一部で悪名高い、田中芳樹の「創竜伝」で印象に残っている蘊蓄
「性善説も性悪説も、目指すところは<より良いもの>である」というような話。。
恥ずかしながら、私も「性悪説=人間の本質は悪だから、仕方がないんだ」みたいな考えだと思っていました。高校時代にそれを読むまで。
「合理的な思考は、建設的なところに通じる」(はず)っていう判断の仕方があるようです。
性勤説……人間の本質は勤勉である。誰もが「自分の価値を他人に認められたい」「誰かに役立ちたい」「自分の機能を良く発揮したい」「プロセスを楽しむ」という気持ちを持っているはずだから、得意分野を探すことを手伝って、気持ちを導いてやれば良い。
性堕説……人間の本質は怠惰である。誰もが「出来れば面倒なことはしたくない。働かずに金を貰えたら、どんなに良いだろう。何もせずに良い結果だけが実現したら良いのに、、」という気持ちを持っている。人間は必要性が無く、催促もされていなければ、際限なく怠けるものだ。叱咤して働かせなければならない。
この二つは、ともに結果としては「良い結果の実現」を志すものだし、その実現のプロセスは割と似ている。「結局は、本質がどっちだろうと、別に大差ない。気持ちの納得が問題」という気もする。。。。
「才能説」VS「努力説」でも、なんだか同じような気がする。やることは一緒なんじゃないかと。
「本質論は無意味だ」というような事を誰かが書いているのを見て、なんのことか良く分からなかったことがあったけど、こういうようなことなのかな??
このごろは「毎回事の、瞬発的な努力」よりも、「継続的な段取りの良さ」が重要だなあ、、、とか思う私ですが。