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2009年1月22日 (木)

裸体表現の自由と映画芸術

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   「ヴィーナス」  ジョルジョーネ

    人類は原始時代以来、ヴィーナス像など裸体芸術を創作してきた。とくに古代ギリシア人たちによって生み出された裸体芸術は、主に彫刻であったが、身体を幾何学的原理に基づいた完全なる美しさのヌードを創り上げ、古典古代の芸術を最高の水準にまで高めた。ちなみにわれわれ日本人は「ヌード」と聞くと、ご婦人方は顔を赤らめ、嫌らしいと感じられるかもしれないが、実は英語には、はだか(naked)と裸体像(nude)と二語は区別されており、ヌードという語は教養ある使い方をすれば、別に不快な響きを伴わないそうである。(ただし、いまだ日本で日常会話で使うのは要注意である)

    ギリシアの裸体表現は、ヨーロッパにおいてはイタリアの文芸復興期に、とくに絵画形式によって裸体が芸術の中心主題として取り上げられてきた。ヨーロッパの裸体表現は近代のルノアールの水浴などに代表されるように、今日美術館で猥褻性を指摘されることなく普通に観賞が可能である。数年前、大阪市が購入したモディリアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」は誘うような挑発的な裸婦の陰毛が描かれているとして、展覧会から一時撤去されたエピソードなどあるが、概ね絵画のように人物が動かないものは陰毛が描かれていても猥褻と判断されず、芸術作品としての扱いを受けるようである。ところが写真や映画となると猥褻性を指摘する人は多い。むしろ近年、性犯罪と関連づけてポルノ規制の強化の動きが目立つ。日活ロマンポルノの時代を青春だった人は巷に扇情的なポルノ映画のポスターは日常的風景だった。陰毛はタブーであったが、ボカシや黒マスクが入りながらも見ていた。平凡パンチやプレイボーイのヌードも陰毛はタブーであったが、局部を林檎で隠したヌード写真が話題になった。篠山紀信の激写もヌード写真に大きく貢献したと思う。1980年代にはビニールに入れられたビニ本が書店を賑わした。1990年代にはヘア・ヌードという和製英語も生まれ、週刊現代、週刊ポスト、ヘア・ヌード写真集などがブームになった。しかし、イメージを重視する企業側からの反発もあってヘア・ヌードは沈滞する。また1999年施行の児童ポルノ法によって未成年の裸体表現が事実上禁止された。雑誌の販売部数は激減し、映画においても女優の裸体演技はほとんど見られなくなった。1970年代スター女優のヌードは常識の感があった。「愛の嵐」のシャーロット・ランブリング、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のマリア・シュナイダー、「O嬢の物語」のコリンヌ・クレリー、「エマニエル夫人」のシルビア・クリステル、「続エマニエル夫人」のカトリーヌ・リベ、「青い体験」のラウラ・アントネッリ、「家庭教師」のオッタビア・ピッコロ、「甘い暴走」のジャクリーン・ビセット、「さらば夏の日」のジャネット・アグラン、「昼顔」のカトリーヌ・ドヌーブ、「茂みの中の欲望」のジュディー・ジースン、「姉妹」のナタリー・ドロン、「わらの犬」のスーザン・ジョージ、「ふたりだけの恋の島」のオルネラ・ムーティ、「欲情の島」のローズマリー・デクスター、「エヴァの恋人」のミレーユ・ダルク、「愛の終りに」のミリュエル・カタラ、「続青い体験」のクラウディオ・カッシネッリ、「危険旅行」のミムジー・ファーマー。近年亡くなった「フレンズ」のアニセー・アルビナや「ジェレミー」のグリニス・オコナーなど少女の初々しい裸体は永遠に脳裏に浮かぶ。このほかシャロン・ケリー、サンドラ・ジュリアン、クリスチーナ・リンドバークなど本格的なポルノ女優もたくさんいたであろうが品行方正な青年だったので残念ながら未見である。

   むかしフランス映画に「舞踏会の手帖」という作品があった。若い日の華やかりし頃の思い出を胸に抱き、昔の女性に会いに行く。そこで儚い人生の現実を知る。いま時代は規制の方向にすすんでいるので、かつての素晴らしい自由な時代ではない。せめてむかしの思い出を大切にしておきたい。だがこの調子でいくと近未来社会には、過去や思い出を語ることすら国家が規制する管理体制が到来するかもしれない。

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   アニセー・アルビナ

2009年1月18日 (日)

ジェマ・クレーブンの「シンデレラ」

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ジェマ・クレイブンからシンデレラの靴を見せてもらう恩田トキ子

  「シンデレラ」といえばディズニーのアニメを思い浮かべる方がおおいだろう。ところがシャーマン兄弟のミュージカル映画、実写版「シンデレラ」(1976)が好きだという男性が意外と多い。理由はもちろん主役のジェマ・クレーブンが可憐で美しいからである。王子様はベテランのリチャード・チェンバレンだったが、シンデレラは新人のジェマ・クレーブンが選ばれた。1950年、アイルランド生まれで当時25歳だった。シェークスピア劇団のキャリアがあるだけに張りのある美しい声が魅力的で、歌と踊りが得意。もっと映画界で活躍してほしかったが、残念なことに舞台に戻られたのでその美しい姿をみることがかなわなかった。出演映画作品は、「シンデレラ」(1976)、「ワーグナー、偉大なる生涯」(1983)、「穴」(2001)など僅かに3本ほどしかないが現在もその美しさは当時とあまりかわらないらしい。

   ところで童話の「シンデレラ」の話は、実母を早く失った気立てのやさしい娘が、のちに嫁してきた継母とその連れ子の娘に虐待されて女中代わりに使われ、粗末な服装をして火たきなどをして灰だらけらなっている。シンデレラとは灰かぶりという意味である。娘は舞踏会で王子と出会い、王子が彼女をみそめるが、娘は急いで帰るときくつを片方落としてしまう。王子はそのくつをたよりに娘を探し出し、めでたく2人は結婚する。この話は、ヨーロッパでは16世紀イタリアのストラパラロやバジレの説話集に出ているのをはじめ、おびただしい類話が各国で発見されて学者の関心をよび、1893年にマリアン・コックスが類話345を比較研究している。話として最も美しくまとまっているのはペローの「サンドリヨン」である。またこれに類似した話に、娘が醜く身をやつして家を出てさすらい、殿様の家の風呂焚きに雇われているところを若殿に見初められて結ばれる話「燈心草の帽子」(編笠)があり、こちらのほうが古い形と考えられる。その後、南方熊楠が中国の唐代にすでにこの話が記載されているのを発見(酉陽雑爼の「葉限」)、これが今までのところ最古のシンデレラの原型とされているが、話の起源はもっと古いだろう。日本でもこの話は人気があったようで、早く「落窪物語」「住吉物語」に扱われたのをはじめ、中世の御伽草子の「鉢かづき」などを経て、現代でも「お銀小銀」「糠福米福」などの話になって民間で語られている。(参考文献:「児童文学辞典」東京堂)

2009年1月17日 (土)

ファッショナブルな女優シドニー・ローム

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      ローマのスペイン広場でのシドニー・ローム

   映画「個人生活」(1974)でアラン・ドロンの相手役に抜擢され一躍スターになったシドニー・ロームは今どうしているのだろうか。今年62歳になるらしい。大きな瞳で抜群のプロポーション、「魅惑の妖精」というにふさわしい華やかさがあった。ネットで調べると「マリア・カラス最後の恋」(2005)で準主役級で健在である。ヨーロッパで活躍のベテラン女優の映画はなかなか日本で公開されないので淋しいが今も美しく輝いているのだろう。来日したときの荷物は、毛皮やドレスの詰まったトランクが多くて周囲を驚かした。生れは米オハイオ州であるがヨーロッパのエレガンスを漂わせる本物の女優である。誕生年は1946年説と1951年説があるが、おそらく1946年ではないだろうか。「電撃!スパイ大作戦」(1969)に出演しているが18歳には見えない。ほかにも「荒野の大活劇」(1969)や「欲望の館」(1972)など下積み時代を経験している。「ラッキー・タッチは恋の戦略」「危険なめぐり逢い」「ザ・ツイスト」「ポール・ポジション」「ジャスト・ジゴロ」などあるが、やはりドロンとの共演の「個人生活」が最も知られている。

「サークル・ゲーム」をもう一度

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    ケペルがまだ高校生のとき「フレンズ、ポールとミッシェル」という映画をみた。アニセー・アルビナの幼い裸身が鮮烈な印象であった。麗しのアニセー・アルビナの近況をネットで調べると、なんと2006年11月10日、52歳の若さで亡くなっていた。「赤いポスター」(1975)ではジャン・ビゴ賞を受賞し、フランスの青春スターの地位を築いたが、残念ながら日本では未公開の作品が多かった。

