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押井守監督 インタビュー(2)

「『ミニパト』こそ究極の押井版『パトレイバー』」



(つづき)

●分裂する志向性

―ところで、押井さんは、過去に伊藤和典さんが書かれた脚本を演出された作品が多いわけですが、お二人の志向性は元々かなり違うものでしょう。演出に当たって脚本に規制される側面はないわけですか。

押井
 それはないですね。少なくともアニメーションに関しては、演出万能論。物語もキャラクターも演出家のもの。脚本の比重というのは動機に過ぎない。

―押井さんも脚本のみで「パトレイバー」のテレビシリーズと第2期OVAに参加されていますよね。

押井
 ええ。脚本は6〜7本くらいでしたか。

―テレビシリーズが5話分、第2期OVAが4話分で計9話ですか。大元の話をさせて頂きたいんですが、元々押井さんの中では、「(うる星やつら2)ビューティフル・ドリーマー」や「パト1」の頃まではギャグとシリアスが融合・同居していた筈だったと思うんです。それが「御先祖―」の頃から、完全に分離したように見えますね。ギャグは「パトレイバー」の脚本数本、映画はハードな大作に二分されてしまった。丁度、宮崎(駿)さんがある時期に「ナウシカ」と「雑想ノート」を同時連載していたように、各々の作風が内的棲み分けを完了してしまったような…。

押井
 誰でもそういう分裂は抱え込むわけですよ。

―シリーズに番外編のような形で脚本だけを提供するというのは、一番おいしい行程を人任せにすることを意味していますから、一方で「演出万能論」の押井さんにとって、発散どころか逆にストレスにはならないのでしょうか。

押井
 それはやっぱり最初は溜まりましたよ。

―特にテレビの場合は、スケジュールの都合もあって作品の出来・不出来のムラが酷いでしょう。コンテ次第では脚本も台無しになることもあるわけで。

押井
 見ちゃうと、そりゃあ溜まります。ただ、昔からアルバイトで絵コンテをさんざん切って来たでしょう。ぼくらぐらいの世代で、アルバイトやっていない人はいないですよ。喰うためにさんざんコンテを切りまくった。その頃から、色々そういう思いはして来ましたから。

―脚本を提供された作品では絵コンテを一本も切られていないでしょう。押井さん御自身でコンテを切れば、ある程度意図した絵作りも出来たと思うのですが、何故コンテを切られなかったのかなと。

押井
 それは関われなかったから。関わる余裕すらなかった。更にテレビをやる気もなかった。何で脚本だけやったかと言われれば、はっきり言って生活に困窮していたからですよ。「パトレイバー」の脚本は、実はたいへんにおいしい仕事だった。脚本料はムチャ安でしたけど、何せビデオが売れたでしょう。そういう意味では、(脚本を提供した作品に関して)レイアウト一つに至るまで、自分が演出したらこうはならないというのはあるわけですよ。(人が演出した作品を)見る度にストレスを感じていた。

―経済的にはやむを得なかったけれど、監督としては自作と呼べない自作が放映されるというのは、つらい面もありますよね。その点今回コンテを切られなかったのはもっと積極的な理由で、スタッフへの信頼が前提としてあったわけですね。

押井
 「人狼」が大きかったですね。あれで、非常においしい思いをさせてもらった。勿論自分が考えていた展開とは全然違うものになっちゃったというストレスもあったけれど、仕上がり自体には感心した。見事なものだと。ああ、こういう仕事もあるのかと思った。だから信頼出来るスタッフ、信頼出来る監督と組む限りにおいては、脚本という仕事はなかなか面白いものだなと思ったんですよ。その経験があったので、同じ社内で神山がやると分かっていたので、それなら脚本だけでいいなと思った。今の作品(押井監督の新作長編)に入っていたので、それ以上のことをやっている時間もなかったし。

