*これは以下の関連スレです1970年代に訪韓した岡本太郎氏の所感 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1941048)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1941048)以下は1972年に大韓民国読書新聞に連載された「韓国史の再検討」の日本語版の末尾にあった座談会で語られていた内容を元に構成した「韓国史の歴史」です。まだ穴だらけですが、どうやら「日本人も韓国人も知っておくべき事」を含んでそうなので一応公開。
当時はまだまだ「韓国史は所詮中国の一地方史」という考え方が主流を占めていた。日本時代の植民地史観を濃厚に引き摺っていたが、日本の史料や研究成果を故意に黙殺していた為(日本書紀の存在さえ大学院生以上のアカデミック界関係者でなければ知らなかった)国定教科書でさえ仮説を定説として紹介してたり、日本の研究成果を出自だけ伏せて無批判に紹介している有様だった。
同年 千寛宇が『歴史学報』に実学派の鼻祖とされている柳馨遠(1622年~1673年)の研究の結論として1953年に実学に関して「実学という新思潮が当時の支配的学問である朱子学の宗教化に対する儒学の自己批判として登場した」とする見解を発表。
*柳馨遠とはだれかについてはこちらを参照の事【参考】「朝鮮実学の学統」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926701)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926701)「ハン渓の時代、この時代は多方面で李朝の時代精神ないし指導理念に対する自己省察が起こっている溌剌とした新思潮の発生した時代であった。ハン渓はこの新思潮のなかで現れ、またこの新思潮を導いていった。李朝封建社会のあらゆる秩序に理論を付与したイデオロギーは、実に朱子学であった。"理気四七”の形而上学と実践哲学と礼学等を主たる内容とする李朝朱子学は、その勢いの行きつく所政治と結びつき、ついに自由な学問批判を拒否し、その形式的、観念的、排他的、強圧的な一面が徐々に強化され、甚だしく朱子の批判者を“斯文乱賊”と呼ぶまでに至った。このような学問の宗教化に対し、儒学は自己批判が避けられなくなった」自己批判の契機となったのは陽明学、清朝考証学、壬辰倭乱による社会的疲弊を救済せんとする現実的な諸研究(社会政策=時務策)、北京を窓口としたイエズス会が伝えた西洋文化らで「奔放な知識欲を駆使して、批判し、独創し、権威を否定する“自由性”」「経験的・実証的・帰納的態度すなわち“科学性”」「実際と遊離したあらゆる空疎な観念の遊戯を軽蔑し、現実生活からにじみ出る不満と情熱を土台にする“現実性”」を特徴とする新思潮の形成を促したが、これは清朝実証学の祖となった顧炎武が意図した「貴創」「博証」「致用」の理念そのものであった。*清朝考証学は形骸化した朱子学というより陽明学の内部改革派から派生したもの。【資料】後に「中国のルソー」と呼ばれた黄宗荐の「経世致用」学日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928516)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928516) ところで梁啓超の『清代学術概論』には「清代実証学はまさに中国のルネッサンスであった」という記述がある。「それでは実学は果たして近代精神とみることができるだろうか。現在と同じ生活形態、同じ時代の型をもつ時代を近代と呼ぶならば、実学は決して近代の意識でも近代の精神でもない。実学はその批判的立場から封建社会の本質を解剖し、労働しない階級を批判し、身分的な世襲を批判し、大土地私有を批判したが、その批判の基調は唐虞三代に属するものであったし、その批判の立場も正常な展開をなしえなかった歴史的特性から超脱してこれを俯瞰できるほど質を異にするものではなかったので、これは西洋の文芸復興(ルネッセンス)がその復古の理想として古代ギリシャの市民の自由をもち、強制・宿命・神秘・因襲の封建的尊厳を民衆を基礎にして完全にあばき出したのと好対照をなしている。したがって儒教を根底とする集権封建社会の規範のなかで分泌された産物であり、また実際に保守的行動でそれに忍従したのである。」この後、この方面における研究は雀南善、文一平、鄭寅普らに継承されていく(歴史小説家司馬遼太郎や朝鮮日報主筆の鮮干煇との共著が日本で出版されたりした後で1991年に他界されたが詳細は現状未確認)。 *「実学」の発見者は「朝鮮小説史(1933年)」を執筆した金台俊に擬せられる事が多いが、実はそこには「朝鮮ルネッサンス」という表現はない。何処かで梁啓超の「清代学術概論」における「中国ルネサンス」という表現が援用されたとは考えてはいたが、やっと接点を発見…*さらに「朝鮮小説史」の起源を探すなら、タキトゥスの「ゲルマニア」や「プルターク英雄伝」辺り?【個人的メモ】「日本と朝鮮における武家時代再評価の波」 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935228)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935228)
