*これは以下の関連スレです。
【独島防衛戦】「歪曲が過ぎて自爆」?
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【飛鳥時代駆け足検証3】「何故中大兄皇子は中々即位しなかったのか?」
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【資料】「初期国際官営通商の舞台となった鴻臚館」
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【関連スレ】「九州史の中の大宰府」
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【関連スレ】「足利義満時代に用意された戦国時代に続く道」
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九州探題(Wikipedia)
- 州探題(きゅうしゅうたんだい)は、鎌倉時代から室町時代に武家政権である幕府が九州の統治のために、1293年(永仁元年)に設置した軍事的出先機関である。鎮西探題。室町幕府は京都に政権を置いたため、鎌倉に設置された鎌倉公方が関東を中心に、奥州探題が東北地方を統治する。九州探題は九州統治を担当し、李氏朝鮮との外交なども行った。
- 後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が京都奪還に失敗して九州へ落ち延びる。足利方は少弐氏とともに多々良浜の戦いで宮方の菊池氏らを破り、東上した際に一色範氏を大宰府に残したのが始まりである。だが、九州においては島津氏、大友氏などは従わず、少弐氏とも対立する。後醍醐天皇の皇子である懐良親王が菊池氏に迎えられ、大宰府を奪還して九州に南朝勢力を築いた。渋川義行が任じられた後、3代将軍足利義満時代の1371年に管領の細川頼之により今川貞世(了俊)が任命され、南朝勢力の掃討、御家人の守護被官化に務める。貞世は朝鮮からの使者も迎え、倭寇討伐の要請などを受け幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に関わる。
- 1379年の康暦の政変で貞世を支援した頼之が失脚し、九州で独自の勢力を持っていた貞世は職を解任され、後任に渋川満頼が就任する。以後は渋川氏などが務める。
- 戦国時代にも形式的な幕府の職として存在し、渋川氏の滅亡後には大友宗麟らが任命された。
九州探題に関する人々
初代九州探題(1336-1347)一色範氏(道猷)(?~1369年)
- 建武の新政から離反し、九州落ちした足利尊氏に従う。
- 建武3年(1336年)、多々良浜の戦いにおいて宮方に属した菊池氏らを撃破。
- その後、九州の守りとして仁木義長らとともに足利一門とともに残される。
- 建武3年(1336年)仁木義長が上洛。初代九州探題として大友氏、少弐氏、島津氏ら諸守護と単独で対峙する事に。
- 貞和2年/正平元年(1346年) 息子の直氏に九州探題の座を譲る。
- 文和2年/正平8年(1453年)懐良親王と菊池武光率いる南朝軍に「筑前針摺原の戦い」で大敗を喫っして再起不能となる。
- 文和4年/正平10年(1355年)南朝勢の侵攻により博多を放棄。長門国へ逃れるそのまま帰京して隠退。
- 応安2年/正平24年(1369年)2月18日没。
02代九州探題(1347-1351)一色 直氏(生没年不明)
- 貞和2年/正平元年(1346年)8月、九州に下向して父の範氏から九州探題の職を譲られる。ただでさえ勢力基盤が脆弱なのに同じ北朝方でもかつて鎮西奉行であった少弐氏とは不仲だった。
- 後に観応の擾乱で足利直冬を擁した少弐頼尚の攻勢を受けて劣勢に立たされる。何とか直冬の追放には成功したが少弐氏が南朝と結びついた結果、九州の大半が南朝方となった。
- 文和2年/正平8年(1353年)、懐良親王と菊池武光率いる南朝軍に「筑前針摺原の戦い」で大敗を喫っして再起不能となる。
- 文和4年/正平10年(1355年) 南朝勢の侵攻により博多を放棄。長門国へ逃れるそのまま帰京。