●時間が経過するとキャラクターが愛おしい

―時間がなくても、あれだけのテンションと情報量を詰め込むわけですね。

押井
 うん。残業で、チョコチョコっと一晩で一本。

―そんなに速いものなんですか。

押井
 「パトレイバー」に関する限り、ああいうバカ話はそれこそ無限に書ける。

―まさにネタは無尽蔵にあると。第1話は銃火器の検証番組風でしたが、ああした蘊蓄も改めて資料検索や照会をしたりはしないんですか。

押井
 ほとんど資料は見ないですね。鉄砲の話の方向性を少し確認したくらい。リボルバーカノンについては、あれが20mmの筈はないと最初から言って来て、劇場版の時に37mmに設定を変えたのかな。それでも、実際に37〜8mmの砲弾を見たんだけど、あんなものじゃないなと。どう考えたって、70mmは裕に越えているなと。そういう思いをずっと抱えてやって来たからさ、それをバラしたいというのがあって。そもそも「ロボットが嫌いだ」ということをあちこちで書いて来たんだけれど、さっき言った恩讐―恨みつらみみたいなもの、言いたくても言えなかったことをこの際だから全部言っちゃおうと。結局3本じゃ全部言えなかったわけだけど(笑)。

―そうですねぇ。そういう意味では、この作品は押井さんにとっての自己検証なり自己総括になっていたように見えました。あと2本くらいあっても良かったかも知れませんね。

押井
 昔だったら生々しくてやれなかった。今だからドライにやれたということですね。○○ちゃん(某スタッフ)に対する思いも色々あって、一時は腸煮えくり返っていたこともあったけど、今は生々しい憎悪はないですよ。愛おしい愚かさを認められるようになった。友人としてはあり得ても仕事のパートナーとしては永遠にあり得ないという。そういう思いをサラッと話せるのは時間のお陰だと思うね。色々なものを時間が解決してくれるなというのが今の実感。

―押井さんにとっても私的に重たい作品だったということですね。

押井
 「パト2」が終わった時はね、もう二度とやんないと思った。やるなら他の人がやればいいやと。

―小説版の「TOKYO WAR」を書かれていますね。あれは、映画版の不足を補って、一つの作品としてはより完成されていましたね。食べ物をめぐる見せ場も面白かったし。

押井
 だから、あれで本当に最後だと。それがもう一回関わろうと思えたのは時間のせいだと思うよ。やれば結構出来るもんだなと。じゃあ、もう一回「うる星」やれるか?と言われれば、…どうだろう?とかね(笑)。時々思うんだよね。今やったらどうだろう…とか、そうするとおぼろげに見えるものがあるんだよね。ガラッと押入開けてラムが顔を出して、相変わらずあいつら全然歳とっていなくてさ、そういう思いでやったらやれるのかなって気がして…。つまり愛おしい感じ。
あの頃は、あたるをいじめまくっていたわけだけど、キャラクターに対する愛情って不思議なもので、色々なものが時間が経つと愛おしいって感じになって行っちゃうのね。

●中年キャラクターへの思い入れ

―「ミニパト」について言えば、キャラクターについての思いを含めて、押井さんにとっての「パトレイバー」という作品の世界観が鮮明に打ち出された作品だと思いました。後藤・南雲両隊長に松井刑事、荒川といった中年キャラと、シバシゲオを中心としたT群としての整備班Uにしか興味がない。第二小隊の若者たちは完全に後景化している。

押井
 そう、小隊の連中からはどんどん遠ざかって行ってる。

―そういう意味では、押井さんにとっては究極の「パトレイバー」と言えると思いますが。作る度に削ぎ落とされて、核だけ残った。

押井
 そうかもね。「パトレイバー」の監督やってくれと呼ばれて、現場に入った時に決まっていたのは小隊の連中だけだったんだよね。最初に企画された段階で揃っていたキャラクターが、どんどん要らなくなって行くっていうのは不思議だよねぇ。
実はさぁ、後藤で一本、シゲで一本というのは最初から決まっていたわけ。三本目どうしようかという話になってね…。

―三本目はいつもの報告書パターンでハゼの干物のネット通販というアイデアが実に面白かったですが、南雲自身の話ではありませんから、松井刑事の語りで全然別の話でも良かったかも知れませんね。

