蘇我氏の百済起源説 | 453|共感0
1723483| JAPANffcffc | 2008.11.29 23:30:05
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 蘇我氏の百済起源説のサイトをコピペします。個人的には、この説は妥当であると思う。ただし、結び部分で、朝鮮や大和のセクト主義の考えを否定していることが重要であると思う。セクト主義がはびこるenjoyでは、受け入れがたいかもしれないが。

 

 

 

蘇我氏の研究

Ⅰ,門脇禎二「蘇我氏の出自について―百済の木刕満致と蘇我満智―」

はじめに() 一、蘇我氏は、六世紀末~七世紀中葉の日本の国づくりをおしすすめた中心的氏族であった。それにもかかわらず、この氏族の出自や性格は意外に明らかでないことが多い。これには、長らく蘇我氏は天皇をないがしろにした悪者氏族ということで研究に着手することが少なかっただけでなく、後述するように、この問題にも朝鮮~・人や朝鮮への差別観が深くかかわっていたように思う。蘇我氏の出自を問うことは、日本の国家形成史のかなり重要な部分の変改を迫られてくるのである。蘇我氏の系図は、古事記の孝元天皇段にみえる建内宿禰の子孫系譜によっていわれてきた。つまり、波多・許勢(こせ)平群(へぐり)・木・葛城・若子(わくご)のとともに建内宿禰より分れたとされ、蘇我氏のみを日本書紀の孝元紀の所伝によって示すと次のようになる。

孝元天皇―彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―建内宿禰―蘇我石河宿禰

そしてこの蘇我石河宿禰が、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの共通の祖とされる。

しかし、これらがそのまま史実でないことはいうまでもなかろう。 孝元天皇は、いわゆる欠史八代の天皇のうちの一人として実在性は考えられず、その子、孫とされる二人の神はもとより、建内宿禰も後世に創りだされた伝説的人物であることは解明されて、すでに古代史の常識になっている。もとより、これらの人物や神が史実でなくとも、なぜ創出されたかという問題は、それじしんとしてはたてうる。しかし、蘇我氏の実際の史実としての系譜をもとめようとする当面の課題には、この系譜は役にたたない。

そこで、蘇我石河宿禰より後の系譜、ことに蘇我石河宿禰から蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らにいたる系譜が求められる。その意味で、右述の蘇我同族の大系譜の中でも、石河宿禰がたの六人と比べた場合に持つ特異性や、その後の系譜としての公卿補任の蘇我氏系図や蘇我石河系図が重視されてきているのである。それらには、つぎのように伝えられている。

蘇我石河宿禰―満智―韓子―高麗―稲目、そして稲目以後ははじめてその同世代兄弟姉妹にひろがる系図となる。一見してわかるように、満智以後三人の名と蘇我石河宿禰とはちがう。蘇我石河宿禰の、宿禰という姓は684(天武天皇13) 年以後のものだから、この人物じしんも後世の創作による可能性が多いとされ、律令時代の石河(宿禰)氏による祖先系譜作成が説かれているのである。また、飛躍的に多くの事績をともなって伝えられる稲目以後の系譜との間にも段落がある。したがって、問題は、満智、韓子、高麗の三人でありこれらについて、すでに種々な検討がなされてきているのである。

まず満智であるが、満智という名は、応神紀、同分注の百済紀にもみえる木満致と同音である。木とは、木刕=木羅のことで、百済の複姓である。応神きの木満致は、そこに引用される百済記に父が新羅の婦人を娶って生んだ子とあり、三国史記百済本記に見える木満致と同一人と考定されている。ところで問題は、この新羅人を母とする権臣、木刕満致と、蘇我満智とが、同一人であったか否かということである。これまでの通説は別人としてきた。たとえば、日本書紀の奈良時代末頃の写本とされる田中本以外の多くの写本は、右の満智について「大倭木満致」と「大倭」の字を入れているというが、これは“朝鮮生まれの満致ではあったが、任那の領主であり実権者であった日本の天皇のミコトモチとして百済に権威をふるった”というような解釈が採られている。また近く蘇我氏の系譜を検討しなおした所説でも、蘇我氏の家は朝鮮問題に関係深かったので、“百済の権臣満致にあやかって蘇我満智の名がつけられたのであろうなどとされているのである。しかし、このような意味づけや解釈は、どうにも納得しにくい。このようにいうなら、それより前に、百済の「木満致」と蘇我満智が全く別人だということをはっきり証明し直すことがひつようだろう。百済の「木満致」と蘇我満智とは、はたして全くの別人だったのか、このてんをもう一度確かめる必要があるように思いはじめたのである。