*柳馨遠とはだれかについてはこちらを参照の事【参考】「朝鮮実学の学統」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926701)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926701)「ハン渓の時代、この時代は多方面で李朝の時代精神ないし指導理念に対する自己省察が起こっている溌剌とした新思潮の発生した時代であった。ハン渓はこの新思潮のなかで現れ、またこの新思潮を導いていった。李朝封建社会のあらゆる秩序に理論を付与したイデオロギーは、実に朱子学であった。"理気四七”の形而上学と実践哲学と礼学等を主たる内容とする李朝朱子学は、その勢いの行きつく所政治と結びつき、ついに自由な学問批判を拒否し、その形式的、観念的、排他的、強圧的な一面が徐々に強化され、甚だしく朱子の批判者を“斯文乱賊”と呼ぶまでに至った。このような学問の宗教化に対し、儒学は自己批判が避けられなくなった」自己批判の契機となったのは陽明学、清朝考証学、壬辰倭乱による社会的疲弊を救済せんとする現実的な諸研究(社会政策=時務策)、北京を窓口としたイエズス会が伝えた西洋文化らで「奔放な知識欲を駆使して、批判し、独創し、権威を否定する“自由性”」「経験的・実証的・帰納的態度すなわち“科学性”」「実際と遊離したあらゆる空疎な観念の遊戯を軽蔑し、現実生活からにじみ出る不満と情熱を土台にする“現実性”」を特徴とする新思潮の形成を促したが、これは清朝実証学の祖となった顧炎武が意図した「貴創」「博証」「致用」の理念そのものであった。*清朝考証学は形骸化した朱子学というより陽明学の内部改革派から派生したもの。【資料】後に「中国のルソー」と呼ばれた黄宗荐の「経世致用」学日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928516)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928516) ところで梁啓超の『清代学術概論』には「清代実証学はまさに中国のルネッサンスであった」という記述がある。「それでは実学は果たして近代精神とみることができるだろうか。現在と同じ生活形態、同じ時代の型をもつ時代を近代と呼ぶならば、実学は決して近代の意識でも近代の精神でもない。実学はその批判的立場から封建社会の本質を解剖し、労働しない階級を批判し、身分的な世襲を批判し、大土地私有を批判したが、その批判の基調は唐虞三代に属するものであったし、その批判の立場も正常な展開をなしえなかった歴史的特性から超脱してこれを俯瞰できるほど質を異にするものではなかったので、これは西洋の文芸復興(ルネッセンス)がその復古の理想として古代ギリシャの市民の自由をもち、強制・宿命・神秘・因襲の封建的尊厳を民衆を基礎にして完全にあばき出したのと好対照をなしている。したがって儒教を根底とする集権封建社会の規範のなかで分泌された産物であり、また実際に保守的行動でそれに忍従したのである。」この後、この方面における研究は雀南善、文一平、鄭寅普らに継承されていく(歴史小説家司馬遼太郎や朝鮮日報主筆の鮮干煇との共著が日本で出版されたりした後で1991年に他界されたが詳細は現状未確認)。
*「実学」の発見者は「朝鮮小説史(1933年)」を執筆した金台俊に擬せられる事が多いが、実はそこには「朝鮮ルネッサンス」という表現はない。何処かで梁啓超の「清代学術概論」における「中国ルネサンス」という表現が援用されたとは考えてはいたが、やっと接点を発見…*さらに「朝鮮小説史」の起源を探すなら、タキトゥスの「ゲルマニア」や「プルターク英雄伝」辺り?【個人的メモ】「日本と朝鮮における武家時代再評価の波」 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935228)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935228)
1960年代末 華北や遼東半島における遺跡の発掘が進み、欧米の考古学者や美術史家がその独自性に注目してこれを中国文化圏がら切り離して論じる事を提案し始める。どうやら韓国人学者がそれについて何か発言しようとして「No Thanks」とやんわりと拒絶される様な事件もあったらしいが詳細は不明。同時期 日本において鄭詔文(5歳のときに植民地朝鮮から来日し京都の西陣機屋に奉公に上がりながら苦学して成長し、戦後は京都市内などでレストランやパチンコ屋などを経営しながら財をなした人物)が在日作家金達寿(1919年~1997年)を誘って季刊誌「日本の中の朝鮮」を創刊する。骨董品屋で李朝の白磁と出会って感動し「我々はどうやら根無し草ではないらしい。もっと自分のルーツを知りたい」と思ったのが契機だという。同時期 済州青年修養会(1924年6月に結成され済州島における「実力養成運動→文化運動→社会主義運動の中核的役割を果たした済州青年会の前身)の会員でもあった金哲埈(後に鄭早苗と共著で「韓国古代社会研究(1981年)」を刊行)や、前述の千寛宇らが日本史料を援用した論文を発表し始める。同時期 「日帝植民地時代の残滓撲滅」を標榜する「民族史観学者」達が台頭してくるが「釣り合いを取る為にはこういうスタンスも必要」という見地より放置される。
