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ちょっと待て [世間]

なんと云うか、エントリによって結構文体がばらばらだ。もちろん意図したものではあるけど(きくまこ氏に云わせると、それでも「高校生の頃から文体がおんなじ」らしい)。
本質的には、好き勝手書くと「である」調なんか出てこない。ルーツは関西人の筈なのになんか変なべらんめえ調になる。いちおうエントリの内容に合わせて文体を選んではいるのだけど、もう地の文体で行く。浄土宗の坊さん3人でやってるらしいブログの水は答えを知っているってエントリを読んじまったので。

仏教はそもそも無神論だと理解していた。それでもなんとなくそう思えないような説法のし方をするのは、それこそ方便だと思っていた。でも方便は方便で、本質を曲げるような方便は許容される訳がない。まぁ、実際のところ宗教としての意義をほとんど失って見えるようないまの日本の仏教でどれだけその哲学の本質が残っているのか分からないけれど。

その人間がどのように生きるべきか。

健康で幸せな人生を送るにはどうしたら良いか。


体内の70%の水をきれいにするべきです。

それどんなお経に書いてあるんだ?

そこで、普段飲んでいる水、身体に取り入れるありがたい水ですが、

結晶にすると様々なことがわかるのです。

私は、お経を唱える時にお水を目の前に置き、終わると

そのお水を飲んでいただきます。

どんな新興宗教だよ? プロフィールに「浄土宗」って書いてあるのは、ありゃ嘘か? 浄土宗の教えにそんなのが混じってるのか。浄土宗には詳しくないけど、おいらの知ってる仏教と違うなだいぶ。

そんな中、ある本に出会い、確信しました。



お水がお経を聞くと、このような結晶になります。

あんた、本業の坊さんだろ? お経を読んで、日夜勉強してんだろ?
あんたの確信をこんないかさまに補ってもらってどうするよ。あんた勉強したことを説法とか勤行とかで世間に還元することでおまんま喰わせていただいてるんじゃないのか? ちゃんと真面目にお経読んでるのか?

仏教は長年かけて考察が重ねられて洗練されて来た哲学であり科学だろうがよ。そこの中にはちゃんとしたひとと世界の関わり合いについての知恵が積み重ねられてるんだろうがよ。違うのか。
本業の坊主ならそこを掴めよ。変な本言い訳にして安直に訳分かんねーショートカットしようとすんなよ。ひとの心を水なんぞに証明してもらって、なにが仏教だ。そんなことが可能なんだったら、坊主なんか止めて波動物理学者とやらにでもなっちめぇ。

私は、お経により神聖な結晶になったお水をたくさんの方に飲んで

いただけれるよう、日々精進いたします。

寝ぼけんな。あんたのお経は阿呆陀羅経か。お経にはちゃんと意味があるんだろ。その中にはちゃんと積み上げられた、人生をよりよく生きるための哲学があるんじゃないのか。なんかありがたい言葉をだらだらくっちゃべるだけがあんたのお経か。だれ云うとなくいい言葉だとか称して空疎に「ありがとう」とか並べ立てるのと、あんたの読経は似たようなもんか。読み上げてりゃ功徳があるのか。気楽な商売だな坊主ってのは。

あんた勉強して坊主になったんだろ。
あんたの商売がなんで成り立ってると思ってるんだ。あんたの商売を成立させてるのは、長年仏教が積み重ねて来たいくつもの智慧を、あんたが背負ってるからだ。あんたが口にする言葉は、その智慧を分かりやすく伝えてくれるもんだとみんなが思ってるからこそ、あんたは口を糊していけるんだ。
通じやすくて騙しやすい口当たりのいいだけの理屈を並べ立てれば渡世を張れるとか思ってるんだったら、頼むから勉強し直してくれ。あんたの考え方は仏教を安物の新興宗教と同じところにまで引きずりおろしてる。


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apj

 牧師の次は坊主か……orz。

 ちょっと前、通ってる教会の牧師が還元水にはまってしまい「神の奇跡より水の奇跡」状態になったという相談が某所に書かれていたんだけど。それどう見ても邪教だし、ってツッコミ入れたんですけどね。
 仏教は、異端審問なんかないけど、だからといって坊主がこんな安っぽい話を何で信じるんだか……。
by apj (2007-05-07 02:36) 