そこで、まず、応神紀の記述と、同じくそこに引用されている百済記の記事について検討してみよう。

その記述では、ヤマトに質人としてきていたが、父の死で帰国した百済の直支(とき)王の死(420年)ののち、久爾辛(くにしん)があとをついだが、この王は幼少であったので木刕満致が国政をとった。ところが満致は、久爾辛の母(直支王の妃八須夫人) と「相婬けて多に無礼を行」なったので、「(応神)天皇、聞しめして、召す。」とある。また百済記には、かれは「其の父の功を以って任那に(たくめ)なり。我が国(=百済)に来入て、貴国(=ヤマト、日本)に往還ふ。制を天朝(ヤマト朝廷)に承りて、我が国の政を執る。権重(いきおい)、世に当たれり。然るを天朝、其の暴を聞こしめして召すといふ」とある。(カッコは何れも引用者)。このように、満致は「合婬」したり、「暴」であったと記されているが、これらは日本書紀によくある表現で、ヤマト朝廷の王族内部や豪族の抗争あるいは戦闘の原因としてさえしばしば記されていることである。しかし、三国史記には、このようなことは書いていない。それどころか、久爾辛王の孫、蓋鹵王21年(475)年の記事には、王が高句麗長寿王の放ったスパイ道琳の計にひっかかり高句麗の攻撃に直面したとき、子の文周を避難させたが、そのとき「文周、すなわち木刕満致と祖弥桀取と南に行けり。」とあるだけである。そしてこの後にふたたび満致のことは出てこないのである。

以上のように、百済の官人木刕満致は、朝鮮で死んでいないことが明らかであるばかりか、日本書紀やそこに引用された百済記には明らかにヤマト朝廷に招来したとあり、三国史記には百済から「南行」したとある。この場合、日本書紀の文脈や表現には、引用の百済記まで含めて、天皇中心の編者の主観によって後世的修餝が加わっていることはいうまでもない。たとえば百済記の「貴国」=ヤマト・日本など百済人が百済の記録にこう書くはずはないから書記編者による改作だろうと、津田左右吉が早く指摘している通りである。 

これにはなお異説もあるが、かりに文餝を別にしても、内容的には三国史記、日本書紀・百済記の記すところ、木刕満致が高句麗長寿王の百済攻撃を前にして南に向い、ヤマト朝廷はこれを招致したという関係になるのである。

この場合でも、三国史記にいう満致の「南行」と、紀・百済記にいうヤマト朝廷への招致とを直結させる理解には、疑問も出よう。わたくしも、百済からヤマトへかれが直行したかどうかは疑問だと思う。というのは、かれとともに南行した一行については、「文周をして救を新羅に求めしむ」。(百済本紀文周即位前紀)とあるからである。新羅兵一万の援兵をえたことには満致の役割も大きかったのかもしれない。というのは、満致は、百済記に「是れ、木羅斤資、新羅を討ちし時に、その国の婦を娶きて、生む所なり」とあるように、かれの母は新羅人であったからである。しかし満致は、文周とともに百済にとって返した記事はなく、百済は新羅兵一万の援軍によって高麗軍を撃退したものの、蓋鹵王もまた戦死したのであった。このあとをついだ文周王のもとにも、満致の姿はもうみえない。おそらくこの戦乱の過程に、満智はヤマトに渡来したのではないだろうか。若しかしたら、かれはかつてヤマト朝廷への質人としてきていた幼時の直支王の従者として、何がしかのゆかりももっていた可能性もあると思う。

