誤解              2/20/04
 
 
目の前にちょっと風変わりな子供がいる。
今迄でこんな子供は初めてだ。
頭が悪いわけではないのに、突拍子も無いことをやらかす。
 
ずっと不思議だったが、友人から借りた本の中にそっくりな子供を見つけた。
それは、ハンス・アスペルガーが書き残した「カエル博士」だった。
 
 
現実に、アスペルガー症候群の子供が身近に居て、
その正体がはっきり分かった時は、上記のような感じだったのではないでしょうか。
 
その後障害について書かれた専門書を見ると、その特徴はピタリと一致します。
 
 
 
ところが、知識(専門書)から先に入った場合には違います。
 
ネット上で為される自己診断の過ちはここにあります。
 
つまり、自閉症とはどのようなものか。
アスペルガー症候群の子供とはどんなものか。
アスペルガー症候群の大人とはどのようなものか。
 
その実体を知らぬまま、ただ闇雲に知識を頭に詰め込むことが、
それぞれの専門用語を「誤解」し、勝手な解釈をし、関係ない症例と結び付けてしまうのです。
 
この様な場合、その人の頭の中に出来上がった「アスペルガー症候群」の症例は、
実体とかけ離れた想像の産物が出来上がってしまいます。
 
これは、素人に限った事ではありません。
テレビの取材を受けたカウンセラーなどでも、「用語」を誤解している場合もあります。
 
いちばん解りやすいのが「こだわり」という用語です。
 
「私のこだわりは、キラキラしたものを見ることです。」
「私のこだわりは、ネルの柔らかな手触りを楽しむことです」
「私のこだわりは、・・・」
 
このような記述は、明らかに用語の誤解によるものです。
実際、この手の表現が蔓延したあまり、アスペルガー症候群の本人もその用語を、
「入れ込んだ趣味」の程度に理解し、書き表したりしています。
 
 
自閉症(アスペルガー症候群)にとって、「こだわり」とはそんな生易しいものではありません。
それは、カナー型の子供を持つ親御さんならすぐ解ることです。
 
自閉症やアスペルガー症候群にとって、一度気になるとその事柄に囚われる事があります。
それは、「靴の向き」であったり、「アナウンサーのイントネーション」であったり、
「駐輪場の自転車の置き方」であったり、「ニワトリの座り方」であったり様々です。
 
一度気になってしまうと、どうにも止められません。
「このアナウンサーはおかしい。この女子アナは変だ。何処の訛りだ?」
他人の事であり、自分ではどうしようもないことは十二分に分かっています。
しかし、気が付く度にテレビに向かって正しいイントネーションを教えます。
「セカイじゃあ無い。世界だろう!」
「ナナじゃ無い。この場合はシチ(7)だろう!」
誰にも受け入れられるわけでもなくテレビの前で、「正しい日本語講座」を繰り返します。
 
「棄民」の項にも書いた青年は、
ニワトリの座り方が気に入らない。なんとかきちんと整列させたい。
翌日も気に入らない。やっぱり整列させたい。
毎日、毎日やっているうちに、ニワトリが根負けしきちんと整列して並ぶようになった。
 
 
「こだわり」とは、第三者から見て「ああ、これは彼のこだわり行動だ」と理解するための用語であり、
本人にとってはこだわりでも何でもない。
強いて言えば「その時気になる事」で、その「気になる事」は1年続くのか、3年続くのか
それとも20年続くのか、明日終わるのか本人も分からない。
そんな行動の事を「こだわり」と言うのだ。
 
試しに私の妻に「こだわりはあるか?」と聞くと即座に「無い。」と答えるし、
私も同じく「無い。」と答える。
 
しかし、彼女の日常生活には「こだわり行動」がある。
だが本人にとってはこだわり行動ではない。必要だからやっているだけなのだ。
私から見れば「こだわり」。彼女から見れば必要なこと。
 
これが「こだわり」というものだ。
 
 
用語の誤解はネット上だけでなく、専門家も平気でする。
それは、自閉症の根元を理解していないことにある。
 
三つ組の特徴については誰もが知っていると思う。
しかし、その特徴がいったい何によって創り出されたかを理解していなければ、
専門家とは言えない。
つまり、 SAM イド TOMM EDD これらの構造をきちんと理解しなければ
本当に間抜けな話になってしまう。
 
 
例えば、大阪教育大の竹田契一教授とニキリンコの応対を見る。
 
竹田教授の研究室を訪れたニキリンコは、2度目であるにもかかわらず竹田の顔が分からなかった。
そのニキリンコが、カツラを被り、大型のサングラスで顔を隠してテレビに出演しても、
何の疑問も感じない。
 
この「何も感じない」ということが、全く SAM イド TOMM EDD 等は理解せず、
只「自閉症は顔を覚えるのが苦手」という、字面だけを当てはめたということがわかる。
 
このエピソードはいったい何を現しているか。
 
 
私の妻を例にとる。
私の妻は異様に人の顔を覚えることが出来ない。
髪型とか、メガネなど何とか手掛かりを見つけながら人の顔を覚えるので、
わずかなヘアースタイルの変更や、メガネを外したりすると、とたんに誰か分からなくなる。
そんな彼女に変装をさせると、ちょっと髪型を変えるだけで終わりだ。
何故なら
「自分が気が付かないんだから、他人も気づかないだろう」と言うことだ。
 
では私ならどうか。
私は自分でも嫌になるくらい、人の顔を覚えてしまう。
10年以上前にコンビニでアルバイトしていたおばさんの顔も、一度しか見てないのに覚えている。
 
そんな私が変装するとなると、変装自体が無意味なのでしない。
何故なら
「口元が見えただけですぐ誰かバレルじゃないか。どうせバレ無い変装なんか無理なんだから無意味だ」
ということになる。
 
 
出だしは全く逆だが、結論は何故か同じになる。
さらに言うと、変装するという発想が出る時点で自閉症のグループから外れていることが分かる。
 
ただ、それが分かるようになるには、SAM イド TOMM EDDを深く理解していなければ
無理だし、理解していれば竹田教授が如何に表面的な知識だけで判断しているかがよく分かるのである
 
 
教育学者というのは呑気で、脳天気な無責任な商売だ。
現場でうまくいかないのは、現場の連中のせいさ。
 
 
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