- 延文元年/正平11年(1356年)将軍尊氏の激怒を買って再び九州に下向。しかしまたもや菊池軍に「筑前麻生山の戦い」で大敗を喫っしてしまう。
- 延文3年/正平13年(1358年) 再び京都に逃げ戻り消息を絶つ。
03代九州探題(1351-1361)足利直冬(1327年~1400年)
- 足利尊氏の妾腹の子。京都で玄恵法印に紹介され叔父の足利直義の養子となり、時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る様になった。その後も数年は父の尊氏との対面は許されずに認知されていなかったと言われる。
- 正平4年/貞和5年(1349年) 直義の提案で長門探題に任命され4月に京都を出発。8月のクーデターで直義が失脚すると将軍尊氏から討伐令を下され9月には鞆津(広島県福山市)で高師直に襲撃される。仕方なく肥後国河尻津(熊本県熊本市)から九州に上陸して足利将軍家の権威を嵩に着て国人勢力や阿蘇氏の所領を安堵して回り最初の足場を築く。
- とりあえず征西府(征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏)と協調路線を取りながら九州探題(将軍尊氏より討伐命令を受けた博多の一色氏)に対峙しつつ大宰府の少弐頼尚に対する攻略を進めていった。
- 正平5年/観応元年(1350年)少弐頼尚に認められ(一説によれば婿にしたとも)共同して一色氏を攻めて博多から駆逐する。それに歩調を合わせるかの様に直義が支持層を連れて京を脱出し、南朝に帰順する。
- 正平6年/観応 2年(1351年)直義勢に敗れた尊氏が2月に和議を結んだ同年3月、鎮西探題に任命される。
- たちまち尊氏と直義の間の不和が再び表面化したが、正平一統(尊氏と南朝の一時的に講和)時代だったので尊氏は南朝の後村上天皇から直義討伐令を得る事に成功した。また。直冬に対しても再び討伐令が下った。り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返す。
- 正平7年/文和元年(1352年)、鎌倉で尊氏に降伏した直義が2月に急死して「正平一統」は破綻した。仕方なく中国地方へ逃れて長門国豊田城に拠る様になる。
- 正平21年/貞治6年(1366年)色々あって南朝側に組する様になり、この年の書状を最後に消息不明となる(石見に隠棲したともいわれ、足利氏の系図では「元中3年/至徳3年(1386年)没」となっている。
04代九州探題(1361-1365)斯波氏経(生没年不詳)
- 康安元年/正平16年(1361年)少弐氏や大友氏を破った征西府(懐良親王や菊池武光ら南朝軍)の登場を防ぐべく幕府から九州探題に任命されたが、翌年10月「長者原の合戦」で南朝軍に敗れると大内弘世を頼って周防国に退いてそのまま帰洛した。
- 貞治6年/正平22年(1367年)に出家、道栄と号し嵯峨に隠棲。
05代九州探題(1365-1371)渋川義行(1347年~1375年)
- 正平20年(1365年) 18歳にして斯波氏経の後任として備中備後守護職と九州探題の職を与えられて備後国に下向。ただし菊池武光らに支えられた征西宮懐良親王の存在感ゆえに九州に1歩も踏み込めないまま5年後解任となる。空しく京に戻って出家し、28歳で亡くなった。
06代九州探題(1371-1396)今川貞世(了俊)
07代九州探題(1396-1419)渋川満頼(1372年~1446年)*管領斯波義将の女婿
- 1396年 足利義満に罷免された今川貞世(了俊)の後を継いで九州探題に就任。
- 朝鮮国王から貿易を許す印である図書を与えられて受図書人となる。
- しかし少弐氏や菊池氏、阿蘇氏らの反抗に苦慮し、諸大名の統制においては了俊の足下にも及ばなかった。
- 1406年、剃髪して道鎮と号す様になる。
- 応永22年(1415年)肥前守護も兼帯する様になる。
- 応永25年(1418年)探題職を嫡子の義俊に譲る。
- 1419年 九州探題の職を辞任する。
- 1446年 京都で卒去した。
08代九州探題(1419-1428)渋川義俊(?~1434年)
- 応永26年(1419年) 九州探題に就任してすぐ「応永の外寇(己亥東征)」となる。