このようにして、蘇我満智と、百済官人と新羅婦人との間に生れ百済の権臣であった木刕満致とが同一人であった可能性は大きい、とわたくしは考える。こう考えるには、当時の時代的環境への検討も必要だろう。蘇我満智は、履中記二年冬十月条に、平群木莵(つく)・物部伊莒弗(いこふ)・葛城(つぶら)らとともに、大使主(おおおみ)として国事を執ったと記されるが、履中天皇の執政は六年、弟の反正天皇の執政は五年と紀に伝えられ、前後の仁徳・允恭天皇が長期とされいるのといちじるしくちがうし、允恭天皇即位前の状況を語るに「空位」というような語も用いられている。この王を含む應神王朝は、これ以前の三輪王朝とは血統を別にするばかりでなく、ことに河内平野に進出、開拓して、対外関係においては朝鮮三国や他の国々と競合的に宋のアジア支配体制に結びつこうとした施策においてめだってきたが、その動揺の気配を感じさせる。もっともこの王朝を河内の在地豪族が成長して見料を握った河内王朝というべきだとする説があるが、それはとらない。理由を詳述する余裕はないが、やはり、大和の諸豪族が構成したヤマト政権が、対内外の施策との関係において、河内・泉の地へ進出した政権であったとみている。大和はもとより、筑紫・吉備・南山城・摂津・美濃等々の要地に県をおいていったことや、物部氏が南河内に勢力基盤を拡げたことなどは、まさにこの政権の、この時期における営みであったと思う。それはともかく、ヤマト政権(応神王朝)の、右述のような最初の動揺・改変の時期が、百済官人であり、また現地の状況や三国間の関係に詳しい木刕満致が、ヤマト政権に迎え入れられた時代的条件にもなっていたのではなかろうか。さらにいえば、蘇我満智が雄略朝に宮廷の内蔵・斎蔵・大蔵の三蔵を検校したという古語拾遺にみえる話は、これを伝えた忌部氏は宮廷祭祀権をめぐって中臣氏と対立していたが、蘇我氏とは直接の利害関係がなかっただけにかえって所伝の信用性は高いといわれる。とすれば、この所伝などは、満致(麻智・満智)のヤマト朝廷への入り方、かかわり方を示唆している。つまり、対朝鮮三国との外交・軍事問題のほか宮廷の財政管掌において手腕を発揮していったのだと思う。もとよりこの場合、所伝の通り、雄略朝ころに実在したかどうかの問題がある。その点で留意さるべきは、欽明う皇子に「蘇我之倉王」がいたことである(欽明記、紀では倉皇子)。この皇子の母は日影皇女(宣化天皇の娘)だが、皇子の名が母の出自に縁っていたのなら、満致の後裔の一族に、宮廷倉庫を管掌するものが生じていたとみられよう。宮廷や有力氏族の内部に、倉庫、ひいては財政を担当する倉氏の成立が認められるとするのは、近時の研究成果の一つである。そのような任に当たるソガ倉氏の仕事も祖先伝承上の満致に仮託した可能性は大きいと思う。

二、以上のところから、蘇我氏の系譜伝承において、最初の実在的人物とされる満智は、五世紀末葉に渡来した百済官人の木刕満致と同一人物ではなかったか、と考える。そして、河内に出ていた応神王朝の最初の動揺期、つまり葛城・平群氏らの旧勢力と新興の物部氏らとが勢いを競いはじめたころ、主に葛城氏との結びつきによって迎え入れたのではないか、と思う。

