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おまえ、韓国人はそれでは笑わんよ。意味もわからずw アホ丸出しw |
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普遍的事実です。 |
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またどこで句節一つ聞いて妄想する典型的な日本人. 清にロシア公使館が設置される前まで北京の外国写真迎賓館の中で朝鮮使臣の居所が最大の規模だったという事実とそのリュク王国が朝鮮には交隣の相対国と同時にリュクが朝鮮を上国で思って朝鮮に祝賀会謝絶を送った事実は何で論破しようとまた妄想するか? |
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李王朝が何品だったか調査してください。 |
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国連の中で日本の負担金がアジア最大の規模だったという事実と、その日本国は隣の大韓民国が通貨危機に陥りそうになった時に、大韓民国を独立国と思って支援謝絶を回答した事実はどのように論破しようと妄想しますか? |
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沖繩原住民か? 爆笑!! 可哀想で推薦desu!! |
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事実です。琉球王朝は二品です。 |
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書契も上位国の書式ですよ。韓国宛てですが。 |
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2解くことは何に使う品物か? wwww |
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中国官位もしらないとは、ダメですね。 |
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格式というものが国力で決まると思っている半島人。 |
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事実をつきつめると正直、韓国はショックですが、普遍的事実はまげようがなく・・・。笑 |
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格式…ちなみに確か冊封国同士では対宗主国序列」意識する必要がなかった気が。 |
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事実、使節団の待遇から、宴席の席次まで違ってきます。中国が半島より琉球に高位を送ったのは、半島は中国の家隷であるとの意識があるためです。 |
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朝鮮とリュクの序列と言う(のは) => 太祖 2巻, 1年( 1392 壬申 / 人ホングム(洪武) 25年) 閠12月 28日 甲辰 是年, 琉球国中山王察度称臣奉書, 遣通事李善等, 進貢礼物, |
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率直にこれが論争の種になると思うか? |
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進物交換はありますが、中国席次について事実を述べております。琉球王朝と李王朝の品位を調べてください。 |
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そういえば、割譲直前の「台湾省」も正ニ品だった様な。 |
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台湾省も正二品をいただいていましたか それは知らなかった。勉強になる |
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台湾省は確か清仏戦争で「重要防御拠点」と認められて「福建省」並みとかに…ただ原典は要確認です。 |
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琉球王朝は高い. しかし日本は低かった. |
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日本は中国と冊封関係をむすばなかったのです。不征国として朝貢国以下として、独立を維持しました。 |
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日本とムガル帝国は清朝時代は一応「格外」。 |
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「日本は中国と冊封関係をむすばなかった」…明とは一時期あるから要注意。 |
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足利家の貿易による経済冊封は、国内バッシングにあいすぐに解消してしまいました。そのまま冊封がつづけば席次は李朝より上席になるな。 |
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明朝時代の冊封…正確には「懐良親王」「3代将軍義満」「6代将軍義教~13代将軍義輝」ですね。莫大な利益が見込めるので船を官令細川氏が出すか守護大内氏が出すかで熾烈な争いがあった筈。 |
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朝鮮王朝実録は朝鮮と RYU KYU 両国が朝鮮前期までにしても度に使臣を交換しながら仲がいい外交関係を維持して来たことを証明している. 太祖 1年(1392) 12月 28日 RYU KYUお吸物ズングサンワングチァルも(察度)が自分を臣下に称えて太祖に礼物を捧げた記録が見える.
世祖 4年(1422) 3月 28日には RYU KYU 国王の獅子で海を渡ったウズングスング(友仲僧)が兵士(病死)して祭祀を執り行なってくれたりした. 世祖 5年(1423) 1月 10日には朝鮮国王が下賜した綿布と外交文書をお持ちして帰国した RYU KYUお吸物使臣団が対馬島近海で倭寇に奪われた. 調整では大麻逃走に “掠奪した品物を RYU KYUお吸物に送りなさい. この人を破れば後悔してもだめなこと”という強硬な書簡を送った.
世祖 8年(1426) 1月 16日には漂流した朝鮮民を送還して, 毎年朝貢を捧げる RYU KYUお吸物の真心に返事する意味で使臣に ‘大蔵経’ ‘法花経’ ‘金剛経’ ‘李白選試’(李白選詩)のような書籍と仏経, 特産物を与えた. 成宗 2年(1471) 11月 23日には RYU KYUお吸物使臣に鐘2身幅官職を除数したりした.
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琉球王朝と李王朝とは友好国です。 |
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朝鮮王朝実録は朝鮮と RYU KYU 両国が朝鮮前期までにしても度に使臣を交換しながら仲がいい外交関係を維持して来たことを証明している |
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ただし、朝鮮からの回答は、書契での回答がないのが残念ですが。 |
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朝鮮と Ryu Kyuは友好国で倭人(倭人)や野人(野人)ではなかったからです |
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残念ながら北京で宴席の席次を争っていました。この時は琉球が上席。で、賀詞使節の順位も争いましたが李朝が最初になりました。両国で共通するのは近代軍隊をもたなかったことです。 |
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しかし結局世祖 4年(1422) 3月 28日には RYU KYU 国王の獅子で海を渡ったウズングスング(友仲僧)が兵士(病死)して祭祀を執り行なってくれたりした. 世祖 5年(1423) 1月 10日には朝鮮国王が下賜した綿布と外交文書をお持ちして帰国した RYU KYUお吸物使臣団が対馬島近海で倭寇に奪われた. 調整では大麻逃走に “掠奪した品物を RYU KYUお吸物に送りなさい. この人を破れば後悔してもだめなこと”という強硬な書簡を送った. |
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「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」…琉球王朝の「万国津梁の鐘」の碑文。 |
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南海の中継基地として、薩摩占領前は繁栄を謳歌しました。 |
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明朝の海禁時代は東南アジア貿易独占ですから…スペインとポルトガルと解放後の明人にやられてしまう訳ですな。 |
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そうえいば、この種の話で必ず出てくる『渓陰漫筆 三巻』の「琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていた」って実物見た事ありますか? |
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琉球関連の書物には必ずでてきますが、渓陰漫筆 三巻が正しい記載をしているかどうか不明ですね。実物もみたことはありません。 |
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二品は籠にのって宮廷門を通過することは許されているのは、中国の本に記載がありましたが、琉球使節はかなり少数で福建省から燕京に向かっていますから、籠にはのっていないものと思われます。 |
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「捏造じゃないか」疑惑も…確か黄文雄の引用を見ると「朝鮮正三位/琉球それ以下」なのに朝鮮の方が扱いが上みたいになってるし。 |
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船の大きさがまったくちがうので。話になりませんでした。琉球がもっと大きな船をつくる技術があればよかったのですが。 |
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使節の規模がまったく違うのと、厳格な席次が決まっているのに、宴席で争っているのは、朝鮮使節の意地をみせてくれます。また、各国使節が同席するのはあまり機会がありません。ほんとうにたまたまみたいです。 |
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そういえば唐の時代も「日朝席次バトル」がありましたね…何となく「相打ち」と覚えてますが。 |
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