押井
 オヤジシリーズで、全部オヤジでやろうかという話もあった。本当は荒川でやろうと思っていたわけ。(声の)竹中直人が高くて使えないだろうという話になって、面識はあったので個人的に頼めば何とかなるだろうと思ったんだけど、ぼくの知っていた電話番号が余りに古くてつながらない(笑)。それで諦めたの。どうせだったら、女の人の語りが一本あった方が一般のお客さんにも良かろうということもあって…、まぁ一般の人が理解出来るネタなのかっていうのもあったけど(笑)、しのぶというキャラは好きなので、榊原良子さんにお願いしようと。
欲を言えば、構成としてあったのは、松井でもう一本。冗談で言ってたんだけど、松井版の「ダイ・ハード」(笑)。

―それは見てみたかったですね。

押井
 松井は一回限りのキャラクターだったんだけど、何か妙に気になったんだよね。すごく光り方が良かった。ああいう風な運動能力ゼロ、オタクっぽい丸形体系の人間はどこにでもいるわけだよね。でも実はかなり頭が良くて、かなり好きなキャラクター。基本的に頭の悪いキャラクターは嫌いだからさ。松井に関しては違う形でもっと何かやれないかとずっと考えていたんだけど、今回は漏れちゃった。松井や荒川には感情移入しやすいんです。小説(「TOKYO WAR」)で多少書いたからいいかなという感じ。

―年配キャラでも榊班長には思い入れはないわけですね。固定化されたキャラクターなのでドタバタに適さないとか。

押井
 榊というキャラは、ぼくは意外とダメなんだよね。ぼくはああいう頑固な職人とか権威を振りがさすオヤジは大嫌いだから。依存症の若い人はああいう人に群がるでしょう。いわゆる「怒鳴れたい症候群」。すぐに棚の上に祭り上げちゃう。ぼくは、ああいうキャラクターはむしろ茶化したかった。それで一本書いているでしょう。

―ああ、OVAの「火の七日間」ですか。

押井
 そう。榊自身でなく、群がっているバカ共を茶化したかった。あれは脚本の真意が現場に伝わらなかった。やっぱり榊は人格者だとみんなに思われている。ぼくはそれは嘘だと思う。ただのガキみたいなワガママな爺さんだと。技術者とか職人が歳をとって、ある種の境地に達するとか、人格者になるというのは嘘だと。そこがやりたかったんだけど、上手くいかなかったみたい。

●整備班はT群Uとして描いた

―整備班の話と言いますか、男所帯の話がお好きですよね。整備班の設定は20人程度の構成だった筈ですが、テレビやOVAでは平気で50人になったり100人になったりしていましたねぇ。

押井
 ははは(笑)。あれは最初からそういうつもりでやってました。モブシーンになったら平気で100人でも200人でも出しちゃえと。方法論としては「うる星」と一緒でね、あれもクラス代表として4人組(メガネ・チビ・パーマ・カクガリ)を出した。4人を描くことで4、50人のクラス全体を表現した。学園ものと一緒の構造だよね。

―シゲの下にもう2人くらいいても良かったように思いますが。「パト2」ではブチヤマというキャラクターも登場しましたが。

押井
 数本(の脚本)ではあれ以上の三角形(の人間関係)は描けないですよ。シゲがいて、榊がいるという単純な構図にしてあるからギャグとして成立するわけです。整備班のドラマというのは基本的にはシゲと榊の話でしょう。あとはその他大勢がリアクションをしていればいい。軍隊で言えば、下士官がいて上官がいると、あとは隊としてのその他大勢で充分。だから、毎回顔が違っていようが、人数が増えようが大した問題じゃない。

―なるほど。一定数をきちんと描けば、群としての描写は抽象で納得させられるという。テレビにふさわしい合理的な省略法ですね。

押井
 「ニルスのふしぎな旅」をやったでしょう。あれで師匠の鳥さん(鳥海永行氏)に習いました。ニルスとキャロット(ハムスター)とモルテン(ガチョウ)がいて、雁の群れが確か12羽いたと思うんだけど、指揮をしているアッカ隊長がいて、あと数羽のキャラクターを描けば、あとはその他大勢。その他の雁は名前もないし、毎回声優さんも違う。群れとか集団というのは、そうやって描くものなんだと。「パトレイバー」の整備班なんて、まさにそれですよ。

