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2008年 10月 01日
「ここに書くのも久しぶり」が恒例だ、なんていう間に、世間では発足したばかりの内閣の一大臣が在任期間5日という合宿並みの速さで辞任する騒ぎが起きた。「ニッキョウソは日本のガンだ」など、ニッキョウソを徹底批判する発言を続け、辞任した後もその発言、姿勢を撤回しようとしない。肯定的に言えば「貫いている」。インターネット上では彼を擁護する意見も少なからず見受けられる。個人的にはその意見の是非云々より「別にこんな時に言わなくても・・・」という気がするが、どうだろう。
さて、槍玉に上がっているニッキョウソ。日本の教育をダメにしたとまで言われるこの集団・・・なんだそうだが、実は30ウン年生きてきて、ニッキョウソがどういうモノなのか、実はよく知らない。知らないし知ろうともしなかった。 イメージとしては「赤い思想を持ったセンセイ達の集まり」「もう古い人」「あんまりセンセイとしての仕事をしない」というところか。数年前だが本の配達の仕事をしていた瑠璃カケスはニッキョウソのアジトにも出向いていたことがあった。古汚い建物の2階で、垢抜けない感じの男女2人が暇そうにしてた。金払いは今ひとつよくなかった。社民党のポスターが貼ってあった。 * 昔は、ニッキョウソのセンセイは結構いた、らしい。しかし私瑠璃カケスが知っているニッキョウソのセンセイは、2人。うち1人は、よく覚えている。今から20年も前、中学1・2年、隣のクラスの担任だったミシマ先生だ。 体育の先生だった。特別授業にならない授業をしていたわけでもなく、普通にバレーもサッカーも陸上もやっていた。クラスも異色という感じはなく、言われなければニッキョウソのセンセイだなんて分からなかった。ただ、体育にしては楽な授業だった。瑠璃カケスは運動音痴なので体育が嫌いだったがミシマ先生はわりかし好きだった。 中学の養護教諭で校長よりも威張っていたトラバアという嫌なやつがいたが、ミシマ先生はそのトラバアとも果敢に口論していた。クソトラバアに立ち向かった先生なんてミシマ先生ぐらいじゃないだろうか。偶然にもミシマ先生とトラバアは同じ年度で学校を去ることになる。トラバアはもう死んでるかもしれない。 2年生の時、春の学年合宿の際ダンスを取り仕切ったのがミシマ先生だったが、その時もちこんだYMOのライディーンは今でも忘れられない。ダンスでライディーンとくれば竹の子族だろう、と想起される方は相当中年だと思うが、まさにその通りで、ミシマ先生は中学生の我々に竹の子族ダンスを教え込んだ。他の先生方は反対しなかったのだろうか・・・今思えば、その辺がミシマ先生のニッキョウソ的な片鱗をうかがわせる部分だったのかもしれない。 うちの担任だったヤン先生が、ミシマ先生はじめ同学年の先生たちとカラオケに行った時のことを「ミシマ先生は・・・上手いとは言えんが、元気だけはあるんだよな」と話していた。 そのミシマ先生、離任式の際、挨拶もほどほどに「上手いとは言えない元気だけある」姿で歌い始めた。あれは歌ではなかった。遠吠えするサルのようだった。もちろん、何を歌っているか分からない。 音程も無茶苦茶な、ミシマ先生の歌う姿に・・・斜めから見ていた私は、涙をこらえるのに必死だった。もうちょっと上手だったら、そんな寂寥感を抱く事もなかっただろう。 在校中、車の追突事故に遭い負傷したミシマ先生だったが、今も元気にしているだろうか。もし今でも教職を続けられているとしたら、やはりまだニッキョウソに籍を置いているのだろうか。 * 便利な世の中だから、ニッキョウソのことを知ろうと思えば簡単にキーワードを拾えるだろう。だけど先述のとおり特に知りたいとも思えないし、ミシマ先生のことを思い出すと、なんだか、あんまり悪い方向に想像したくない、というのもある。 世の中に疎まれるのではなく「称えられる」センセイが、もっと増えてほしい。そうなれば、子供たちの未来も自ずと開けるんじゃないかなあ。 2008年 05月 18日