内海

私の認識では、日本の仏教徒ってこういうトンデモの泥沼に嵌っていく人が多いです。
例えば以前ある哲学関係のブログで、真言宗の坊さんが「縁起説と量子力学には覚者にしかわからない深い繋がりがある」とか「ホーキングの虚時間は空思想の具体例だ」などとコメントしまくっていたのを見た事がありますし、実際私が参列した葬儀で浄土真宗の坊さんが「人が死んでもこの世で魂がさまよう事はありませんが、死んだ瞬間に世界は「その人が死んだ世界」と「その人が死んでいない世界」に分かれて存在する事が現代科学の量子力学というもので証明されています」と言っているのを目の当たりにした事もあります。
私が思うに、もともと仏教は毒矢の喩えとか、ブッダの形而上の考えには無記を貫くとかして、人が日々生活をおくる上での生きる智慧を説くものだったんでしょうけど、もうその思想が現代人の生活上の悩みをフォロー出来なくなってきているのではないかと。
精神的な悩みには心理学や精神医学の観点からアドバイスや治療が受けられますし、失業や貧困などは経済学抜きでは解消は覚束ない。
哲学的な悩みの解消を仏教に求める人間も、現在ではそうそう見ないですし、それを行おうとした京都学派の哲学者達が何か重要な思想を生み出したかというと、そうは見えませんし。
だからこそ、彼等からしてみれば、水の手も借りたいというか(^_^;)彼等の思想を補強する何かの根拠が欲しいのではないかと思うんです。
by 内海 (2007-05-07 12:33) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

邪教に堕した坊主ですね。

>お経にはちゃんと意味があるんだろ。その中にはちゃんと積み上げられた、人生をよりよく生きるための哲学があるんじゃないのか。

その通りなんですよ。久々に仏教論を少し語ってみますとね。仏教というのは無神論ではなくて、大宇宙にあまねく存在する「大慈悲」というものがあるのです。そしてそれが人にわかる形をとるものが「如来」ですね。でもって、様々な経文というのは、「大宇宙(三千大世界)には大慈悲があまねく満ちあふれている」という事とか「我々はその大慈悲の中で生かされている」という事を理解して貰うための教えなんですね。

もともとに「大慈悲(仏性)」は宇宙にあまねく満ちあふれ、そこには何の偏りも無いものですから、お経を唱えた水に大慈悲が増えたり減ったりという考え方は、仏教の本質に抵触する邪教という事になるわけです。水にももともと大慈悲は満ちあふれていると考えるのが仏教の本質であり、それゆえ、乾きを訴える者があれば水そのものが「我を飲め、乾きをいやせ」と語りかけ、もしその水が身体に良くない物に汚染されていたら、水の大慈悲は「我を飲むな」と語りかけるということを説いているのが経であると考えても良いかも知れません。

「正道に奇特なし」というのは、その大宇宙の大慈悲が偏らないという事を説いたものであるわけです。
by 柘植 (2007-05-07 12:47) 

かも ひろやす

よりにもよって、「浄土宗」を名乗ってそれはいけません。お経の力が減税の存在に働くというのを否定するのが、他力本願じゃないですか。
by かも ひろやす (2007-05-07 13:08) 

かも ひろやす

すみません。
減税→現世
by かも ひろやす (2007-05-07 13:10) 

pooh

> apjさん

なんか「教師なのになぜ」に近い衝撃を受けました。
坊さんに職業上必須とされる技能はなんなんだ、と小一時間(ry
by pooh (2007-05-07 21:55) 

pooh

> 内海さん

仏教哲学ってもともと科学に親和性のある性格があって、その分ニセ科学にも近づきやすいのかもです。

などと云いながら、実は現代日本仏教が、宗教哲学としてぼくらの日常の中にほとんどプレゼンスがないことに気付いてしまいました。ぼくの知っている仏教哲学についての知識は、お寺から得たものじゃない。これだけお寺があるのに。
宗教として機能してるのか日本仏教。
by pooh (2007-05-07 22:02) 

pooh

> 柘植さん

うわ、珍しくきつい云い方(^^;。

いや、ぼくも仏教の本質って、そうそう分かりやすい法話なんかで世俗に伝えうるようなもんじゃないだろ、みたいに考えてたりして。でも、ぼくの少しだけ(雑学的知識として)知っている仏教哲学と、日本仏教とは直接繋がらないものなのかも。