    「フレンズ」(1970)の当時はまだ16歳。あまりの人気で「続フレンズ」(1973)もつくられた。少女がヌードになることは洋画でもまだめずらしかった。日本映画では1972年に由美かおるが「同棲時代」で脱いだ。街頭のポスターはあっというまに無くなった。関根恵子や秋吉久美子らも続々と美身をさらした。そのころ香港から可愛いフォーク歌手が日本デビューしている。アグネス・チャンである。1972年11月発売の「ひなげしの花」、翌年の「草原の輝き」などのヒットでまたたくまにアイドルとなった。日本ではアイドル歌謡であったが、アグネスはもともとはメッセージ性の強いフォーク歌手志向であった。香港で1971年バフィー・セントメリーが歌った「サークル・ゲーム」をカバーして大ヒットとなった。「サークル・ゲーム」は映画「いちご白書」の挿入歌だ。ベトナム反戦、学園紛争がテーマのキム・ダービー主演の青春映画。つまり平凡や明星で天地真理や麻丘めぐみと並んで笑顔をふりまいていたアグネスだが、政治性や社会的関心は本来的な資質であった。そのアグネスは今、児童ポルノの単純所持の禁止事項を法制化するための運動を積極的に取り組んでいることは周知のとおりである。ケペルはアグネス・チャンのファンだった。だが「だった」と過去形で言わざるをえない。数年前にアグネスはテレサ・テンの歌うはずだった曲を吹き込んだことがあった。テレサが最初来日のとき日本ではアグネスの人気絶頂期だったので、さっぱり売れなかった。アグネスとテレサとのそんな因縁は誰でも知っていることなので、やはりアグネスがテレサの曲を歌うことに抵抗感があった。今回の児童ポルノ禁止の運動についても正直ファンとしては抵抗感がある。アグネス日本デビュー当時、映画界ではアニセー・アルビナなどの少女ヌードが日本に大きな影響を与えたことは既に述べたが、当時の映画雑誌を所持しているケペルにとっては宝物のような写真もポルノの所持として違法性を帯びることになるであろう。芸術か猥褻かの論議ではなく、被写体が少女、児童であれば罰するという内容のシロモノである。日本人でないアグネスが国内法の改正に積極的に関与することも不自然である。性の商品化は、それを儲けとする業者を取り締まることは必要であるが、単純所持にまで及ぶということについては、同意できかねる。

2009年1月13日 (火)

平成生まれのヒロイン誕生

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   先日NHKBS「蔵出し劇場」でレッツゴーヤングの再放送を見た。1981年のもので太川陽介、石野真子の司会の頃である。お目当てはもちろんサンデーズで松田聖子、倉田まり子、浜田朱里、佐藤恵利がいた。なかでも佐藤恵利は山口百恵に似た感じの女の子でケペルのお気に入りだったが、あまり人気が出ずに消えた。しかし今も時代劇の脇役で元気に女優を続けているらしい。アイドルから女優へ転身する人は多いが地味で息の長い俳優人生もまたいいだろう。これと対象的なのはNHK連続テレビ小説のヒロインだろう。「うず潮」の林美智子、「おはなはん」の樫山文枝、「旅路」の日色ともゑ、「繭子ひとり」の山口果林、「藍より青く」の真木洋子など初期の頃は新人女優の登竜門といわれた。朝ドラのヒロインが国民的女優として民放のトレンディー・ドラマや映画に出演してトップ女優として成功する例は最近でも健在である。松嶋菜々子、竹内結子、池脇千鶴、石原さとみ、宮崎あおい、榮倉奈々などを輩出している。近年は無名の新人ではなく相当なキャリアと実績のあるスター女優がヒロインとなるケースが目立つ。3月30日から放送の「つばさ」のヒロイン多部未華子の場合はどうだろう。すでに2005年にブルーリボン新人賞を受賞し、「山田太郎ものがたり」「鹿男あをによし」「ヤスコとケンジ」とドラマで活躍しており、若い人の間ではかなりの知名度のある若手女優であるが、国民的知名度はいま一歩のところであろう。加えてここ数年、朝ドラの視聴率はかつての勢いはなく、低視聴率に悩まされている。多部ちゃんファンにとっては毎日会えることはうれしいが、女優としての真価が問われるだけに少し怖い気がする。平成生れのヒロイン誕生に期待したい。

2008年12月31日 (水)

フランス映画この一年

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  クロード・ルルーシュ、ジャン・リック・ゴダール、フランソワ・トリュフォ。映画といえばフランス映画というのは、ずいぶんと昔のはなしとなった。今では、現代フランス映画は、ほとんど話題にならない地味な作品ばかり。でもやはり少し気になる。今年1年、日本で公開された映画をリバイバル作品も含めて総決算。

ドキュメンタリー作家ニコラ・フィリベール監督の「かつて、ノルマンディーで」(2007)。

ジョエル・セリア監督が思春期の少女の不安定に生と死を描いた「小さな悪の華」(1970)主演カトリーヌ・ヴァジュネール。

エリック・エマニュエル・シュミット監督の大人のラブ・コメディー「地上5センチの恋心」(2006)。主演カトリーヌ・フロ。

ジャック・リヴェット監督の19世紀の貴族社会の男女の恋を描いた「ランジェ公爵夫人」(2006)。主演ギョーム・ドパルデュー、ジャンヌ・バリバール。

ジュリー・デルビー監督の「パリ、恋人たちの2日間」(2007)は、仲の良いカップルに突如訪れる別れの危機をユーモラスに描く。主演ジュリー・デルビー、アダム・ゴールドバーグ。

ドゥニ・デルクール監督の「譜めくりの女」(2006)は、ピアニストへの夢を絶たれた少女の絶望、時を隔てた愛憎を描く。主演はカロリーヌ・フロ、デボラ・フランソワ。

クリストファー・トンプソン監督の「モンテーニュ通りのカフェ」(2006)は、パリの一軒のカフェに集まる人々を描いたヒューマン・コメディー。主演はセシル・ド・フランス、ヴァレリー・ルメルシエ。

同性への淡い恋を描いたセリーヌ・シアマ監督の「水の中のつぼみ」(2007)。主演ポーリーヌ・アキュアール、アデル・ヘネル。

誕生日のパーティで美術商のフランソワは、祝福どころかそれまで友人だと思っていた人々から「君には友達がいない」という言葉を聞かされ、ショックを受ける。フランソワは偶然親切なタクシー運転手に出会う。人生の半ばを過ぎた男の孤独を描くパトリス・ルコント監督の「ぼくの大切なともだち」(2006)。主演はダニエル・オーターユ、ダニー・ブーン。

普通の女性が、ある日、理不尽な恐怖にさらされるホラー。ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ共同監督作品「屋敷女」(2007)。主演アリソン・パラディ、ベアトリス・ダル。

ジャン・ベッケル監督が、孤高の画家と庭師との交流を描く「画家と庭師とカンパーニュ」(2007)。主演はダニエル・オーターユ、ジャン・ピエール・ダルッサン。

ケヴィン・マクドナルド監督の「敵こそ、我が友」(2007)。元ナチスのクラウス・バルビーは戦後南米へ亡命。ボリビアに軍事政権を誕生させる黒幕となり、チェ・ゲバラ暗殺の首謀者となる

アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」(1956)。風船と友達になった少年の純真さを描く。主演パスカル・ラモリス。

ホウ・シャオシェン監督「ホウ・シャオシェンのレッド・バルン」(2007)。都会に暮らす母子の孤独な生活を中心に、古き良きパリの美しさをスケッチ風に描く。

フランスの美しい田園風景のなか、10歳の少女の不安と冒険心を描くジャン・ピエール・アメリス監督の「ベティの小さな秘密」(2006)。主演アルバ・ガイア・クラゲード・ベルージ。

奇妙な宿に迷い込んだ男女のサバイバルを描くザヴィエ・ジャン監督の「フロンティア」(2007)。主演カリーナ・テスタ、オルレアン・ウイイク。

しがない中年男たちがダンスによって輝きを取り戻す姿をユーモアと哀愁を織り交ぜて描くファビエン・オンテニエンテ監督の「ディスコ」(2008)。主演フランク・デュボスク、アベス・ザーマニ、サミュエル・ル・ビアン、エマニュエル・ベアール。「シャル・ウィ・ダンス」のフランス版か?

