
↑江戸を訪れた朝鮮通信使
韓国では「朝鮮通信使は日本の御願いでやって来て、日本は朝鮮の先進文化を学んだ」と教えられてるみたいですね。
国定韓国高等学校歴史教科書
より壬辰倭乱(文禄・慶長の役)後の対日関係を抜粋
壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。そのため、戦乱後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。
随分都合の良い事ばかり書いているが、実際にはどうだったのだろうか。
↓中国の史書

<訳>
倭国が内乱の時に、対馬島の領主平義智は捕虜を朝鮮に返し、書を遣わして和平を要請した。
更に秀吉の将である家康が食糧数十万石を運んで軍資に利用しようとしていると揚言して朝鮮を脅した。
朝鮮と対馬は狭い海を挟んで相対している。
対馬は作物が実らず、米を朝鮮から供給されていた。
戦争が起きて後、(朝鮮と)交易を絶ったので、(対馬は)あらゆる手を尽くして(朝鮮を)脅して交易を迫った。
秀吉が死んでから、明軍が(朝鮮から)すべて撤退すると、朝鮮は倭を甚だしく畏れた。
そのため、日本と外交関係を結ぼうと考えたが、(勝手な外交をして宗主国である)中国の機嫌を損ねるのではないかと恐れた。
1. 経済的に困窮したのは日本ではなく対馬
2. 幕府が要請したのではなく、対馬島領主の要請(その際に朝鮮を脅した)
3. 朝鮮は日本と勝手に外交関係を結ぶことを(宗主国からお咎めを受けるのではないかと)恐れたが、結局、対馬島領主の恐喝に屈した
地方領主に脅される朝鮮・・・・・(嘲笑
ところで、朝鮮通信使から日本が学んだ「先進文化」とは何だろうか。
確かに当時の朝鮮_人は中国人並みに(笑)漢文が達者だったので、勉強熱心な日本人が学ぶ事もあったと思われる。但しそうは言っても、日本が朝鮮から先進文化を学びたかったのであれば、留学生なりをこちらから派遣すれば良いだけの話である。何故わざわざ将軍の代替わりに朝鮮から使節を派遣させるような回りくどい事を、琉球使節やオランダ使節、アイヌと同じ有る意味朝貢とも取れるような行為を要請したのか??
政治的な意図があったと思われる。(笑
さて、結局朝鮮通信使から教えていただいた文化とは何か?
・・・・・あるのだろうか?
・・・・・・・・あった。


↑現代に伝わる朝鮮文化 その名も「唐人踊り」
伝えてくれて、ありがとう!!