ってえか、坊さんって宗教者であり、哲学者じゃないんですかね。
その辺りどんなもんなんだろう。ちゃんと仏教哲学を探究することが仕事の中に入ってこないのかな。
by pooh (2007-05-07 22:07) 

pooh

> かも ひろやすさん

浄土宗の教義って、ほとんど分かってないことに気付きました。
って云うか、ちゃんと背景として哲学は存在するはずですよね。

坊さん、ってのが本質的に何を職業としているのか、だんだん分からなくなって来た。でも内海さんが云うみたいに「なんとかして話を聞いてもらうためにお水さまの力も借りなきゃいけない」みたいな発想があるとすれば、これって水伝授業をする安直な教師と変わりませんねぇ。
by pooh (2007-05-07 22:10) 

柘植

こんにちは、pooh さん。かもひろやすさんの方がお詳しいとは思うけどね。仏教の変化とかも踏まえて少し語ってみますね。

>浄土宗の教義って、ほとんど分かってないことに気付きました。

私もまた「他力本願」の浄土宗の坊主が、こういう「たわごと」を言うから「邪教に堕した」ときつくいう訳です。

「他力本願」の「他力」とは何かというと阿弥陀如来の力なのね。上で言ったように、如来というのは大宇宙にあまねくみちあふれる「大慈悲」が形をとったものにすぎないわけです。「阿弥陀如来はあなたをお救いくださるから、ひたすら『南無阿弥陀仏』と唱えておすがりなさい」が法然上人が教えた浄土宗の教義といって良いわけです。そう考えると「お経を唱えたありがたい水」なんてね、どこの密教に鞍替えしたのかと疑いたくなるわけです。

もともとのインド仏教との関係を言うと、元々仏教は上座仏教(大乗仏教から言うと小乗仏教)から始まったのね。「宇宙の慈悲と縁を結んで、自ら修行する事で悟りに至る」って考え方ね。今でもタイとかチベットでは子供の時に一度、寺に入って修行するよね。それに対して釈迦は、「必ずしも自ら僧となって修行しなくても救われる」という考え方を出したわけね(衆集済度)。「人を救いたいと思うこともまた修行(菩薩行)」という考え方を取り入れたからなのね。自分は菩薩行という修行をするから救われて、「この人たちも救われて欲しい」と思う相手は修行していないのだから救われないだといろいろ矛盾が起こるのね(笑)。

日本でも最初に入ってきたのは密教と言われる上座仏教なのだけど、やがて大乗仏教も入ってきて、鎌倉時代に民衆への浸透が起こるのだけど、その時に「どうやって救われる」という理屈として「阿弥陀如来の慈悲により」という考え方を鮮明に出したのが浄土宗なんですね。

余談だけど、「菩薩」というのは仏ではなくて「修行者」なのね。自ら悟ってもいないのに「ああ、この人(たち)も救われれば良いな」と願う修行者なんです。でね、私は悪徳商法レス屋時代にいろんな被害者にレスしていた訳だけど、被害者が別な被害者を「励ます」姿を何度も見てきた訳ですよ、「私も解約交渉中です。私も頑張るから何々さんもめげないで頑張ってね」なんてね。これが「菩薩」の姿かななんて思ったりしましたね。
by 柘植 (2007-05-08 08:47) 

pooh

> 柘植さん

「他力本願」ってのは「阿弥陀仏はあなたを救いたいと願ってますよ」ってことですよね。だから例えばお経を唱えるとか、そう云うことで自分が力を発揮してなんらかの「ありがたい」現象を生ぜしめる(自力によってなにかの救いを成す)のは教義上矛盾がある、って理解でいいんでしょうかね。