パリに暮らす人々の群像劇をセドリック・クラビッシュ監督が描く「パリ」(2008)。ロマン・デュリス、ジュリエット・ビノシュ。

アラン・コルノー監督の「マルセイユの決着」(2007)はジャン・ピエール・メルヴィルの「ギャング」のリメイク。主演はダニエル・オーターユ、モニカ・ベルッチ。

フランスで唯一の騎手の養成学校を舞台に、騎手になる子どもたちの姿をとらえたドキュメンタリー作品。バンジャマン・マルケ監督の「ジョッキーを夢見る子供たち」(2008)

港町シェルブールの傘屋の娘と自動車修理工は結婚を誓うが、男はアルジェリア戦争へ行く。数年後、クリスマスの日、偶然再会する。ジャック・ドミー監督「シェルブールの雨傘」(1964)。主演カトリーヌ・ドヌーブ、ニーノ・カステルヌオーヴォ。リバイバル作品

2008年12月30日 (火)

ヒロインこの10年

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   いつの時代もトップ女優はいる。古くは田中絹代、原節子、山本富士子、吉永小百合。しかしどんな美人女優も加齢による美貌の衰えを隠すことはできないし、やがて観客動員力は低下していく運命にある。そして次々と若くてフレッシュな女優が現われる。昨夜、テレビで放送された「恋空」の新垣結衣のピュアな魅力に惹かれた若者は多いはずである。いま旬の女優といえば、宮崎あおい(「篤姫」)、井上真央(「花より男子」)、戸田恵梨香(「流星の絆」)、上戸彩(「セレブと貧乏太郎」)、石原さとみ(「長生き競争」)、新垣結衣(「フレフレ少女」)、堀北真希(「イノセント・ラヴ」)などがいる。数年前には、沢尻エリカ(「パッチギ」)と長澤まさみ(「世界の中心で、愛をさけぶ」)の時代が来るといわれた。だが芸能界異変はつきもので、実際に今年活躍した女優は綾瀬はるか(「ハッピーフライト」「おっぱいバレー」)と永作博美である。23歳の綾瀬はるかは理解できるとして、永作博美は童顔で若くみえるが、38歳である。今年「人のセックスを笑うな」「同窓会」「弁当夫婦」「その日のまえに」「魔法遣いに大切なこと」「クローンは故郷をめざす」と映画6本とドラマ「四つの嘘」に出演している。アイドル氷河期といわれたグループribbonの時代からよくぞ厳しい芸能界を生きのびてきたと感心する。1970年生まれの永作博美は、富田靖子、中山美穂、坂井真紀らと同じ年であるから、その芸歴の古さがわかるであろう。アラフォー世代の永作博美は同世代ライバル深津絵里、常盤貴子らを凌ぐ活躍をした一年だった。

    このブログ記事のタイトルを「ヒロインこの10年」としたのは、現在中心となって活躍している女優の生れた年代がだいたい1980年前後が多いからである。つまり28歳前後。ちなみに1980年の生れに広末涼子、田中麗奈、竹内結子、榎本加奈子、小池栄子、1981年生れに柴咲コウ、内山理名、池脇千鶴、佐藤江梨子、小野真弓、1982年生れに深田恭子、加藤あい、岡本綾らがいる。1979年生まれには奥菜恵、仲間由紀恵、国仲涼子、ともさかりえ、1978年生れには長谷川京子、小西真奈美、酒井美紀、釈由美子らがいる。1980年代前後の女優が一番役が付きやすいと思われるが、準主役というケースが多い。やはりヒロインは20歳前後であろう。南沢奈央(「赤い糸」)、福田沙紀、北乃きい、黒川智花、黒木メイサなど横一線であるが、新垣結衣の人気は当分続きそうな予感がする。

切ナイ恋物語「恋空」

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    東宝映画「恋空」は興行成績39億円の大ヒットとなった。原作は美嘉の実話風ケータイ小説。大人からみると純愛物とは言い難い衝撃的な内容もあるが、映画を観たさわやかさは、すべて主演女優の新垣結衣の清潔感からくるものであろう。テレビ版で他の女優が田原美嘉を演じたが純愛ドラマとしての魅力が感じられなかった。新垣結衣が泣く表情、笑う表情、すべて天然のもので業とらしい演技ではない。素のままの表現が見る者を自然に感動させるのである。新垣結衣という魅力ある新人スターによってこの映画「恋空」は成功した。また小説も書き出しがすべてである。

もしもあの日君に出会っていなければ

こんなに苦しくて

こんなに悲しくて

こんなに切なくて

こんなに涙があふれるような想いはしなかったと思う。

けれど君に出会っていなければ

こんなにうれしくて

こんなに優しくて

こんなに愛しくて

こんなに温かくて

こんなに幸せな気持ちを知る事もできなかったよ…。

涙こらえて私は今日も空を見上げる。

空を見上げる。

2008年12月29日 (月)

外国映画この一年

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    今年は米大統領選挙だったが、ハリウッド・スターがオバマを強く支持したことが1番の話題であった。なかでもレオナルド・デイカプリオ、トム・クルーズ、ジュリア・ロバーツ、ハリソン・フォード、ウィル・スミス、トム・ハンクスといった大物スターが目立った。

2008年はジョー・デップ、アラン・リックマン主演の「スウィニー・トッド街の悪魔の理髪師」で幕を開けた。

全米脚本家組合のストライキによりゴールデングローブ賞受賞式が中止になった。

   今年もファンタジー映画のブームが続いた。「ライラの冒険、黄金の羅針盤」(ダコタ・ブルー・リチゃーズ、ニコール・キッドマン)、「ナルニア国物語第2章カスピアン王子の角笛」(ベン・ハーンズ、ケート・ブラシェット)、「テラビシアにかける橋」(アナソフィア・ロブ、ジョッシュ・ハッチャースン)、「魔法にかけられて」(エーミー・アダムズ)、「スパイダーウィックの謎」(フレディー・ハイモア、サラー・ボルジャー)、「ウォーター・ホース」(アレックス・エテル)など。

    興行的にヒットした映画は、「アイ・アム・レジェンド」(ウィル・スミス)、「レッドクリフPart1」(トニー・レオン、金城武)、「インディ・ジョーンズ、クリスタル・スカルの王国」(ハリスン・フォード、ケートブランシェット)の3作品。

   ロマンスでは、ジェラード・バトラーが活躍。ジョディ・フォスターと「幸せの1ページ」、ヒラリー・スワンクと「P.S.アンラヴユー」。そのほか「かけひきは恋のはじまり」(ジョージ・クルーニー、レネー・ゼルウェガー)、キーラ・ナイトリーは「つぐない」(ジェームズ・マカヴェイ)、「シルク」(マイケル・ビット)の2本。「最後の初恋」(ダイアン・レーン、リチャード・ギア)、「ベガスの恋に勝つルール」(キャメロン・デイアズ、アシュトン・カッチャー)など多彩であるが、「メイド・オブ・オナー」のパトリック・デンプシーは米雑誌「ピープル」の「最もセクシーな男性」に選ばれた。

   アクションでは「ボディ・オブ・ライズ」(レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ)、「アイアンマン」(ロバート・タウニー・ジュニア、テレンス・ハワード)、「ドラゴン・キングダム」(ジャッキー・チェン、ジェット・リー)、「地球が静止する日」(キアヌー・リーブス、ジェニファー・コネリー)など。

   訃報としては、チャールトン・ヘストン、ポール・ニューマンの大物スターの死去も悲しい出来事であったが、「ダークナイト」のヒース・レッジャー(28歳)や「依頼人」゜ゴールデンボーイ」のブラッド・レンフロー(25歳)の若手俳優の薬物中毒による急死は衝撃を与えた。

   アジアの作品では、ホ・ジノ監督の「ハピネス」(イム・スジョン、ファン・ジョンミン)、「ファン・ジニ」(ソン・ヘギョ、ユ・ジテ)、「アドリブ・ナイト」(ハン・ヒョジュ、キム・ヨンミン)、「ラスト・コーション」(トニー・レオン、タン・ウェイ)、「恋の罠」(ハン・ソッキュ、キム・ミンジョン)など話題性のある作品があった。

2008年12月26日 (金)

不滅の美人スターは誰れ?

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   新年号の雑誌が本屋の店頭に並べられているが、アエラはじめ雑誌の表紙の多くは宮崎あおい。どうやら2008年は篤姫の一人勝ちだった。少女モデル出身の宮崎あおいは演技力だけでなくフォトジェニックな魅力が素晴らしい。

  今年、洋画雑誌ロードショーが廃刊したので、スクリーン誌だけになった。スクリーンは「オードリー・ヘプバーンの素顔」ということで大特集をしてなかなか健闘している。オードリーの17回忌、生誕80周年ということだが、15頁にわたる豊富なカラー写真はこれまでのどの特集より充実している。もちろん新時代のオードリー女優たちも紹介している。ナタリー・ポートマン、オドレー・トトゥー、アン・ハサウェー、キーラ・ナイトリー、でも写真でみる限り、オードリーの魅力には遠く及ばない。

    世界の美人スターといえば、戦後はイングリッド・バーグマンから始まった。イギリスの名花ヴィヴィアン・リーも戦前の女優だが、大戦の関係で戦後人気女優にのしあがった。ヴィヴィアン・リーの「哀愁」と並んで人気のあったのは、「心の旅路」のグリア・ガースンである。バーグマン同様に大柄な美人であり、上品で教養がある。貴婦人と呼ぶのに最もふさわしい女優はグリア・ガースンかもしれない。

    妖艶な魅力といえば「賄賂」「パンドラ」「裸足の伯爵夫人」のエヴァ・ガードナー。知的で気品のある美しさといえば「黒水仙」「イグアナの夜」のデボラ・カー。だがオードリー以前の映画界はむしろグラマー美人に人気があった。肉体派のはしりは「にがい米」「シーラ山の狼」「紅薔薇は山に眠る」のイタリアのシルバーナ・マンガーノだろうか。マリリン・モンローが「ナイアガラ」でお尻を左右に大きく振って歩いたとき、日本の男性は生ツバをのみこんだものである。そしてオードリーの最大のライバルといえば、グレース・ケリーとエリザベス・テーラーだろう。だがオードリーの魅力がいつまでも新鮮で人気があるのは、映画での名演だけでなく、古びないファッションセンスにある。とくに「麗しのサブリナ」にはジヴァンシーのオードリー・ファッションの基本アイテムがぎっしりある。洗練の極致「ティファニーで朝食を」、シック&カジュアルな「シャレード」「いつも2人で」など女性にとってオードリー映画はオシャレのお手本だ。

