長文【南京事件】 | 667|共感2
95701| JAPANnisiokatuyosi2 | 2008.12.07 22:31:37
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南京事件は、50万人虐殺説から幻説まで、唱える人によって、極端な違いのある事件である。

この事件わかりやすく纏めてみました)それでもかなりの長文w)

 

概要                                           

 

南京事件
日中戦争初期の1937(昭和12)年12月、日本軍が、上海から出撃し、中国の首都南京を攻撃占領した際、約2ヶ月間にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(軍服を脱ぎ民服に着替えた兵)および一般市民を不法に掠奪・強_姦・殺害するなどの不祥事を起こした事件を意味している。中国では南京大屠殺、欧米ではナンキン・アトロシティーズ(nanking Atrocities)とかレイプ・オブ・ナンキン (Rape of Nanking)と呼ばれている。
「南京虐殺」ということもあるが、この場合は、不法殺害のみに限定した不祥事を言う。
歴史上、南京事件と称されるものが、他に1913年9月と1927年3月にあったが、日中戦争期の南京事件が、他の事件と比較にならないはど、その規模と儀牲者数が大きいことから、南京事件というと通常は1937年の南京事件を指す。
この事件の責任を問われ、戦後の極東国際軍事裁判(通杯「東京裁判」)で当時の中支那方面軍司令官松井石根大将が絞首刑を宣告され、南京の国防部戦犯裁判軍事法廷では第六師団長の谷寿夫中将が死刑になった。また、いわゆる百人斬り競争の向井敏明、野田毅両少尉と三百人斬りを誇示した田中軍吉大尉も処刑された。


南京攻略戦の概要
1937年11月、上海付近一帯の中国軍を撃破した日本軍(中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍の二個軍で編成)は、その勢いに乗じ敗退する中国軍を追って首都南京に向かい進撃を開始した。


12月1日、中支那方面軍の南京攻略命令下達により、上海派遣軍は山田支隊(第13師団の一部)、第16師団、第9師団などをもって南京の東方から、第10軍は第3師団先遣隊、第114師団、第6師団などをもって南京の南方から、それぞれ前進を開始し、8日、各師団は南京城外の第1線防衛陣地を突破し、首都包囲の態勢を整えた。


松井方面軍司令官は12月9日、南京攻略に先立ち和平開城を勧告したが、中国軍はこれに応じなかった。このため10日、日本軍は攻撃を再開し、12日に城壁の一部を占領、ついで13日に南京城を占領した。
各師団は、ひきつづき城内および城外の掃討を開始し、16日までに概ね城内の掃討を終えた。方面軍は17日、入城式を実施した。
これより先の12月7日、蒋介石は南京を脱出し、政府の要人や南京市長なども、これに前後して南京を脱出した。
南京防衛司令官の唐生智も、12日に下関から南京を脱出したため、残された軍人も市民も烏合の衆と化し、悲劇を生む一因になった。当時、城内外の市民の多くは、戦禍を逃れるため南京から非難し、残った下層階級の市民は、市内の安全区(難民区)に非難した。この安全区は、ドイツ人ラーベ(J.H.D.Rabe)を委員長とする南京安全区国際委員会が市民を戦禍から守るため設置した区域で、日本側はこの委員会が中立性を保持する能力を持たないとして正式には承認しなかったが、十分に尊重する意思を表明した。日本側はこの区域を「難民区」と称した。
 
 
 
 
 
 

南京事件をどういうスタンスで論じるべきか                        

期間の限定
南京事件は、前述した日本軍の南京攻略作戦開始から南京城内外の掃討の間とされるのが現在の学会主流の考えのようである。
大虐殺派は、その期間を長く見積もる傾向にあり、上海事変までも範囲に含めるものがいる。一方、幻派は、南京城攻略作戦及び掃討戦のみに限定しがちであるが、その双方とも中立に見たものとはいえない。

範囲の限定
南京攻略作戦での10軍及び上海派遣軍の作戦範囲とするのが適当と考えられている。
こちらも、大虐殺派は中部中国全域にまで範囲を広げることがあり、一方、幻派は、南京特別市の中の、南京城内に限定すべきとの説を唱えるが、学会主流派は南京攻略線作戦地域に限定されるのが適当と考えられているようである。