3年ぶりに高校の卒業アルバムを開いた。
1992年卒業だから、このログを書いている時点では既に16年の年月が経過している。16つったら俺ら卒業した時に生まれた連中がモロ高校生してるわけだ。そう考えるとこうやってアルバム見て当時を思い出すのも隔世の感がある。あの辺にオッサンオバハン言われても、言い返せないんだなあ。 さて、アルバムである。教職員の教科別写真に続いて、高校時代のイベント(文化祭、体育祭、修学旅行)、各クラスごとの見開き特集、そして全員の名前付き写真。小学校や中学校のと比べて写真の印刷具合がいい。画像加工してあるんじゃないかな、というぐらい見栄えよく映っている(人が多い。リアルに再現されてるのもままにいる)。 卒業アルバムを見るときは、勿論当時を懐かしむためでもある。ユーミンの「卒業写真」的世界だ。悲しいことが無くても表紙を開きたくなる。そんな時があってもいいじゃないか。 しかし、これは特に男連中の暗黙の了解というか、我々は常に清い心を持って写真の向こうのみんなに会うわけではない。卒業アルバムも、時にエロ本と同じになるのだ。 だいたい考えてほしい、高校の3年間、身近に女子がいて、そんでブラ透けとかパンチラとかに遭遇しないわけがない(男子校出身の諸君、スマン)。デジカメとか持ってないくせに、記憶媒体は僕らの脳内にあって意外に精巧に動いている。家に帰って勉強もせずに今日のエッチなハイライトを浮かべてズボンを下ろす。今日と書いたが、記憶媒体なのだから先週だろうが先月だろうが2年前だろうがすぐに引き出しを開けて準備ができる。そんなもんなんだ男子というのは。 そんな思い出がギュギュギュウッッッッピュッと詰まったアルバム。なんと胸ポチが見えたあの子の写真が手元に!という売り文句をつけたいものだ。女の子もマヌケなやつはしょっちゅうスカートが無防備になるから、同じクラスだった男子のシンクロ率は高い。案外アルバム開いて同じ子にお世話になるものだろう。違うかな。 漫画家の喜国雅彦が自著の4コマで「俺、アルバムの写真見ながら毎日1人ずつオカズに使って全員斬りするんだ」というネタを披露していたが、オオゲサとはいえチャレンジャーは必ずいると確信している。ちなみに本作では途中ブスでつまづいて挫折していた。どうしても抜けないとか。閑話休題。 個人写真のみならず、イベントフォトでもなかなかの具材があったりする。体育祭とか。今のようなハーパンではなかった時代だけに、ケツも転がっているものだ。アルバム製作の写真屋はそんとき一杯ネタ撮ったんだろうな畜生と思わざるを得ない・・・が、我々のアルバムの体育祭は正直今ひとつだった。一つ上の先輩のアルバムなんか、ケツ大集合だったのに。自粛がかかったんだろうか・・・。 そんなわけで、懐かしむというより、「卒業アルバムもらったら即使用」という、煩悩のかたまりには絶好の餌場となってしまうのだ、アルバムなんて。さすがに高校を出て大学だの社会に移れば童貞も捨てられて、記憶装置も役に立たなくなって、アルバムを穿った目で見なくなるようになるかもしれないが。俺も大人の男になったな ふ。と思っちゃうかもしれないが、ハタチ過ぎても女とよろしくやっててもオナニーやめるわけではないのだから、大して変わらない。 「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」ってユーミンも歌ってる。男はあの頃を忘れないが、女子は早々に蝶となり羽ばたき、青春の一ページに閉じ込めて忘れてしまうであろう。しかし、三十路を越えればみんな固太りして劣化の激しい連中になるのだから、今こそ純粋にアルバムを懐かしみたいものだ。すげえ強引。 次回はもうちょっと叙情的な内容でアルバムに迫りたい。続く。 2008年 02月 23日
