【元祖開発独裁】「袁世凱の生涯」 | 529|共感1
1641831| JAPANochimusha | 2008.07.21 21:59:13
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*これは以下の関連スレです。
【噴飯台】
「利益線国家」 ?

日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961033)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1961033)

【参考】「袁世凱以降の中華民国の迷走」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1885507)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1885507)




さて、現在私はこんな事を証明しようと躍起になってる最中な訳ですが…

【雑想】「『中華帝国』は朝鮮半島起源?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1884189)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1884189)

日清戦争に敗北して朝鮮半島を去って以降の袁世凱の生涯の軌跡を追っただけでも前途の厳しさを思い知らされてる次第です。

日清戦争後の袁世凱の生涯の軌跡

新建陸軍創設(明治27年/1895年10月)
  1. 日清戦争における敗北を契機として陸軍を洋式化する職務に着手し、当時の欧米人や日本人から高い評価を受けた。

  2. 後に「北洋の三羽烏」と言われる事になる段祺瑞や馮国璋や王士珍といった腹心を得たのもこの頃で、以降この最新式の軍隊が北洋軍の屋台骨となる。参謀として旧友の徐世昌を引き入れたのもこの頃から。

戊戌の新政(明治30年/1898年)
  1. 自らも梁啓超が組織した強学会に所属していた袁世凱は、康有為や梁啓超らの変法派を当初は支持していたが、西太后ら守旧派を一掃するクーデターを察知すると西太后側近の栄禄に密告して翌年には山東巡撫に任ぜられる。

    *ちなみに戊戌変法失敗の後、日本に亡命した梁啓超は『清議報(1898年)』、『新民叢報(1902年)』『新小説(1902年)』といった諸雑誌を相次いで創刊している。そして、その連載記事に憶えたての日本語を通じて摂取した西欧思想を、しかも読み易い新民体で書き下ろして胡適や毛沢東といった清末青年を感化していった。「自由書」におけるヘンリー・バックルや福沢諭吉や徳富蘇峰、「新民説」におけるブルンチュリ等が有名だが、これが現在中国語に多くの和製漢語が混合する人つのきっかけになったという。

    *ちなみに、こうした過激思想を康有為から厳しく叱責された梁啓超は、中国同盟会の機関誌『民報(1905年発刊)』の中で「清朝打倒の武力革命は暴動と外国帝国主義の干渉を招いて国を滅ぼすものであり、いまはむしろ開明専制を行うべきだ」と主張して革命派と対立している。これが「中華帝国」の起源であっても不思議ではないのが、微妙な所。

    *また戊戌変法と時期を同じくして黄遵憲が光緒帝の命によって湖南に派遣され、変法思想に基ずく改革をこの地で試している。しかし、その結果「民権」「平等」「立憲政治」といった西欧的価値観が学生に広まって過激思想視される様になり、却って改革の進行を阻害することになった。

義和団の乱(明治32年/1900年)
  1. 自らの治下の反乱は逸早く鎮圧したが、西太后を中心とする北京政府が各省の指導者に出した「義和団と結んで欧米列国軍を攻撃せよ」という命令は黙殺。両広総督李鴻章や両江総督劉坤一や湖広総督張之洞らと協調して諸外国と東南互保の盟約を結んで領土と軍隊の保全に成功する。

    *結局、義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊は殆どが壊滅の憂き目を見た。

李鴻章没後、北洋大臣兼直隷総督に(明治33年/1901年)
  1. 栄禄ら有力者が没していく中で西太后からの信頼を厚くし、いわゆる光緒新政の中心人物となる。

  2. 1907年には軍機大臣兼外務部尚書に就任した。

    *ここで採用された「国債などによって諸外国より借り集め、それを資金に陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を進める。特定の列強国に侵略されるリスクも、各国に均等に頼る事で回避する」といった戦略は、辛亥革命後の大統領時代にもまた繰り返される。