虐殺とは
大辞泉によると「むごたらしい方法で殺すこと」とされている。海外のAtrocities事件でも、少人数でもAtrocitiesと呼ばれており、人数には無関係のようである。
南京事件では、上海からの進撃後南京攻略まで、およぴその後の安全区における兵民分離工作の間に生起した不法殺害・掠奪・強_姦などを指している。その中核をなすのは不法殺害、すなわち虐殺である。

南京虐殺の定義
この虐殺の規模について、現在においても虐殺否定から50万人虐殺までの諸説がある。その大きな原因は、論者により虐殺の定義が異なることである。

虐殺否定論者が唱える定義とその問題点

捕虜や便衣兵を揚子江岸に連行して射殺もしくは刺殺したのは虐殺ではなく、交戦の延長としての戦闘行為であり、また、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた便衣兵は、国際条約である「陸戦の法規慣例に関する規則」(ハーグ陸戦規則、1907年)に違反しており、捕虜の資格がないゆえ殺害しても不法殺害にはならないので、したがって虐殺はなかったと主張している。
しかし、戦場で捕えた捕虜や便衣兵を武装解除していったん自己の管理下に入れておきながら、その後どこかに連行して殺害するというのは、戦闘の廷長とはいえない。捕虜などが逃亡とか反乱を起こしたというのであれば別であるが、管理下で平穏にしている者を殺すのは不法殺害といえよう。また捕虜などを捕らえた第一線部隊には、捕虜などを処断する権限はないのであって、捕虜ならば師団以上に設置された軍法会議、捕虜でないならは軍以上に設置された軍律会議の判決により処断すぺきものである。
軍律会議ほ国際的に慣習化されており、日本も既に日清戦争の時からこれに類するものを設置していた。軍律会議は、軍の作戦地域などにおいて、軍司令官以上が作戦の遂行上公布した軍律に違反した日本人以外の人民を審判するため設置されるもので、軍律として「反逆行為・間諜行為・軍事行動妨害行為などを為す者は軍罰(死・監禁・追放など)に処す」と定められていた。
当時は、中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍にそれぞれ軍律会議が置かれていた。したがって、便衣兵は捕虜の資格がないとするのであれば、軍律会議で審判し処断すぺきであり、第1線部隊が処断してよ
いものではない。
しかし、軍法会議、軍律会議は、本来少人数の違反者を対象にしたもので、多数の捕虜集団や便衣兵の集団を裁判したり審判することを想定していないので、実際にほこれらの集団を裁判し審判することは能力的に不可能に近かった。だからといって、能動的に不可能だったから、第一線部隊の殺害が不法殺害ではない、として許容されるものではない。


大虐殺論者が唱える定義と問題点

包囲して敵の退路を断ち組織的抵抗力の無くなった敗残兵を追撃したり砲撃などして滅するのは、虐殺に相当するとして、下関(南京の外港)付近で包囲撃滅したことや揚子江を船や筏に乗って逃げる兵士を射殺したのも虐殺に入ると主張しているのである。
組織的抵抗力を失い逃げる兵士を射殺などするのは虐殺であるという論は、ハーグ陸戦規則の第23条ハ項を根拠にしているようであるが、この項は「兵器を捨て又は白布の手段尽きて降を乞える敵を殺傷する」ことを禁止しているのであって、降伏の意思表示もせずに逃げている敵兵は、この禁止事項に当てはまらない。


以上のように、南京虐殺は、当時の国際法規・慣例に違反するものが不法殺害、即ち虐殺であるという認識で論議されるぺきであろう。

 

 

 

 

 

 