現在、通勤通学などで電車を利用されている方は多くいらっしゃると思う。私瑠璃カケスは通学は電車で、通勤時は殆ど車を利用していた。
通学時の4年間は近郊型の横長イス電車で、できるだけラッシュを避けて乗っていた。 ただ座りたいが為。途中の駅でえらい勢い(ローカル註:高蔵寺・春日井・勝川)で車内もきつくなり、サラリーマン諸君が狭そうにつり革掴まっている下で悠々と座席で居眠りする学生の俺様。腹立たしい様に見えたであろう。 * 瑠璃カケスの自宅から、最寄の駅まで行くにはバスで20分以上はかかった。 バスに乗れるだけでも喜んでいたぐらいなのに、さらに電車を使うことが少ない家だったので、電車に乗れると聞いた時は前の日からワクワクものだった。いつの時代の小僧だ、という気もするが多分本当である。 私が生まれたすぐの頃('70年前半)は蒸気機関車が走っていたらしいのだが、程なく表舞台から降りたため乗ることはなかった。 しかし、日本の鉄道列車の主力は長岐に渡って、機関車、いわゆる汽車であった。汽車が消えたあとも童話や童謡など子供に身近なモノにも「汽車」という言葉が並んでいた。そのためか、親や祖父母は「汽車で行くか」という言葉をよく使っていた。 だが、小さい頃の私には、汽車がなくなったという事実は理解できず、「えー汽車にのれるのー」と、見事なぬか喜びをしたものだ。一度だけではなく二度三度。 それから、寝台急行の「ブルートレイン」、あれも最初は「青色の電車ならすべてブルートレインだ」と信じていたこともあった。 なので、 特急電車など見たときは衝撃的だったし、新幹線に至っては10年に一度しか乗れないと思っていた。 大人になって、新幹線は乗る機会も増えたがそれでも夢列車だと思っている。地方を走る特急などの方も、あまり乗ることはない。ごく稀に乗車すると、いつも普通電車で通っている路線を早々と駆け車窓がどんどん流れていく様に、戸惑いを感じる時もある。 ここしばらく鉄道と縁遠い場所で暮らしてきた私にも、また切符を買って電車に乗り込む時がやってきそうだ。 ・・・でも最近ICカードとかケータイでも電車乗れるらしいんだよなあ。信じられん。 2008年 01月 04日
2008年(平成20年)1月4日。瑠璃カケスは34回目の誕生日を迎えた。
以上。 ・・・自分で書いてても何か虚しいものはある。上手な年のとり方とか全然考えていなかった。そういうライフプランニング的な愚痴は、やめておこう。 それよりも、誕生日である1月4日。 時は学校は冬休み期間なおかつ正月明け。言ってみれば最悪である。ケーキは無い。誕生日プレゼントはお年玉で誤魔化される(逆に「内祝いだ金くれ」などと家族に言われる始末)。男だからいいんだけど同級生の誰も遊びに来てくれない。 あるとすれば、4日に、名古屋の母実家に遊びに行く(毎年必ずではないが、だいたい4日)のが楽しみだったが、初期の頃はついでにカニ料理専門店(かに道楽・かに本家)にも寄っていた。 瑠璃カケスはカニが大嫌い(身体が受け付けない)なのである。 そういう自分が食えないことを知っててわざわざこの俺様の誕生日に行くこと自体、家族全員頭がおかしいんじゃないか、と今でも思っている。店に行っても瓶のオレンジジュース飲んで生簀でウヨウヨ彷徨うカニの姿を見てオワリ。カニって死ぬほど臭いから腹が立つ。 6月とか2月とか、あんまりイベント(具体的には祝日)の少ない月に生まれたかったと思うがそれを憂いても致し方が無い。よく1月生まれだと目出度いねえなんて言われるが目出度いのは手前のほうだと口酸っぱく諭したいところである。 ・・・落ちが無いのだが、この記念すべき日に久々更新。誕生日は、1週間前までには家族にリクエストを仕込んでおくべきである。正月生まれの少年少女諸君、くじけるな。 2007年 07月 22日