こう云うことを柘植さんに教えてもらうのもなんだか本質的な力量不足を感じないでもないです(^^;
by pooh (2007-05-08 22:59) 

柘植

こんにちは、poohさん。

>自分が力を発揮してなんらかの「ありがたい」現象を生ぜしめる(自力によってなにかの救いを成す)のは教義上矛盾がある、って理解でいいんでしょうかね。

浄土宗とか浄土真宗というのは、仏教全体から見ると少し特殊だとも言えるし、別な見方をすると仏教の本質とも言える面があってね。要は「救い」なんだけと「救われる事を目的」に信仰するのじゃなくて、信仰することで「自分は必ず救われる」という「安心感を持つことを目的」にするわけです。慈悲というのは「誰に対しても分け隔てなく、相手のためになるように接する」という事だから、そうすることを人に求める仏が人を分け隔てする訳は無いじゃないかという訳です、たとえ信者でなくとも、悪人であろうとも、当然、仏は分け隔てなく救う訳です。「皆救われるなら、じゃあ信仰なんてする必要ないじゃないか」となるところを法然上人は、「必ず救われると信仰すれば生きている間が安心じゃないか」という訳ですね。つまり「救われる事」が目的の信仰じゃなくて、「救われると信じることで安心する」のが目的の信仰なんです。ねっ、なんだか宗教として「特殊」にも見えるし、一面、宗教としての本質でもあるでしょ(笑)。

実のところ浄土宗とか浄土真宗というのは、「現世利益」どころか「来世利益」も約束しちゃっているのね。お代はゼロの大バーゲンなんです。その大バーゲンがあるということを信じさえすれば、「生きている間、悩まなくて済むでしょ」の方が「信仰する事の御利益」なんだからね。来世の利益まで信仰という対価なしにバーゲンしてる宗教はなかなかありませんよ。そんな宗教において「ありがたい水」を説くというのは、バーゲンの否定につながる訳です。なぜなら、現世において、「経を唱えた水」と「そうでない水」に「分け隔て」をしている訳だから、当然、来世のバーゲンだってお代はタダのバーゲンじゃなくて、「救う者と救われない者の分け隔て」するだろうということになるからね。

>こう云うことを柘植さんに教えてもらうのもなんだか本質的な力量不足を感じないでもないです(^^;

実はね、TVで寺の修行僧のルポルタージュみたいな番組(結構好きなのでね)を見ていると、かみさんが「不安な顔」で私を見ていたりするんですね、「まだ、ダメよ」なんて言うこともある。かみさんには「いつ出家遁世しても不思議はない」部分が私には見受けられるらしいんですね(笑)。
by 柘植 (2007-05-09 17:08) 

katsuya

> 柘植さん

仏教や浄土宗や浄土真宗の教義の解説は、とても判り易いと思うのですけれど、歴史的に必ずしも正確ではないと思います。例えば「日本でも最初に入ってきたのは密教と言われる上座仏教」と言う部分ですが、上座部というのはスリランカなどの南伝仏教です。日本に最初期に入ってきたのは、華厳宗や法相宗(玄奘三蔵が伝えた唯識系)といった大乗仏教ですし、密教(金剛乗)が日本に本格的に伝わったのは平安時代に入ってから空海などによるものです。
 
オウム真理教事件のときのように、宗教絡みのトンデモさんなどを相手にするときは、関連知識に正確さを欠くとまずいと思いますし、また一方で、通俗科学本のいい加減な知識や説明に対して一部の科学者が抱くのと似たような軽侮の念を宗教関係者に持たれかねません。