虐殺数の推計                                              

東京裁判史観での虐殺数の推計

 南京虐殺について、東京裁判における松井石根大将の起訴状では、殺害された一般人と捕虜の数は総計20万人以上となっているが、判決では10万人以上とされた。ところが、南京の裁判における谷寿夫中将の判決では被害者数30万人以上となっている。
両裁判の判決で、基本的な証拠とされたのは、「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」である。この調査報告は、戦後、戦犯裁判のために南京地方法院検察処が、急ぎ埋葬団体や住民の証言などを集め作成したもめで、調査の結論として、確定した被殺者は30万人に達し、未だ確証を得ない者も20万人を下らないとし、この集団虐殺の証拠として、次のような数値を示している。
①新河地域(埋葬者 盛世徴・昌開運証言)2873名
②兵工廠及南門外花神廟一帯(埋葬者 へい芳縁・張鴻儒証言)7000余名
③草鞋峡(被害者 魯甦証言)5万7418名
⑥漢中門(被害者 伍長徳・陳永清証言)2000余名
⑤霊谷寺(漢奸 高冠吾の碑文)3000余名
⑥その他 崇善堂 及 紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計155300余(報告に記された合計)
合計二七万九五八六名(数値の正しい合計は22万7591名)
中国は、この南京軍事裁判の被殺者30万人という数値を、中国の公式の推定数として1985年に開館した侵華日軍南京大屠殺遭遭同胞紀念館の正面壁面に「遭難者30万」と書きこんだのである。以後、中国側の南京事件に関する研究は、この30万人虐殺という公式数値の枠内での研究に止まっている。

日本における虐殺数の研究
日本において南京事件を歴史研究の対象として最初に取り上げたのは、洞富雄薯『近代戦史の謎』(1967年)であった。その後、朝日新聞の本多勝一記者による中国取材記事をめぐって、南京事件に関する論争が始まった。
30万人の虐殺を主張するいわゆる「大虐殺派」と、大虐殺はなかったと主張する「まぼろし派」の両極に分かれ、イデオロギー性を帯びながら論争が展開されていく。この論争における争点の中心は虐殺の数の問題であり、代表的な数に関する諸説は以下のとおりである。
①三〇万人説(大虐殺説)中国側の公式数値(侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館)
②二〇万人以上説 南京事件調査研究会(洞富堆など)
③約四万人説 秦郁彦など
⑥一から二万人説 板倉由明、階行社版『南京戦史』など
⑤虐殺否定説(まぼろし派) 田中正明など

現在の研究による推計

史料及び証言からのアプローチ
現在においては、多くの史料や関係者の証言などによって研究も進み、30万人説や虐殺否定説は、実証性に乏しいことが判明して空疎な論になりつつあり、研究の焦点は、虐殺の規模・態様・要因の問題に移っている。
日本側の史料・証言などで立証できる1000人以上の大規模な集団殺害例は、次のとおりである。
①第九師団歩兵第七連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵6670人の殺害。
②第一六師団歩兵第三三連隊の太平門・下関・和子山付近で捕えた捕虜3096人の殺害。
③山田支隊(歩兵第六五連隊基幹)が幕府山付近で捕えた捕虜など数千人の殺害。
④第一六師団歩兵第三〇旅団(歩兵第三三・三八連隊)が南京西部地区警備中に捕えた敗残兵数千人の殺害。
⑤第一一四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕えた捕虜1657人の殺害。
以上のように、日本側の史料・証言などから推定すると、殺害された捕虜もしくは便衣兵の数は二万人近くになる。
他に、捕えた捕虜を収容して労務につかせたり釈放したりした部隊として、

①第一六師団歩兵第三八連隊が堯化門付近で捕らえた7200人の捕虜を南京へ護送し収容、②第六師団歩兵第四五連隊第二大隊が下関付近で投降した5500人の捕虜を武装解除して釈放、③国崎支隊の歩兵第四一連隊が江心州で捕獲した2350人の捕虜を武装解除して釈放、④第一六師団歩兵第三〇旅団が安全区の兵民分離工作において摘出した約2000人の便衣兵を収容、などがある。
一般市民の殺害数については、信頼すべき史料・証言などに欠け、金陵大学のスマイス(Lewis S.C.smythe)教授によって南京陥落後に調査された「南京地区における戦争被害」から推計せざるを得ないのが現状である。
このスマイス報告によると、南京市部における暴行による死者2400人、近郊の江寧県における被殺者9160人、合計1万1560人および南京市部の拉致4200人のうちの何割かが殺害されたと推定されるが、この中には日本軍によって殺害された者のはかに、中国軍によって殺された者、戦闘の巻き添えになった者、兵士に徴収されて戦死した者などが含まれている。したがって、このうちの何割か(数千人)が日本軍によって殺害されたものと考えられる。