2008年12月13日 (土)

伝説のセックスシンボル・ベティ・ペイジ

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   第二次大戦中、米軍兵士たちに一番人気のあった女優はベティ・グレイブル(1916-1973)であった。その後、ジェーン・ラッセル(1921-  )やマリリン・モンロー(1926-1962)が登場して、いわゆるセックス・シンボルとして人気を集めた。モンローの全盛期にモンローに匹敵する人気があり、黒髪でボンデージやランジェリー、そしてキュートな笑顔で、裏マリリン・モンローと呼ばれたベティ・ペイジ(1923-2008)が85歳で亡くなったことが大きく報道されていた。ベティは7年間活躍したが、ある上院議員のポルノ追放キャンペーンのため、表舞台から姿を消した。しかし1978年頃からベティの再評価が起こり、近年ではメアリー・ハロンという女性監督によってグレッチェン・モル主演で伝記映画が製作され、その名前は再び世に知られるようになった。映画公開当時、日本でベティ・ペイジの写真を調査研究しようとしたところ、日本の公共図書館にはほとんどベティに関する資料を所蔵するところが無かった。マリリン・モンローの膨大な情報量に比べ、ベティに関する資料の少なさに日本の図書館の選書に疑問をいだいたものである。

   日本では、日活ロマンポルノの衰退以後、映画や図書に対する規制は社会的に強化される傾向にあるといえる。しかし性風俗に関する著作物の蒐集保存は、これまで軽視されがちであるが、公的な保存機関である図書館に期待することはほとんど不可能なため、個人的コレクションの対象としては「稀少性」と「再評価の気運がある」ことからも文化史的価値は高いものがある。江戸の浮世絵版画が高価なのと同じであろう。最近、ポルノなどを規制する法律を強化する動きがあるようだが、個人的に所有することまで規制することには、少なからず疑問をもっている。

    1950年代、マリリン・モンローは日本でもすごい人気であった。その出演作品の多くは話題となり、今日でもDVDで見ることができる。モンローのほかにもダイアナ・ドース、ジェーン・マンスフィールドなどお色気女優が映画界に現われた。だが、ピンナップ主体であるベティ・ペイジのことは日本の芸能雑誌で紹介されることはほとんどなかったであろうし、プレイボーイ日本語版は当時まだ無かったので知られることはなかっただろう。その頃、初期のプレイボーイ誌を輸入して購読していた日本人はどれくらいいるのだろうか。ベティ・ペイジよりもむしろエレン・ストラットン、リサ・ウィンターズ、リンネ・ナネット・アルストランド、マリリン・ワルツ、マーガレット・スコット、ジャッキー・レインボウ、アーリン・ハンター、マルゲリーテ・エムビー、アン・フレミングなど初期のプレイメイトの名前が残されている。

2008年11月 5日 (水)

歌笑と痴楽

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    ケペルは落語はほとんど聴かないが、子供の頃、好きだった落語家が一人いる。柳亭痴楽(1921-1991)だ。顔をくしゃくしゃにして、節を付けて話す。「柳亭痴楽はイイ男。鶴田浩二や錦之助、それよりずっとイイ男。上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃、外回り」と美文調が子供にはとても新鮮だった。有名な「痴楽綴り方教室」は、実は三遊亭歌笑(1917-1950)の「純情詩集」「歌笑綴り方教室」の影響によるものらしい。「七つ八つで帯解けて、十九二十は器量よし、世の移り変わりと共に怪異な容貌とはなりぬ…」とある。「怪異な容貌」とは、歌笑は強度の斜視で、エラの張った四角い顔だったからである。痴楽が「柳亭痴楽はイイ男」「破壊し尽された顔の持ち主」と顔をネタにするのも歌笑の影響によるものである。

    歌笑は、昭和25年5月30日、大宅壮一との対談を終え、銀座松坂屋前の電車通りを横断中、疾走してきたアメリカ軍のジープにはねられ死亡した。32歳の若さだった。翌日の新聞には小さい記事で掲載されていた。終戦直後の暗い世相を明るくした戦後最大の爆笑王の扱いとしてはひっそりしたものであったのは、加害者が占領軍の兵士であったためだろう。結局、ひき逃げ犯人はうやむやになったままであった。

2008年10月30日 (木)

今年、引退する有名人

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   シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子(36)が引退会見を開いた。高橋尚子に限らず今年は何故か大物の引退宣言が目立つ。野球界では、桑田真澄、野茂英雄、清原和博、体操の鹿島丈博、陸上の朝原宣治、柔道の井上康生、サッカーの森島寛晃、レスリングの伊調馨・伊調千春などなど多彩な顔ぶれである。スポーツ選手は肉体的な限界もあるので、ある程度予測されることだが、この人の動向が今年一番騒がせたであろう。小泉純一郎の政界引退である。

    芸能界では、自然と消えていくケースが多いが、石田未来は20歳で「自分探しをします」と引退宣言した。グラビアアイドルの小向美奈子(23)と共に惜しまれる引退であろう。

   海外では「アンダーカヴァー」のホアキン・フェニックスが34歳の若さで俳優業を引退し、音楽活動に専念するという。ホアキンはリヴァー・フェニックス(1970-1993)の弟であり、2度のアカデミー助演男優賞にノミネートされた演技派である。

    ところで石田未来は、「いしだみく」と読む。「未来」という名を使う芸能人は多いが、「みらい」「みく」「みき」など読みが異なる。こういう場合、普通に「未来(みらい)」と読ませたほうが売れる可能性が高い。志田未来は「しだみらい」と読み、「14歳の母」「正義の味方」と好調だ。山本未來(やまもとみらい)、上野未来(うえのみく)、森山未来(もりやまみらい)、羽生未来(はにゅうみく)などがいる。

   このように、自ら表舞台を去っていく人もあれば、今年、有名人になった人もある。エドはるみ、山本モナ、スザンヌ、はるな愛、鳥居みゆき、木下優樹菜、DAIGO、上地雄輔などテレビはまた新しい有名人を生んでいる。最近の売れっ子の傾向として「おばかキャラ」が好まれる。ただし男性の場合、ルックスも重要視されるようだ。とくに「セレブと貧乏太郎」の上地雄輔は今いちばん旬な芸能人で将来性もありそうだ。

オードリー・ヘプバーンの離婚

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「戦争と平和」のため乗馬の訓練をするオードリー・ヘプバーン

   ケペルが映画雑誌を講読しはじめたころは、オードリー・ヘプバーンとメル・ファーラーは、おしどり夫婦として知られていた。昭和42年の二人の離婚は雑誌で大きく取り上げられた。ところが、すでに「映画の友」昭和30年7月号に「もろもろアルファベット帖」欄に次の記事がある。

【わからないもの】オードリー・ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚継続年数。ビング・クロスビーの毛髪。ジョン・ウェインのラテン系女好き。ジョン・クロフォードの年齢。アラン・ラッドの貯金高(新潟・石崎敬輔)

   むかしの雑誌には読者の投稿にもなかなか味のある記事が多い。「映画の友」を購読している層は若い人からかなりの年輩層まで幅が広かったようである。当時から、年輩の眼から見て、オードリーの結婚には疑問視していたファンもあったようだ。メル・ファーラー(1917-2008)は今年の6月2日、満90歳で亡くなった。才能豊かではあったが、女性関係は派手で、生涯に5度結婚している。オードリーは4番目の妻で、結局14年間も続いた。いまでは女性のお手本としてオードリー・ヘプバーンは伝説化されてしまったが、パラマウント時代のオードリーは、プリンセスのような気品であらゆる男性をとろけさせる魅力をもったアイドル女優だった。オードリーの結婚はウブで世間知らずで結婚願望の強い若い女性が、中年のプレイボーイの手に落ちたという感じがあって、メル・ファーラーへのやっかみは相当にアメリカでも強かったようだ。ブロードウェイの舞台「オンディーヌ」、「戦争と平和」、「緑の館」とオードリーと共演したときは順調であったが、離婚後のメル・ファーラーが十分な活躍できなかったのは、そのためではないだろうか。

2008年10月27日 (月)

生きものの記録

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    むかし「終着駅」(千家和也作詞)、「甘い生活」(山上路夫作詞)、「草原の輝き」(安井かずみ作詞)、「芽ばえ」(千家和也作詞) 、「バス・ストップ」(千家和也作詞)など歌謡曲の題名を洋画から借用すると何故かよくヒットした。城みちるの「イルカにのった少年」(杉さとみ作詞)も、ソフィア・ローレン、アラン・ラッドの「島の女」の主題歌「イルカに乗った少年」ではないか、と思っていたが、ある番組で城みちる自らが映画のパクリだったことを白状していた。

    これらは確信犯的なパクリだが、むかしは知らないで過去の作品と同じ題名になることもしばしばあった。黒澤明(1910-1998)の「生きものの記録」(昭和30)という映画も、題名が丸岡明(1907-1968)の小説「生きものの記録」と同一であることが制作段階で作家からの抗議で判明した。問題の小説は昭和10年に「三田文学」に発表され、芥川賞候補にもなり、翌年、沙羅書店から刊行されている純文学の名作である。大分、物議を醸したようだが、結局は示談となって、そのまま映画は公開された。

