【参考】「朝鮮実学の学統」 | 839|共感0
1677702| JAPANochimusha | 2008.07.23 02:19:58
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*これは以下の関連スレです…
【独島防衛戦】「歪曲が過ぎて自爆」?
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961387)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961387)
【万物に歴史あり】「所謂『韓国史』の起源」
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「朱子学と陽明学の中日韓関係史」
【朝鮮半島編】
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【資料】「明末清初における陽明学の分裂」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928536
韓(
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朝鮮実学の学統

「芝峰類説(1617年)」
マテオ・リッチの「天主実義」の紹介者でもある李晬光が編纂した百科事典で「天文•易学•地理•歴史などに関する考證を網羅的に紹介する事によって、朱子学の政治応用の事しか考えない当時の儒学者達を痛切に批判した」なんて事が書いてあるけどこれはかなり微妙。


嶺南派の中興の祖たる「道徳を深慮し仁を崇め尊ぶ為に世界の摂理を見定めようとした李滉の嫡伝にして「気節高く義を崇めるが故に実践すべき義理の把握に努めた曺植の下で教えられた鄭逑(1543~1620は性理学的な面と礼学的な面では伝統的な嶺南学風の様式を継承しつつも心学(人間の内面世界に浸透する研究)に強く惹かれ、歴史や地理や医学といった応用救時的な面でも膨大な著述を残した事で知られている。

これが畿湖南人の先駆者で南人実学派の祖となった門弟の許穆(1595年~1682年)を介して近畿地方に発展的に継承され李瀷(星湖:1681年~1763年安鼎福(順菴:1712-1791丁若鏞(茶山:1762-1836といった経世致用派の思想形成に貢献するのである。

【関連人物1】 許穆(1595-1682) 
儒生時代に政争に巻き込まれて科挙応試を禁じられる罰を受けたが優秀なのでそんなの構わず出世して「王室を儒教的礼則で束縛する事によって相対的に執権士大夫の権威を高めようとする」宋時烈(1607~1689)や宋浚吉ら西人党に対して「むろん閥閲勢力は抑制しなければならないが王権は寧ろ強化しつつ士大夫間の機会均等を計るべき」という論陣を張った南人。

【関連人物2】 尹ヒュ(1617~1680
従来の金科玉条で信奉された朱子の解釈方法を排撃し「中庸」「大学」「孝経」などの経典に独自の解釈を加え章句の註を修正したり、当時タブ-になっていた老莊思想に関する研究成果を発表したりして当時学界に大きな波紋を投げかけた南人。李滉や李珥の理気説にも批判を加え、二学説を折衷した「四端七情人心道心説」を提唱した。「読書記」「白湖集」「洪範説」「周礼説」「中庸説」「孝経章句攷異」「大学説」「中庸章句輔録序」「中庸大学後説」「大学古本別録」「公孤戦掌図説」等多数の著作を残したが、提案して採用された税制や軍制は実際に実施してみると問題を起こして取り止めになる事が多かった。実務には余り向かない人だったのかもしれない。


 【参考】西人党と南人党(東人党の分派)の17世紀の党争 

*実は尹ヒュの賜死ってその半朱子学的業績と関係ない気がします。
 当時的に在り得る制裁といったら「友人から一斉に絶交を仄めかされる」とか
 「奥さんに縁者一同を集められて親族会議を開かれてしまう」といった感じで。

  1. 1660年に服喪問題で第一次礼訟が起こると尹ヒュや許穆や尹善道(1587-1671:朝鮮時代三代歌人の一人。南人として王権強化を主張した為に西人に睨まれて長い間放浪生活を送る羽目になり、やっと得た官職も宋時烈に剥奪されたらは宋時烈の礼論を痛烈に論駁したが、最終的に西人派の主張が通ったので尹ヒュは別件で「斯文乱賊(儒教で教理を惑わし思想にはずれる言行をする人をいう)」の罪を賜って公職を追放され、許穆は三陟府使に左遷となり、尹善は咸鏡道三水に1667年まで流配される事になった。

    *常識的に考えると「王の選んだ正解を滅茶苦茶に論駁した」からこう言われた可能性も。

  2. 1674年の第二次服喪論争において南人党が西人党に勝つと許穆は「この機会に宋時烈らに極刑を」と叫ぶ清南派の領袖となって「そこまでする必要はない」と主張する濁南派の許積と対立した(尹ヒュは最初清南派に属していたが、後で思い直して濁南派に移動)。