南京の人口からのアプローチ
次に、当時の南京の人口と中国軍の兵力という大枠から、虐殺数を検討してみる。南京の人口は、戦前は約100万人であったが、戦闘が近づくにつれて、避難する住民が増え、南京戦当時は大幅に減少して15から30万人であったという諸説がある。安全区委員長のラーべは、約20万人と日記に記している。
中国軍の南京防衛兵力については、五万人説、七万人説、一〇万人説お上び一五万人説があるが、中国軍は上海戦などで多大の損害を出すとともに、多数の逃亡者があり、さらに補充も不十分であり、実際に南京防衛の守備についたのは、一〇万人以下であったと推定される。
したがって、南京攻略前には、軍民合わせて約三〇万人が居住していたことになる。しかるに南京占領後の安全区に、20万人以上の人がいたのであるから、減少数は約10万人である。しかも、この10万人には、戦闘の巻き添えになった市民、戦死した兵士、中国軍によって殺害された兵士・市民、病死した兵士・市民および逃亡した兵士・市民などが含まれている。
以上の点からも、30万人虐殺説は成立し得ないのである。しかし、前スレッドで、南京事件を語る場合 南京城内だけでなく、南京作戦の戦闘地域で語るアプローチが適当としたが、この場合、南京城外の作戦地域に何人居たかが問題となる。これについては、いまだ結論がでていないようである。


埋葬記録などの検証
中国側の三〇万人虐殺の代表的論拠である崇善堂および紅卍字会の埋葬記録と、魯甦の草鞋峡での虐殺証言について検討してみる。


紅卍字会の埋葬記録

「世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班死体統計表」によると、城内で1793体、城外で4万1330体、合計4万123体を埋葬したとある。
紅卍字会が死体の埋葬作業を実施したことは、日本側の「南京特務機関報告」などにもその活動が書かれているので間違いない。この報告には、埋葬作業は一月上旬から始まり、3月15日現在で城内1793体、城外2万9998体、合計3万1791体を下関地区および上新河地区の指定地に埋葬したとあることから、紅卍字会による埋葬記録の12月の7247体埋葬は疑問である。しかし、総体的にみて、紅卍字会の埋葬記簸は特務機関報告に近い数値を記していることから信頼性があると考えられる。

 


崇善堂の埋葬記録

ラーべ日記や特務機関報告にも記されていないところから、死体の埋葬をしたとしても紅卍字会の下請け作業をした程度の小さな団体と考えられる。ところが、崇善堂の埋葬記録である「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」によると、12月26日から4月8日の間に城内7579体、4月9日から5月1日の間に城外で10万4718体、合計11万2267体を理葬したとある。
この数だと、紅卍字会の3倍くの作業をしたことになり、しかも、城外の10万体以上をわずか23日間で処理しているということは、1日に約5000体処理したことになる。紅卍字会が多い時には600人余の作業人員で1日500から600体埋葬していることに比べると、崇善堂はその10分の1以下の40人余の作業人員で、その10倍近い数を埋葬している。これは崇善堂の作業員が、紅卍字会の作業員の100倍の作業をしていることになり、実際にはほぼ不可能といってよい。
また、中山門から馬群の間で3万体以上、通済門から方山の間で2万5000体以上を処理したとあるが、この方面には、中国軍兵力もせいぜい2万以下であり、住民は避難してほとんどいない状況で、なぜ5万以上もの死体があったのか不可解といえる。
当時、南京の特務機関員として死体の埋葬作業を監督した丸山進は、死体の埋葬作業を実施するに際し、城内外を巡視し、中山門および通済門外など市東部地区の遺棄死体は少なく、また埋葬作業は3月でほとんど終わったと証言している。以上の点から、崇善堂の埋葬記録は、全く信憑性がないと判定せざるを得ない。