【資料】「卑劣な手まで使って負けたのでは立つ瀬がない実例」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1927007)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1927007)
- この時の対馬守護は少弐満貞で、翌年の戦後交渉が行われた時に満頼・義俊父子と一緒に朝鮮の使節博に会った事が朝鮮側の資料に残っている。渋川氏と違って少弐満貞の態度は明らかに強硬姿勢だった。
- それを反映してか朝鮮王朝は「九州諸氏は渡航に際して九州探題の書契を受けなければならない」として渋川義俊の権威引き上げに一役買う。
- 応永30年(1423年)朝鮮王朝が突然方針を切り替え「(便乗渡航者の大幅削減を目的とする)正式探題使節統制の大幅強化」を宣言。一方、本人は少弐満貞と戦って破れ、博多を去って肥前国に逃れざるを得なくなってしまう。
- 永享06年(1434年) 大内氏を恃んで再起を企てるも、横岳頼房に攻撃されて肥前国神埼郡で戦死。かくして、九州探題渋川氏の権威はまったく失墜し、以降渋川氏は大内氏の麾下になり下東肥地方の一領主として大内氏の麾下になり下がってしまうのだった。
これ以降の肥前渋川氏
その後もこの一族は名目的ながらも九州探題職を世襲し続け、断続的ながらも肥前守護職に任じられ続けていく。
09代九州探題(1428-1434)渋川満直
10代九州探題(1434-1490)渋川教直
11代九州探題(1490-1500)渋川政教
12代九州探題(1500-1504)渋川尹繁
13代九州探題(1504-1533)渋川義長
これに対抗する為に幕府は筑前を直轄領とし、大内氏をその代官に命じた。少弐氏は大友氏と結んでそれに抵抗を試みる。
対馬宗氏第9代当主宗貞盛(1385年~1452年)
- 応永26年(1419年) 所謂「応永の外寇(己亥東征)」。
【資料】「卑劣な手まで使って負けたのでは立つ瀬がない実例」
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父の死により、後を継いで当主となると翌年、李氏朝鮮の軍勢に対馬を攻められた。この時は朝鮮軍の総司令官に対して「元寇のときのようになりますよ」と嘘をついて撤退させたという。さらにその後は朝鮮王朝との関係修復・強化に努めた。
- 永享3年(1431年)大内持世が豊前・筑前侵攻を開始したのに併せ、少弐嘉頼の指示で博多を軍事的に掌握。
- こうした一連の動きの結果、同じく朝鮮との交易に目をつけていた大内氏と対立。
- 宗氏の主筋に当たる少弐氏と共に大内軍と戦ったが敗れて多くの領土を奪われた。
- また、大内氏によって所領を追われた少弐嘉頼を庇護している。
- 1443年(日本暦嘉吉3年) 嘉吉条約
- 日本史における室町時代、朝鮮王朝と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた貿易協定。貿易船や貿易額の制限を定めたものでまた干支から名をとって癸亥約定とも。毎年50隻が上限の歳遣船の往来、朝鮮側から与えられる歳賜米200石が確認され、宗氏はこれにより朝鮮との貿易権をほぼ独占することとなる。
- 1441年 日本人が朝鮮近海で漁ができる権利を獲得(孤革島釣禁約)した。
- 1510年には三浦の乱が起こり一旦は関係が断絶するが、1512年に壬申約条が結ばれ再び貿易は行われる。
- この条約によって宗氏は李王家に被官し、対馬藩の版籍奉還までこの関係が継続した。
- 1452年6月22日、68歳で死去し、後を宗成職が継いだ。
少弐 満貞(生年不詳~1433年)
- 1404年 父・貞頼の死により家督を継ぐ。その後は九州探題渋川満頼と戦い、さらに1423年にも新探題である渋川義俊(満頼の子)と博多にて戦い、これを破った。
- 1425年 大内盛見と義俊の連合軍の反撃を受けてに大敗を喫っし、博多を放棄せざるを得なくなる。
- 1431年、大友氏と共に大内盛見を攻め、これを逆に討ち取る。
- 1433年、盛見の後を継いだ大内持世の反撃を受けて筑前秋月城で戦死。子のうち資嗣も肥前与賀庄の戦いで戦没したが、嘉頼と教頼は対馬の宗氏を頼って落ち延びた。
豊後大友氏12代当主大友持直(? - 1445年?)