柘植さんは明快な語り方をされているし、高い問題意識をお持ちだと思うので、ちょっともったいないと思います。
by katsuya (2007-05-09 19:45) 

pooh

> 柘植さん

なんかずいぶん「救い」の内容を洗練させた教義なんですねぇ(^^;。信者が求めるものを提供することに特化した、と云うか。なるほど。
ってえかそれだけ教義が絞り込まれていると、まじないじみたものは本来入り込む余地はないわけですね。
by pooh (2007-05-09 22:13) 

pooh

> katsuyaさん

それよりなによりぼくが柘植さんに教えていただいているところからそもそも(ぼく的には)問題なんですけどね。どっちが文系だか(^^;。

でも、本題でない部分で揚げ足を取られるのはまずいのかも、ですね。実はそういう部分も含めて、ぼくはここではずっと宗教について触れるのは慎重になっていたりしたんですが(Marco11さんにも叱られたし)。
by pooh (2007-05-09 22:13) 

かも ひろやす

この範空憲明(板坂憲明)という方、他のエントリでも浄土宗らしからぬことを書いていますね。
5月9日の「亡くなった方の為に 死と心」で、「悲しいから、また帰ってきそうだから、そのようなことを口にしながら、部屋をその時のままにしたり、信じられないから、まだ近くにいそうだから、そのようなことを想いながら、その時のままの状態にしたり、それだけはやめましょう。本人は裾を引っ張られるようで苦しみます。」(引用にあたって、大量の改行を削除)。

残された人の行為で、亡くなった方が苦しむって、そんな。この方、宗派を間違ったんじゃないですか。
by かも ひろやす (2007-05-10 05:02) 

pooh

> かも ひろやすさん

宗派ごとの教義の違いって、いまどんな意味を持っているんでしょうね。宗派内、ってことじゃなくて、社会のなかのその宗派の位置づけ、みたいな部分で(あぁ、なんか漠然とした言い方だなぁ)。宗教、としての役割を果たすために持つ宗派としての意味合いというか。
と云うかなんかもうそもそも従来の日本仏教は宗教としてのお仕事をしていないんですかね(このプレゼンスの薄さからして)。それともそういう教義の部分は、それほど重要ではない、ってことなのか。この辺江戸幕府による「宗門」の定義が影響してるのかも。

どうもぼくの発想は議論を拡散していく方向に向かうなぁ。仏教批判をしたいわけじゃなくて、もともと宗教に一定の役割を期待したい、と云うだけの話なんですけどね。
by pooh (2007-05-10 07:52) 

柘植

こんにちは、katsuyaさん、どうもありがとう。そして皆さん、いろいろ間違えて済みません。

>日本に最初期に入ってきたのは、華厳宗や法相宗(玄奘三蔵が伝えた唯識系)といった大乗仏教ですし、密教(金剛乗)が日本に本格的に伝わったのは平安時代に入ってから空海などによるものです。

このあたり、完全に私の勘違いです。勉強が足りなくて、密教と顕教の関係と、小乗と大乗の関係が頭の中で入れ替わったりします。すみません。

>上座部というのはスリランカなどの南伝仏教です。

この部分も私の勉強不足が原因でして、大乗に対する小乗を表す良い表現を知らないのです。小乗仏教と呼んでしまえば一番簡単なんですが、「小乗」という表現そのものが大乗仏教からの「差別的意図」が入っているので、遠慮してしまうと、なんて呼ぶのが一番良いのか、分からないのですね。何か良い表現があったら教えてください。
by 柘植 (2007-05-10 08:09) 

内海

 poohさんの仰っている江戸幕府の本末制度の他にも、私は檀家制度も哲学的な思想を日本の仏教徒が軽視し出した原因ではないかと私は考えてます。
各宗派の坊さんからしてみれば、黙っていても自分達の寺の檀家になってくれる人々がいるわけで、自らの教義をわかりやすく説明する努力をする必要があまりない。
そんな環境下で宗派間の信徒の獲得競争をする際には、哲学的な教えを説くよりも現世利益を前面に押し出した方が受けが良かったと思われます。
あと、やはり法華系の新興宗教団体、創価学会や霊友会などが戦後多くの信者を獲得していったのも影響しているのかな、と。
創価も霊友会もバリバリの現世利益追求の、仏教の哲学的な側面をほとんど無視した教団なので、それに対抗するように既存の宗派も現世利益を売りにしだした側面もあるのではないかと。
それで話題は少し変わりますが、真言宗の坊さんのブログを見ていたら、こんなのが紹介されてました