次に魯甦は、12月16日の夜、上元門の大茅洞に隠れて、草鞋峡で兵士と市民合計5万7418人が虐殺されるのを目前で見たと証言しているが、はたして事実だろうか。
彼が見たという12月16日夜の草鞋峡での殺害は、歩兵第65連隊が幕府山で捕えた捕虜の一部を魚雷営で殺害したものに相当する。17日夜とすると同連隊が残りの捕虜を幕府山の北側で殺害したものに相当する。いずれにせよ、その数は、両日を合わせても数千人である。同連隊の他に、草鞋峡で大量殺害したという記録や証言は見当らない。また、魯甦は洞に隠れて、しかも夜間に、遥か前方で殺害される人数を、5万7418人と正確に数えることができたのであろうか。人間の能力ではまず不可能である。従ってこの証言も信憑性がないことは明らかである。

 

以上の情報を総合すると 虐殺者数は、2万人から5万人までの範囲になるのではないかと推測される。

 

 

何故虐殺が起きたのか                                      
日本軍将兵が、南京攻略の途中およぴ占領中に掠奪、強_姦を行なったことは、多くの記録や証言で明白である。
しかし、これらは末端の部隊で個々にあるいは小集団で行なわれたもので、組織的、計画的なものとはいいがたい。
南京へ向かう進撃が速く、そのため兵站補給が追随できず、末端部隊において食糧などの掠奪(徴発)が起きた。
強_姦については、東京裁判の起訴状で約二万件の強_姦事件があったとしているが、判決では、数千人の婦人が強_姦されたとして数を減らしている。
また、安全区国際委員会から日本大使館へ送付された暴行報告には、360余件の強_姦に関する報告があり、参謀総長が異例の軍紀風紀に関する要望を発し、松井司令官が軍紀引き締めの訓示をしたことなどから判断すると、相当数(1000人単位)の強_姦が起きたものと考えられる。
ここでは、個条的に主要な要因をいくつか列挙しておきたい。
①不明確な日本軍の捕虜対策
日本軍は、「戦争」ではなく「事変」であるという理由で、捕虜の取扱いについて明確な命令・指示を出していない。日中戦争は実質的に「戦争」であったのに、なぜ両国は宣戦布告を行ない、国際法上の戦争としなかったのか。
その理由は、「戦争」になると中立法規が適用されるため、交戦国である日本と中国以外の国は中立の地位にたち、その結果、第三国から戦争に必要な軍需物資を輸入できなくなるということにあったのである。
このため、第一線では、部隊により捕虜の取扱いがまちまちであり、解放、収容、殺害などの処置がとられた。たとえ戦争でないとしても、戦えは投降者が出るのは当然であり、この投降者をいかに扱うか明確な方針を示さず、第一線部隊に任せたことは日本軍の大失策であり、首脳部の責任は重大である。


②日本人の捕虜およぴ中国人に対する蔑視感
日本人は捕虜になることを恥とし、同じ日本人でも捕虜になった者を軽蔑した。また、日清・日露戦争において多くの日本人が大陸に渡り、その体験から中国人に対する蔑視感が醸成され、日中戦争当時、多くの将兵はこの蔑視感を抱いて戦場に臨んだ。このような捕虜およぴ中国人に対する蔑視感は、中国人捕虜の殺害に対して、心理的抵抗感や理性を麻痺させてしまった。


③中国軍の指揮統制力喪失と民衆保護対策の欠如
蒋介石をはじめ政府の要人は、一二月七日に南京を脱出し、南京防衛司令官の唐生智や市長、警察署長などの首脳陣も、民衆保護の処置をすることなく一二月一二日までの間に南京を脱出したため、残された軍人も市民も烏合の衆となり、悲劇を生む要因になった。
安全区委員長のラーべも、その日記に、中国軍、政府首脳に民衆保護の配慮がなく「数十万国民の命なんかどうでもいいんだ」と、怒りの言葉を記している。

 

(参考文献)
日中戦争史資料編集委員会編『日中戦争史資料 南京事件I・Ⅱ(河出書房新社一九七三)
鈴木明『「南京大虐殺」のまぽろし』(文藝春秋一九七三)
洞富雄『決定版南京大虐殺』(現代史研究会一九八二)
青田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店一九八五)
秦郁彦『南京事件』(中公新書一九八六)
南京戦史編集委員会編『南京戦史』・『南京戦史資料集』Ⅰ・Ⅱ(一九八九から一九九三)
北博昭『日中開戦』(中公新書一九九四)
藤原彰『南京の日本軍』(大月書店一九九七年)
笠原十九司『南京事件』(岩波新書一九九七)
孫宅き『南京保衝戦』(五南国書出版一九九七)
秦郁彦/監修 佐瀬昌盛/監修 常石敬一/監修『世界戦争犯罪辞典』(文芸春秋社二〇〇二)
東中野修道『南京虐殺の徹底検証』(展転社一九九八)
板倉由明『本当はこうだった南京事件』(日本国書刊行会一九九九)
ジョン・ラーベ 平野胸子訳『南京の真実』(講談社一九九七)