- 大内盛見と対立し、少弐氏と連合して合戦しこれを討ち取る。
- 永享4年(1429年)博多貿易商業が集住する息浜地域を奪還し、その一人である宗金を代官に任命した
- 永享6年(1431年)朝鮮に使者を派遣して書契発給権を武器に交易開始。
- 盛見が九州幕府領の管轄者でもあった事から将軍義教の怒りを買い、守護職を同族の大友親綱に移動させられる。さらに大内持世による持直追討軍が九州に派遣される事態となると、大友氏は持直方(持直、親著、大友親繁)と幕府方(親綱、大友親隆など)に分裂して激しく争う様になった。
- 永享7年(1435年)からの姫岳合戦において、伊予守護河野通久を敗死させるなど強硬な抵抗を見せたが結局敗北し、以後消息不明となった。
宗金(生年不詳~1455年)
- 室町時代中期の博多大商人の一人。
- 初めは九州探題渋川満頼、その後は大友氏の配下で明や朝鮮王朝との貿易で活躍。
- 応永26年(1419年) 所謂「応永の外寇(己亥東征)」。
【資料】「卑劣な手まで使って負けたのでは立つ瀬がない実例」
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その後で訪れた朝鮮王朝使者宋希璟を接待し、共に京へと赴いて幕府との仲介役を果たした。
- 室町幕府6代将軍足利義教や斯波氏・渋川氏・大友氏・少弐氏などの使節として朝鮮貿易を代行し応永32年(1425年)には朝鮮から貿易を許す印である図書を与えられ受図書人となった。
- 永享8年(1436年)の遣明船にも関与する。
- 文宗が朝鮮王朝第5代国王に即位(1450年)した際には祝いに駆けつけている。
- 妙楽寺の僧であったらしく、公卿山科教言の日記『教言卿記』にも同名の僧が登場するという。
第11代当主大内盛見(1377年~1431年)*「応永の乱(1399年)」を起こした義弘の弟
- 「家督争い」を追認されて以降は幕命に応じて九州の経営に尽力する。その結果、筑前国にも豊前国の守護にも任じられた。
- しかしそれゆえに少弐氏や大友氏とその領有をめぐって敵対し合う様になり、両氏と戦った九州遠征において筑前深江で戦死を遂げた。
- 文人としても優れ、朝鮮王朝と通交して大きな利益を得ている。
大内氏第12代当主大内持世(1394年~1441年)
- 永享3年(1431年)豊前・筑前侵攻開始 少弐満貞や大友持直らと戦ってこれに勝利して勢力を拡大。少弐氏については時に滅亡寸前までに追い込んでいるが、幕府の将軍義教に和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させている(少弐氏と同盟関係にある対馬の宗氏との関係悪化を恐れたとも言われる)
- 1441年 赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いの祝宴を設けた時、なまじ臨席していたせいで嘉吉の乱に巻き込まれて死亡。
まぁ、この関係の話題についての詳細は以下を参照の事。
日韓歴史共同研究委員会 報告書(第1期 2002-2005年)>>第2分科(中近世)
日(http://www.jkcf.or.jp/history/report2.html)
- 「偽使」についての学説史(田代和生/六反田豊・吉田光男・伊藤幸司・橋本雄・米谷均)
日(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_1_1tashiro_j.pdf)
韓(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_1_1tashiro_k.pdf)
- 日朝関係における偽使の時代(伊藤幸司)with 討論記録
日(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_2_1ito_j.pdf)
韓(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_2_1ito_k.pdf)
- 朝鮮国王使と室町幕府(橋本雄)討論記録
日(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_2_2hashimoto_j.pdf)
韓(http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_2_2hashimoto_k.pdf)
- 偽使研究の現況と課題(韓文鍾)
日(http://www.jkcf.or.jp/history/2/2_1_1han_j.pdf)
韓(http://www.jkcf.or.jp/history/2/2_1_1han_k.pdf)
- 朝鮮前期の倭人統制策と通交違反者の処理(韓文鍾)
日(http://www.jkcf.or.jp/history/2/2_2_1han_j.pdf)
韓(http://www.jkcf.or.jp/history/2/2_2_1han_k.pdf)
*いずれにせよ「嘉吉条約(1443年)以降の対馬宗家による貿易独占体制」はこの事件で終焉します。
三浦の乱(Wikipedia)
- 1510年(中宗4年)に朝鮮王朝で起きた、対馬宗氏と朝鮮居留日本人(恒居倭人)による反乱。庚午三浦倭乱ともいう。
- 東アジアの中世においては、倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上勢力が朝鮮半島でも活動し、李氏朝鮮は討伐や懐柔、日本の室町幕府に鎮圧を要求するなど対策を行う。日朝貿易が開始されると、対馬、壱岐の民になどに三つの港、釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の鎮海市)・開港し、そこに倭館を設置して交易を行う様に統制策を取り倭寇と識別した。世宗は塩浦(蔚山広域市)を加え、三浦倭館という。
- 交易が活発になると、密貿易が増大する事になった。それに対し、李氏朝鮮の官僚達は圧力を加え、居留日本人に対する統制を強化していった。それに対して貿易で生計を立てていた日本人の不満は増大し、対馬の宗氏の軍を主力とし、約4万5000(朝鮮居留日本人は約3000人)をもって攻め入り、釜山浦、薺浦を陥落させる。
- しかし日本軍は大敗を喫し、駐留日本人は追放され、日本と朝鮮の間は断交状態になる。
- しかしながら、交易で生計を立てている対馬と胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は折り合いを付ける必要に迫られ1512年の壬申約条により対馬との和解が成立し、交易は再開され倭館も再び開かれたが、貿易港は乃而浦のみに制限され、日本人の駐留は禁止されるなど以前より制限されたものになった。その後も暴動はあり、朝鮮では備辺司が設置された。