解離           10/20/04
 
 
 
私が信頼する精神科医は幾人かいる。
家族関係に詳しい斉藤学先生もその一人である。
 
斉藤先生が新聞紙上で佐世保の少女殺人事件について語っている。
 
概略こうだ。
「長崎家裁での決定要旨にて、アスペルガー障害とは確定できなかった。
 その理由は、もっと粗大な異常が見つかった。
 加害者は事件を覚えていない、と言っているのである。」
 
 
斉藤学先生が言うところの「粗大な異常」が何を意味しているか
私には完璧には理解出来ない。
 
しかしそれによって引き起こされた状態が「解離」であるとすれば、
アスペルガー障害と解離の関係が明確になれば、
佐賀の少女は、アスペルガー障害となる。
 
 
 
私と妻は共にアスペルガー症候群との診断を受け、勿論その診断書も得ることが出来る。
実はその二人にもやはり「解離」の問題があるのだ。
 
その状態は厳密に言えば異なるモノだが、単語で表すと共に「解離」である。
ここでは、私の「解離」について説明しよう。
 
 
 
私と妻の記憶の形態はまさしく異常である。
二人とも、幼児のころの古い記憶でさえも、記憶を編集することなく、
そのままの状態で記憶しているのである。
そして、その記憶は日常のちょっとしたことでもありありと蘇るので、本当に困る。
詳しくは別項にて話す。
 
私の場合、その記憶は32ミリフルサイズの映画か、時には克明なスライドフィルム。
それらの映像が動いたり、止まったままだったりする。
 
だから、数十年経った今でもその時の天気や、誰かが着ていた服など、
その時のエピソード以外の事でも再確認することが出来る。
 
無論、憶えている(記憶している)事しか思い出せない(頭の中で再現出来ない)し、
憶えていないことを勝手に創り出すことも出来ない。
 
 
 
 
私の記憶の中で、憶えているはずなのにどうしても思い出せない事がある。
 
 
 
横浜に住んでいた頃だから、満五歳になろうかという秋の事である。
何故秋と分かるかというと、姉二人ともカーディガンを着ていたし、母もカーディガンを着ている。
少し肌寒いくらいで、夕食時なのにもうすっかり日が暮れていた。
 
夕食後食卓(ちゃぶ台)をすべて片付け、みんなで「フィリックスキャット」を見ていた。
母も機嫌良く大笑いをしている。
私も、一緒に声を上げて大笑いをした。おならがしたくなったので、笑ったついでに息んだら、
パンツの中にうんちが出た。
 
びっくりして触ったら、間違いなくうんちだ。
うんちに触ったことがなかったので、ズボンの上から触ってみると、
見た目通り、粘土のような手触りだ。
 
「あれっ!臭い!・・トール!おならしたろっ!」
くるっと振り返ったとたん、ただならぬ雰囲気の私の様子を見て、
母の目が三角になった。
「アッ・・トールもらしたな!」
 
 
ここ迄はシネフィルムのように滑らかに再現するが、後はちりぢりの駒送り。
 
玄関側のガラス戸に二人の姉が驚きで張り付いている様子。
和代は丸襟のブラウスにカーディガン。
洋子は角張った襟にカーディガン。
うんちの匂いに驚いているのか、母の怒りに驚いているのか、とにかくこっちを向いたまま
ガラス戸に二人並んでぴったり張り付いている。
 
 
右手にうんちの入ったパンツをつまんで、廊下を便所に向かう母の姿が見える。
パンツには結構重いうんちが入っているので、真ん中がずっしり垂れ下がっている。
 
便所の戸を開け、便器にうんちを落とそうとしている。
しかし、わたしが手でつぶしたから、うんちはなかなか落ちないようだ。
 
 
記憶にあるのはこのぐらいである。
 
 
後は、四角い便所の天井に光る裸電球の画面。
 
冷たい便所のタイルの感触。
 
開く便所の扉と、白い靴下を履いた母の足先。
 
これらが断片的に目に浮かぶ。
 
 
 
 
 
これが、私の「解離」体験である。
単なる記憶の断片であり、「解離」とは言えない、と言う人もあるかもしれない。
 
しかし、私が記憶している出来事の中で、部分だけがどうしても思い出せないのは、
この想い出だけなのである。
 
私も何があったのか知りたいから、それに類する事柄を考えたが、
まるで、フィルムが焼失したように、断片さえも引き出せないのである。
 
 
 
私は、佐世保の少女が「解離」したからといって、アスペルガー症候群ではないとする
根拠が私には分からない。
 
 
人間は極限の興奮状態にあれば、「解離」すると考えるのは私だけなのだろうか。
 
 
 
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