 

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minamialps|12-07 22:37
短くまとめろよ。
 → nisiokatuyosi2|12-07 22:41
3行しか読めないか?これでもかなり纏めて、内容詰めているのだがなw
mutmoon|12-07 22:40
韓国人に長文読解は、無理。マンガでまとめてあげたら・・。^^
 → nisiokatuyosi2|12-07 22:41
いや、韓国人相手にしてないからw
 → nisiokatuyosi2|12-07 22:50
日本人なら読めるでしょw
nisiokatuyosi2|12-07 22:44
このスレッドでは、大虐殺説・幻説の両論の問題点の指摘を行い この事件をどう捉えて論じるべきで その結果はこうであろうとの結論までを出しています
mutmoon|12-07 22:54
韓国人には、無駄なスレだよ。あいつらは中国共産党の物真似しかないから・・。^^ 日本の天皇の呼称だって、中国共産党が言い出してから、韓国が物真似した。南京も同じ。www 要するに、現在でも中国の属国の遺伝子が強烈ということだ。www ちなみに中国は、とっくの昔に正式名称に変更。南京も中国は変化してきている。韓国だけが、中国の忠実な僕として、犬のように泣きわめく。^^
 → nisiokatuyosi2|12-07 22:55
こういうスレッドは、本来は青IDに作ってもらいたいのだがな
 → amenboakaino|12-07 23:00
奴等は韓国人だから無理。
amenboakaino|12-07 22:59
起こったとしても2から5万前後、30万のトンでもと比べると信憑性ははるかに高い。自分だけ逃げ出し、他者の逃げ道を塞ぎ犠牲が多くなるように仕向ける。蒋介石が毛沢東に勝てなかったはずだわ。
 → nisiokatuyosi2|12-07 23:01
2から5万前後ってのは、このスレの主張の一つでもあるわけで、こんなところが妥当だわな
nisiokatuyosi2|12-07 23:00
いや、青IDじゃなくっても、日本の左翼でもいいんだけど 論理的に日本の右翼の主張を批判するスレッドをどんどん作って討論してほしいんだよね。でも、左翼って右翼との討論を嫌うんだよなw
ppsh43|12-07 23:28
<丶`∀´> 上海戦まで含めると、中共の言う30万人死亡説もあながち間違いでは無いニダ~。 なんせ、世界最大級の大突破作戦が大成功して徹底的に中国軍を殲滅したのが第二時上海事変ニダ~。 中国じゃ、人命より貴重な武器を超大量鹵獲してるあたり、戦死者30万は確実。
 → nisiokatuyosi2|12-07 23:31
大虐殺派は すぐに範囲や期間を広げるんだよなwま、幻派もすぐに狭めたがるしw こんなことしててプロパガンダ系の人って虚しくないのかね
tenmamm|12-07 23:47
要修正「非難」→ 「避難」
sinakirah|12-08 01:23
この出来事の本質は「南京攻防戦」。「南京『事件』」ではない。南京防衛司令官の唐生智自らが戦闘の始まる前に秘密裏に逃亡してしまった。彼の部下は気の毒だが、捕虜になる資格を失った。戦闘の途中では強姦や惨たらしい殺害もあったろう(支那軍よりは遥かに少ないはずだが)。しかし、それは「軍」としての行為ではない。「軍」としての行為を糾弾するなら、「軍」が唐生智の逃亡を認識して以降に限るべきだ。
 → nisiokatuyosi2|12-08 06:38
こうして 範囲を狭める手法をとるから 殺害人数がどんどん少なくなっていくのよね
韓民族,5千年文化の真髄 [9]
- 長文【南京事件】 [17]
韓国の文化財は立派です [1]