http://d.hatena.ne.jp/ininsui/20061226

もうお前らなんでもアリかと。
もうこれ人類学でも宗教研究でもなんでもないですよね。
こんなものの研究会に参加する高野山の僧侶って、自分達の説く仏教の智慧をどんなものだと認識しているのか知りたいです。
by 内海 (2007-05-10 19:12) 

katsuya

> 柘植さん

インド仏教史関係の書籍では、大乗仏教成立以前のものを「部派仏教」と記述しているものが多いようですよ。
by katsuya (2007-05-10 19:36) 

pooh

> 内海さん

いずれにせよ、日本仏教は江戸幕府に一度宗教としての本質を崩されてしまった、ってことなのかもですね。でも、そう云う部分に危機感はないんでしょうかね。お寺も仏教も嫌悪はしないけど、正直いらないもん。

ただ、リンクされているブログに書かれている内容については、ニセ科学と云うより(あまり筋はよくないかも知れないけど)「未科学」の類いなのかも、とか思いました。人文系からのアプローチだし、そうなると密教側からの参画もそれほど無理のない構図なのかも。なんか昨今の脳科学関連に似た胡散臭さはにおいますけど、ちょっとぼくは判断保留です。

どうでもいい話ですがリンクいただいたブログを運用している明治大学の先生はきくちさんのマイミクですね。テルミン関係みたい。
by pooh (2007-05-10 22:12) 

かも ひろやす

伝統仏教の各宗派の本山はそれなりに教義の普及に努力しているようだし、努力している末寺もそこそこあるようなんだけど、教団としてまとまっての活動になりにくいので、なかなか大衆に届かないんですよね。古くからある大組織にはよくあることかもしれません。伝統仏教では末寺がそれぞれに独立した宗教法人になっているので、本山が末寺を手足として使いにくいというのもあるかもしれません。

一方、末寺が教義に反することをしても、本山は無力なんですよね。最大の懲罰である破門を発動しても、末寺のほうが宗派離脱して単立寺院になってしまえば、もう、手が出せませんから。
by かも ひろやす (2007-05-10 23:52) 

pooh

> かも ひろやすさん

どうなんでしょうねぇ。権威システムが形骸化している、って感じですかね。宗教の権威システムって云うとなんか諸悪の根源的なイメージがありますけど、なにかやっぱりそこには必然のようなものがあるんでしょうね。教義の同一性保持のための統括力の源泉としてだけでも。
by pooh (2007-05-11 07:45) 

氷村

初めまして、氷村と申す者です。
私はとある日蓮宗の寺院の職員でして、下働きの寺男という立場上、僧侶に対する批判のコメントを書き込んで良いものかどうか悩んでおりました。
色々悩み抜いた挙句、話題が収束した後でのコメントになりましたけれども、御容赦頂ければ幸いです。
 
私は日本仏教の一部の僧侶の水伝を肯定的に捉える事は、さして珍しい事でもないのかな、と考えています。
元々の仏教哲学に由来するものなのか、神仏習合によるアニミズムの概念の影響なのか、或いは別の要因が絡んでいるのか、私の知識では判りかねますけれども、日本仏教には全ての物質に生命が宿るという考えが幅広く定着しているからです。
代表的な所では針供養や人形供養といった、非生物に対しても生命や魂の存在を認め、それに対して供養する儀式が挙げられます。
 
実際の所、水伝に迎合する僧侶はこれが初めてではないのです。
「水に愛と感謝を捧げるプロジェクト」には曹洞宗の僧侶が参加していますし、真言宗には水伝を肯定的に紹介する僧侶が散見され、江本勝の講演会を開催した僧侶や、江本勝と組んで加持祈祷で湖を浄化したなどと言う僧侶も居ます。
天台宗はもっと酷い状況で、それなりの地位の僧侶が江本勝の友人で、教区部長クラスの会合に江本勝を招いた事があります。
普通なら叩かれそうな物ですけれど、叩くどころかお偉いさんが揃って絶賛、江本勝が宗門のラジオ番組「比叡の光」に「水からの伝言」というそのままのタイトルで2週連続で出演しています。
さて、私が所属する(単なる一寺院の職員で、宗門の職員ではないのですけれど)日蓮宗はどうかと言いますと、法話に水伝を持ち出した僧侶が周囲の僧侶から批判を浴びたとの話もある一方、こちらのサイトは野放しのままになっています。
http://naganokc.cool.ne.jp/naga1/jyouhou/no35.htm
 