前掲の様にこの時期、何がどこまで日帝残滓かなんて全く判らなくなっていた筈なのに如何なる基準で何を撲滅し様としたのか? 少なくとも当時の正統派史学者は余裕をもって黙殺を決め込んでいますが、その結果ある意味「18世紀の朝鮮実学者の敗亡」に近い図式が再現してしまう、と。
1970年 梨花女子大学の朴菖煕教授が「高麗時代は既に官僚制であった」と発言して既存勢力と激しい論争を開始する。1971年 日本で『日本人はどこから来たか(樋口隆康)』が刊行されて広く読まれ、韓国人学者をして「日本では歴史分野が大衆化している。韓国もこれを目指さねば」といわしめる。
内容 考古学者の日本人起源論で、日本人を「日本列島に住み、同じ体質を持ち、日本的な文化を持つ一群の人類群」と定義した上で、「日本人の起源とは日本文化の起源である」という立場からその起源を日本文化の形成過程に求める。他分野の知見も参考にし、石器や土器、稲作の伝来や農具など発掘から得たデータをもとに考察した結果、日本文化は樺太、朝鮮半島、東シナ海 、台湾・南西諸島、小笠原諸島の5ルートから日本に移入されてその合成により形成されたとした。中でも中国江南地域から東シナ海を通って伝えられた文化が最も重要な役割を果たしており、形成時期は弥生時代であ る、と結論付けている。当時韓国には同様の一般向け歴史書は皆無で、大学入試予備試験の国史問題は「学者でも即答出来ない程の難問や答えの出てない問題の羅列をただ暗記させる」様な感じだったという。そしてそういう状況こそが学生を「歴史の黙殺」や「自分達が興味を持てる左翼系や民族系の史観」に走らせていった側面がないでもなかった様で。その結果、当時の学会は「当時新発見が相次いでいた考古学分野に夢を追い求める年配研究者」と「自尊心を満足させてくれる近代史の再建に執念を燃やす若手層」に二分されたかの様な有様となってた様で。
同年 千寛宇が日刊「新東亜」に「韓国史の潮流」を連載して独自の史観を展開。
*その後の千寛宇氏の消息【おまけ】「再評価され始めた様に見えなくもない千寛宇氏」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935484)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935484)
同時期 新聞社が連合して「韓国史研究委員会」を結成し「国民韓国史」の編纂を開始する。その「百花繚乱状態の史学者を網羅して座談会を繰り返せばやがて統一見解が形成される」という楽観主義は参加者からさえ「新聞は一体何をしようとしてるのだ」と非難を浴びた。同時期 在日作家金達寿(1919年~1997年)が古代史研究方面にも活動領域を広げ「日本古代史は、朝鮮との関係史である」との視点から「日本の中の朝鮮文化」の追求を開始する。
帰化人に代わる「渡来人」の呼称を提唱した歴史学者上田正昭に賛同し、当時先進文化を伝えた高句麗人・百済人・新羅人等を日本人に認識させ、日本人の対朝鮮観に影響を与えようとした。古代史に関する諸著作としては「日本の中の朝鮮文化」シリーズや「日本古代史と朝鮮」等があるが、ただしその主張は「王仁(わに)とは朝鮮語の王任(ワンニム)で王様を表す」など時系列を無視した荒唐無稽なものが多く、発表当初から学術的批判に耐え得ないものであったので井上光貞・関晃・平野邦雄ら歴史学者から厳しい反論を受けた。ちなみにこの作業はライフワークとして晩年まで続けられていく。
1972年 大韓民国読書新聞に「韓国史の再検討」が連載され、それまでの韓国人学者歴史研究がまとめて一般に公開される(翌年単行本化、翌々年日本語化)。
*こういう発言が多いのが特徴。【参考】最近の韓国人は意気地がない。日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935450)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935450)この辺りのグループの著作は日本では学生社なる出版社よりまとめて出されている。学生社出版物目録 日(http://www.gakusei.co.jp/mokuroku/rekisi_cho_asia.htm)「ほとんど絶版」という現状が、このグループの敗北を示唆している気がしてならない。
1973年 フランスで開かれた東洋学会でも国際人類学会議でも「韓国」がシンポジウムの一つとして取り上げられる。1979年 「民族至上主義と民衆革命論」という70年代韓国左派知識人の認識に基く「解放前後史の認識」が出版される。
【関連スレ】「さよなら『解放前後史の認識』」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1907897)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1907897)この段階になってやっと韓国史上初の「歴史の大衆化」が実現した訳である。80年代の386(60年代に生まれ80年代に大学に通った人)世代の必読書となり80年代末における社会主義崩壊以降も代表的な現代史教養書として国民の歴史観形成に大きな影響を与え続けた。
【関連】社会主義(2003年12月号-04年1月号)』[T・K生の時代と今」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1920189)韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1920189)