●第二小隊に対する愛憎

押井
 第二小隊の6人は描くしかないから、やったけどね。あれは、本当は5人組ですからね。実は、5人組というメカものの基本構造は師匠(鳥海永行氏)が作ったものだからね。

―ああ、「科学忍者隊ガッチャマン」ですね。石ノ森章太郎さんの「レインボー戦隊ロビン」は7人でしたかね。いずれにしても、ヒーローとヒロイン、準ヒーローと子供か小男、そして大男という構成ですね。

押井
 レイアウトの都合上そうなるだけであってね、凸凹の身長の男と綺麗なお姉ちゃん。その枠組み自体、人間ドラマとして構成させるのは不可能でしょう?実に足手まとい。第二小隊も基本的にこの構造だったでしょう。チーム編成の都合上、人が足りなくて香貫花が加わっただけでさ。あとは、足りない女っ気を補ったという意味だけ。その前提が香貫花というキャラクターを締めつけている。いつも部外者で、疎外された存在。

―伊藤和典さんも香貫花が一番書きにくいキャラクターだったとおっしゃっていましたが。

押井
 ぼくに言わせると香貫花はブッちゃん(出渕裕氏)のキャラですよ。彼が好きな文武両道、クールな美少女。最初から気に入らなかった。ぼくにとっては嫌な女として描くことでしか描きようがない。野明がホットで香貫花がクールなんて描き方は3本しか持たないよと。6本とか、シリーズで年間通じてやった時に持つわけがない。絵に描いたようなキャラクターの構成というのは途端にパターン化する。それをバネにして演出するには、師匠に習ったんだけど「まず主役をとことんいじめろ」と。「うる星」でそれを実践して、2話でいきなり家まで潰してしまった(笑)。早かったけどね。そういう意味でも、「パトレイバー」は、かなり分かってやっている。「こうでしかない」と。

―その辺りは実に割り切っていますよね。

押井
 山崎なんて今回名前忘れていたからね。「あー、ひろみだっけ」とかね。多少思い入れがあるとすれば、太田だね。直情バカというか分かりやすい男は好きなんですよ。太田はあのまま、「撃ちたい、撃ちたい」だけで描いて行くとエンターテイメント的には絵になるでしょう。

―いつもリセットされているキャラクターですね。特定の行動で客を安心させる。

押井
 太田は香貫花に惚れているという説に傾いていて、そこを描いて行けばあいつの人間性が出ると思ったんだけど。

―小説版(「TOKYO WAR」)で香貫花に遺書を書くシーンがありましたね。シリーズの印象からは唐突なシーンでしたが。

押井
 そう。両親に遺書を書いて、その後誰に書くかと考えて、香貫花にした。それは映画でも実際コンテを一回切った。整備班の連中が迎えに行くと「香貫花クランシー様」と書いているカットがあった。尺が足らなくて切っちゃったんだけど。意表を突く瞬間に人間性がポンと出て来る時があるでしょう。かい間見える脆さみたいなもの。
逆に、後藤みたいなキャラクターはあれ以上いじりようがない。弱さを表に出すことで武器にしてしまっているわけだから、内的な弱さを描きにくい。それをやるとすれば、昔何かあったとか過去に遡るしかない。「トラウマ方式」だね。ぼくが一番嫌いな方式で、それは嫌なんですよ。アニメでは一番ウケているやり方。

―無数に繰り返された方式で、実に分かりやすいですが、まさに通俗ですね。現実には、過去のトラウマだけで現在を生きているわけではないですから。

押井
 だから、現在ただ今の生活の中でだけで描けないものは、いくら過去を説明したところで描いたことなはならんだろうと。だから、後藤のようなキャラクターはあれ以上描きようがない。最初にテンパっちゃった。だから、いじくっていない。(南雲)しのぶさんは相当いじくってしまったけど…。