#ニセ科学批判に首を突っ込んでいる寺男などそうは居ないでしょうから、下手をすればこれで個人特定されて首が飛ぶかも知れません。
 知的怠慢から害毒を撒き散らす僧侶と同じ宗派を信仰するのは苦痛ですから、これで首が飛ぶ様な邪宗ならある意味本望ですけれどもね。
 
私は宗教哲学を云々出来る程の知識は持ち合わせていませんけれども、宗教家が自身の信仰する宗教の哲学ではなく、科学に教義の正当性を求める事に対しては嫌悪感を隠せません。
科学に教義教学の正当性を求めるなど、宗教家として三流以下でしょう。
ましてや水伝の如きカルト思想家のニセ科学に頼るなど言語道断です。
 
他にも文句を言いたい点があります。あまりにも基本的な事なのですけれど、「ありがとう」という言葉は物事に対して「有って当然」「して貰って当然」ではなく「有り難い」事だと認識する事によって生じる感謝の念を表す仏教用語だという点です。
「ありがとう」という言葉は意味を考えも理解もせずに唱えていれば現世利益をもたらす呪文の類ではない筈ですよね。
智慧をもって衆生を救済するのが仏教なら、仏法を説く僧侶が思考停止して水伝に惑わされている状況はまさに末期的だと言えます。
by 氷村 (2007-05-13 19:37) 

pooh

> 氷村さん

いらっしゃいませ。

ニセ科学批判についてはいろんな角度がありますけど、重点のひとつとしては「考えることをやめてしまうこと」「(科学を含め)ある考え方に頼って白黒を預けてもらうこと」の問題が挙げられていると思います。

ぼくは宗教に否定的ではないので(実際のところ、多くの科学者も否定的ではありません。菊池誠教授もそうです)、一定の役割を期待したいと思っています。そこには長い時間をかけた思考の積み重ねと、それに相応する叡智があってほしいと思っています。それこそ科学と対峙しうる、補い合えるくらいの。そのためにも、安易な接点は矜持を以て拒むくらいの強靭さを期待したいのです。
by pooh (2007-05-13 23:11) 

a.s

通りがかり失礼します。現役ニチレン宗僧侶のa.sと申します。
寺男さんにも失笑された水伝の話、つい最近も法話でふれた同業者の方がおりましたし、声明やお題目で綺麗な結晶ができるのだぞと力説する方も知っております。
本人たちはおそらくおかしさに気付いていないのだと思いますが残念なことです。

近年宗門では祈祷派が増えてきておりますし、葬式仏教が崩れた後は一部の「スピリチュアル」な需要に応えるだけの集団になってしまうのではないかと私は危惧しております。

もちろん僧侶自身が気付かなければいけませんが、中にいる者は非常に意見の言いにくい世界です。在家の方にもどんどん批判していただければ幸いです。
by a.s (2007-06-05 02:13) 

pooh

> a.sさん

いらっしゃいませ。

なんと云うかですねぇ。在家の人間は基本的にもう「仏教徒である」と云う意識もほとんどないのではないかと思いますよ。
在家信者に期待するより、そもそも「宗教としてこれからどう立ちふるまっていくのか」を教団としてお考えにならないとまずい時期に来てるのではないかと云う気がします。
by pooh (2007-06-05 06:30) 

a.s

ありがとうございます。
「仏教徒である意識もない」、ああ、そうかも知れませんね。基本的に寺に来る人を相手にしているので来ない人のことまではなかなか考えが回らないですね。

