これは以下の関連スレです。【土人研究】「その歴史的背景に迫る」日韓
ポイントは一つ。「一般的に目にする反日言動とは異質なので、一目で識別できる」である。
朝鮮半島における反日の土俗的原点に関する断章
*繰り返しとなるので以下はとりあえずこの分析の対象外とする。【旧スレリンク集】所謂「従軍慰安婦問題」関連日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1975137)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1975137)
18世紀前半に編纂されたと思われる朝鮮地理書「択里誌」の中の全羅道の項にこんな記録がある。
日本人が我が国の人参を絶えず相当量購入し続けなければならないのは、その大地が毒で汚染されていて本来人が住める環境ではないからである。きっと人参の輸出を差し止めたら死に絶えてしまうに違いない。
- 【起源候補1】昔から中国の地理誌では「南の辺境は毒で覆われている」とされてきた。
- 【起源候補2】伝統的に朝鮮半島では疫病が流行する都度「東海の向こうからやってきた」とされてきた(逆に日本ではそれは伝統的に朝鮮半島からやってくるものとされてきた。要はどちらにも沿岸地帯から広がるものという認識があったという事らしい)。
- 【起源候補3】丁度その頃、日本は朝鮮半島から大量の人参を輸入していた。
これはまだ説明ま見つかるから良い、起源がまるで判らないのもある。
- 「倭乱」に纏わる伝承の中に「日本の将軍が毎年三百枚の人間の皮を貢ずる様に命じたが、朝鮮王が土下座をして金銀を貢ずるだけで勘弁してもらった」というのが収録されていたと書き「起源がまるで見当も付かない」というのがある。
- 19世紀前半に朝鮮内に潜入したフランス人宣教師も同様の話を聞いてローマ法皇に「朝鮮が中国だけでなく日本へも朝貢しているという話はどうやら事実だった様です」と報告している。
- その報告書にはさらに「山中で放浪者のグループを発見したので哀れんで金貨を分けたら喜んでさらに集まってきて信者が急速に増えた」ともある。「金貨を食料に交換出来た」という事は飢饉ゆえの流民化ではなかった事を意味し「噂を聞きつけてどんどん集まってきた」という事は独自の情報ネットワークを持っていた事を意味する筈なのだが、この辺りについての詳しい分析はなされていない。
- そもそも、この時に北の中国国境から潜入したフランス人宣教師が釜山の倭館を肉眼で確認しえる地域まで南下し得た(と思わせる文章があり、地元の人間が倭館の繁栄振りに憎悪を燃やす様が記録されている)事と、後の東学党乱において全羅道の蜂起に連動する動きが朝鮮半島北部にもあった事を誰も結びつけて考えようとしないのが朝鮮王朝史研究の現状なのである。
中国における反日の土俗的原点に関する断章
以下は記録が特殊な文字で残されたが故に中央からの干渉を最小限しか受けてないと思われる貴重な例である。
【WIKIPEDIA】「女書」
- 中国南部の湖南省江永県などの地域において、専らヤオ(瑶)族の女性により用いられた文字。絶滅の危機に瀕している。
- これまでに約1000-1500文字が収集されている。各文字は「点」「縦棒」「斜線」「弧、折れ線」の4種類の筆画からなっており、これら筆画は細く書くことが良しとされる。文字の形状は縦に長い菱形である。中国語や日本語の伝統的な書き方と同じく、右縦書きで書かれる。
- 女書は音節文字である。すなわち、ひとつの文字が同じ音節で表される複数の意味を区別せずに、ひとつの文字で書き表す。多くの文字が漢字を故意に変形して作られたが、一方で伝統的な刺繍の模様から派生したとみられる字もある。
- 近年の使用範囲として、湖南省江永県、道県、江華ヤオ族自治県が知られている。江永県県城の土語の発音に合わせて作られており、周辺の地域では土語の発音が異なるが、県城土語の発音によって読まれるため、県城から広まったものと考えられる。
- 基本的に県城土語の音節に合わせて一音節一字の女書が用意されているが、例外的に、音節があっても文字がない例、異体字がある例、一字で複数の読み方がある例も見出される。
- 女書は日常的に筆記の用途に用いられるほか、「三朝書」と呼ばれる新婦への詩を記した贈り物にされることが多く、また、文字自体が刺繍の柄としてもしばしば用いられた。
