江戸と庶民旅行と史跡の保存 | 2306|共感21
89460| JAPANnisiokatuyosi3 | 2008.06.04 23:10:19
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江戸と旅行と史跡の保存

江戸時代は空前の旅行ブームがあったとされており、様々な書籍にその様子が収められています。

今回は、東海道の旅、浜松から二川宿までです。

 

スレ1
日本
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=82316
韓国http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=82316

 

スレ2
日本語
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=3&nid=83331
朝鮮語http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=3&nid=83331

 

 

浜松(29番目の宿場)



現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされます。遠江国・駿河国を通じて最大の宿場でした。

現在の浜松城模擬天守閣 徳川家康の居城として有名です。これは模擬天守ですので保存とはいえませんね

 



舞阪(30番目の宿場)



この宿場の西は浜名湖となり、「今切の渡し」で、西岸の新居宿へ着きます。
天保年間に設置された脇本陣「茗荷屋」が現存しています。

現在の脇本陣
大正時代には役場として使用されていました

 

 


荒井(31番目の宿場)



東海道の中で、ここ新居関所のみ関所が、陸の関所であると同時に海の関所も兼ねていました。
関所の建物は、明治以後 学校に転用されたりしながら、保存され現存しています。

新居関所は国指定特別史跡となっています

 

 


白須賀(31番目の宿場)



ここは昔から松林の続く静かな山村で、古くは鎌倉時代の文献にも登場します。白須賀の地名の由来は「白い砂州の上に開けた集落」から。宝永の津波で壊滅的な被害を受け、街は潮見坂下から現在の場所へと移りました。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模の宿場です。
京都から下る旅人は、この坂の上から背景に富士山をいただく遠州灘の眺望に感動したといいます。

 

 


二川宿(32番目の宿場)



二川宿から現在の愛知県(豊橋市)に入ります。当時は比較的規模の小さな宿場町でしたが、二川宿本陣は現在も二川本陣資料館として公開されており、享保・宝暦の歴史的建造物が見られます。

現在も残る二川宿本陣

 

各宿場には、現在も その繁栄の跡が残されています。

当時の旅行ブームが窺えます。

 

 


