[今日のミニ情報(バックナンバー・2007年11月)]
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2007年11月1日 60年前の今日(1947年11月1日)、アメリカの音楽プロデューサー、ジム=スタインマンが生まれました。近年もセリーヌ=ディオンらに楽曲を提供している大御所プロデューサー。映画『フットルース』に書き下ろした『ヒーロー Holding Out for a Hero(歌手:ボニー=タイラー)』は、日本ではドラマ『スクール☆ウォーズ』の主題歌(歌手:麻倉未稀)として特に有名です。他にも杉浦幸が主演した『ヤヌスの鏡』の主題歌『今夜はANGEL(歌手:椎名恵)』の原曲『CHANGE ME!』も彼の作曲でした。
2007年11月2日 50年前の今日(1957年11月2日)、俳優の美木良介が生まれました。実家は寿司屋でプロ野球選手の常連が多く、幼い頃から野球に励む毎日。岡山東商業時代には甲子園に投手で2度出場、法政大学に進学後も将来を嘱望され、西武ライオンズから入団を打診されるも肘を痛めて野球を断念…。一念奮起して役者の道へ進み、映画デビュー作は奇しくも野球を題材とした『瀬戸内少年野球団』でした。ちなみに芸名の名付け親は、阪急ブレーブス(当時)の山田久志
2007年11月3日 35年前の今日(1972年11月3日)、タレントの引田智子が生まれました。幼少の時に亡くなった実父は脱出マジックで一世を風靡した初代・引田天功。小学生の頃からタレント活動を始め、1985年8月にアイドルグループ・少女隊(ミホ [藍田美豊]、レイコ [安原麗子])にチーコ [市川三恵子]の代わりとして参加、この時わずか12歳でした。グループ解散後は“TOMO”などの芸名で声優などもしていましたが、現在は芸能活動はほぼ引退。化粧品会社の責任者も務めているそうです。
2007年11月4日 50年前の今日(1957年11月4日)、NHK『きょうの料理』の放送が始まりました。NHK出版『テレビ料理人列伝』によると、この日は「今月の食事プラン(担当:近藤とし子)」というテーマで具体的な料理名は分からず…。実際に料理の実演をやったのは翌日が最初で、メニューは「かきのカレーライス(担当:榊叔子)」だったのでした。そして以降、江上トミ赤堀全子飯田深雪土井勝辻嘉一陳建民村上信夫など多くの名物講師が“今晩のおかずのヒントになるように”をモットーに調理法を披露してきたのでした。
2007年11月5日 80年前の今日(1927年11月5日)、英語教育者の長崎玄弥が生まれました。1970年代は語源などを手掛かりに独自の記憶法を駆使した『奇跡の英単語』『奇跡の英文法』など「奇跡の英語」シリーズを祥伝社から出版。晩年まで英語教育はもちろん、自分の英語力アップに努力を欠かさず、一時期は年に1万語を覚えることをノルマにしており、最大20万語近く記憶していたそうです。彼が監修した著書は数多くありますが、個人的には『ワーズ・ワード:絵でひく英和大図鑑』が眺めるだけでも楽しくてお薦めできます。
2007年11月6日 120年前の今日(1887年11月6日)、アメリカの野球選手ウォルター=ジョンソンが生まれました。弱小チームだったワシントン・セネタースで21年間に渡って投げ続け、“The Big Train(人間機関車)”との異名が付いた伝説の投手。シーズン20勝以上が12度で、通算勝利数はサイ=ヤングに次ぐ417勝でしたが、通算完封数110は未だにメジャー史上1位の記録。また常時90マイル(約144km)を超える速球で三振を築き上げ(シーズン最多奪三振12度)、対戦バッターが2ストライクで諦めて帰ったという逸話も残っています。
2007年11月7日 80年前の今日(1927年11月7日)、任天堂の元社長である山内溥が生まれました。先代社長である祖父の急死により、早稲田大学を中退して社長に就任したのが22歳の時。それまで花札やカードゲームを製造する地場企業だった同社を、独自の経営理念と時代を読む“カン”で世界的な優良企業に育て上げました。「ゲーム&ウオッチ」をはじめ「ファミリーコンピュータ」「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」の開発段階から自ら厳しい注文を出し、大ヒットを生み出したことは説明するまでもないでしょう。