諸事情で、というより本格的にネタが尽きてきた感もあるし、もともとグダグダなこのブログ、どうにかしなきゃならんと思っている瑠璃カケスである。着地点を決めて更新終了としたいところだが、そのネタも無い。
恥垢とワキガ臭の混じったバカエロ全開なネタでも書き散らかしたいものだが、このブログを開始した時ほど私も勢いよくオープンに書くのも躊躇われる。ともあれ、そんな気持ちだけはあるってことだけは理解していただけたらと思う。いや無理に合わせなくてもいいよ。たとえば女子が席を立った直後の椅子にわざわざ座って温度を感じるとか。引くでしょう。それが女を知らない青い男の、真の姿。 思い立ったらまた書くということで、よろしくお願いします。 さて、DSLiteでもやるか。 2007年 06月 17日
今、ムショウに腹が減っている。
大人である。だから腹が減ってるんなら何か作ればよろしい。それが面倒なら薄っぺらい財布にある500円玉でコンビニまで歩いて食べ物を買えばいいのだ。しかしそれすらしない。したくない。 薄々お気づきの方もいるだろう。単に腹が減ってることをネタに書きたいだけなのだ。この、腹と背中がひっつきそうな思いをしていることを訴えたいのだ。万国の空腹者、団結せよ!! バカバカしくなってきたところで、強引にカップヌー㌦(以下、カップヌードル)の話でもしようと思う。 カップヌードルの薀蓄については一切省略する。食べたことがある方がほとんだと思うし、今でも時々食べてる方、あるいは毎日食い続けている方までいるかもしれない。それを咎めるのは、いくら栄養が云々でも味気ない話である。 個人的にはボンカレーよりは飽きの来ない味、だと思っているがどうだろうか。 安いとこなら100円ちょっとで買えるカップヌードルだが、まさか子供の頃から手軽に食べいたなどという方はいるのか。いないだろう、と信じたい。少なくとも、私、瑠璃カケスにとっては、値段の問題だけではなくカップヌードルは貴重な味だった。 まず購入の問題。子供の行動地域など、たかが知れている。自転車に乗れるようになっても、家から範囲1kmを超えることは、まずない。しかも、どういうわけか行きつけの駄菓子屋以外には足を踏み入れない。スーパーがあっても、たかだか100円しか持っていないのに行ったところで何ができるというのか。 駄菓子屋にも、きっとカップヌードルぐらいはあっただろう。しかし、そこは子供も浅はかなもので、目の前にある10円か20円そこらのクッピーラムネかコインチョコ、ソースせんべいのほうが食べたくなるし、そもそも値引もされていない駄菓子屋のカップヌードルを買うだけの金は、無い。2日3日お金を使わないでおけば帰るだろうが、それは子供には無茶な話である。 仮に金銭的な面をクリアしていたとして、今度は無事に家で食うことができるのか。 そんなに甘くはない。午後3~4時ごろに小腹を満たすお菓子の代わりにカップヌードルを食うガキを親が許すだろうか。これ食べちゃったりして夕ご飯のさばの味噌煮を残すようなものなら烈火のごとく怒られるであろう。ここぞとばかりに栄養面で激しいエクスキューズが待っている。仕方ねえだろ今日の夕飯不味いんだから、と本気で思っても、さすがに説得力に欠けてしまう。 あと、火(コンロ)を使わせてもらえないなど。魔法瓶がまだ珍しい時期であり、いちいち湯沸しを利用するかヤカンで沸騰させるか。子供が使うに危ないのは、認めなくないが事実である。 そんなわけで、食えない。もう、親の気まぐれに委ねるしか、ないのだ。昼飯が準備できないとか、奇跡が起きないと難しい。 