その歴史 - 近年まで、江永県を含む地域では女性が漢字(=男書)を学習することは良しとされてこなかった。女書はこのような状況下で生み出され、姉妹や兄弟の妻など、主に女性親族の間で秘密裏に用いられてきた。また、男性が女書を学習することは厳禁とされた。また、工芸品などの模様のようにして文字を偽装することも行われた。多くの文書は一行につき5文字または7文字で構成された詩の形をとった。
- 判明している限り最も早期の女書による記載は、太平天国時代(清後期)に製造された彫母銭に見られる。この貨幣の裏面には女書で“天下婦女”、“姉妹一家”と記されている。
- 太平洋戦争中には日本軍により女書の使用が抑制されたとされる。中国人による暗号文書としての使用を懸念したためであった。
- 女書は数百年にわたり存在してきたものであるが、最近までその存在はほとんど外部に知られていなかった。1982年、武漢大学の宮哲兵教授により「再発見」され、学術的研究が開始された。
- 文化大革命以前においては、女書による文書は著者の死去に伴い殉葬品として焼却する習慣があった。また文革期には多くの女書による作品が破棄された。このため、女書による作品で現存するものはきわめて少ない。文革後、女性の文化水準の向上に伴い、女性は女書によらずとも互いの交流が可能になり、女書の使用価値は減少した。その結果女書の学習者は激減し、女書は絶滅の危機に瀕し始めることとなる。
- 2005年9月、湖南省東安県芦洪市において女書を刻んだ石碑が発見された。この碑はその磨耗の程度から数百年もの間風雨に晒されてきたものとみられ、従来考えられてきた女書の成立年代以前に製作されたものと考えられている。さらにこの石碑の発見により、女書の書かれた物体の材質、用いられた地域、使用者の性別などに関して新たな知見がもたらされた。
光明日报 「湖南东安发现珍贵碑刻女书」2005年9月26日 中
現状 - 2004年9月30日に女書の最後の自然伝承者である陽煥宜が98歳で死去した。絶滅の危機の中で、学習して継承を目指す、何艶新のような人もいるがごく少数である。
- 現在中国政府は女書の保護を重視している。研究拠点と観光地を兼ねた「中国女書村」が2003年に湖北省宜昌に開設された。
女書による作品 - 女書による作品の多くは「三朝書」(三朝书、 sānzhāoshū )という形式である。これは布を綴じて製作した小冊子であり、義姉妹(结拜姊妹、 jiébàizǐmèi )または母により、女性の結婚時に贈られるものであった。
- 「三朝書」には詩が書かれており、結婚して三日目の女性のもとに届けられる慣わしであった。これらの詩は結婚した女性の幸福を願い、また村を離れて結婚する女性への悲しみの念を表すものであった。その他、詩や歌詞などを帯や紐、衣服などの日用品に織り込むこともあった。
女書伝播地域の抗日歌 日
「抗日歌」…中国が日本と長い戦争を続けているとき、民衆の抗戦意識を昂揚するために、中国共産党が歌唱運動を繰り広げた、そのとき各地で歌われた歌全体のことを言う。軍の作った行進曲もあれば、専門の音楽家が作ったものもあり、民間で自然発生的に作られたものもある。内容も、憎い日本鬼子をやっつけるまで戦うという勇ましいものから、戦争で故郷を追われた悲哀を切々と訴えるものもある。
以下は趙麗明の『中国女書集成』(
1992、清華大学出版社)に収録されたその1首だが、当時の民衆心理における「反日」表現を知る上で貴重な記録といえる。
「抗日歌」
- 静かに母屋に座って思い巡らす(女性達が嫁ぐ娘に送った「三朝書」の出だしの句)
- 世の中憐れなことばかり(女書で残された歌の定型句)
- 民国になり大難に遭い(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 庶民の生活脅かす
- 中国に蒋介石現れて
- 日本叩くに容赦はいらぬ
- 日本鬼めは大計めぐらし
- 飛行機で空を飛び回る(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 飛行機ってやつはほんとにひどい(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 省、州、県をみな爆破(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- お上の命令下にきて
