アメリカの教科書に見る、日米開戦の原因の変化

六六年版 「ライズ・オブ・ジ・アメリカン・ネーション」
「多くのアメリカ人の目が欧州にくぎ付けになっているすきに日本は極東征服を推し進めていた。一九四一年七月、日本軍が仏領インドシナを占領するとルーズベルト大統領は即座に米国内の日本資産凍結で応じた。結果として日米貿易は事実上停止した」
「日本はアメリカの抵抗がより厳しくなることを予想し、米国を攻撃する計画を練り始めた。戦争指導者たちがその準備の最終段階に入った時点でさえ日本政府はワシントンに和平協議の代表団を送り込んだのである。交渉は二週間以上に及び、日本代表団は最後に『アメリカが非現実的な原則にしがみついている限り交渉継続の意味がない』と決裂を明らかにしたが、一九四一年十二月七日の日曜日の朝、その通告を米政府に手渡す前に日本機はハワイの真珠湾基地に停泊する米太平洋艦隊を攻撃した。全く警告なしにである。米国はそうしたいわれのない攻撃を予想していなかった」
七二年版 高学年用教科書「ジ・アメリカンズ」
「日本の膨張主義者たちは満州から中国、さらにタイやインドネシアにまで広がる植民地帝国を築く夢を長く抱いていた。この夢が満州侵略、その後の中国侵略を導いた。日本は一九四一年七月、インドシナのフランス軍基地を占領して南進し、米国は経済制裁で対抗した。この経済制裁の中には日本が絶対に容認できないものがあった。軍需機構を維持するのに必要な石油である」
「十月、好戦的な東条英機将軍が新首相になった。東条は就任早々、天皇に対し米国との和平交渉を成立させる最後の試みを約束し、特別代表をワシントンに送り込んだその日に海軍に出撃準備命令を出した。米国は日本の暗号通信(外交暗号)を解読しており、日本が戦争準備に入っていることを知っていた。ただ攻撃がどこを目指しているのかわからなかった。ルーズベルトは十一月下旬、ハワイ、グアム、フィリピンの米軍司令官に戦争警告を発していた。その警告にはこうあった。戦争が避けられない状況になった場合、日本がまず好戦的行為にでることが望ましい」
「一時間半にわたる攻撃の破壊力はすさまじいものだった。だが、日本側からみれば真珠湾攻撃は大勝利だった」
66年版では、「日本の騙し討ち」との表現だった教科書は、72年版では、「日本には容認できない要求を突きつけた結果であり、日本から攻撃させるように仕向けた」との表現に変化しています。
アメリカの教科書の評価の変化は、日米開戦が「政治的問題」だったものが、時が経て「歴史的評価」に変化したと読み取ることができる。
参考
2001.09.03 産経新聞
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