2007年11月8日 160年前の今日(1847年11月8日[弘化4年10月1日])、実業家の荘田平五郎が生まれました。福沢諭吉にその才能を認められ、慶応義塾に入学して4ヶ月で学生から教師になった逸材で、後に三菱グループの近代化の基礎を築いた屋台骨の一人。元々陸軍の練兵場があった東京・丸の内を、ビジネス街にするため岩崎弥之助に買い取るように進言、それから20年で日本経済の中心地として発展させました。また当時の諸外国のビールが動物の名前が多かったことから、キリンビールの「麒麟」を名付けたのも彼でした。
2007年11月9日 80年前の今日(1927年11月9日)、バイオリン奏者の江藤俊哉が生まれました。4歳の時に音楽教育家の鈴木鎮一の元でバイオリンを学び始め、彼の丁寧な指導によりめきめきと才能を発揮し、日本音楽コンクールの弦楽部門で初めて優勝したのがわずか12歳の時…。彼により音楽の早期教育が大変効果があるとの評価を受けました。24歳で世界デビューを果たし、各地で演奏旅行を行なう多忙を極め、日本に帰国したのが10年後。その後も各種音楽コンクールで審査員を務め、近年は桐朋学園大学の学長も務めていました。
2007年11月10日 35年前の今日(1972年11月10日)、アメリカの野球選手グレッグ=ラロッカが生まれました。日本には2004年に広島カープへ入団、初年度から3割・ホームラン40本・100点を超える活躍、ついでに死球も23個でセ・リーグの“死球王”に輝きました。この4年間でヤクルト→オリックスと移籍が続きましたが。コンスタントに死球は喰らい、2007年シーズン終了時で1821打席で81個、22.5打席に1個というハイペース。日本プロ野球史上1シーズン20死球以上を3回も記録しているのは彼だけで、日本にいる間にどこまで伸ばすでしょうか?
2007年11月11日 70年前の今日(1937年11月11日)、解剖学者の養老孟司が生まれました。『唯脳論』『涼しい脳味噌』『ヒトの見方』などの著書がある“脳”研究の第一人者で、これらの医学・生物学の知識をからめながら雑多な社会現象を考察してきました。2003年に発行された新潮新書『バカの壁』は400万部を超える空前のベストセラーとなりましたが、このインパクトのあるタイトルは彼が20年近く前に著した『形を読む〜生物の形態をめぐって〜』の中で使ったことがある言葉だったのでした。
2007年11月12日 110年前の今日(1897年11月12日)、精神医学者の内村祐之が生まれました。父は思想家として有名な内村鑑三。医学方面では偉大な業績を残した著名人の脳や双子の研究で多くの論文を残しています。また学生(旧制・第一高等学校)時代は、早稲田・慶応相手に勝利を挙げた左腕投手として名を残し、大学での研究の傍ら野球の指導も行なっていました。1962年には日本プロ野球第3代コミッショナーに就任しますが、新人選手への研修制度の実施を巡って球団オーナー達と対立、自ら辞職してしまいました。
2007年11月13日 45年前の今日(1962年11月13日)、ミュージシャンの本田雅人が生まれました。国立音楽大学サクソフォン科在学中からプロの演奏活動をはじめ、大学は文句なしの首席で卒業。1991年にT-SQUAREに伊東たけしの後釜として加入、その直後に出されたアルバム『NEW-S』では、1曲目の「MEGALITH」他2曲を提供、ジャズ・ファンクの要素を含んだ演奏難易度の高い楽曲で、従来までのファンを驚かせました。またソロアルバムでは、サックスはもちろんピアノ・ベース・ドラムなども自ら演奏したり…と才能の深さが伺えます。
2007年11月14日 80年前の今日(1927年11月14日)、スペインのクラシックギター奏者ナルシソ=イエペスが生まれました。4歳でギターを始め、10歳までに一通りの演奏テクニックを独学で習得しました。25歳の時に映画監督ルネ=クレマンに出逢い、彼の映画『禁じられた遊び』の劇中音楽を彼自らギター1本で演奏。テーマ曲「愛のロマンス」は誰もが聴いたことがあるであろう名曲です。また一般的なギターに低音部の弦を4本追加した10弦ギターを開発。一時は彼以外には使いこなせないと言われたものでした。
2007年11月15日 120年前の今日(1887年11月15日)、政治家の芦田均が生まれました。戦前は外務省でヨーロッパ諸国の大使館員として勤務、当時の世界情勢を憂い、40代半ばで代議士になり反戦活動を行なっていました。終戦直後は憲法改正特別委員会の委員長に就任し、条項の修正・追加に尽力して日本国憲法の誕生に大きく関与しました。片山哲内閣では外務大臣に就任、そして彼の後任として総理大臣兼外務大臣となりますが、昭和電工事件に巻き込まれ総辞職・逮捕の憂き目に遭い、彼が無罪となったのは10年後のことでした。
