韓国の友人達こんばんわ。
今日は韓国の方々に、造船を愛し、造船に半生を捧げた日本の俳人(Haiku詩人)を紹介します。
魚地 弥一(Uochi Yaichi 1885-1923)が、その人です。
(魚地弥一 肖像)
魚地は、1885年、東京都の浅草にほど近い農家に生まれました。
貧しい境遇にも関わらず、通っていた尋常小学校の校長から才能を見い出され俳句を始めた彼は、生来のセンスと努力によりいくつかの名句をものにし、将来の俳句界を背負って立つ人材と目されるまでになりました。
にもかかわらず、20才になった彼は当時俳句界の主流であったアララギ派を否定し、斬新な俳題を求め日本に併合された造船に渡り、造船を詠った俳句を作り続けたのです。
しかし、造船と造船_人を主題とした彼の作品は、長らく日本文学界から無視に等しい扱いを受けていました。最近の韓流ブームにより、彼とその作品を見直す気運が高まっているのは大変喜ばしい事です。
彼の作風は、大きく四つに分類することが出来ます。
怒韓期(造船半島渡航直後)
新たな芸術を創造することを夢見て、はるばる海峡を渡ってきた彼が見たのは、あまりにも浅ましく、そして愚かな造船_人の姿に他なりませんでした。この時期の彼は、造船_人を激しく糾弾し詰る、荒々しい句を作り続けました。
日の本の 桜を汚す 土人かな
半島の 月夜に喚く 寄生民族 (字余り)
この時期の彼の、代表的な作品です。愚かしく自己中心的な民族に対する激しい怒りが、ひしひしと伝わる句といえましょう。
笑韓期(1907年-1913年頃)
およそ2年間に渡る怒韓期を経て、彼の新たに辿りついた境地がここでした。この時期における彼の作品は、造船_人の生態をありのままに楽しみ、そしてそれを見つめながら莞爾たる笑みを浮かべるかのような、生き生きとした作風が特徴です。
馬鹿愚民 身を細うして 花瓶せり
やれ打つな 造船_人が 事大する
造船_人 花瓶でエラまで 真つ赤つか
鮮_人の かんしやく強し 朝の風
哀韓期(1913年頃-1922年前半)
そして彼は、新たなステージへと己を昇華させました。いかなる心境の変化であったのでしょう。いずれにせよ、この時期、彼はみすぼらしい造船半島と愚かな造船_人への、哀れみと愛に満ちた秀作を次々に送り出しました。
この時期が、彼の一番輝いていた時代と言えましょう。
愚民族 負けるな魚地 ここに在り
ぴちやぴちやと 孝行染みる 嘗糞の音
冬の夜や 白丁泣き寄る 窓灯り
面白うて やがて悲しき ゾセンジン
あな無残や 日本の下の 造船_人
・・・しかし、いかに名句をものにしようと、閉鎖的な当時の日本俳句界において、未開の野蛮国である造船を題材とした彼の作品が理解されることは有りませんでした。失意の魚地は、しだいに酒に溺れる生活にひたって行き、ついには暴力事件により警察に逮捕される事すらありました。下掲するのが、その時読んだ句です。
造船_人 トンカチくれたら 動かない
諦韓期(1922年後半-1923年)
この危険な領域に達するに及び、彼の創造力と、作品の高邁な精神は完全に失われてしまいました。
造船_人 何か言つてる うるさいな
相手にする 必要も無し 造船_人
内容的には激しく同意できるものの、これらの句には、かつて造船と造船_人をこよなく愛した彼の面影も、そして、かつて彼の句を彩っていた情熱の欠片すら有りません。これは、毎晩のようにパブやキャバクラに通い、常にウィスキーを過剰に嗜んだ彼がかかってしまったアルコール性精神障害の影響とも、造船_人の特殊な性向を全て理解し尽し心底呆れてしまった彼が、創作意欲を失ったためとも言われています。
いずれにせよ、彼はすでに、最早造船・・いや、この世界そのものに興味を失っていたのかも知れません。
・・そして彼は、自らの手により39才の短い生涯を閉じることとなります。1923年の秋、辞世の句を書きしたためた彼は、自宅で栗饅頭38個と羊羹7棹を一気喰いすることにより、自らの命を絶ちました。
魚地やの 死に所なく 歩きけり
これが、彼の辞世の句でした。しかしながら・・その後延々と続く日本と造船との不幸な関係を目にしなくて済んだ事が、造船を愛し造船_人を哀れんだ孤高の俳人である彼にとっては、せめてもの幸いだったのかも知れません。
【日韓友好の架け橋・良識派スレッド専門watcher1の過去スレはこちら↓】
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