●野明は棚に上げるしかなかった

―泉野明と篠原遊馬というT設定上の主人公U二人についてはいかがですか。

押井
 遊馬ねぇ。伊藤(和典)君は「遊馬は野明がいなければ何も出来ないヤツじゃん」と言っていたけれど、ぼくに言わせれば伊藤君そのものですよ。理屈先行で最後は他人に下駄を預けてしまう。そういう意味では、香貫花とか遊馬には特別な感情がありましたね。

―野明には更に思い入れが感じられませんね。「ミニパト」でもマスコットに使われている割に台詞すらないですが。

押井
 野明に関しては何もなかった。これっぽっちもなかった。最後まで何もなし。理解不能。何故こいつが窓側にいるのか?と。未だに分かんない。主役は目立った方がいいというだけでね。「野明自身でドラマをやれ」と言われれても、ぼくにはやれません。実際ぼくは一回もやったことがない。野明のイメージってせいぜい「ロボットを磨いている女の子」というだけでしょう。何でそうなったのかなんて、ぼくにはどうだっていい。それには、伊藤君がチャレンジして、ぼくに言わせれば轟沈した。過去に遡って、アルフォンスっていう犬が出てきて、次は猫だったとか、バスケットやってたとかね。

―それが「トラウマ方式」ということですね。

押井
 そう。それで野明という人物が描けたかと言うと、全然描けてやしない。現在で描けないものは、いくら過去に遡ったって描けやしない。何故現在、ロボットを磨くのかを描き切らないと、一つの記号にしかならないでしょう。
アニメというのは良くしたもので、お客さんはそういう記号を喜ぶんだよね。同じことを繰り返すと喜ぶ。太田の鉄砲と一緒でさ、ワンパターンになることで、お客さんの欲求を満たす。ぼくはそれが嫌だった。絶えず客の期待を裏切るような方法でこちらの土俵に引っ張って来れなければ演出家の仕事じゃないと思っているから。

―「パト2」の「レイバーが好きなだけの女の子でいたくない」という台詞には何の説得力も感じませんでしたが。カットされた内面のドラマを一言で表現したかったのでしょうが…。

押井
 アニメが商品であるためには、必ずそういう一種おざなりなキャラクターが要るわけですよ。意味不明に存在しているメカ好きの女の子(笑)。それに触れると雷が落ちる。野明の頬に影一つ加えただけで、大騒ぎになって方々からクレームが来るとかね。「うる星」のラムと一緒でね、疫病神…は言い過ぎだけど、触れないでおいた方がいいキャラクター。歳とって学んだのはさ、そういうのは神棚に上げておけばいいんだと。そうすれば、誰も騒がないし、ファンも喜ぶし、自分がやりたいことも出来る。そう決意してやった途端楽になった。主役の野明ちゃんはあえて事を起こしたくないから神棚に上げておけと。一切触れるなと。下手に構わないで放っておけと。

―確かに無理な設定ではありますね。野明という少女は「うる星」のラム同様、最後まで不可解な存在だったと。押井さんには流行式のヒロインの成長ドラマを描く発想は今後も含めて全くないわけですね。

押井
 ない。基本的に監督の最大の仕事は何かと言うとさ、キャラクターの配置なんですよ。この初期設定にしくじると取り返すのが大変で、2クールくらい平気でかかっちゃう。取り返す方法として、富野(由悠季)さんがよくやる「戦死方式」。都合の悪い目障りなキャラは殺す。もう一つが神棚に上げる。そのどちらかしかないんですよ。実に簡単なことで、多くの人は無意識にやっている。

●声優各氏との距離について

―「ミニパト」に話を戻しますと、「御先祖―」の頃に思い描いてた新しいアニメーションという技法はかなり達成されたと思っていいのでしょうか。

押井
 かなり達成感はありますね。確かにエンタテイメントにはなっているでしょう?セルのキャラクターが動画で動いていなくても、アニメーションは成立するということを見せたかった。