2007年11月16日 45年前の今日(1962年11月16日)、作家の佐藤多佳子が生まれました。1989年にMOE童話大賞を受賞した『サマータイム』で作家デビュー、『しゃべれども しゃべれども』『ハンサム・ガール』『イグアナくんのおじゃまな毎日』など童話に児童文学、青春小説など幅広く執筆。陸上競技の短距離走に取り組む少年達を描いた小説『一瞬の風になれ』は、今年の直木賞候補に挙がったり、吉川英治文学新人賞や書店員らが最も推奨する本屋大賞(第4回)を受賞するなど話題になりました。
2007年11月17日 65年前の今日(1942年11月17日)、アメリカの映画監督マーティン=スコセッシが生まれました。1970年代はロバート=デ=ニーロと組んで『タクシードライバー』『レイジング・ブル』、近年はレオナルド=ディカプリオと『ギャング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』などの話題作を送り出してきました。そうして幾度となくアカデミー賞にノミネートされてきましたが、ようやく第79回の今年(2006年度)『ディパーテッド』で念願の最優秀監督賞と作品賞を受賞、“無冠の帝王”返上となりました。
2007年11月18日 60年前の今日(1947年11月18日)、歌手の森進一が生まれました。フジテレビ『リズム歌合戦』で5週勝ち抜いて優勝したことで、チャーリー石黒に見出され渡辺プロダクションへ。デビュー3年目にシングル『港町ブルース』がレコード100万枚を超える大ヒット、以降『望郷』『襟裳岬』など代表作と共に紅白歌合戦では白組のトリをしばしば務めました。今年は長年歌い続けてきた持ち歌の一つ『おふくろさん』で、イントロ前にオリジナルの台詞を入れていたことが、作詞者の川内康範の怒りに触れ、一悶着ありました…。
2007年11月19日 90年前の今日(1917年11月19日)、インドの政治家インディラ=ガンディーが生まれました。初代首相だった実父ジャワハルラール=ネルーが亡くなったことで、父の支援者達の勧めから50代を前にして政界へ。国会議員になって2年あまりでラール=シャーストリー内閣の大臣となり、彼の死後、インド国民会議党党首と共に首相に就任、女性ながらも傀儡政権とならず抜群の指導ぶりを発揮しました。しかし2度目の首相在任時、暗殺されるという非業の死を遂げました。
2007年11月20日 50年前の今日(1957年11月20日)、テレビ・プロデューサーの貴島誠一郎が生まれました。大手証券会社の営業マンから転職してTBSへ入社。『ずっとあなたが好きだった』『ダブル・キッチン』『私の運命』『愛していると言ってくれ』『理想の結婚』『青い鳥』など、1990年代のTBSドラマ全盛時の作品を数多くプロデュース、常盤貴子矢田亜希子などを育て上げてきました。近年は子会社へ出向し『永遠の1/2』『砂時計』のような昼ドラマも手掛けています。
2007年11月21日 40年前の今日(1967年11月21日)、柔道の古賀稔彦が生まれました。スピードのある一本背負いを得意技としたことから、富田常雄の小説の主人公になぞらえて付けられた異名が“平成の三四郎”。全日本選手権は71kg級を1987年から6連覇、講道館杯では5連覇を達成、世界選手権も1989年と1991年で連覇を果たし、向かうところ敵なし。オリンピックは初出場のソウル大会では3回戦止まりでしたが、バルセロナ大会では左膝に大怪我を負いながらも勝ち進み金メダルを獲得、日本中に感動の渦をもたらしました。
2007年11月22日 70年前の今日(1937年11月22日)、ソニーの元社長である出井伸之が生まれました。入社間もない頃は主にヨーロッパで販売・宣伝を担当し、帰国後はオーディオ事業部長に抜擢され、CD事業の立ち上げを指揮。また同じ頃に家庭用パソコン事業としてMSXを任されるも結果は…。1995年には大賀典雄の後継として社長に指名され、末席常務から14人抜きの人事で話題になりました。しかし、社内の機構改革やエレクトロニクス部門の不振を乗り切れず、責任を取って会長兼CEOの座を降りることになってしまいました。
2007年11月23日 75年前の今日(1932年11月23日)、俳優の田中邦衛が生まれました。古くは映画『若大将』シリーズでの“青大将”こと石山新次郎、『仁義なき戦い』シリーズでの山守組組員・槙原政吉などで脇役ながらも独特の存在感を見せていました。一番の代表作はなんと言ってもフジテレビのドラマ『北の国から』での黒板五郎でしょう。御本人は“五郎”とは性格は真反対といいますが、朴訥な人間味あふれる演技が多くの感動を呼びました。小堺一機ら多くの芸能人が彼の物真似をするのも皆から愛されている証拠でしょうね。