組織としてはどうしようもなく硬直化しているので、何とかやっていけている間は変われないかも・・。
by a.s (2007-06-05 13:23) 

pooh

> a.sさん

例えば、ニセ科学問題ひとつを取っても、本来宗教が果たしうる役割はあるはずだと思っているんです。で、例えば日本に根付いた歴史の長さからしても、仏教がおもてだってできることはちゃんとあってしかるべきなんです。それこそ、「水からの伝言」みたいな「ニセ宗教」に対して、自然科学者なんかの出番なんかないくらいの批判が、仏教界からあってもおかしくないはずだ、とか思ってます。
そうじゃないと、宗教としての機能はどこにあるのか、とか思いますね。まぁぼくが現在の仏教界の現実をまったく知らないから云えることなのかも知れないですが。

とはいえ、これじゃまるでa.sさんに仏教界の責任をひとりで代表させてるみたいな云い方ですね。すみません。
by pooh (2007-06-05 22:21) 

a.s

真摯に受け止めねばなりません。

批判が少ないのは仏教界が事勿れ主義なのがありますが、なにより僧侶が勉強しないのが大きいでしょうね。収入に影響しないので。

今は修行と学問が完全に分離してますから、まじめに「修行」していてお経も読むのは上手いが意味が分かっていないみたいな人も結構・・。

寺院の子息で兄弟でも一番勉強できないのがお坊さんになるという傾向もあります(苦笑)
by a.s (2007-06-06 18:52) 

pooh

> a.sさん

仏教ってのは本来日本で最も長い歴史を持った宗教のはずで(神道は事実上ごく最近まで宗教の体裁をなしていなかったですから)、と云うことは我が国の宗教的な問題を扱うための最大のノウハウや哲学大系を持っているはずだ、と思うんです。そうじゃないとおかしい。

廃仏毀釈とかあって一回減速させられていますけれど、もう一度宗教として積極的な役割を担おうとしてくれてもいいんじゃないかな、とか思うんですね。
by pooh (2007-06-06 22:28) 

かも ひろやす

お寺の内紛を見聞きしたことが二回だけありますが、その乏しい経験で理解したことは、檀家総代を味方につけた方が勝ちということでした。その意味でも(おそらく、a.sさんの意図とは異なるでしょうが)、在家の人の批判は有効と思います。
by かも ひろやす (2007-06-07 19:56) 

a.s

お寺も収入の安定した一種の利権ですから大きいところになるとゴタゴタもあるでしょうね。
家制度も崩壊しつつありますし、気に入らないので檀家をやめますというふうに個人で寺を選ぶようになれば競争も生まれていい加減なことはできなくなると思います。まあお墓が敷地内にあると難しいですが。
by a.s (2007-06-07 20:53) 

pooh

> かも ひろやすさん

うぅむ。でも世の中には自分の檀那寺がどこかもはや分からない、って云うぼくみたいな人間も多いのでは。
by pooh (2007-06-07 22:43) 

pooh

> a.sさん

やはりそう云うサービス業的な発想が必要なのかもですね。
でもその場合、世間のひとたちはお寺になにを求めるんですかね。
by pooh (2007-06-07 22:44) 

a.s

祈祷、除霊、占い、拝観、先祖供養、修行体験、仏教哲学、・・・ニーズも深浅様々でしょうからねえ。

代々信じているからという縛りがなくなって、風通しがよくなってサッパリできればいいですね。将来的には自坊の檀家制度を廃止すると言っている坊さんもいますよ。
by a.s (2007-06-08 19:05) 

pooh

> a.sさん

あ、そうか。現実問題として「なにが求められているのか」「なにを提供するのか」を考えていかなければいけない、と云う状況もあるわけですもんね。

でも、それらすべての背骨として、宗教としてのありかた、というものはつねに問われる気はするのですけどね。
by pooh (2007-06-09 12:32) 

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宗教の側から(Chromeplated Rat 2007-08-23 23:32)

宗教の現場にいる方がニセ科学の問題に言及するのは、特有の難しさがあるんだろうなぁ、なんて、長保寺の公式ブログ(でいいんだよなぁ)の似非科学(えせかがく)と云うエントリを読んで思った。 実はここふた月くらいの間に、宗教と科学の接点について宗教の側から積極的に言及しようとしている玄侑宗久…[続く]

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