―個人的には、アニメーションならでは表現をもっと突き詰める余地があったとも思うんですが。

押井
 丁度いいんじゃないかなぁ。商業アニメでこういうことをやったこと自体が、自分でやってから気がついたんだけど、これはとんでもないことになったと。やっている時は面白がってて全然気がつかなかったんだけど、よく商業アニメでこんなことをやらせてくれたなと。基本的には「パトレイバー」というグラウンドの力。それ意外に何もない。

―脚本の情報量がすさまじいですから、良くも悪くも映像を味わう暇がないようにも思いましたが。

押井
 声優さんは大変だったね。大林(隆介)さんが健闘してくれて、感心しました。ああいう喋りは大林さんに合っていると思いましたね。千葉(繁)君が大変だったね。あのテンションでずっと喋りっ放しでしょう。さすがに参っていたみたい。しのぶさんは緩急あってすごく良かったなぁ。昔から(榊原)良子さんは好きだったんですが、改めてすごい人だと思いました。

―「ニュースステーション」のナレーションは一面でしかないと。

押井
 そうそう。ぼくは「(うる星やつら)オンリー・ユー」の時のエルというキャラクターを演ってもらってからだから、もう長いつきあいですね。お歳を召して肩の力が抜けて、とても良くなった。良子さんは、とても頑固な役者さんで、非常に情熱のある方ですね。あの人は、あのクールな声だから誤解されている面があるけれど、役作りを完璧にやる人でね。役によっては一週間前からテレビを見ないとか。当日もきちんと早起きして体調を整えて、マイクに立つ時に最大のテンションに持っていくという準備作業をやっている。そういう役者さん相手にはいい加減な演出は出来ない。

―そういう声優さんとの距離は独特のものがありそうですね。キャスティングについては、「押井組」の常連さんで固められるケースが多々あるようですが…。

押井
 最終的に付き合うエネルギーは好みとか人間性の問題でしょう。深く付き合うとこちらの意図を汲み取った上で意外な答えも出してくれるものですよ。キャスティングをコロコロ変えるのは好きじゃないんですよ。面白い人とずっと付き合った方がいい仕事が出来る。お姉ちゃんとのつき合い方と一緒でね、とっかえひっかえすることが経験値を上げることにはならない。コロコロ変えるのはただの浮気性ですよ。

―劇場用の大作だと、著名な役者さんを使うケースが多々ありますね。宣伝的な効果も狙ってそうした横槍が刺されることはありませんか。

押井
 ありますよ。「またですかぁ」と言われる。ぼくとつき合う人間にとっては珍しいことでも何でもなくて、そういう意味では延々と「またぁ」なんですよ。宮さん(宮崎駿)だってそうでしょ?「またやるの?」とみんなに言われている。「またやるよ」「一生やるよ」と。繰り返すものはあっていいし、そこで全然違っていたらおかしい。変わるのは一生に一度あるかないかでしょう。コロコロ変わるのは確信のない証拠。「ニミパト」なんて「また」だけの世界ですからね。

―音響プロデュースというお仕事の内容について伺いたいのですが。

押井
 いつもと同じですよ。川井(憲次)君のところへ行ってあれこれ相談して、じゃあこれで行きましょうと。それで収録に立ち会って。プロデュースという意味では、どうやってお金を捻り出すかという陰謀というか算段ですね。今回のコンセプトについては川井君が出したものです。川井君自身のパロディ。他の人がいじったら許されるものじゃない。「ああ、この手で来たのか」と。今回でまた川井君はテクニシャンであるということを証明した。自分が作った「パトレイバー」の音楽をあれだけコケに出来たというのは大したものです。人間的に面白い人なんですね。片意地を張るような人なら出来ない仕事です。それでいて自分の音楽の主張だけは絶対変えないからね。その辺りのバランス感覚はすごいなぁと思う。自分のものは触らせないという頑固な人もいるわけで、自分自身で自分を叩くような人はなかなかいないでしょう。それは余裕があるからであって、知的であるということです。そういう意味で言うと、川井君とは今後も仕事が出来ると思う。これでまた当分変えることが出来なくなってしまったと(笑)。主題歌の(兵頭)まこに関しては、最初から頼むつもりだったし、引き受ける交換条件の一つだったから。

