司馬遼太郎Shiba Ryoutarouが考える 朝鮮・日本・中国の元首の呼称について(上) | 1071|共感4
92260| JAPANnisiokatuyosil | 2008.08.22 00:13:42
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司馬遼太郎Shiba Ryoutarouが考える 朝鮮・日本・中国の元首の呼称について(上)

 

朝鮮における「王King」、日本における「天皇Emperor」、中国における「皇帝Emperor」、という呼称問題について考えます、元首の呼称などは政治史の範囲に入るテーマのように思われるかもしれませんが、ここでは文化史的な課題として述べます。

 

李氏朝鮮政府が日本に「天皇Emperor」が出現した事を知るのは、明治維新が成立した1868年の9月です。 日本はその年の1月に各国の駐日公使に対して新しい政権が成立し、元首が徳川「将軍Tycoon」から「天皇Emperor」に替わったことを告げましたが、朝鮮への正式な通知はそれより8ヶ月遅れ、対馬藩から行われました。

 

 

対馬藩は、地理的に朝鮮にもっとも近い対馬島を領土とし、「藩主Feudal lord」は宗Souと名乗り、12世紀の初期から存在しました。 14世紀に李氏朝鮮が成立しますと、対馬藩は朝鮮「王King」に臣従し、琉球と同じように2つの国に両属する形をとっていました。 日本側では室町政権もこの状態を認め、日本の対朝鮮外交はすべて対馬藩に代行させる事にしていました。 この慣例は、豊臣政権も、徳川政権も引き継ぎました。明治維新で成立した新政府も、前時代の慣例によって対馬藩をして外交の実務に当たらせたのです。

 

朝鮮政府では、この通達が大問題となりました。 李氏朝鮮は非常に多くの理由をもって(日本の開国=西洋への屈服・通達の大幅な遅れ)不満としましたが、特に対馬藩がもたらした書簡に「天皇」という文字があった事について、大いに感情的になり、激しく怒りました。

 

 

李氏朝鮮が記憶しているところでは、日本の豊臣時代の元首の称号は「関白Regency」であり、徳川時代は「将軍Tycoon」であった。いまにわかに「天皇」というものが出てきた、元首「天皇」は「Emperor」であるという。 「天皇」とは「皇帝」に類似Pakuriした称号であり、はなはだ そのことは中国に対して無礼である、ということが李氏朝鮮の怒りの原因だったと思います。 李氏朝鮮はこの対馬藩の書簡を正式には受けとらず、突き返してしまいました。

 

 

中国における「皇帝Emperor」の定義は「天から命ぜられた世界秩序の中心の人。漢民族だけでなく全ての民族を治める権利と義務をもった地上唯一の人」ということだろうと思います。そして、その中国皇帝の神聖使命を認めるかぎり、中国の衛星国は国家の安全を保障されます。朝鮮においては。7世紀に朝鮮を統一した新羅もこれを認め、みずからを一段下の「王King」と称しました。新羅のあとの高麗もそうでしたし、14世紀に成立した李氏朝鮮もそうでした、欧州においてもそうであるように、特定の一民族の首長は「王King」と称します。

 

 

李氏朝鮮は、中国を宗主国とし、厳格な儒教体制を布きました。その理由の大部分は、強大な中国に対して自国の安全を守るための安全保障であります。安全保障が朝鮮の知識階級の教養にもなりました。中国的教養は、礼教という秩序感覚が中心になります。明治維新成当時、朝鮮の官吏たちが対馬藩の持ってきた書簡を見て激しく怒ったのは、この礼教による秩序感覚が刺激されたからです。もともと、李氏朝鮮からみれば、日本は儒教体制を布いていないため野蛮国でありました。

 

野蛮とは礼教を知らないことであり、国家的規模の礼教とは、中国の皇帝秩序を尊重するということであります。李氏朝鮮は「天皇」という称号を見て、信じられないほどの野蛮さだと思ったのです。

 

 

少し話をかえましょう、日本の「天皇」という称号についてであります。

 

日本は、古代においては、「天皇TennouEmperor」という称号はなく、「大君OokimiTycoonGreat king」または「帝Mikado」と呼ばれていました。「天皇SumeraMikotoTennouEmperor」というこの不思議な称号が歴史に登場するのは6世紀からだといわれています。 「天皇」の名前で言えば欽明天皇(在位540~571)の時からだという説がありますが、その証拠として大和の中宮寺の仏画に「天皇」と書かれています。 しかし、大まかには、推古天皇(在位592~628)から使われだしたとされています。

 

 

