第1回 将軍への拝礼で激論
従事官の書記金仁謙は、小童の死で何かを思ったのであろう。江戸城での公式行事の出席を拒んだ。その理由を『日東壮遊歌』では次のように述べている。
「国書伝達のときを迎える。使臣方は朝服を召され、軍官らは軍服、文士訳官は官服に身を整える。使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、清道旗を持った騎乗の旗手六人と行進するが、私はひとりつらつら考えた末、儒者の身として、いたずらに城内に入り、関白(将軍)に四拝するなど、この上ない恥辱と思い、参列は取り止め休むことにする」
この四拝礼に関しては、日朝間で激しい論議がたたかわされた。
四拝礼とは臣下の礼をとることであるから承服できないというのが、朝鮮側の言い分であった。しかし日本側も使臣は王にあらず、臣であるとゆずらなかった。結局は朝鮮側が折れて、江戸城での四拝礼は日本の将軍に対するのではなく、将軍の横に置かれた朝鮮国王の国書に対して四拝礼するのだと、自らを納得させて折り合ったのである。
四拝礼は八代将軍吉宗のときに慣例になったようだが、この意地の張り合いを見事破ってみせた将軍がいる。病弱といわれた九代将軍家重で、彼は同じ盃で酒のやりとりをし、三使を感激させたそうだ。金仁謙はそれから十六年後に来日した使節なのであった。
九州・読売新聞
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/chosen/005/ch_005_020117.htm
やっぱり他国の将軍の前で土下座をする事は屈辱だったようですね(w
礼儀で土下座したのだと言い張る韓国人は
そういう言い訳をする事で心が晴れますか(w
これも儒教者の礼儀とでも思うしかないのでしょうか(w
屈辱の中でのアメリカ大統領への土下座では(w
