「かわいい子には旅させろ」「旅の恥は、かき捨て」「旅は道連れ、世は情け」・・・旅に関する諺が多くある。昔から人々が旅を体験して得た知恵を諺にしたものである。日本史を見ると旅の歴史は古い。平安時代の熊野参りは旅行ブームとしての始まりであったと言える。しかし、この頃の旅はどちらかと言えば公家や貴族を中心とした旅で、庶民の旅ではなかった。庶民が旅をはじめたのは江戸時代に入ってからである。
本格的に庶民の旅行がブームになったのは、徳川家康が、慶長6年(1601)に東海道に宿場を設置した後である。東海道53次全ての宿場が出来上がったのは1624年である。街道には沢山の人が行き交い、観光地も出来、城下町、門前町もあった。東海道53次の宿駅の発達が人々を旅行に向かわせた大整備事業であったといえる。
これは、当時の庶民の旅の服装です
旅人たち

旅の携帯品
扇、湯手拭、弁当箱、薬、針・・・これらの挙げたものは、「あーっそうか」と今でも納得できる。「蝋燭立て」や「燧石(ひうちいし)」は電気のない時代であるからこれも納得できる。面白い携帯品は「旅枕」「矢立」である。旅枕は旅をするとき持参するのが普通であった。木で作った折りたたみ式のものもあった。「矢立」は墨を入れる壷と筆をセットで携帯用にしたもので、昔、弓を入れる道具と似た形をしていたためこの名が付いた。もちろん筆記用具セットとして、旅の記録に用いられたものである。
さて、上は浮世絵師 歌川広重
広重(35才)は「東都名所」を発表し風景画家としての評価を受ける。翌年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、その行列に参加して上洛、東海道を往復した際にその印象を写生、翌年シリーズとして発表する。
東海道とは東京と京都を結ぶ日本の街道である。

さて、ここから下は、広重の書いた浮世絵です。
1830年頃の日本の風景です。
日本橋
京都まで126里半東海道五十三次の起点、橋の手前5~6人の魚屋が早朝の魚市から買い求めた魚をかつぎ、橋の上を大名行列の先頭が渡ってくる。あわただしい朝の日本橋界隈の情景が描かれている。
品川
大名行列の最後尾と早朝店を開いている宿場外れの茶店と女達そして明け 始めた。品川沖から鮫州沖の海と茜色に染まった空が描かれている。
川崎
元和九年(1623)、徳川家康の宿駅制度制定から22年後に制定、川崎宿は品川宿、神奈川宿の伝馬百姓の負担を軽減するために設置された四村の集落で、本陣がなく、農村とあまり変らない宿場町として誕生しました。庶民が旅している様子が書かれています。対岸の人は船を待っている人のようです。
神奈川
家数1300軒、人口6000人、日本橋から三番目の宿場町であり、日本橋からは七里ほどで、一日で往復できる距離にありました。慶長六年(1601年)に伝馬の制が制定された。たくさんの人が行きかう様子。宿屋に客を呼ぶ人の姿が生き生きと書かれています。
さて、今回はこの辺で、続きは、また後日
参考http://zenpaku.huu.cc/toukaido/53.htmなど、、、