2007年11月24日 85年前の今日(1922年11月24日)、女優の加藤治子が生まれました。15歳で松竹少女歌劇団(同期には並木路子)へ入団、戦前は数本の映画に出演、戦後は舞台演劇に活動の場を移し、主役級の大役を数々とこなしてきました。40代を過ぎてからはテレビの仕事も増え、『七人の孫』『大岡越前』『寺内貫太郎一家』などで古き日本を思わせる母親役が印象的でした。近年も役者活動に衰えも見せず、映画での声優やドラマのゲスト出演で、その存在感を醸し出しています。
2007年11月25日 60年前の今日(1947年11月25日)、ナレーターの中村啓子が生まれました。NTTの時報サービス(117)で流れる声の担い手として、某番組で紹介されて以来とても有名なった人で、時報の声は1991年から使われているそうです。他にも「おかけになった電話番号は現在使われておりません」やドコモの留守番電話サービス、銀行や郵便局のATMでの「通帳をお受け取りください」、東海道・山陽新幹線車内での日本語案内などなど…。一日にどれだけの人が彼女の声を耳にしているんでしょうねぇ?
2007年11月26日 65年前の今日(1942年11月26日)、タレントのカルーセル麻紀が生まれました。少年のころ美輪明宏に憧れて、そちらの世界へ…。“カルーセル”とは、働いていた大阪のゲイバーの店名で“Carrousel(アメリカ英語で「回転木馬」という意味)”と綴り、これを芸名にすることをアドバイスしたのが関西の放送作家・新野新。1973年にモロッコで性転換手術を受けて外見は女性になりましたが、長らく戸籍上では“男性”扱い。ようやく文句なしの“女性”になれたのは法改正が行なわれた数年前のことでした。
2007年11月27日 50年前の今日(1957年11月27日)、格闘家の佐山聡が生まれました。若手の頃はメキシコやイギリスで武者修行、1981年4月23日にアニメとタイアップする形で“タイガーマスク(初代)”としてリングに登場。スピードのある華麗なる動きと技の切れ味、そして派手な空中殺法を織り交ぜる…スタイルは従来のプロレスとは一線を画し、実況の古舘伊知郎に「四次元殺法」と評されました。タイガーマスクとして活躍期間はわずか2年あまりでしたが、その華々しい活躍は未だに語り継がれています。
2007年11月28日 40年前の今日(1967年11月28日)、女優の原田知世が生まれました。1982年の角川映画大型新人募集で特別賞を受賞、後に薬師丸ひろ子渡辺典子と共に“角川三人娘”と呼ばれました。翌1983年、大林宣彦監督の映画『時をかける少女』で、主人公の芳山和子を熱演して人気を博し、また彼女が歌う同名の主題歌も大ヒット。1987年には映画『私をスキーに連れてって』に主演して全国にスキーブームをもたらしました。またアーティスト志向も強く『天国にいちばん近い島』『早春物語』など良作も多数あります。
2007年11月29日 60年前の今日(1947年11月29日)、ノンフィクション作家の沢木耕太郎が生まれました。文章は客観的で淡々と綴られるも、その分等身大のリアルさを感じ取れる文体が持ち味。23歳で自衛官たちを取材した『防人のブルース』で文壇デビュー、代表作として浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢を描いた『テロルの決算』、ボクサーのカシアス内藤が世界チャンピオンへの挑戦を描いた『一瞬の夏』。そしてインドからイギリスまで乗り合いバスで単身旅行する『深夜特急』は、海外の一人旅のブームを引き起こしたことで外せないでしょう。
2007年11月30日 70年前の今日(1937年11月30日)、女優の松山容子が生まれました。NHK松山支局で事務員をしていた時、その美貌から『アサヒグラフ』の表紙モデルに起用されました。これが松竹の役員の目に留まり、スカウトを受けて女優の道へ転じたのが20歳の時。いくつかの映画で端役として出演後、主人公に抜擢されたテレビドラマが『琴姫七変化』で、この番組のスポンサーが大塚食品という縁で、あの有名な「ボンカレー」のCMキャラクターにも起用、ホーロー看板などで在りし日の姿を拝見できます。

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