*これは以下の関連スレです【独島防衛戦】「歪曲が過ぎて自爆」? 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961387)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961387)
【Wikipedia】竹嶋一件(1692年〜1696年)
1692年(
元禄5年)から
1696年(
元禄9年)1月まで日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題。
- 江戸幕府の許可を得て鬱陵島に出漁した米子の大谷・村川家が同島で朝鮮ゆっけ人と遭遇したことから問題になる。
- 長期間交渉の末、幕府が日本人の鬱陵島への渡航を禁止する事により決着した。
- 当時の日本では、現在の鬱陵島は竹島、現在の竹島は松島と呼ばれていた。
その略史(
当時の日本の名称に従い現在の鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と記述)
現在の
鬱陵島にはかつては
于山国という国家があった。
- そして高麗顕宗の時代に高麗領に編入されて移民が進められたが失敗した。
李朝の成立後、二代目国王太宗は李朝はこの島が高麗再興派や倭寇の根拠地となる事を恐れてこの島を立ち入り禁止とした。
- 1402年に作成された李朝の地図ではこの島に「鬱陵島」という名称を付けている。
- 一方、日本でもこの島は磯竹島、または竹島として知られており、桃山時代に描かれたいくつかの日本地図には隠岐と朝鮮半島の間にこの島を描いたものが見受けられる。
- 折りしも豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本海沿岸住民のこの島への関心が高まるとこの島が無人島の状態になっている事を幸いにこの島に立ち入るようになり始めた。
- これに気づいた李朝の東莱府が1614年(慶長19年)に対馬藩に対して抗議を行った。対馬藩は竹島を日本領であると主張したとされているが、当時は両国とも内外に複雑な事情を有していたため、この時にはそれっきりとなった。
そして鳥取県の大谷家に伝わる「
竹嶋渡海由来記 抜書控」によると、
1618年(
元和4年)伯耆米子(
現・鳥取県米子市)の商人、大谷、村川両家が幕府より竹島を拝領して渡海免許を受けた事になっている。
- それで以降将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたて、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行う様になった。
- 大谷甚吉・村川市兵衛らは毎年交代で同島に赴いて、鮑・アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行い、鮑を幕府に献上していた。松島は竹島への寄港地、漁労地として利用されていた。
- また、遅くとも1661年には、両家は幕府から松島も拝領し、鳥取藩も毎年の渡海にあたっては、米や鉄砲の貸付をしていたとされる。
【史料】竹島への渡海免許原文
従伯耆国米子竹島江先年船相渡之由に候 然者如其今度致渡海之段米子町人村川市兵衛大屋(大谷)甚吉申上付而達上聞候之処不可有異儀之旨被仰出候間被得其意渡海之儀可被仰付候 恐々謹言
五月十六日
永井信濃守
井上主計守
土居大炊頭
酒井雅楽頭
松平新太郎殿
そしていよいよ「
竹島一件」が始まる。
- 発端は、1692年(元禄5年)に竹島へ出漁した大谷、村川家が同島で朝鮮ゆっけ人と遭遇したことから始る。この時、竹島に朝鮮ゆっけ人が53人が来ていたが、日本側は21人の少数であったので争うことはしないで、早々に朝鮮ゆっけ人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、麹味噌を持ち帰って鳥取藩に報告した。
- この処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた幕府は、すでに朝鮮ゆっけ人が竹島から退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題にしなかった。
- しかし、翌1693年(元禄6年)4月にも40人の朝鮮ゆっけ人が来ていたのでその中の2人を捕えて米子に連行した。
- これが安龍福(アンピンシャ)と朴於屯(パク・オドゥン)の二人で、米子で二か月にわたる取り調べの後、米子の家老 荒尾修理より報告を受けた鳥取藩は、この事を江戸に連絡して指示を仰ぐと共に、その指示があるまで安龍福ら2名の朝鮮ゆっけ人を米子の大谷九右衛門勝房方に留め、足軽2名を付き添わせて警護に当たった。また幕府には竹島に朝鮮ゆっけ人が来ないよう朝鮮に申し入れをすることを要請した。
- 幕府は鳥取藩にこの2名を長崎奉行所に送るよう指示し、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩の宗氏には、長崎で二人を引き取らせ対馬経由で朝鮮へ引き渡すよう命じ、同時に、竹島は日本領であるから朝鮮ゆっけ人の出漁禁止の措置をとるよう朝鮮国に要請させた。
【インターリュード】 安龍福他1名の日本旅行
5月26日:江戸より飛脚が到着、安龍福らを長崎に護送するように指示がある。
5月29日:護送隊、米子を出発。
6月 1日:護送隊、鳥府(
鳥取城下)に到着。
6月 7日:山田兵衛門、平井甚右衛門を護送役として鳥府を出発。
6月30日:長崎に到着。
7月 1日:長崎奉行所に両名を引き渡す。
8月14日:対馬からの使者・一宮官助左衛門に引き渡される。
9月 3日:対馬に到着。
対馬藩主宗義倫は、交渉の使者正官・多田与左衛門の一行に帯同されて、釜山に着き、安龍福ら両名を朝鮮政府に引き渡すと共に、竹島に対する朝鮮漁民の侵入を禁ずる旨を通告した。