    ストーリーは、町工場の経営者、中島喜一(三船敏郎)は原水爆の実験に脅威を感じ、この地球上で安全な場所は南アメリカだと考える。しかし周囲の人々は彼の心配を理解せず、彼はついに発狂して、工場に放火していまう。当時35歳の三船が70歳の工場長をフケで熱演したが、興行的には失敗だった。半世紀のち、「生きものの記録」で検索すると、丸岡明には申し訳ないが、いまでは後発の映画作品のほうが有名になってしまったのも皮肉な話である。

2008年10月26日 (日)

ジェニーの肖像

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    貧しい画家のエブン・アダムス(ジョゼフ・コットン)は、ある日、偶然ひとりの少女と出会う。ジェニー(ジェニファー・ジョーンズ)といって不思議な魅力の持ち主だった。ほんの短い時間ではあったが、それは印象的な出会いで、風景画家だった彼を少女のスケッチへと向かわせる何かがあった。しばらくして、運命とも言うべき力が二人を再会に導くが、驚いた事にジェニーは、わずかな間に少女から大人へと成長を遂げていた。エブンは不思議に思うが、二人の間に強く運命を感じ、ジェニーの肖像画を描くようになる。ドイツ出身の表現主義の映画監督ウィリアム・ディターレ(1893-1972)が愛と幻想に満ちたストーリーをファンタジックに描く「ジェニーの肖像」(1948)はアカデミー特撮効果賞、ベネチア映画祭主演男優賞を受賞している。なお、ジョセフ・コットン&ジェニファー・ジョーンズの共演作品には、このほか「君去りぬ後」(1944)、「ラヴレター」(1945)がある。原作はロバート・ネイサン(1894-1958)

男女のカップルは夢とロマンをもたらす

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   アメリカのエリオット・アーウィットは、目線を低くした等身大の人間像と国境を越えたヒューマニズム、ユーモアの漂う作品で知られる写真家である。なかでもちっちゃなカップル、年季の入ったカップル、不思議なカップル、など、男と女が織りなす、甘くやさしい写真を40年以上とり続けた。

    恋愛メロドラマの世界もハリウッド、日本映画も美男美女の愛を美しく純潔なものに描くという古典的パターンは、韓国映画の登場によって、さらに量産されるようになった。日本でも一時期、薄っぺらいメロドラマとして、低迷した時期もあったが、昨年の「恋空」の大ヒットによって、カップルの映画は不滅のジャンルであることを証明している。名コンビといわれるスターを思いだすままにあげると、ダグラス・フェアバンク&メリー・ピックフォード、クラーク・ゲーブル&ジーン・ハーロー、ミッキー・ルーニー&ジュディ・ガーランド、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、ジョン・ウェイン&モーリン・オハラ、ジェームズ・スチュアート&ジューン・アリスン、ジャック・レモン&シャーリー・マクレーン、ライアン・オニール&アリー・マックグロー、リチャード・ギア&ジュリア・ロバーツ、上原謙&田中絹代、佐田啓二&岸恵子、浜田光夫&吉永小百合、三浦友和&山口百恵、などであろうか。このようなゴールデン・カップルといわれるスターはいまではあまり見られない。

2008年10月24日 (金)

家定は暗愚だったのか

    第13代将軍徳川家定が倒れたのは安政5年6月25日であるから、死の11日前である。この日は諸大名に総登城が命ぜられ、紀州慶福(7月21日家茂と改名)を世嗣に決定した旨の発表があり、そのお広めとして慶福以下に御対顔があったその日である。家定はそのあと急に工合が悪くなり、当時大奥に勤めていた佐々鎮子の話によると、松の廊下から人につかまってお出になったという。そしてそのまま回復を見ず、7月6日申の下刻(午後5時)亡くなった。数え年35歳である。

    家定は12代将軍・家慶の三男で、「幼少にて重き疱瘡に罹り給ひ、満面の痘痕に醜くなららせれ、且病身がちなる上、俗に謂ゆる癇症にて、眼口時々痙攣し、首また之に従い、一見笑ふべき奇態を為し、言語も亦やや訥して吃るが如くなりけり」(「徳川慶喜公伝」)といった気の毒な生立ちで、成人するとその癖を恥じて人に会うのを厭い、「御簾中は前後三人まで迎へられしかど、曽て男女の語らひもなら」ざる状態で、ひどい抑鬱症に陥っていたらしい。大河ドラマ「篤姫」で家定を好演した堺雅人と原作者の宮尾登美子が文藝春秋で対談している。それによると宮尾登美子は家定の癇症を水銀中毒だったとしている。「徳川家に限らず、貴族の奥さんは自分で子供を育てずに、乳母を雇って、お乳を飲ませます。その乳母が厚塗りのお化粧をしていて、赤ちゃんが舐めるんですよ、白粉を」そして宮尾は「(家定は)さほど暗愚じゃなかった」と言っている。堺雅人は山南敬助役で広く知られるようになったが、もともと舞台俳優だ。今回の「篤姫」ブームでも夫婦愛が素晴らしかったので、また多くのファンを得たようだ。いろんな役ができる役者さんとしてこれからも面白い演技を期待している。

2008年10月 9日 (木)

お姫さまだっこ

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   少女マンガを読むと「お姫さまだっこ」に対する感情には極上のものがあり、少女の憧れの一端をうかがうことができる。そのルーツはディズニーの「シンデレラ」であろうが、王子さまが長身で力持ちであること、お姫さまがダイエットに成功することが必須要件であり、現実社会で成就するにはなかなかハードルが高いポーズのように思える。映画「哀愁」の宣伝スチールのように男性が軽々と抱いているくらいでないとサマにならないであろう。

   「哀愁」のマイラ(ヴィヴィアン・リー)は、もとは可憐なバレリーナだったが、恋人(ロバート・テーラー)を戦場で失ったと勘違いをし、街娼に身をおとすという悲しい話である。ウォータールー橋で娼婦として媚を売るヴィヴィアンが、上品な雰囲気そのままなのが、かえってメロドラマのヒロインとして最高の演技となっている、とある映画評論家が書いていた。あれがシモーヌ・シニョレの爛れた娼婦ぶりであれば、おぞましいドラマになるであろう。

 ロンドンの あの橋のたもとで

 バレーを踊りし 麗しき瞳

 一年前の 我が乙女よ

 とわに誓いし まことの愛

 手に握りしめ

 いつも離さず いだきし

 ラッキー・ビリケン 今は無く

 一人淋しく 橋にたたずむ

2008年10月 7日 (火)

メトロの匂い

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    今も昔もフランスの女性は世界中の男性の憧れである。フランス女性と知り合う機会の先ずない日本人男性の最も手っ取り早い方法はフランス映画の中から「理想の女性」や「永遠の女性」を探すことだった。アルレッティ、マリー・ベル、コリンヌ・リュシェール、アナベラ、ダニエル・ダリュー、ミシュリーヌ・プレール、アヌーク・エーメ、フランソワーズ・アルヌール。だがたった一作ながらその面影を生涯忘れぬ女優がいる。ミレーユ・バラン。

    映画「望郷」でギャングのペペ・ル・モコ(ジャン・ギャバン)はカスバに身を隠していたが、ある日、パリから来た美しい女ギャビー(ミレーユ・バラン)にあう。ペペは彼女がもつ故郷パリの匂いに惹かれる。「君はパリのメトロの匂いがする」、ペペがギャビーに言うシャレた言葉は世界映画史の中でも最高の名セリフである。

     ところでミレーユ・バラン(1911-1968)という女優のことは、「望郷」以外何も知らない。あれほど印象に残る女優なのにウィキペディアの項目にもない。「ビバ!フランス映画の女優たち」にわずかに紹介記事がある。パリでモデルをしていた21歳のとき、モーリス・カノンジュ監督に見出されて「クラス万歳」に出演。G・W・パプスト監督のフランス亡命時代の作品「ドン・キホーテ」をへて、1936年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「望郷」に出演。眉を細くひいたメランコリックなパリの女を演じて世界的にその名を知られる女優となった。だがこの当たり役のイメージが強すぎてか芸域を広げられないまま1946年「最後の騎打」を最後に引退。不遇のうちに、パリにて病死した。

2008年9月29日 (月)

「パン売りロバさん」近藤圭子

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  ロバのおじさん チンカラリン

  チンカラリンロン やって来る

  ジャムパン ロールパン

  できたて やきたて いかがです

  チョコレートパンも アンパンも

  なんでもあります チンカラリン

 昭和30年代、四輪の馬車をひくロバのパンの移動販売が日本各地に見られた。「♪ロバのおじさん チンカラリン」というテーマソングを歌っているのは、われらが近藤圭子ちゃんだ。昭和20年代から30年代初期にかけては、童謡歌手が大人気だった。川田正子、孝子、美智子の川田三姉妹、古賀さと子、安田祥子・章子、松島トモ子、伴久美子、渡辺典子、なかでも近藤圭子は少女から美人女優へと成長した美形アイドル№1だった。昭和18年3月18日生まれ。現在65歳ということになる。7歳より、キングレコード専属作曲家・山本雅之に師事し、昭和26年、「仔豚のラッパ」でデビュー。テレビ時代になると、「八頭身美人」といわれた近藤圭子のスタイルのよさが日本テレビ局の目にとまり専属スター第一号となる。テレビでは「星をみつめて」「私のおかあさん」「ああ無情」の主役に抜擢され、映画も「透明人間」「宮本武蔵」に出演している。雑誌「少女」の昭和31年人気スター投票を見ると、堂々の第5位にランクされている。

