室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。
それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。
灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭楮の軽沢精緻に如かず」と、日本の楮(こうぞ)である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。
これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。
その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。
そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。
このことは技術に限らず、文化一般についても言えた。
通信使一行の中で公式的に日本側と文書の交換をした書状官の人選が重視されたのは、日本側にも朝鮮側に劣らない文章力があったことを示している。
朴端生の十数年後、申叔舟が書状官として日本に渡った際、その人選が遅れた理由を、「その国俗、詞章を喜び、書状官を擬してその人を難ず。
かつ風濤嫌悪、人皆行くを憚」ったからだ、と姜希孟が「文忠公行状」の中で述べているのは、その事実を伝えるものである。
これは15世紀のことであったが、その現実はその後も変わりがなかった。
宣祖二十年(1586年)、日本からの使臣を迎えることになった朝鮮側では、「況んや日本人、詩を能くし、酬唱(詩を作って互いにやりとりすること)の際もし或いは未だ尽くさざれば必ずその国に伝笑す。
関する所軽きにあらず。宣慰使は職秩の高下を論ずることなく、一代の文章の士を極めよ」とし、日本に対する対抗意識を露にしていた。