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【資料】「卑劣な手まで使って負けたのでは立つ瀬がない実例」
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619
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1
1677702
|
ochimusha
|
2008.07.24 10:24:11
+これは以下の関連スレです。
【資料】
「何故日本人だけ竹島の存在を知ってた?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1960597)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1960597)
【資料】
「神話から歴史への変換期を生きた朝鮮王朝ニ代目国王」
日(
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1927004
)
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1927004
)
【資料】
「九州探題を巡る守護大名達」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928327)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928327)
【Wikipedia】
応永の外寇(
1419年
)
日本史の時代区分では室町時代の
応永26年
に起きた朝鮮王朝軍による対馬国襲撃をさす。朝鮮王朝側ではこれを「
己亥東征
」と呼び、対馬の糠岳(
ぬかだけ
)で戦闘が行われた事から
糠岳戦争
ともいう。
朝鮮側が対馬側の防御の隙を圧倒的大兵力で突く奇襲作戦として始まり、朝鮮側の圧倒的敗北に終わった。当時の朝鮮王朝は北への領土拡大を志向しつつ、鬱陵島で所謂「
空島政策
(
1417年
)」を実施し後背の憂いを絶とうとしていたのであるが、却って裏目に出た形となった。
事件の背景
倭寇の被害記録。倭人は無人の野を行くが如く朝鮮半島じゅうに広がっていった。
14世紀前後
の北九州から朝鮮半島、中国沿岸などでは日本人、中国人や朝鮮ゆっけ人らの多民族構成とする倭寇(
前期倭寇
)が活発化し、日朝貿易においては朝貢貿易に加えて民間貿易も許可されていたため、東アジアの海上世界は民族雑居状態が存在していた。
*当時は日本の九州からしてこうである。
【資料】
「将軍義満に危険視された今川貞世の九州独自政権」
日(
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926960
)
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1926960
)
倭寇の中心的活動の一つで拠点であった当時の朝鮮半島は朝鮮王朝が成立直後であった事もあり、自立的な治安維持能力が不足し倭寇活動を抑制する事が困難であった。
そこで朝鮮王朝は高麗時代からの民族雑居状態の解消と、官営貿易による利益独占を狙って室町幕府や九州探題、対馬の実質的な支配者である
宗貞茂
に対して倭寇および私貿易の取締りを要求してきたのである。
しかし倭寇の取り締まりを積極的に行っていた
宗貞茂
が
1417年9月
に病に倒れ翌
1418年4月
に病没して
宗貞盛
が跡目を継ぐと、若年の当主の為に対馬の周辺海域の警察力が弱体化して活動を抑制されていた前期倭寇は再び活発化し、日本や朝鮮で多大な被害が出る様になった。
実際の軍事行動
李氏朝鮮では
世宗
が即位していたが、実権は
太宗
が握っており、
太宗
は倭寇撃退を口実にして対馬への軍事侵略を決め、
世宗元年6月
、
227隻17,285名
からなる大軍を
李従茂
に率いさせ対馬に侵攻させた。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知っており、また同時に朝鮮国内にいる無辜の在留商人らをいっせいに略取し強制労働に当てるなど、武器をもたない弱者を標的にした周到な計画であった事は否定し得ない。また、
太宗
は号令の中で「
古書によれば対馬は慶尚道の隷属
」などと主張しているが、これはもちろん根も葉もない事である。
6月17日
に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、
6月19日
に再出航している。そして
6月20日
昼頃に朝鮮軍は対馬の尾崎浦(
朝鮮王朝実録には豆知浦とある
)附近へ上陸し、その付近一帯の一般民衆の
船舶129隻
を焼き払って
20隻
を奪い、
民家1939戸
を焼き払って
104
(
実録には首級
114
)の民衆を虐殺したと記録されている。
しかし
6月26日頃
には早速、仁位郡(
実録では尼老郡
)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け李従茂の軍は尾崎浦まで引き返す。
戦局が膠着状態に陥ったので
6月29日
に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送ったが宗氏は当然拒絶した
。
対馬側の反撃はさらに厳しくなる一方で損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ
7月3日
に巨済島へ全面撤退した。
朝鮮側の被害は日本の資料では
死傷者2500以上
、世宗実録では6月29日の記録では
死者百数十人
、
7月10日
の記録では
180人
とされている。しかし
180人としても総数の約100分の1であり
、
総数の100分の1程度の被害で和平提案を受け入れ撤退することは考えにくく
、
敗戦と自ら明記している
ことからも実際の被害がもっと大きいかった事は想像に難くない。
8月5日
の議論では
日本の
戦死者20人
に対し
朝鮮側が百余名
とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった事は疑う余地もない事実である。朝鮮軍の弱小ぶりは、保護された中国人の扱いにおいて「
対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない
」と嘆いたという記録や、
朴実
が敗戦の罪により投獄され、
李従茂
が国民への影響を理由に免罪となった記録からも窺える。
また
7月3日
に、黄海道沖に中国からの倭寇数十隻が沿岸を荒らし回っていると言う報告があり、この報告を受けてこれを口実にした対馬再征も検討されたが実行されなかった事からも当時の実情が窺える。
翌年には早々にも日本と和解し、回礼使として
宋希璟
が派遣された。
この事件以降、対馬や北九州の諸大名の取り締まりが厳しくなり、同時に倭寇の帰化などの懐柔策も進められた為に前期倭寇は再び衰退の一途を辿り始める。
なお、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた為に室町幕府は事実究明のため朝鮮へ使者を送り、その真偽を確かめさせている。
この事件に関連して
清代の徐継畭の『
瀛環志略
』
や
朝鮮後期の安鼎福の『
東史綱目
』
には「
倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(
朝鮮ゆっけ人
)への報復がある
」と、全く逆の指摘がある。
IP
xxx.8.xxx.111
【参考】「神話から歴史への変換期を生きた朝鮮王朝ニ代目国王」
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【資料】「卑劣な手まで使って負けたのでは立つ瀬がない実例」
【資料】「朝鮮宰相派」の祖となった鄭道伝