  第1位 松島トモ子

  第2位 美空ひばり

  第3位 中村錦之助

  第4位 古賀さと子

  第5位 近藤圭子

   近藤はその後もテレビ、映画で活躍し、「豹の眼」(昭和34年)、「快傑ハリマオ」(昭和35年)と大人気番組に出演している。三橋美智也が歌う「快傑ハリマオ」のレコードのB面は近藤圭子が歌う「南十字星の歌」だ。NHKのテレビ・ミュージカル「バリ島への道」の主役を勤めた。ところが昭和40年4月28日、草津の有料道路の乗用車の中で妻子ある男性と短刀で刺し違えるという心中未遂事件を起こした。童謡歌手から美人女優という人も羨む22歳のアイドル近藤圭子が、はじめて知った純粋な愛が何故、心中という選択に向かったのか、詳細は謎であるが、ともかく聖女は忽然とケペルの前から消えていった。ネット情報によると、昭和49年にはアメリカ人と結婚し、ハワイで今も幸せに暮らしているという。

2008年9月28日 (日)

熱いトタン屋根の猫

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    アメリカを代表する俳優がまた一人去っていった。映画「明日に向かって撃て」「スティング」「タワーリング・インフェルノ」などで知られたポール・ニューマン(1925-2008)が、9月26日、がんのためコネティカット州ウェストポートの自宅で死去した。83歳だった。

   ポール・ニューマンは1925年1月26日、オハイオ州クリーブランドに生れた。父親は運動具店を経営していた。父の弟が、詩人肌の新聞記者だったので、少年時代は新聞記者になりたいと思っていた。しかし12歳で子供劇団にはいって舞台を踏むうち演劇への興味にとりつかれて、ケニヨン・カレッジで演劇に専念した。第二次大戦では海軍に召集され通信士として太平洋戦域で従軍した。復員後、エール演劇学校に入学。プロとしてのデビューはテレビであったが、ほどなくブロードウェーの舞台にチャンスをつかみ、14か月のロングランとなった「ピクニック」での演技がワーナー映画の注目をひいて、ハリウッドへ。「銀の盃」であざやかなデビューとなる。だが1年で、ハリウッドがいやになり、ニューヨークの演技研究所アクターズ・スタジオで演技の研鑽を重ねた。ハリウッドは再び彼を呼び戻し、「傷だらけの栄光」「長く熱い夜」「左ききの拳銃」などの異端児的な役どころで売り出した。ポールは「第二のマーロン・ブランドー」などと呼ばれた。「熱いトタン屋根の猫」(1958)ではアカデミー主演賞候補となった。

   南部に大農場を裸一貫から築いたビック(パール・アイヴス)はガンで死期が迫っている。本人は知らないが、息子たちは知っている。次男ブリック(ポール・ニューマン)は、毎日酒びたりだった。彼は親友スキッパーと妻マギー(エリザベス・テーラー)との仲を疑ったが、スキッパーの自殺にショックを受けて以来、マギーとの夫婦の交渉をなくしていた。スキッパーとブリックは微妙な友情に結ばれていた。ブリックの兄夫婦が遺産をねらってやってくる。ドラマは人間の赤裸々な欲望と、南部の頽廃を鋭くえぐる。テネシー・ウィリアムスの舞台劇をリチャード・ブルックスが映画化。題名の意味は夫との性交渉がなくなった若妻が、欲情をもてあましている状態をいっている。ポール・ニューマンはその後も何度もアカデミー主演男優賞にノミネートされたが長く賞に恵まれず、初の受賞は「ハスラー2」(1986)だった。

2008年9月26日 (金)

正義の味方、月光仮面の人気の秘密

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    「♪タケダ、タケダ、タケダ…」というコマーシャル・ソングで始まる「月光仮面」第2部「パラダイ王国の秘宝」は日曜日夜7時からの30分番組であった。ケペルは「月光仮面」世代であるが、まだ家庭にテレビはなく、銭湯で見た記憶がある。

    乏しい制作費のためセットなしのオールロケ。今からみるとチープなドラマづくりであるが、なぜ当時の子供たちをあれほど惹きつけたのか謎であった。映画評論家・樋口尚文の新著「月光仮面を創った男たち」は緻密な検証の上に、その謎への独自の解明が試みられている。いわば「三丁目の空き地」説とでもいうべきもので、以下、梗概を記す。

    「月光仮面」の人気を決定づけた第1部(全71話)のほとんどは、夕方6時から10分間の帯番組として週6回放送されていた。すなわち、こどもたちが学校を終えて空き地で大暴れをして帰宅するや、そのタイミングでテレビでわずか10分の安づくりなヒーロー物が始まるのである。単純なストーリーは、空き地での決戦の一日のしめくくりとして、このうえなく画期的で愉しいものだったのではないか、と推論している。それと「月光仮面」の颯爽たるバイク姿が、その時代の勢いを背負った夢のプロダクトでもあった、としている。

    誰もがみんな知っている「月光仮面」だが、実は誰もがみんな知らずにいる、昭和の奇跡があった。大瀬康一のインタビュー、川内康範(作家)、船床定男(監督)、小林利雄(制作、宣弘社)など緻密な調査がされていてノンフィクション、ルポルタージュとしても優れている。

    なぜ「月光仮面」世代の当人たちがあまり「月光仮面」についての綿密な調査に無関心だったのだろうか。それは人生のうちでおそらく最も楽しかったであろう日々の思い出は、だだぼんやりとした記憶にとどめておきたいからであろう。「月光仮面がなぜ人気があったか」などという詮索は「ウルトラマン」世代にお願いするほうが客観性があっていいだろう。

2008年9月12日 (金)

ロードショーの廃刊

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    集英社の洋画雑誌「ロードショー」が11月21日発売の2009年1月号で休刊するという。この場合の休刊とは、イコール廃刊というケースがほとんどらしい。創刊は1972年3月。創刊時の思い出が蘇った。ケペルは阪神野田駅で働いていたが、まだ給料が少なく、駅近くの商店街にある本屋で販売中の「ロードショー」を買わずに立ち去った。表紙はカトリーヌ・ドヌーブでとても美しいかった。その年の8月に公務員になって、やっと雑誌が買えるようになった。全盛期はなんと「スクリーン」と「ロードショー」2誌も買っていた。しかしいつしか「スクリーン」だけになった。久しぶりに本屋で手に取ってみたが薄くなっているのに驚く。思えば洋画のヒット作も少なく、人気スターが育っていない。淀川長治、荻昌弘、小森和子といった人気映画評論家も亡くなった。ロードショー1975年スターベスト30はこんな顔ぶれがいた。

第1位 ブルース・リー

第2位 アラン・ドロン

第3位 ジュリアーノ・ジェンマ

第4位 スティーブ・マックィーン

第5位 ロバート・レッドフォード

第6位 クリント・イーストウッド

第7位 ポール・ニューマン

第8位 ジェームズ・ディーン

第9位 チャールトン・ヘストン

第10位 クラーク・ゲーブル

第11位 ジャン・ポール・ベルモンド

第12位 ピーター・フォーク

第13位 ピーター・フォンダ

第14位 アル・パシーノ

第15位 エルビス・プレスリー

第16位 ロジャー・ムーア

第17位 ロバート・ワグナー

第18位 ダスティン・ホフマン

第19位 デビット・マッカラム

第20位 クリス・ミッチャム

第21位 チャールズ・ブロンソン

第22位 ショーン・コネリー

第23位 ジェームズ・コバーン

第24位 チャールズ・チャップリン

第25位 ユル・ブリンナー

第26位 ジェームズ・カーン

第27位 バート・レイノルズ

第28位 レナード・ホワイティング

第29位 ジョン・ヴォイド

第30位 ジャック・ニコルソン

   これらの顔ぶれをみて、現在も活躍しているロバート・レッドフォード、クリント・イーストウッド、ダスティン・ホフマン、ショーン・コネリー、ジャック・ニコルソンたちを並べてみると、ある程度当然の結果といえなくもない。もう一つ特徴をあげると、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、デビット・マッカラムといえば「大脱走」(1963)の出演者たちだ。あるいはデビット・マッカラムをはずしてユル・ブリンナーを入れると「荒野の七人」(1960)のスターたちだ。つまりハリウッド映画は、60年代、70年代は、スティーブ・マックィーンがシンボル的存在だった。マックイーンはほんとうの意味で、アクションの面白さを映画で見せてくれたスターだった。テレビ「拳銃無宿」に出演していた無名の俳優が、世間の注目を集めたのは「荒野の七人」だった。マックイーンの敏捷な動きと鮮やかなガン・プレイは主役のユル・ブリンナーを喰ってしまった。その後、マックイーンは再びブロンソンやジェームズ・コバーンと組んで「大脱走」に出演し、軽妙な演技と飾り気のない素朴な持ち味で多くのファンを獲得した。「マンハッタン物語」(1963)の失業青年、「シンシナティ・キッド」(1965)のギャンブラー、「ネバダ・スミス」(1965)の復讐に燃える混血児、「砲艦サンパブロ」(1965)の水兵、どんな役でも常にカッコイイ。とくに「ブリット」(1968)の刑事、「栄光のル・マン」(1970)のレーサー、「ジュニア・ボナー」(1971)の西部男、「パピヨン」(1973)の終身犯、「タワーリング・インフェルノ」(1974)の消防隊長、と演技者としても成長してきた。1980年11月7日、ハリウッドきってのアクションスターも肺がんには勝てず、50歳の若さで急死したが、彼の穴をうめるような魅力あるスターはその後も現れていない。