「天皇」と云う呼称が成立した理由の一つは、日本国内を統一するために必要だった。ですが、 何より6世紀末から7世紀初頭の東アジアの関係によって成立した呼称である、と考えるのが自然だと思います。 そのころ、中国では隋帝国が大陸を統一し、その国力の強大さに周りの国々が大いに動揺しました。 しかし、6世紀の日本は隋帝国に対し「わが国は独立国である」と何かで表現し、宣言しなければならない。と考え、 そのために「天皇」という称号を「発明」したのではないかと思われます。

 

 

当時、日本にはすでに中国的教養が入っておりますから、世界における最高の統治者は「中国皇帝」であるという知識は持っていました。 ですから、海の向こう別系統の小さな世界がある、そこにも「皇帝」と同格の「天皇」という者がいるのだ。と宣言する事が、自分の国の独立性を中国に認めさせる方法であると考えたのでしょう。

 

 
つづく

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hiroshimania|08-21 23:55
秀吉は誰のRegentだと思われていたんだろうかw
zozo2333|08-22 02:19
(朝鮮王朝実録) 成宗 7巻, 1年( 1470 庚寅 8月 24日 己巳 ○日本国王懐守納政所伊勢守政親, 遣入道等, 来献土宜。 其書契曰: 政親謹奉書朝鮮国議政府閤下: 惟太平, 今上皇帝御位, 万歳′万歳。 陛下恭願徳斉乾坤, 保唐′呉〔虞〕仁寿之域; 臣聚賢聖, 復 伊′周淳素之風, 至祝′至祝。 爰応扶桑殿下貴命, 而同日封書朝鮮′琉球両国渡使船者也。 聊余非私意耳, 如此懇切之意, 趣逹上聞, 而許賜容者, 惟幸。 諭是日本管領細川与山名, 以私意, 烽起干戈, 故細川加胡軍有諸侯; 且又山名加胡軍有諸侯, 而日本京城大乱也。 余為征伐而雖停止, 未休止, 則重重細川′山名両仁之怠慢罪過不少。 于今細川勝好負好, 山名勝好負好, 依放扶桑殿下貴命。 而両陣諸軍兵, 予勝哉, 予勝哉, 日日夜夜, 合戦数万胡軍共死矣。 此則予承扶桑殿下之征夷, 日本国東南西北入道, 集諸侯′諸軍, 而発向細川与山名両大陣城, 囲而欲収太平, 所以渡使船′同副船焉。 欲蒙大国之余力, 所望物件, 紬三千匹′綿布五千匹′白苧布一千匹′米五千碩。 慈察惟祷。 収吾国太平, 而尚以可抽藩臣忠勳者也。 不之方物, 具于別幅。 即新雪覆千山, 年嘉瑞。 余事不宣。 別幅: 金二員二十一両′朱四包四十両′大刀十五把′段子一匹′子一匹′扇子五十本, 采納多幸。 ..
zozo2333|08-22 03:45
朝鮮 = 太宗 = 今上皇帝 世宗 3巻, 1年( 1419 己亥 / 1月 11日 ○御便殿視事, 仍置酒, 六行而罷。 参賛金漸進曰: “殿下為政, 当一遵今上皇帝法度。” 礼曹判書許稠進曰: “中国之法, 有可法者, 亦有不可法者。” 漸曰: “臣見, 皇帝親引罪囚, 詳加審, 願殿下之。” 稠曰: “不然。 設官分職, 各有攸司, 若人主親決罪囚, 無問大小, 則将焉用法司?” 漸曰: “万機之務, 殿下宜自〓覧, 不可委之臣下。” 稠曰: “不然。 労於求賢, 逸於得人, 任則勿疑, 疑則勿任。 殿下当愼択大臣, 長六曹, 委任責成, 不可躬親細事, 下行臣職。” 漸曰: “臣見, 皇帝威断莫測, 有六部長官奏事失錯, 即命錦衣衛官, 脱帽曳出。” 稠曰: “体貌大臣, 包容小過, 乃人主之洪量。 今以一言之失, 誅戮大臣, 略不仮借, 甚為不可。” 漸曰: “時王之制, 不可不従。 皇帝崇信釈教, 故中国臣庶, 無不誦読《名称歌曲》者。 其間豈無儒士不好異端者? 但仰体帝意, 不得不然。” 稠曰: “崇信釈教, 非帝王盛徳, 臣竊不取。” 漸毎発一言, 支離煩碎, 怒形於色, 稠徐徐折之, 色和而言簡, 上是稠而非漸。 ..
yanti1|08-22 10:02
エディ・マーフィーかと思ったw
ultravox|08-22 11:03
虎が暮さない谷間にはオオカミが王だ. 大陸で遠く離れた島では小さな村の親分が天皇役する.
日本人たちの在日朝鮮人たちに対する認識 [16]
- 司馬遼太郎Shiba Ryoutarouが考える 朝鮮・日本・中国の元首の呼称について(上) [5]
20世紀になっても竪穴住居で暮らした朝鮮_人 [65]