    *辰丸事件を機に中国南部沿岸で日貨排斥運動を煽るなど、日本の影響力を削ぐ活動も行ったのも、この頃の話。

失脚、そして雌伏(明治41年/1908年)
  1. 西太后がこの年病没すると敵対していた満州貴族らによって失脚させられ、さらに命を狙われた。

  2. ほうほうの態で北京を落ち延びた後は河南省の彰徳近くで隠棲生活を送る様になったが、中央に残った徐世昌らとは連絡を取り続ける。

  3. 武昌蜂起を契機として辛亥革命が勃発(明治44年/1911年10月)

  4. 清朝内満州貴族らの手によって華中と華南で優勢を誇る革命派勢力を鎮圧する為に第二代内閣総理大臣兼湖広総督に任命される。

  5. ところが部下の段祺瑞や馮国璋らを反乱鎮圧に向かわせる一方で革命派と秘密交渉を行い、新政府の臨時大総統就任を条件として清朝要路者に政権交代を示唆し始めた。

清朝が滅亡して中華民国が成立(明治45年/1912年3月)
  1. 最後の皇帝宣統帝の退位後、新生中華民国の臨時大総統に就任。

  2. 「中国をまとめる為には中央元首の強権が必要」と考えるも、当時国民党の実質的指導者だった宋教仁が議院内閣制の導入を主張して1912年12月の選挙で圧勝してしまう。結局、宋教仁は1913年3月に暗殺された。

1913年(明治46年)9月 第二革命
  1. 大総統権限を強化して任期延長を図る一方、清代同様に多くの国から借款を重ね始める。

  2. これに反発した李烈鈞や孫文や黄興らが反旗を翻し、江西や安徽や湖南や広東や福建や四川と言った南方諸省が独立を宣言するが自慢の軍事力で粉砕。反乱の指揮者達は日本に亡命せざるを得なくなった。

  3. 同年10月には正式に大総統に就任し、国民党解散命令を出した上で国会内の国民党議員も全員解職してしまう。

1914年(明治47年)7月 第一次世界大戦勃発
  1. 逸早く中立を宣言したものの、隣国日本が日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵してこれを占拠。領土返還を要求したが、大隈重信内閣より逆に「21か条要求」を突きつけられ、1915年5月受理させられる事になった。

  2. *ただし、こうした列強の留守を狙ったかの様な強引な交渉は英米仏にも不評であり、特に満州への進出を狙うアメリカは国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに「ブライアン・ノート」を発表して牽制を掛けてきた。

1915年(大正4年)袁世凱、帝政復活を宣言。
  1. これに対抗する為に唐継堯等の帝制反対派が雲南省を独させて護国軍を組織する。

  2. また、北京などのの大都市で、日本留学生経由で自由民権思想や社会主義などの新しい思想を学びつつあった学生を中心として「袁世凱の施政はすでに時代遅れ」とする声が広がり始める。

1916年(大正5年)1月1日、袁世凱大総統が皇帝即位式を強行。
  1. 元号を洪憲と定めて「中華帝国」成立を宣言。

  2. ところが北京で学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥がこれを口実に次々と反旗を翻し、足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発して批判を開始する。

  3. 最後には日本を含む列強諸国より帝制延期(無期限延期)の勧告まであり、これに応じる形で即位22日目に退位。3月は帝政復活の取り消しを宣言したが、一度失われた権威は二度と復帰しなかった。同年6月6日に病没。

とりあえず…
  1. 辛亥革命以前の中国人が公然と口に出来るのは『開明君主説』だけだった?
  2. ただし裏では日本経由で様々な思想の受容が進められてきた。
    *特に黄遵憲や梁啓超の変法思想は湖南の地に直接伝わってもいる。
  3. 対抗馬として社会主義や共産主義思想が浮上してくるのはもっと先。
といった辺りまでが漠然と見えてきたところ。

どう見ても
単なる100%中国史
の様に見えて、よく考えて見るとこれこそ
元祖「開発独裁」!!!
という辺りでちゃんと韓国史に戻ってきます。

【参考】各時期の朴正煕大統領
演説に見られる特徴」-「民族中興」とは何か-
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1766836)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1766836)