- この時より両国の領土をめぐる外交交渉が本格的に始まった(こうした政治的流れを知らない安龍福は幕府の竹島放棄決定後、再び日本にやって来て鬱陵島、子山島(于山島)は朝鮮領であると訴える)。
- この時、対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の島であるという認識を示していた。
- また対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝鮮ゆっけ人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が鳥取藩に所属するということを表明している。
- また朝鮮側も最初は日本の申し入れに対し友好を重んじ、穏便に解決をはかる方針で交渉に臨んだが、交渉が長引く間に政権を掌握していた領議政の権大運、左議政の睦来善、右議政の閔黯が何れも失脚し、領議政に南九万、左議政に朴世采、右議政に尹趾完が任ぜられ交渉方針を強硬姿勢に転じていく。
1695年、朝鮮は接慰官を釜山に派遣し、礼曹参判李畬の名をもって
9月12日に返書を対馬藩へ送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。
- この書契では、竹島は鬱陵島のことで、鬱陵島は空島としているが時々役人を派遣して調査をしているとし、東国輿地勝覧に照らしても、本土から良く見え、朝鮮住民がこの島でいろいろな物産を採っているとあり、朝鮮の領有は明らかであるとしている。
【史料】『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137
朝鮮国礼曹参判李畬、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、名曰蔚陵、在本県東海中、而風濤危険、船路不便、故中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本当峰巒樹木、自陸地歴歴望見、而凡其山川紆曲、地形闊狭、民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝、事跡昭然、今者我国海辺漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二氓、転到江戸、幸蒙貴国大君明察事情、優加資此、可見交隣之情出於尋常、欽歎高義、感激何言、雖然我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島、此之一島而二名也、一島二名之状、非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我氓之失、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人、無令往来蔚陵島、更致事端之惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳?領謝、薄物侑緘、統惟照亮、不宣 甲戌年九月
我国の江原道蔚珍県に属島があり、名を蔚陵という。本県の東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し、地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地にはいろいろな物が採れる。これは我が国の「輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである。このたび我が国の漁民がその島に行くと、貴国の人が越境侵犯して、逆に我が国の二人を捕らえて江戸に送った。幸いに貴国の将軍は事情を良く察し、厚いもてなしをしてれた。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が民の漁労の地は、もともと蔚陵島であり、竹を産することからあるいは竹島と称している、これは一島二名である。一島二名のことは、ただ我が国の書籍に記されているだけでなく、貴国の人もまた皆これを知っている。それにもかかわらず、ここに来た書中では、竹島は貴国の地方のため、我が国の漁船が更に来ることを禁止して欲しいとあるが、貴国の人が我が国の境界を侵犯し我が漁夫を拘束したたことを論じていない。誠信の道に欠けるところがあるのではないか。深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、貴国沿岸の人が蔚陵島に往来し、再び事件が起こらないように命じてほしい。
その後、多田与左衛門の交渉は
1695年6月まで続いた。
- 交渉途中であった1694年(元禄7年)9月27日に対馬藩主・宗義倫が病死。
- 後に、鬱陵島は朝鮮領であったにせよ、長く空島であったのだから、日本領であるという意見と、東国輿地勝覧(1481年成立)の記事などから朝鮮領だという立場に二分されていたが、この頃になると後者が大勢になっていた。
- 1695年(元禄8年)10月、対馬藩は新藩主・宗義方の襲名と参勤交代を期に、竹島は朝鮮領であるとして、江戸幕府に朝鮮側との交渉の中断を申し出た。
- 江戸にて老中・阿部豊後守正武に、朝鮮側との交渉も三年になり、朝鮮側が頑迷な事も伝え、幕府の判断を仰いだのである。この回答を受けて幕府も竹島問題終焉を本格的に検討し始めた。
1695年(
元禄8年)
12月24日、老中・阿部豊後守は鳥取藩に対し17カ条からなる「
御尋の御書付」で問い合わせた。
- そのなかで注目される質問は「竹嶋の外両国之附属の嶋有之候哉、並是又 漁採に両国の者 参候哉(因州 伯州之付候竹嶋はいつの此より両国之附属候哉、先祖領地被下候以前よりの儀 候哉)」である。幕府は、竹島が因幡・伯耆を支配する鳥取藩付属の島であると考えていたことがわかる。
- ところが幕府の質問に対して鳥取藩は1695年(元禄8年)12月25日付の文書で「竹嶋松嶋其外両国之付属の嶋無御座候(竹嶋は因幡伯耆附属にては無御座候)」と回答し竹島・松島は自藩領ではないとした。
