先日、NHKスペシャルの「ラストメッセージ」という番組を観ました。鬼籍に入った著名人らのフィルムから、現代に生きる私たちにとっての〈「大切なものは何か」〉を探る試みです。
第一回目は、手塚治虫。ガンで亡くなる三ヶ月前に、大阪の学校で撮影された講演の模様を軸にして、番組では彼が子供たちに向けたメッセージに改めて光を当てていました。
手塚が作品に込め続けたのは「いのちの大切さ」です。こう書くとあまりに陳腐ですが、その根底には戦時中に目撃した大阪空襲の経験があります。終戦間近の1945年6月、大阪は四度の空襲を受けます。当時、旧制中学の学生だった手塚は、焼夷弾の降る中をかいくぐり、淀川に辿り着き、真っ黒焦げになった死体の山に出くわします。このときの情景は「紙の砦」という作品に描かれています。
大阪空襲の悲惨さ、そして手塚がその光景を目の当たりにしていたという事実を、評者は偶然にも放送の前日に知りました。島本慈子のルポ『戦争で死ぬということ』(岩波新書)の序章で取りあげられていたのです(ちなみに彼女は、手塚の通っていた北野中学の後輩にあたるそうです)。彼女のルポもまた〈日本のこれからを考えるときの判断材料として、過去の事実のなかに、未来を開く鍵がある〉という想いから編まれた一冊です。
評者の小学生の子どもは今、国語の授業で「一つの花」という物語を読んでいます。「一つだけちょうだい」が口癖の女の子に、出征するお父さんが1輪のコスモスを差し出す――戦争による貧しさ、哀しさをたたえたお話ですがが、小学生にはなかなかその真意が汲み取れないのが現実です。 そこで子供に、本書の中から大阪空襲を描写した箇所を読み聞かせてみました。少々長いですが、引用しておきます。
紫電改を製造していた学徒動員の少女たちは、工場のそばにある麦畑へ逃げ込んだ。工場は燃えている。紫電改も燃えている。麦畑も燃える。みんな「お母ちゃん!」「お母ちゃん!」と泣き叫びながら走った。戦闘機P51ムスタングが少女たちへ機銃掃射をかける。一人の少女は頭を撃ち抜かれて倒れた。
学徒動員の少年の頭が半分吹き飛び、そこから白い木綿糸のようなものが何本も垂れ下がっている。その姿のまま少年は何メートルか走り、倒れて死んだ。 ある工場の大きな防空壕に、決壊した水路の水が流れ込んだ。当時十五歳の少年は、防空壕の下のほうにいる人たちは溺死し、上のほうにいる人たちは火炎の熱さで蒸し焼きになり、マネキン人形そっくりになって死んでいるのを見た。
(中略)
六月七日、上本町六丁目では、屋根が吹き込んだ防空壕のなかで数人の女性が座ったまま死んでおり、そのそばに彼女たちの頭が転がっていた。一人の女性は赤ちゃんを抱きしめたまま、首なしの死体になっていた。
(中略)
爆弾は砲兵工場に隣接する国鉄(現JR)京橋駅にも落ちた。運悪く、駅には乗客がいっぱいだった。手足がちぎれて吹き飛び、電線にぶらさがる。飛び散った肉片が鉄橋にはりつく、石垣にはりつく、電柱にはりつく。両足をもぎとられた人が、救いを求めてうめいている。崩れ落ちた石垣に人が埋まる。
これらの描写は、評者にとっても、子どもにとってもたいへんショックなのもので、しばらく声が出せないほどでした。そんな矢先に、手塚の番組を子どもと二人で観たわけです。番組の中で手塚は「ショックだったことを大切にしまっておいてください。いつか必ず役に立つから」と語っていました。戦争から二十年を経て生まれた評者には、戦争のショックを語りえません。手塚の声と島本の文章が、奇しくも私たち親子に戦争の衝撃を感じさせてくたような気がします。(中島 駆)
by kakeru&tamotu
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