2008年9月 9日 (火)

南北のファン・ジニ競演

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   李朝時代に実在した名妓であり詩人でもある黄真伊(ファン・ジニ)の生涯を描いた映画・ドラマはこれまでに何回かある。1957年のド・クムボン、1986年のチャン・ミヒ、そして現在NHKBS2で放送中のハ・ジウォンのドラマ「ファン・ジニ」である。

   ファン・ジニの生没年など詳しい経歴は明らかではないが、「チャングムの誓い」に登場する李朝第11代王・中宗(在位1506-1544)と同時代を生きた女性である。妓生であるファン・ジニのはかない人生が歴史に名を残すことはほとんどなかったが、両班たちが書き残した様々な記録にその名が登場し、名妓として伝説が残っていった。

    このように、古くからファン・ジニは朝鮮の人々を魅了してやまず、多くの作家が小説を書いてきた題材であり、イ・テジュン(1936年)、キム・タクファン(2002年)の作品がある。キムの「ファン・ジニ」は韓国KBSでハ・ジウォンでドラマ化された。さらに北朝鮮の作家ホン・ソクチュンの「ファン・ジニ」は2004年に韓国でも出版されてベストセラーとなり、北の作家として初めて南の文学賞(萬海文学賞)を受賞した。そして今度日本でも公開されるホン原作の映画化「ファン・ジニ」(チャン・ユニョン監督)が劇場公開される。主演は清純派のソン・ヘギョ。可憐さと妖艶さが同居する魅力的なヒロイン像として期待される。ハ・ジウォンとソン・ヘギョ、二つの「ファン・ジニ」を比較するのも興味深いものがある。

2008年9月 8日 (月)

綾小路麗子

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    NHK大河ドラマ「篤姫」で徳川家定の母、本寿院を演じて活躍中の高畑淳子。「魂萌え」あたりから主演級の役も多くなったが、もともと劇団出身の女優さんで演技力には定評がある。若い頃は東映の特撮作品によく出演していた。「仮面ライダーーBLACK RK」(1988)のマリバロンや「特捜ロボ・ジャンパーソン」(1993)のスーパー・サイエンス・ネットワークの女帝・綾小路麗子など悪役が得意だった。

2008年8月31日 (日)

時代劇は東映

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前列左から片岡千恵蔵、大川橋蔵、東千代之介、加賀邦男、千原しのぶ、伏見扇太郎

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前列左から尾上鯉之助、里見浩太郎、長谷川裕見子、片岡栄二郎、中村錦之助、大友柳太朗、市川右太衛門

   昨夜のNHKの思い出のメロディー。今から50年前の昭和33年を一つのキーワードにしていた。東京タワー、長嶋茂雄巨人デビュー、石原裕次郎「嵐を呼ぶ男」。だが忘れちゃならない、あの頃、時代劇も黄金期だった。とくに片岡千恵蔵次郎長シリーズは年に一度の東映一家勢ぞろいに心を奪われた。シリーズといっても配役は作品ごとに入れ替わる。ちなみに昭和33年の正月映画「任侠東海道」(松田定次監督)では清水次郎長(片岡千恵蔵)、大前田英五郎(市川右太衛門)、増川仙右衛門(大川橋蔵)、大瀬半五郎(東千代之介)、法印大五郎(加賀邦男)、お竹(千原しのぶ)、大野鶴吉(里見浩太郎)、おきく(長谷川裕見子)、小政(片岡栄二郎)、桶屋の鬼吉(中村錦之介)、大政(大友柳太朗)であった。ただ印象としては前作の「任侠清水港」での中村錦之介・森の石松が殺される場面が記憶に残る。石松が都鳥の三兄弟に連れられて閻魔堂で騙し討ちに遭い、保下田の久六の子分どもに惨殺される。

   子どもの頃、市場に住んでいたが近くに新しくスーパー・マーケットが出来た。そこの開店祝いに東映のスター尾上鯉之助が来店するというので、女性たちは大騒ぎだったことを思い出した。

2008年8月29日 (金)

次郎長二十八人衆

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左から清水次郎長(長谷川一夫)、法印大五郎(千葉敏郎)、小政(本郷功次郎)

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左から桶屋鬼吉(林成年)、追分三五郎(石井竜一)、大野鶴吉(鶴見丈二)、大瀬半五郎(品川隆二)、森の石松(勝新太郎)

    まだ家庭にテレビがなかった子どもの頃、夜はラジオから流れる浪曲が庶民の娯楽の一つだったように思う。そのなかでも広沢虎造の清水の次郎長が最も人気だった。もちろん映画館でも東映や大映のオールスターキャストの次郎長映画は最高の痛快娯楽大作である。今日の夕刊でマキノ雅彦監督の「次郎長三国志」が近く公開されると知った。お決まりの三度笠に富士山の背景が映画館で見たい気持ちを抱かせる。気になる配役であるが、清水次郎長(中井貴一)、森の石松(温水洋一)、小政(北村一樹)、大政(岸部一徳)、桶屋の鬼吉(近藤芳正)、法印大五郎(笹野高史)、関東綱五郎(山中聡)、沼津の佐太郎(大友康平)などであるが、全体的にベテランの脇役俳優で豪華スター陣という感じはあまりしない。ちなみに昭和34年の大映「次郎長冨士」のキャストは次のとおり。清水次郎長(長谷川一夫)、森の石松(勝新太郎)、大政(黒川弥太郎)、小政(本郷功次郎)、桶屋の鬼吉(林成年)、大瀬半五郎(品川隆二)、竹居の安五郎(香川良介)、神戸長吉(舟木洋一)、増川仙右衛門(島田竜三)などである。新作の「次郎長三国志」と大きく異なる点は二枚目揃いであるということであろう。「次郎長冨士」では、長谷川一夫、勝新太郎に市川雷蔵を吉良仁吉に充てて、三大スターを共演させるという魅力ある配役陣であった。新作「次郎長三国志」はおそらく村上元三の小説がベースであろう。秋葉の火祭、代官斬り込み、荒神山の血煙、石松金毘羅代参、閻魔堂の騙し討ち、鬼吉喧嘩状、富士川の決戦など浪曲や講談にでてくるお馴染みの話が展開するだろう。さて巷間「次郎長二十八人衆」などといわれるが、子分たちの正確な名前を知らない。映画や浪曲などでもやや異なることが多いだろう。たとえば有名な広沢虎造の「石松三十石船道中」で子分を順番にあげる下りがある。

1.大政(山本政五郎)

2.小政(小松村の七五郎)

3.大瀬半五郎

4.増川仙右衛門

5.法印大五郎

6.追分三五郎

7.大野の鶴吉

8.桶屋の鬼吉

9.美保の松五郎(三保の松五郎)

10.問屋場の大熊

11.鳥羽熊

12.豚松(美保の豚松)

13.伊達の五郎

14.石屋の重吉

15,お角力綱

16,鍋売り初五郎

17番以降は「うるせいぇな。おい、下足の札貰っているんじゃねぇやい。ナニ云ってやがんで、幾等次郎長の子分が強いったって、強いといって自慢するのはそんなもんだい、あとの奴ァ、もう、一山いくらの者ばっかりだよ」とセリフが面白い。これらの子分はだいたい実在性が高いと思われる。

   その他、出なかった名前は、森の石松、関東綱五郎、竹居の安五郎、神戸長吉、小川の勝五郎、沼津の佐太郎、森の八五郎、七栗の初五郎、相撲常(相撲の常吉)。28人までにはあと数人の名前が不明である。

  他にも浪曲などで登場する名前は次のとおり。寺津の勘三郎、国定の金五郎、舞坂の富五郎、田中の敬次郎、四日市の敬太郎、辻の勝太郎、由比の松五郎、吉良の勘蔵、興津の清之助。ただしこれらの名前の人物が実在したのか、次郎長の子分であるのかは不明。

2008年8月23日 (土)

「コタンの口笛」の幸田良子

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   「コタンの口笛」は昭和32年の石森延男(1897-1987)の児童文学で第1回未明文学賞を受賞し、昭和33年にはNHKでドラマ化され(主演・武部秋子、山崎猛)、昭和34年には成瀬巳喜男監督で東宝映画「コタンの口笛」(主演・森雅之、久保賢、幸田良子)が制作されている。

    アイヌを父としてシャモ(日本人)を母とする畑中マサは中学3年生。弟ユタカは中学1年生。父イヨンは日雇いで、母は早くなくなっている。星一徹と同じ家族構成である。ちなみに映画版で、教室で金がなくなった件でマサがクラスメイトから嫌疑をかけられるシーンがあるが 、アニメ版「巨人の星」でも同様の話があった。