今でも覚えているのが、冬場、スケートリンクに連れてってもらった際、自販機のカップヌードルを食わせてもらったこと(スケート場に連れてくれるのは父親であるが、食い物に関しては結構アバウトで大抵リクエストオッケーだった)。冬の寒い中、熱々のカップヌードルをズルズルやるのは、夏仕事が終わった後のビールよりも最高だった。頻度の問題かもしれないが。 そういえば自販機でハンバーガーを売ってたこともあってネ申の置き物に見えた。次元が違うので割愛したい。 カレーとか(後に定番となる)シーフードとかバリエーションがある中でも「やっぱり本家(しょうゆ味)が一番だね」という意見が強いと思う。そのわりにカレーヌードルの残りで米飯食ったりしてるんだろと激しく糾弾したくなるが嘘である。 いずれにせよ、あの麺、タマゴ、ネギ、肉(実は大豆)、エビ・・・は金ちゃんヌードルだったか・・・など、全部がインチキなのに、わざわざインチキを求める様は「ラーメン」ではなく「カップヌードル」を食べたいのである。断言。少し子供話からズレてきたぞ。 この星で200億個食われてきたカップヌードル。そのうち私は、そして皆さんは今まで何個のカップヌードルを食されたことだろうか。 んでこれを食べた人はいるだろうか。以前少し問題になってたようだが。 こんなこと書いていたら大分空腹も収まってきた。いいのか悪いのか。 2007年 06月 02日
2007年 06月 02日
2007年 06月 02日
高校1年生の時の話をしようと思う。いつも以上に唐突である。
4月、雨の入学式の日。今まで2小学校からの集まりだった狭いコミュニティから、3市1町のわりと広い範囲から、高校受験によって同じような成績の連中が集まってきた。 瑠璃カケスが所属したクラスもそのひとつ。男子の何気に漂う田舎臭さが特徴的ではあった。 そこに、新担任がやってきた。えぬ先生である。 男性で年齢が本当に分からない。多分当時24,5だと思う。我が高校に赴任して数学を担当していたが、担任を受け持つのは初めて。さっきも書いたとおり年齢不詳で、明らかにふけ顔。地方信用金庫の営業周りでバイク乗ってる人にいそうなタイプである。 教室壇上の挨拶で、何か息巻いた雰囲気で持論を展開し始めた。「この学校は自由な校風がモットーだが、自由と言っても"freedom"ではない。"liberty"であることを忘れるな」 ・・・一瞬、みんな凍った。言いたいことは身勝手な自由ではなく、与えられた(権利としての)自由である、ということらしい。んが、だからどうしたというのだ。後ろで参観していた親も驚いていた。 さらに「1年生のうちは大学志望に国立:名古屋大/私立:南山大、と書く連中が多いが、3年生になって同じく名大・南山と書くようなやつはバカである」と。これは意図が理解できなかったが、自分の成績や大学受験情報を把握せずにのうのうと知ってるところだけ挙げるな、ということか。もしそうだとしても、言い方というものがあるだろうが。クラスの初顔合わせ諸君ともども、いきなりゲンナリとした高校生活が始まった。 このままいくとクラスも退屈なんだろうなあ、と諦めモードで入ったのが悪かったのか、まずクラスメイトの男女仲がよろしくなかった。敵対ではないが、ぜんぜん喋らない。男子が大人しすぎる、中学生そのままなヤツが多かったから、のと、女子も我々男に全く興味を持たなかったというのが重なったようだ。席配置も、男同士、女同士で並んでいた。 恋や愛とかそういう次元ではなく、もはやクラス分裂、そんな状況になって、えぬ先生は何も言わなかった。じゃあテストの成績がよければいいのかというと、どちらかというと我がクラスは出来が悪かった。散々である。 そんな中、「冷酷」「機械にしか見えない」えぬ先生の学級運営は続けられた。(つづく) 2007年 05月 11日