●三次元空間に二次元キャラクターを遊ばせる

―技術の話に戻しますと、個人的にはオープニングがセルアニメーション風で面白かったですね。特に踊るイングラムはよく動いていて、ロボットらしからぬグニャグニャした関節の感じが良かったですね。

押井
 あれは本当に大変なんだよ。筆ペンで動画を描いているわけ。筆ペンで動画を描くというのは至難の業なんです。普通のアニメーターには描けない。つまり、他の人には中割出来ないから自分で描くしかない。鉄つんがいなかったら出来ないアニメーションですね。キャラクター表だって、作っても誰も描けないからね。

―本編は一度実際に紙芝居で演技した映像を撮って、デジタルで加工処理したと伺いましたが。

押井
 割り箸に紙に描いたキャラくっつけて鉄つんが声まで出して演技したのをビデオで撮って、それをリファレンスにして三次元の映像にした。だから、常に微妙に上下に揺れているでしょう。あれは人間の実際の動きの要素が入っていないと、ああはならない。だから、一種のTライブ感Uが出ている。つまり、鉄つんのようなアニメーターがいて、それを許すスタジオだから成立したわけで、他のスタジオでこんなことをやっていたら「真面目に仕事をしろ」という話にしかならないでしょう。

―そうすると、一種のロトスコーピングと言いますか、ライブアクションの変換で作られていると。

押井
 CGをアニメーションにどう採り込むかということでは、ここ数年色々試されたでしょう。ぼくは、あるCGアニメーションのコンペの審査員をやっていて、「この手があったか」と閃いた。三次元空間で二次元のキャラクターを二次元として扱う。ヨーロッパの方ではよくやる手法で、元々そういう伝統もあるしね。紙人形の手法自体は古典的なものだけど、それを三次元のCGでやるということに意味があった。それ自体、前例は幾つもあるわけだけど、それを商業アニメで堂々とやっちゃったという点が前例のないことですね。ま、一言で言うと「サンダーバード」方式と言うか、そのデジタル化です。

―三次元と二次元のギャップの面白さですね。スタジオジブリの「となりの山田くん」や「ギブリーズ」では、かなり手間をかけた3Dアニメーションを模索していましたが、あえてチープに見える手法で望んだ意図というのは。

押井
 あれは手法としてはセルアニメーションの延長でしょう。これは、どこかセルアニメーションじゃない。そもそも動画がないんだから。一番革新的な部分はそこにある。

―「筆ペン動画」でセルアニメーション的に押し進めると大変なことになりそうですね。

押井
 それをやるんだったら、ぼくは初めからやらなかった。ぼくの最初のイメージは「猫目小僧」(「妖怪伝 猫目小僧」1976年/和光プロ)だもん。

―ああ、確かに同じですねぇ。あれこそ棒付き紙芝居でしたから。当時ゴールデンにあれが放映された時には驚いたものです。

押井
 あれを3Dでリッチにやったらどうなるかということですね。そういう意味では、クレーンもCGIも入れたし、充分リッチにやりましたと。単純な作りの中で、きちんとアニメーションが出来るということを示したかった。

―今後、この手法をスタンダードにして別の作品に望むということはお考えですか。

押井
 ぼくはこの方式はタイトな作品には今後も当てはまると思っている。だから、このパタパタ方式で「ミニパト2」をやれと言われればやりますよ。誰もやらせないだろうと思うけど。

●動画がなくてもアニメーションは成立する

―押井さんにとってアニメーションという手法はまだまだ余地がありそうですか。

押井
 うーん。たとえば、大島渚の「忍者武芸帳」(1967年/創造社)って映画が昔あったでしょう。ぼくに言わせればあれもアニメーションですよ。

―あれはアニメーションとは言えないでしょう。漫画のコマをカメラワークで無理矢理見せた台詞劇ですから。

押井
 動きがなければアニメーションじゃないというのは違うと思う。動画がなくてもアニメーションになり得ます。いわゆるライブアクションでなければ、現実を撮影したものでなければ、素材から映画を作り出すという過程は全部アニメーションでしょう。その括りで言えば、実写だって素材として扱う限りに於いてはアニメーションなんですよ。

