船は次々と唐の艦隊に突入します。
しかし、戦列を整え、一元的な指揮に支えられた唐の艦隊は戦列を崩す事はありませんでした。
唐の軍船は2隻で1隻の大和の軍船を囲んでは、火を放ち、弓矢を射掛けていきます。
豪族による連合艦隊だった大和の艦隊は、それぞれが纏まった行動を取る事が出来ませんでした。
その為、軍制度において"より近代的"だった唐の艦隊に常に主導権を奪われてしまったのです。
翌27日。
白村江は、血によって真っ赤に染まり、空は黒い雲で覆われていました。
「水上には多くの軍船の残骸、そして遺体が浮かんでいた」
その熾烈な戦闘の様子は唐の史書にも伝えられています。
この戦いによって、大和の第3次援軍は壊滅し、残存した軍船は撤退。
百済救援の希望は潰え去ったのでした。
miki_enjoy
「こうして、大和の百済援軍は大敗し、結果として百済は同年滅亡します。
また、大和と唐によるこの海戦は"近代化"が明暗を分けました。
律令制度に代表されるような強力な中央政権国家の軍隊、その統一された指揮能力に破れた、そう言っても過言ではないでしょう。
さて、この後、北東アジアの各国はそれぞれが大きく運命を変えていきます。
軍事的に圧勝した唐は、百済を平定し、高句麗をも滅亡させ中国による安全保障体制を確立しました。
これはその後の"世界帝国"としての唐の繁栄を築く礎となります。
百済・高句麗という軍事的な脅威を排除する事に成功した新羅は、唐の先進的な律令制度を導入します。
また、戦乱により旧支配階級が排除された事は、中央集権国家を建設する上で非常に有利な状況になったと言えるでしょう。
百済の王族、遺臣、技術者の一部は、日本などへ亡命する事になりました。
異国の地で数々の困難、そして差別を受ける事になりますが、長い年月で彼らの子孫はその地域に同化し、そして融合していくのです。
戦いに敗れた大和はその後、唐と和解します。
そして新羅と同じく唐の先進的な律令制度導入していくのですが、新羅とは違った点があります。
大和における律令制度は、そのまま導入はされませんでした。
地方豪族や貴族階級、有力者などの権益は根強く、結局は短時間で制度としては空洞化してしまいます。
そして貴族の権益保護の為に生まれた武装集団、武士階級が勃興し、封建制度へと繋がっていくのです。
言わばこの戦いの結果、"大和"が終わり、"日本"の時代が始まるのです。
今晩の"その時、歴史は動いた"は西暦663年8月27日の"白村江の戦い"をお送りしました。
最後に、下の音楽を聞きながら、終わりにしたいと思います。
それでは、また次の機会にお会いしましょう。」
(midiでも聞きながら、エンディングでもどうぞ)
-------------------------------------------
滋賀県日野町。
森林に覆われた一角に古い墓碑があります。

墓碑に刻まれた名前は、鬼室集斯。
百済再興に力を尽くしたあの鬼室福信の子と伝えられる人物です。
墓所には時折、地元の人が訪れる他には、人影も無く、鳥の囀りが聞こえるだけです。
鬼室集斯は、日本に亡命以降、大学頭(行政官僚)となり、地域の発展に尽力したと伝えられています。
遠い異国の地で暮らす事になった彼の心中はどうだったのか。
それを伝える文献は残っておらず、ただ墓碑だけが残っているだけです。
彼の死の数百年後、墓碑の傍に神社が建立されました。

その名は「鬼室神社」と言います。
亡命した行政官僚は、死後地域を守る守り神となり、人々の暮らしを見守っています。
近年、日野町は大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面と姉妹都市となり、交流を始めました。
扶餘郡恩山面には、鬼室福信を奉る恩山別神堂があり、それが縁となったそうです。
古代に行われた戦い。
それは、個人の運命をも大きく変え、その子孫の運命をも変えました。
そして今・・・・
西暦663年から離れ離れになった親子が約1300年の時を越え、ようやく再会を果たしたのです。
(完)
監修:miki_enjoy
製作:miki_enjoy
協力:各種HP
ナレーション:Sadatomo-Matsudaira
スレッド製作:MHK(miki_enjoy Housou Kyoukai)
※余談ですが、竹島(韓国名:獨島)の問題で2005年、韓国側の申し出で姉妹都市関係は解消。
交流も拒否されたそうです。
歴史には、政治を持ち込まないで欲しいですね。