最近、NTTなどのサービスで117、177を利用された方はどのぐらいいらっしゃるだろうか。 117は24時間リアルタイムで、現在の時刻を調べることができる。これを使って家や自分の時計を調整する。あの声は、NTTドコモの案内や、JRの東海道・山陽新幹線案内をも担当する中村啓子さん(富山県出身)のナレーションによる。メディアへの一切の顔出しは無いそうである。銀行のATMもこの中村さんっぽいのだけどどうなのかな。「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」っていうやつ。 177は各地域の気象台から、さらに「気象情報提供事業者」を通し、NTTで自動音声合成で発信している天気予報サービスである。小難しいのでカラクリは省略するが、そこそこコネタは転がっている。 ・1日で11回も放送更新されている。 ・以前は地域によって番号もバラバラ(東京大阪は「222」、名古屋が「501」‥)、1964年統一。 ・177に統一時、番号を「イイテンキナレナレ」と覚えてもらっていたらしい。 ・1978年から、「地方番号+177」を利用して全国各地の天気を調べることが出来るようになった。 (以上NTTのサイト参考) などなどやはり興味深い。が、ここは小便臭いガッコブログである。瑠璃カケスの体験を紹介したい。 * 主に177である(117はキリが無い)。 岐阜県に住んでいたからであるが、天気ダイヤルを聞いていても、海がない内陸の天気に「波の予報」など存在しない。あと、岐阜でも大きく「美濃地方」「飛騨地方」と区分けされるのだが、後者は深い積雪があって、そんなに雪の無い美濃地方のコドモとしてはそれが羨ましくて羨ましくてたまらなかったのだ。とりあえず雪国気分を享受したく予報を聞き入っていた。「飛騨地方は雪が降るでしょう」ああ・・・。 それでも飽き足らない。隣の愛知県の予報を聞く。市外局番052+177。波の予報もある。外海とか内海とか、意味が分からない。きっと住んでいる人には波の高さも外海内海も大事なんだろう。くそぅと思う。 東海地方を越えて、大阪の予報を聞く。06+177。なんと微かに関西訛り。ど田舎から外に出たことがないせいで、方言というものを信じていなかっただけに、感動した。 北海道も東京もやってみた。正直覚えていない。 逆にくっきり覚えているのが、沖縄県八重山地方の予報。098**+177。 なんか最初にオルゴールが流れ、予報ナレーションは聞き取りにくいが「石垣島」「ヨナクニ島」など遥か遠くの土地名が当たり前のように読まれている。これには猛烈に感動した。楽園気分である。多分。 ちなみに117の時報は市外局番をつけてもみんな同じであった。 どちらにしろ、こんな無駄なトリップをしていたものだから、一時期家の電話料金が跳ね上がり、やがて私の愚行がばれて怒られ、やめてしまった。そのあとダイヤルQ2のアダルトチャンネルでリベンジを果たした。 ところで、こんなものを見つけた。知ってたけど。 野口五郎「ダイヤル177」。1981年のシングルレコードである。今となっては聴く方法もないが、一体何を考えてこんな曲を、しかもシングルで。 歌詞の一部は「回すダイヤル177 天気予報に相槌を打つ」らしい。回す・・・。 * 今は天気予報もテレビ・インターネットで細かく即時に知ることができるし、電波時計やパソコンの時計調整機能(ネット使用)で、やはりこちらも正しい時間を簡単に知ることができるようになった。とはいえ、大雨台風時、緊急時には117も177も欠かせない存在である。50年以上歴史のある情報の老舗と、うまく付き合っていきたいものだ。 ところでダイヤルQ2のほうはもうアダルトはないのかな。
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