これまでのわたくしは、蘇我氏を渡来人系氏族とは考えられず、大和盆地の土着集団のうちから成長したものと考えてきた。それは、蘇我氏のいわゆる河内石川根拠説に賛成できなかったからである。この点は、今でもそうである。つまり、まず河内の石河に定着してついで大和に入ったとはなし難い。蘇我氏はまず大和に定着して、のちにその支流が河内の石河に出たとする考えに変わりはない。しかし、蘇我氏と、やはり葛城・物部・大伴などとの違いを強く感じはじめた。右述のように、蘇我氏は、木刕満致がきたのにはじまる、とみたい。その後裔が、やがてソガ(スガ)を氏名とするようになったのは、他の多くの氏族と同様に、もとは地名によったものと思う。ソガ・スガはもと普通名詞であり、大和盆地の曽我川に沿う地にもあったのである。この満致(満智)のあと、稲目に至るまでの動向は必ずしも明らかではない。満致の子とされる韓子は雄略紀にみえ、朝鮮問題で活躍した将軍の一人で、現地に出た新羅、との戦闘の陣中において、紀大磐と争いを起こして射殺された、という(雄略紀九年条)。かれがもと、祖父と父を百済官人、祖母を新羅人としていた以上、同時に出征していた大友談・紀小弓・小鹿火らと、何かと意見の違いの生じやすかったであろうことは想像しやすい。だが、それ以上は、ただ系譜に名前だけをとどめる次の高麗とともに、文献的には明らかにし難い。ただこの氏が、こののち対朝鮮関係における大和政権の官人としての活躍が目立つことは当然であろう。この時代は、葛城氏・平郡氏、そして五世紀末に葛城氏が滅んでからは、大伴・物部両氏が主導する時代に入ったが、この間、しだいに畝傍山南方から東の見瀬・豊浦・飛鳥へと乾田農業の新技術を駆使して開発を進めた蘇我氏は、いわゆる継体・欽明朝の内乱期に急速にのび、遂に六世紀末から七世紀中葉にかけては、大王を左右するほどの政治的実権を掌握し、統一的支配体制の形成に大きな一歩を踏み出したのであった。

これらの点にふれていま少しくいえば、先にも述べた宗賀之倉王のことである。この王の母が、宣化天皇の娘の日影皇女であったということは、蘇我氏は宣化天皇と婚姻関係を結んでいたという、記紀にも記されていない関係が復元できる。この点、前の拙著(『飛鳥』)で気付きながら解けなかったこと、つまり、王宮も陵墓もともに蘇我氏の勢力圏の飛鳥の檜前・身狭に初めて営まれたのが宣化天皇であったことの理由も解けてくるように思う。それは、おそらく蘇我氏が一族の日影皇女の母を、すでに宣化天皇に()れていたということによるのであろう。

むすび 蘇我氏の祖先伝承のうち最初の実在人物と考えられる満智につき、これが百済官人木刕満致と同一人物であろうと考えてきた。いきおい、蘇我氏は百済系の渡来氏族という性格で理解できると思う。それならば六世紀から七世紀にかけて日本の国家形成は、朝鮮~・人によっておしすすめられたといえるだろうか。そのように短絡して考えることは誤りだと思う。述べてきたように蘇我氏は、朝鮮の百済官人の渡来に発した。しかし、その後の蘇我氏は、当時の朝鮮~・人、つまり百済人とし動いたのでも新羅人として動いたのではない。あくまでヤマト政権の官人として将軍として動いたのであった。あるいはまた、その後の婚姻関係においても土着の民とのそれも重ねたのであろう。少なくとも蘇我馬子に至れば、物部守屋の妹ととの婚姻も伝えられているのである。さらにいえば、蘇我氏あるいはその配下の氏族にかかわる朝鮮文化や独自の文化も次々と伝来している。と同時に蘇我氏は、仏教などだけでなく六世紀後葉から七世紀後期においては、もっとも古墳造営のめだつ氏族である。その古墳が方墳や横口式石室など新奇・独特のものばかりでなく、見瀬丸山古墳や欽明天皇檜前陵も蘇我氏造営にかかわるとする幾つかの所伝や見解があるように蘇我氏の営造にかかわるものならば、わが国独特の前方後円墳の営造をもっとも後の時期まで保持した氏族でもあったわけだ。したがって、その関係は、日本の国家体制を朝鮮から渡来した氏族がつくったとか、逆に、すでに確固とできていた日本古代国家の枠組みの中の朝鮮的要素といったというとらえかたをする必要もないと思う。むしろ、日本古代の国家体制そのものが、在来からの伝統的諸氏族と新しく渡来して形成された諸氏族、さらに伝統的文化要素と朝鮮や中国から渡来した諸要素が新しい一つの力をつくり、一つの文化相をうち出しながら形成されていったのだと思う。つまり一口でいえば、古代日本の国家形成を、多様な国際的要素を以って、国内社会の矛盾と国際的契機とに関連づけて理解してゆく方向で考えるべきことのように思うのである。