  3. 1680年の「三福の変(許積失脚をねらう西人の戚臣金錫冑の意を受けた鄭元老が、許積の庶子許堅が王室の福昌君や福善君や福平君と都体察使の軍を王の許可なく動かして謀反を企てたと告発した事件)」に連座して許積や尹ヒュンらが賜死、許穆ら他の多くの南人も官位剥奪の上で政権から追放されて西人が再び主導権を握る(庚申大黜陟)。

  4. 但しその西人党も既に一枚板ではなくなっており、宋時烈を中心とする老論党と尹拯を中心とする少論党に分裂してしまうのだった(懐尼是非)。

  5. 1689年には今度は西人が退けられ宋時烈が賜死される事態が発生する(己巳換局)。再び南人が重用される様になったが1694年には王命によって総失脚させられ(甲戌換局)以降は老論派が比較的安定的に主流を占める時代が続くことになる。

【参考紹介】 朴世堂(西渓:1629-1703 
「老子」や「莊子」などに対する註釈書を執筆して「穡経」のような農書も著述した人物。

*先に紹介した独島関連論文に柳博士がこんな注を入れてるらしい。

朴世堂は17世紀の思想界を風靡した碩学であったが、自由奔放な 思惟体系のために、当時朱子学を信奉していた老論学界により「斯文乱賊」と罵倒される。 彼の文集『西渓集』は『韓国文集叢刊』に入っているが、「欝陵島」が載っている『西渓雑録』は刊行された文集には入っておらず、未分類資料となっている筆写本である。このため、史料の存在が一般に知られていない。

老論学界って何? 罵倒された記録ってあるの? 二重三重に疑問。

【関連人物3】 李瀷(星湖:1681年~1763年
初期の実学思想を代表する南人学者で儒教の経典と性理学及び、礼学に見識を持ち、経世致用の実学を中心として陽明学と西学に到るまで幅広い学問的な関心を持っていた。 理学面では李滉を尊崇して「李子粹語」という選集まで著作す一方で経世務実論では李珥を高く評価したとされる。

*ただ相応の限界性もあった人です。
【万物に歴史あり】
「所謂『韓国史』の起源」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935476
韓(
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西学については宗教的な信仰を拒みつつも西洋の自然科学と学術は絶賛するという立場だった。その門下生はやがて信西派(実は儒教と共通項が多いカソリック信仰を積極的に受容する事で朝鮮性理学が捨て去ってしまった個人の実践道徳としての側面を補う事を目論んだ攻西派(体面上あくまで「邪教に被れるのは悪」と主張する道を選んだだけで、実際入信してるかどうかは無関係に分かれるが、結局辛酉迫害(1800年によって両方とも粛清されてしまう。

【参考】「朝鮮半島伝教史とその諸外国への影響」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889902
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889902)

ちなみに…

  1. 水原城の設計者でもある丁若鏞(茶山:1762-1836「論語古今注」には日本の太宰春台(1680年~1747年が著した「論語古訓外伝」への言及が数多く見られるという。

    *彼の研究には清朝実証学の影響を色濃く感じる。
    【おまけ】「丁若鏞の理気論」
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1932246)
    韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1932246)
    *同様に集団主義的に研究作業を続けていた形跡が感じられる。
    【おまけ】
    「韓国の学問が低級な理由」
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935891
    韓(
    http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1935891)

  2. また「東史綱目」の作者として知られる安鼎福(順菴:1712-1791「順庵先生文集」には伊藤仁斎(1627年~1705年:京都出身の古義学提唱者に関してこんな言及があるという。

    彼の門人である林景庵文が書いた跋文にこんな伊藤仁斎の言葉が引用されている。
    「儒者の学問は曖昧模糊としたものをもっとも嫌う。道を論じ、経典を解くことにおいて、須く明白で正しくすること明るい太陽のもとの十字路にいるようにしなければならず、少しでも他人をだましてはいけない。牽強付会もよくない。他人の意見を借りてもいけない。とくに、自分を飾って端緒を隠すことを嫌う。また丹粧に飾って、従前の儒学者たちに媚をうって喜ばせてもいけない。こうしたいくつかの弊端を犯すことは、道を論じ経典を解釈するのに害になるばかりでなく、人の心術を大いに破壊するものとして、必ず知らなければならない」
    この言葉は実にいい。
    オランケの国にこのような学問人がいるとは意外である。

御後がよろしいようで。

*ちなみに18世紀朝鮮におけるこの分野の展開は、当時の清国考証学抜きには語れない。
【資料】「清朝の絶世期(17世紀~18世紀)とヨーロッパ(及び日本)」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926648
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926648)
IP xxx.8.xxx.111
【資料】「清朝の絶世期(17世紀~18世紀)とヨーロッパ(及び日本)」
- 【参考】「朝鮮実学の学統」
【参考】「宋時烈とは一体何者か?」