- 村、郷すべて徴兵割り当て
- 徴兵するとすぐ訓練
- 3年の訓練で熟練兵
- 合格する年25,6
- その上33歳まで引っ張り出す
- 若者みんな引っ張られ
- 庶民の不安募るばかり
- 3人の家族から1人を連れ出し
- 4人の家から2人を引き抜く
- 徴兵されるのは18-45歳
- 家に残るのはあとわずか
- 先の徴兵で足りなくて
- 10戸に1人の追加徴兵
- 青年壮年みな引き出され
- 家に残るのは老幼ばかり(女書で残された歌の定型句)
- 老幼残って役立たず(女書で残された歌の定型句)
- 朝から山裾に立ち尽くす
- 今の世の中こんなに不安
- 人の心はすさむ一方
- 今の世界はこんなに悪く
- 人々ことごと徴兵される
- 徴兵されて家になく
- 残るは憐れな老幼ばかり(女書で残された歌の定型句)
- 山に登って戦さに出かけ(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 一戦交えて人多く死ぬ(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 兵士の数も数え切れず(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- 路上に白骨霜のよう(女書で残された歌の定型句)
- 徴兵思えば心静まらず
- 金持ちの人は納税も楽
- 貧乏人は納税すれば半年の飢え、
- 金持ちの人は仕事も楽で
- 貧乏人は惨めな思い
- 今日民国の二十八年(歌の作られた時期を探る手掛かり)
- いつになったら天下おさまる
- 世界が早く平和になって
- 安楽な暮らしもどるのはいつ
概説 - 同じ本に収録されている「抽兵歌(無理に兵隊に引っ張られる事を嘆く歌)」と前半はほとんど同じである。「日本軍による徴用の苦しみ」を歌い込んだバージョンもあるが、それは現存しないという。
- 作者は正確には不明。「戦争で夫を失った寡婦が村々を歌って回った活寡歌である。それぞれの村の女や娘達が句を付け加えた。村によっては男も憶えていて加わって歌った」という証言もある。
- 歌詞内容から見て1939年から1944年の間に少しずつ作られたものと考えられている。
- 第45句には「今日民国28年」とあって、それが正しければ制作時期は1939年という事になるが「今年民国29年(1940年)」となってるバージョンもある。
- ある男性は「日本軍が来る前から歌っていたと言う」。日本軍の現地侵略は1944年なのでそれ以前から歌っていたというのは、楊の歌の「民国28年」と時期が合う。
- 第8,9,10句に出てくる飛行機は1944年以前にも飛んで来ただろうから矛盾はしないが、第35句から38句までは日本軍との戦いで死者が出たとされており、1944年以前に作られたとなると、時期が合わない。
「抗日歌」を当時実際に歌った人々の戦争体験証言 - 「夫が23歳、自分も23歳のとき、夫は日本軍に徴用された。当時18-45歳の男は全部徴用された。母が亡くなったとき、夫がいなくて葬式もできず、とても悲しかったから、その思いをこめて自分で作った。夫は10数年引っ張られて帰ってきたが、帰ってこない人もいた。夫が帰ってきたとき、手にも足にもどこにも怪我をしていなくてほんとによかった。日本軍の空襲のときは、谷母渓に住んでいた。飛行機の音がよく聞こえた。八路軍と日本軍が村を通った。1ヵ月ぐらい山に隠れた。山の上から、村に爆弾が落とされるのをみた。山からもどってみると、穀物も家畜もみんな無くなっていた。」
- 「抗日歌はいつも歌っているわけではないが、よく覚えている。夫が引っ張られたり、親がいなくなった可哀想な娘たちと一緒に歌ったからよく覚えている。自分のことについては自分が作った。夫が徴兵された女たちと一緒に作ったところもある。」
- 「義理の姉妹が7人いた。桐口、龍田、河淵、谷母渓、魯子田にそれぞれいた。一緒にいるとき、抗日歌を歌った。7人はみな歌えた。」
- 抗日歌についての思いについては「日本軍が憎かった」「日本軍を恨んでいた」「苦しくて、哀れだと思って歌った」「歌の内容は気持ちよくない。思い出すと腹が立つ」といった証言が残されている。