―理念としてはコマ撮り撮影なら全てアニメーションと言えますね。ただ、「創作された動きを追求してこそアニメーション」という見方もあっていいとは思います。

押井
 フルアニメーションを否定するわけではないけど、動画はなくてもアニメーションにはなる。その意味では「忍者武芸帳」も立派なアニメーション。中途半端な下手な動画が入るより、原作そのままの絵の方がいいじゃない。アニメの「(忍風)カムイ外伝」より、よっぽど好きですね。

―ただ、「忍者武芸帳」は130分以上の長尺でしたよね。声優陣こそ豪華でしたが、まるでラジオドラマを聞きながら他人の手でめくられて漫画を読んでいるようで、実に疲れる。もどかしいし、生理に合わない。あれなら、音声と効果音だけ流して漫画は各自で読んだ方がいいのでは…。長尺のエンタテイメントとして、あの手法が定着しなかったのは当然だったと思いますが。

押井
 確かに尺は長い。あんなに長いときついね。

―短篇でしか成立しない手法もあっていいとは思いますが、短篇なら短篇にしか出来ない豪華さが欲しいと思います。

押井
 だから、今回は広島とかアヌシー(国際アニメーション・フェスティバル)じゃなくて、商業ベースで出したという所が面白いわけですよ。ぼくは、広島やアヌシーの世界は大嫌いですね。やってる人間や作品が嫌いなんじゃない。世界観というか空気がね、アニメーションをどこかで差別化して成立している。ぼくらは「ペイして何ぼ」の世界でずっとやって来たから、ああいう世界は違うと思わざるを得ない。漫画と実写が違うように、たまたまアニメというジャンル分けで同じ俎上に乗せられているけど、全然違うものですよ。
たとえば高畑(勲)さんが評価している(ユーリー・)ノルシュテイン。あのオヤジが撮った作品自体は嫌いじゃないけれど、本人は大嫌いです。だって、彼が何年もかかって撮影台を占領している間、資金もたくさんかかるわけだし、多くのアニメーターが撮れずに泣いていたわけでしょう。出来たものが良ければそれでいいかも知れないけれど、周囲に遺恨は残る。それを抜きにして本人は語れないでしょう。そういう共産圏の特殊な環境で成り立っている作品と、自分たちの作品が同じものであるわけがない。ぼくたちだって、作品を作れば誰かの機会を奪うことになるわけで、その意味では同じだけれど、そうした犠牲に無頓着でやりたいように作り続けるという無頓着な神経は信じられない。だからノルシュテイン本人と話したいとは思わない。
(アンドレイ・)タルコフスキーについてもそうです。作品は好きだけど、本人は嫌い。やっていることはノルシュテインと同じですよ。実写だから亡命まで追い込まれたけれど、ノルシュテインはアニメーションだからそこまで至らなかっただけだと思う。

―ある意味無制限に作家性を追求した作品と、一定の時間的資金的制限の中で自分たちの作品とは根本的に違うという認識ですね。すると、押井さん御自身のポジションというのはどういうものとお考えですか。

押井
 ぼくはあくまで商業作家です。エンタテイナー。依頼された商品という枠の中でいいものを作ろうと努力している。国家とか宗教のバックで撮りたいとは毛頭思わない。商品として成立する予算だから、隙を見ていいものを作ろうという意欲も生まれるんであってさ、税金とか献金でやりたい映画が出来る筈がない。

―ただ、押井さんの作品も特に海外ではアートとしての評価もありますよね。商品として作られたものという前提抜きに作家性のみが強調されて理解されている印象も受けますが。

押井 それについては、矛盾も葛藤もありますよ。ただぼく自身は、今のポジションが大変気に入っているんです。だって、それが映画を今ある形にしたんだもの。観客がいて、お金を出す人がいて、作り手がいるというね。

(時間制限一杯で終了)
於 Production I.G
2002年2月8日



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