あとがき この試論は、小編のせいもあって、論述の間その都度に引用文献をつけることができなかった。主に参考にさせていただいた文献は、黛弘道「ソガおよびソガ氏に関する一考察」(『上代文学論叢』所収)、同「大和国家の財政」(『日本経済史大系1』所収)、直木孝次郎『日本古代国家の構造』、岸俊男『日本古代政治史研究』、日野昭『日本古代氏族伝承の研究』、志田淳一『古代氏族の性格と伝承』、岩波日本文学大系『日本書記』の注釈、歴史学研究会大会報告一九五一年~三年、遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』などであることを記して、非礼のお詫びとしたい。

 

 

 

 

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bleu|11-29 23:40
一番最後の画像はトップに置いた方が良いなあ。w
ibm1082|11-29 23:44
韓国の方では中間に首になった..T-T
ibm1082|11-30 00:12
翻訳率が 30% であるが.. 日本語表示で死に物狂いで読んでいる.. 面白い文感謝.. 一度読んで見て次の番(回)にスレッドあげますね..そしてもし 日置氏 関した資料ももしあれば頼み.. w
nhero2009|11-30 00:16
朝鮮と言えば? 檀君朝鮮を言うことなの?
 → ibm1082|11-30 00:23
そのまま古代韓国代りに古代朝鮮だと書いたと言えば当たること
ibm1082|11-30 00:37
木とは′木=木羅のことで′百の複姓である。 <-- とても易しく思うのです. ざっと思えば蓋然性があったように見えるものの.. これよりもっと説明力が高いことがある場合 もう一度思わなければならない部分です.
 → ibm1082|11-30 00:40
木 と言う氏族はあっても 木羅はそうですね? それより mokura ‾ これが何を隠すためではなかっただろうか? する次元で 姓氏録 みたいなことを探して見れば答が出るかも知れないですね w そして ,siraki様スレッド昔ののを見ることも..
 → ibm1082|11-30 00:45
羅 <-- これは普通国を意味する接尾語で古代韓国でよく使われるのです. 木(moku) と言う国の 斤 ( big 韓国語この二つで読めば )資 .. 普通人ではなかったはずです. ところで ibm 感覚ではこの当時に列島は百済伽揶の 侯国 載せるのでこの人は普通人ではないことと考えられますね. 南郷村 神社 文献には百済王が息子に王位を譲って 3年ぶりに乱が起きる.. このようになっていますね. 百済滅亡後のストーリーではないです.. w
 → ibm1082|11-30 00:46
元々の意味を隠すために作った 史書が日本書紀 古史記 と言うことを理解したら 木羅斤資は実は易しく捜される人..
navy_blue|11-30 08:42
史書批判は間違ったアプローチではないが、蘇我氏が半島渡来であるという史書の記録はない。史書に記録が無い説は、定説にはならない。
navy_blue|11-30 08:44
すべて真実だけを記述している史書は存在せず、すべての史書は、信憑性の点で問題がある記述を含む。だが、史書の記録に基づかない説は、信憑性が低いと思われる史書の記述よりも更に信憑性が低い。
 → ffcffc|11-30 09:10
三国史記、日本書紀で、同名の人がいるまでは良いですか。
正に外道 [8]
- 蘇我氏の百済起源説 [12]
■ささやかな、あるいは究極の贅沢 [13]