- 幕府は、こうして鳥取藩が竹島は自藩領でないと回答したことや、その島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡からよりは朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、朝鮮との争いを避けることにしたのである。
- 釜山の倭館を舞台に3年間続けられた日朝間の外交交渉の間には「兵威」を用いて竹島を日本領にする案もあったが、結局実施される事はなかった。
- そして1696年(元禄9年)1月28日付で、幕府が老中の連署でもって「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と、鳥取藩主池田綱清に竹島渡航禁止を通告することになった。竹島を「無用の小島」と断じて鳥取藩に同島への渡海禁止を申し渡したのである。
- また先に竹島渡海を免許していた大谷・村川両家に対しても、同時に松平伯耆守(池田綱清)あてに奉書を送り、竹島への渡海を禁じた。
- 対馬藩に対しても、この幕府の姿勢を朝鮮政府に伝えるように指示し、対馬藩は1696年(元禄9年)10月、新藩主を祝うために来島していた同知(通訳官の官職)の卞延郁同知と宋裕養判事に其の方針を伝えた。
- そして両通訳官は翌年の1697年(元禄10年・粛宗23年)正月に帰国し、続いて対馬藩は二月に、阿比留兵衛を朝鮮に渡らせ、東莱府使 李世戴に書を渡して、幕府の命により日本人の竹島への出漁を禁じた事を知らせた。
- 鬱陵島と竹島が同一の島である事、およびその朝鮮領たることを承認する件についての言及はなかったが、朝鮮政府は当面の問題であった漁業禁止に満足し翌1698年(元禄11年)3月、礼曹参議李善溥の名をもって幕閣の決定に謝意を表し、併せて鬱陵島・竹島一島二名の理由を説明した。(「粛宗実録」二十四年三月二十五日の条)
【史料】「渡航禁止沙汰書」の全文
先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之伯州米子之町人村川市兵衛大屋(大谷)甚吉竹嶋江渡海至爾今雖致漁候向後竹島江渡海之儀制禁可申付旨被仰出之候間可被存其趣候 恐々謹言
正月廿八日
土屋相模守
阿部豊後守
大久保加賀守
松平伯耆守殿
右御奉書之趣村川大屋両人江 申聞竹島渡海相止候事
こうして1693年(
元禄6年)
4月に安龍福たちを米子に連れ帰った事から始まった竹島一件は、
姑息ながらも一応の解決をする事になったが、その際、幕府は松島については何も言及していない。
- この時、松島はもともと日本から竹島への中継となるただの小島であったため、朝鮮との交渉でも特段の取扱いはしておらず、特に言及する必要もなかったとも考えられる。
- そのため竹島渡航禁止以後、独自の経済的価値がほとんどない松島だけのために渡航する者理論上、幕末までほとんどなくなってしまった筈なのは十分想像できる。
【史料】「通航一覧」(徳川幕府の外交文書を集めもの)
竹島一件以後の竹島について、
享保年間(
1716年〜1736年)までは、隠岐や長門から竹島に渡って大竹を持ち帰っていたのが、その後は朝鮮ゆっけ人が島にいて、船を近づけると鉄砲を撃って島に上陸させないと記されている。
「…むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚だ大にしてよき竹也と云ふ、近来その島へ渡る時は、朝鮮ゆっけ人多く来て、此方の船を見れば鳥銃を撃て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の属島なれども、遂に朝鮮に取られたり(…
むかし隠岐の辺りより渡って、大竹を切りに来ていろんな所へ売り、非常に大きく良い竹だと言われている。近頃この島へ渡る時は、朝鮮ゆっけ人が多く来て、
こちらの船を見れば鳥用の銃を撃って来て船が近づけられないらしい。この島は結局、日本の属島であるけれど、ついに朝鮮に取られてしまった。)」
このように竹島渡航禁止後も、日本人は無断で竹島に渡っており、またこの頃の朝鮮でも竹島(
鬱陵島)の空島政策は有名無実になっていたようで、竹島には朝鮮ゆっけ人が住みつき、日本の船を銃で追い払うまでになっていた。
- トラブルを憂慮した幕府は「異国航海」の厳禁を改めて通達した。その政策にしたがって奉行所も密航者を処罰していたようで1723年(享保8年)6月には、大坂町奉行所が、享保7年以前に竹島に渡って密貿易をしたといって、石見国・大森代官所支配地の3名を捕えて処分している。
- また1836年(天保7年)には石見国浜田藩会津屋八右衛門の竹島密貿易事件が起き、その裁きの判決文には「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」と記され処罰されている(竹島事件)。その他松浦静山の『甲子夜話』には、同様の事件が浜田藩だけでなく対馬、越後長岡、北国などでも行われていたことが書かれている。
- 竹島一件後に発行された森幸安の日本分野図にも依然竹島が記載され、1779年に初版が発行され普及していた長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』にも全て竹島と竹島への中継地点である松島を記載している。なおも竹島との関係が強かったことがうかがえる。
幕府は
1837年(
天保8年)
2月21日付で、改めて「
異国航海之儀は重き御禁制」と全国に通達する。
- その中で竹島については「元禄之度 朝鮮国之御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と述べている。
- 1696年における幕府の沙汰書はただ竹島への渡海を禁止しただけであるが、3年間にわたる日朝外交交渉が、竹島の領有権をめぐる内容であり、またこの様な文書も現存するところからみて、領有権も放棄したと考えるべきであろう。