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「9条危機なら運動」 ノーベル賞益川教授、平和を語る(1/2ページ)

2009年1月31日

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 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・京都産業大教授(68)は昨年12月にストックホルムで臨んだ受賞講演で自らの戦争体験に触れた。そこに込めた益川さんの思いが知りたくて、戦争とともに始まった半生を聞いた。

 受賞講演では「自国が引き起こした無謀で悲惨な戦争」という表現で太平洋戦争に言及した。開戦前年の1940年生まれ。父は当時家具職人。5歳のとき名古屋空襲に被災した。

 「焼夷(しょうい)弾が自宅の瓦屋根を突き破って、地面にごろりと転がる。家財道具を積んだリヤカーに乗せられ、おやじやお袋と逃げまどう。そんな場面を断片的に覚えている。焼夷弾は不発で、近所でうちだけが焼けなかった。あとから思い返して、発火していれば死んでいたか、大やけどを負っていたと恐怖がわいた。こんな経験は子や孫に絶対させたくない。戦争体験はぼくの人生の一部であり、講演では自然と言葉が出た」

 敗戦翌年に国民学校(小学校)入学。校舎は旧日本軍の兵舎跡。銭湯の行き帰り、父から天体や電気の話を聞かされ、理科や数学が得意と思い込んだ。

 「祖父母は戦前、植民地下の朝鮮で豊かな暮らしをしていた。高校生のころ、小学生だった妹が母に、朝鮮での暮らしぶりをうれしそうに尋ねるのをみて、ぼくは『そんなの侵略じゃないか』と怒鳴ったことがあったそうだ。戦争につながるもので利益を得るのは許せないと思っていた」

 58年春、名古屋大理学部に入学。日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の弟子の坂田昌一氏が教授を務める素粒子論教室で学んだ。

 「家業の砂糖商を継ぐことを願っていた父に、1回だけの条件で受験を許してもらった。その坂田先生は『素粒子論の研究も平和運動も同じレベルで大事だ』と語り、反核平和運動に熱心に取り組んでいた。科学そのものは中立でも、物理学の支えなしに核兵器開発ができないように、政治が悪ければ研究成果は人々を殺傷することに利用される。「科学的な成果は平和に貢献しなければならず、原水爆はあるべきでない」と熱っぽく語られた。私たち学生も全国の科学者に反核を訴える声明文や手紙を出すお手伝いをした」

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