参考 wiki

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rindoh|06-04 23:15
イメカルらしい良スレだ!一も二もなく共感したw
nisiokatuyosi3|06-04 23:16
その頃 先進国朝鮮でも旅行ブームがあったのでしょうか?
rindoh|06-04 23:21
昨日『最近朝鮮事情』ちょっと読んだけど、朝鮮時代の朝鮮の宿には絶対泊まりたくないと思ったw
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:23
ウリもずいぶん前だけど読んだww
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:24
汚いっていうか、よく伝染病で大量死しないよな
 → rindoh|06-04 23:26
「日本の者が朝鮮に入り、朝鮮~人家の間に雑居し、または朝鮮内地を旅行して朝鮮~人の家に泊まると、一番に困るのは家の不潔であるのと、一種の臭気を吐き気を催すほどである上に、南京虫がやってくるので、実に快く眠ることが出来ないがちである。」  古写真や史料を見る限り、日本の宿場・宿泊施設とは雲泥の差w
 → rindoh|06-04 23:28
いや、大量死してたからw
nisiokatuyosi3|06-04 23:24
最後の写真だけど  何でこんなに不安定な乗り物なんだろなw
 → rindoh|06-04 23:28
道が整備されてなく、とんでもなく悪路だったからでは。畑でネコ車使うのと同じ理由かとw
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:30
なるほどw
eva_pachi|06-04 23:27
1も2も読んだよ♪ 推薦。 しかし、この時代に自由に旅ができたのだろうか? たてまえはやはり聖地巡礼だったのかな?
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:30
一応 巡礼や湯治が基本のようですよ。庶民の旅行は比較的自由(許可はすぐに下りた)でしたが、武士階級は自由に旅行できませんでした。
oidaki|06-04 23:31
共感~日本人って旅行好きですよね!!!江戸時代が平和だったからこそなのでしょうか
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:37
当時のことですから、飢饉もありましたけど、豊作の年が続いたりすると農民も代表旅行とかしていた記録がありますしね
amenboakaino|06-04 23:32
基本的に諸侯の領地の越境は規制されていたから聖地巡礼なり理由をつけて旅をしていたらしい。
fmdoll89|06-04 23:33
その頃 先進国朝鮮でも旅行ブームがあったのでしょうか?>少し時代はあとになりますけど、ロシア人の書いた朝鮮旅行記を読むと、豆だけの貧しい食事とか物乞いに来る朝鮮@人とかがよく出てきますね~。朝鮮は旅行するのは結構大変なお国柄だったのかもしれませんねw
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:35
物乞いに来る朝鮮人>旅行というより、放浪だったりww
0020__|06-04 23:35
朝鮮で旅行ブーム、、商用でやむを得ず旅行ならあるそうですけどね
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:36
公務は聞いたことがありますが、商用も結構あったのですかね
 → 0020__|06-04 23:37
一応あったみたいですよ。「飯は宿屋で食うしかない」状況だったみたいですが
 → nisiokatuyosi3|06-04 23:38
物見遊山の旅行はないのかね
 → 0020__|06-04 23:42
少なくとも、ツアーやガイドブックが発行されるレベルではないようですね。
yujukinokimi|06-05 00:43
共感。当時の朝鮮では、江戸の時代のように旅行ガイドの冊子とか出版されていたのかな?「○○宿:臭気ランクB 南京虫A」とか書かれてたりw
ppsh43|06-05 00:44
<丶`∀´> 虎や山賊が出るから、旅行どころの話では無いニダ! ただ、流通は徒歩の行商人に全面依存していて、独自のギルドを作っていたから、安全だったらしい。 仲間に何かあったら、一斉ストライキで流通が止まると脅すニダ~。
 → sutebia|06-05 09:14
なぜか山奥に自称倭寇の海賊が出ますしね。
hiroshimania|06-05 00:55
沿海州に脱出したり、満州に脱出したりする旅行は現在の南北朝鮮にも受け継がれています。
heavycavalry|06-05 01:52
後期江戸町人の旅行 4人家族の 5年間生活警備(経費)を持って出発 (10年間奥さんに悪口を言われる覚悟と大根ご飯だけ食べなければならない, 旅行経費もたくさん不足) -> 安物な旅館で食事(痩せたご飯に水注いだおかゆ食べ), 20日送り 防音が全然ならない所, 高声放歌 , 悲鳴音, 悪口, 賭博等々眠ることができませんね -> 良い旅館で宿泊, 主人が女を勧め(幕府の法はもう無用の物). 性病心配に女を拒否したら空き部屋にタオル一枚おいて出, 無視される 一晩中南京虫, 蚊に苦しみ(夏) 一晩中ぶるぶる寒くて眠れなさ(冬) -> 景色良い村に到着して画家和らぎ(村人々隠れて外地人を監視, こんな大変だね外地人が入って来たの. 早く出なければならないのに) -> 偶然に誰かを応試, 完全無視される -> 憂鬱な気持ちで温泉に入り ジムボグァンハムのある部屋があるか? 悩む価格を見てあきらめ (結局荷物を盗まれ) -> 泣きながら捜してみるがむなしい仕事 (関門に到着して額付いてお願いする) -> 結果を待つお金がなくて食事ができなくて気力が消尽 -> 死ぬ峠を越してやっと再び村に帰って来る. -> 我に返った後一生初めてで終わりである旅行後学んだのが多かったと妄想する -> あ! 楽しかったの. やはり日本人には旅行が適性か. して 10年後に妄想する (10年と言う(のは)数字に注目) -> 2百年後子孫たちは日本は旅行天国でした. して信頼.wwwww ..
 → heavycavalry|06-05 01:53
この話は実話を土台をはかって構成したフィクションドラマです. それなりに happy ending ! www
 → irogu|06-05 07:53
Travelの語源を調べた方が良いよ。w
tarokotaroko|06-05 07:54
猫車の写真で「現代印」と「無印」の同じ写真が有ります、どっちが本物?
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