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ochimusha|07-23 15:56
こんなにも「黄遵憲」が誰彼構わず感化してたとは…
aerok02|07-23 15:56
開発独裁の原型はフリードリヒ2世じゃないかな(^▽^)
 → ochimusha|07-23 16:02
そういえば朴正煕大統領本人は、何て言ってましたっけ?
 → ochimusha|07-23 16:03
この人とは「維新憲法発令!!」とかで類似してくる訳ですが…
 → ochimusha|07-23 16:21
フリードリヒ2世…確かに元祖「富国強兵」ですが、中国や朝鮮にはどういう形で伝わってたんでしょう…
pakapaka|07-23 16:14
開発独裁の起源=国民党、ぐらいまでは、ちょっと考えたことが有るんだよね。「パトロン」が必要だからね。
 → ochimusha|07-23 16:17
とりあえず「朴正煕大統領が日米毒それぞれから開発資金を引っ張った」のに似た様な根拠があったか知りたい所です。
sas_mi6|07-23 16:22
秩序を創る事が成功する開発独裁だと思う。中国の為政者は「秩序を創る」ことに成功していない。 秩序≒法の下での公平感 ある日突然、法が変わる無秩序ばかり。
 → ochimusha|07-23 16:34
とりあえず、ここまでの考察結果を纏めると、中国の秩序感覚は第一レベルでは「愛=力なり」、「愛に細則は不要」の一言に尽きるんじゃないかと。
 → sas_mi6|07-23 16:37
従って、砂上の楼閣となる。 現在でも無秩序。
 → pakapaka|07-23 16:40
今の中国は、どう見ても、資本主義の初期形態よ。産業革命時のイギリスに蔓延した「腐敗」とまことにそっくり。こりゃ、社会主義革命思想が胚胎されるべき発展段階で。。。。。あれ?
 → ochimusha|07-23 16:42
「従って、砂上の楼閣」…「洋務運動の亡霊」の恐さは「まだ規模が小さ過ぎただけかも」とも思い込める所にあるのかも。
 → sas_mi6|07-23 16:43
満州国の開発独裁≠国民党の開発独裁  「開発」になっていない。
 → pakapaka|07-23 16:45
sas_mi6 07-23 16:43>日帝の侵略行為は国民党の独自近代化の萌芽を摘んだアルよ! と責められたら、結構厳しいものが。。。。。。。
pakapaka|07-23 16:34
総動員体制+計画経済、なら満州国かな? 仮想的接点として袁世凱を置いてみても良いけど、つながりは良いとは思えない。
 → ochimusha|07-23 16:39
満州国は「スターリンの五ヶ年計画の成功」とも関係してくるのでとりあえず置いておくとしても…毛沢東まで黄遵憲や康有為の元愛読者というのが中々頭の痛い所で。
ochimusha|07-23 16:45
「 今の中国は、どう見ても、資本主義の初期形態」…とり急ぎ田中正造を150人くらい必要としてる様に見えますね。
 → ochimusha|07-23 16:48
たぶん次々殺されるので、こrくらいじゃ足りないかも。
ochimusha|07-23 16:47
「日帝の侵略行為は国民党の独自近代化の萌芽を摘んだ」…いや、それ以前に別年表を見てると「戦国時代の足利幕府?」とも思える側面が…
ochimusha|07-23 16:51
実は、この話題って中国人が「それでは世界中の皇統の長さを比べてみよう!!」と、思いついた時に思い知るある現実と関係があるのかも…
 → ochimusha|07-23 16:53
「漢城旬報」だと「海底ケーブル長さ比較」と同次元の扱いで「欧羅巴王室皇統の長さ比べ」なんてのが掲載されてます。意外とハスプブルグ家が馬鹿に出来ないと知りました。
ochimusha|07-23 16:55
ところで、何で反対票?
sas_mi6|07-23 17:47
近代化の芽が中国にあるだろうか? 
 → ochimusha|07-23 17:50
「汚職の蔓延」や「公害による環境破壊」を自らの自浄効果で乗り切れたら次があります。なければアフリカやモヘンジョ・ダロの仲間入りです。
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