    アイヌの子であるばかりに、シャモの子にいじめられる。町の百貨店経営者の娘後藤ハツと弟のゴンは、マサやユタカと同級であるが、ふたりに対し、ばかにしたり、つらくあたったりした。ある日、ユタカは、ゴンに「この者売り物なり」という紙を背にはりつけられ、とうとう決闘を申し込む。しかしユタカは、ゴンの友だちのサボにバットでなぐられ、失神してしまった。

   それ以来、酒飲みだったユタカの父は禁酒して、きこりとなり、新しく生活をたてなおそうとしていた。

    マサは図画の谷口先生が好きで、美術展入選作「湖畔の少女」のモデルになったりした。

   ある日、父は倒れる木の下敷きになって死ぬ。叔父の金二が姉妹を町へ行かせては働かせる。家は売られて、二人はコタンの部落をでていく。映画「コタンの口笛」でマサを演じた少女スター幸田良子はわずか2年で映画界から消えた。「コタンの口笛」「愛の鐘」「恐るべき火遊び」「夜の流れ」わずか4作品しかない。あの劇中のマサとユタカの姉妹、幸田良子、武部秋子たちはあれからどうなったのだろうか。ちなみに弟役の久保賢は山内賢として日活青春スターとして活躍した。

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2008年8月10日 (日)

ソニア・ペトローヴァ

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   アラン・ドロンの「高校教師」(ヴァレリオ・ズルリー二監督、1972年作品)が日本で公開されたのは昭和48年10月のこと。ドロンの人気絶頂で職場の若い女性が見に行きたいといっていたのを思い出す。名門の家庭の出身ながら、ある暗い過去を持つ人生に投げやりになっている不良教師(アラン・ドロン)と薄幸の女生徒(ソニア・ペトローヴァ)。二人は激しい恋に落ちるが、悲しい結末に終わる。

   ソニア・ペトローヴァの冷たく冴えた美貌、冬の湖を思わせる瞳は強烈な印象が残った。彼女のプロフィールを知りたいと思ったがわからなかった。生年月日も不詳である。推定によると、映画作成時、17歳だったそうで、1955年生まれ、今年53歳くらいであろうか。出身地はフランス・パリ。出演作は「高校教師」とヴィスコンティの「ルードウィヒ神々の黄昏」の2本のみ。ペトローヴァはバレリーナだったが、カンヌ映画祭で実験的小品に出ているところを、ヴィスコンティに見出されて映画界入りしたらしい。デビューそこそこでズルリー二、ヴィスコンティという名監督の作品に出演したが、演技的基礎がなかったためだろうか、消えていったが、その美しさは永遠に記憶に残る。

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2008年6月15日 (日)

新東宝メロドラマ

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         「細雪」(阿部豊監督)高峰秀子、田崎潤

  「新東宝の亡霊が夜な夜な都会の安眠をさまたげている」昭和36年につぶれた新東宝作品が深夜テレビで放送されて、時ならぬ新東宝ブームをまきおこしたときの週刊誌の記事の見出しだ。新東宝といえば、まさにエロとグロが氾濫する見世物映画であった。だが、このような大蔵貢(1899-1978)にみられる路線は昭和31年からのもので、初代社長の佐生正三郎の時代には溝口健二の「西鶴一代女」のような傑作も製作され、どちらかというと文芸メロドラマ路線の感があった。

    昭和21年秋、東宝映画の労働者は製作体制の民主化を要求して、大規模なストライキにはいった。当時、東宝は大河内伝次郎、長谷川一夫、原節子、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、山根寿子、花井蘭子、入江たか子、山田五十鈴という「十人の旗の会」というスターを専属にしていた。彼らはその年の11月、東宝を離脱した。こうして誕生したのが新東宝であり、昭和22年3月、劇映画の製作を開始した。第1回作品は「東宝千一夜」(山根寿子)、つづいて「今日は踊って」(長谷川一夫)、「大江戸の鬼」(高峰秀子)であった。やがて「花ひらく」(高峰秀子)、「天の夕顔」(高峰三枝子)、「三百六十五夜」(高峰秀子)と新東宝メロドラマ路線が確立した。「夢よもう一度」「結婚三銃士」(上原謙、高杉早苗、山根寿子)、「望みなきに非ず」(小杉勇、木暮実千代)、「異国の丘」(花井蘭子)、「湯の町エレジー」、「人間模様」(山口淑子)、「グッドバイ」(高峰秀子)、「深夜の告白」(池部良)である。翌25年になると、「処女室」(高峰秀子)、「暁の脱走」(山口淑子)、「細雪」(轟夕起子、高峰秀子)、「山のかなたに」(池部良、角梨枝子)、「雪夫人絵図」(木暮実千代、上原謙)などである。わけても「細雪」は、谷崎潤一郎のベストセラーを原作に、蒔岡家の四姉妹を鶴子(花井蘭子)、幸子(轟夕起子)、雪子(山根寿子)、妙子(高峰秀子)と当時最高の人気女優をズラリと並べ、一流の技術スタッフ、豪華なセット、衣裳を駆使した文芸大作だった。佐生正三郎社長は「配給の神様」と言われたが、経営状態は悪化し、昭和28年2月には退陣した。大蔵貢新社長が就任するのは昭和30年12月29日で、昭和31年から「大蔵路線」といわれる見世物的な娯楽映画の製作に切り替わる。しかし、質は悪かったが、そこには娯楽映画特有の魅力や活力があった。

2008年6月13日 (金)

山口百恵・水野晴郎対談

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    「水曜ロードショー」の解説者で「シェーン」のあとで、「いゃあ、映画って本当にいいもんですね」で知られた水野晴郎さんが6月10日亡くなられた。76歳だった。雑誌「スクリーン1975年4月号」に「水野晴郎連載対談」で16歳の山口百恵と対談している。

百恵 映画の中でも冒険する人の姿にすごく憧れるんですよ。

水野 百恵ちゃんが冒険心をもっているんだよね、何でも挑戦の…(笑)。

百恵 街なんかでも知らないところへ平気で一人でスタスタと行っちゃうんです。冒険と言う事とは違うんですけど、自分がココへ行きたいと思うともうまっすぐ行ってしまうんです。

水野 人間誰でも大小は別として冒険心をもってると思うんだな。その冒険心がどんな形で表へ出て来るのか…。冒険心というのは人間の生命力の一つの象徴だと思う。

百恵 ある人に言われたんです。人間はいつも砂漠の砂であるべきだって…あらゆるものを吸収することが必要だって。

水野 映画というすばらしい世界の知識や人生をいつぱいもった水分を、うんとぼくたちは吸収できるチャンスがあるんだから、幸せだよね。

    1月17日で16歳になったばかりの百恵ちゃん。「伊豆の踊り子」で映画デビュー。「人間はいつも砂漠の砂であるべきだ」という名言は、なかなか16歳の少女でいえるものではない。ところで写真の百恵ちゃんの服は実際の高校の制服であろうか。とても爽やかだ。

 水野はその後、山口百恵に映画「シベリア超特急」の出演を依頼している。脚本を送ったところ、「今はまだできません」と断わられたそうだ。おそらく水野は16歳の百恵ちゃんに好感を何十年も持ち続けていたのであろう。アイドル百恵伝説の一つのエピソードではないだろうか。

2008年6月 7日 (土)

ジーン・ハーロウの急死

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    昭和12年6月7日、プラチナ・ブロンドで人気のあったジーン・ハーロウ(1911-1937)が映画「サラトガ」の撮影中に急死するという海外特報が入った。当時、ハーロウはクラーク・ゲイブル(1901-1960)と供にMBMの2大看板スターであった。

    今日ではクラーク・ゲイブルと言えば、「風と共に去りぬ」(1939)で共演したヴィヴィアン・リー(1913-1967)を名コンビと思いうかべるかもしれないが、実はゲーブル=ハーロウのコンビは、「紅塵」「春の火遊び」「支那海」「妻と女秘書」「サラトガ」と日本でもヒットしていた。ジーン・ハーロウとヴィヴィアン・リーとの年齢は僅か2歳しか違わないのである。

   ジーン・ハーロウの役柄は、夜の世界の女、いかがわしい稼業の獏連女がよく似合った。セクシー女優で、演技力はなかったが、主演作を重ねるうちにメキメキ上達し、役者として次第に演技開眼していく途上であった。腎臓病を患っていたらしいが、母親がクリスチャン・サイエンスという医学的な処置を拒否する宗教を信奉していたために、医者に見せることが遅れて亡くなったということは、なんとも惜しまれる死であった。

2008年5月25日 (日)

ガルボとファッション

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   1925年、アール・デコの展覧会がパリで開催された。スカート丈が、膝の丈にまで短くなったということは、ファッションの歴史でも革命的な出来事だった。この年、グレタ・ガルボはスウェーデンからハリウッドへやって来た。大女で、大きな足、うどの大木といわれた女性が、数年後には1920年代のファッション・リーダーになる。ガルボこそがこの時代に要求した女であり、ギャルソンヌ・スタイルにぴったりした理想のスターであった。1920年代後半のモードは、ガルボを中心にして世界が回った。ギャルソンヌ・スタイルの特徴は、余分なものを捨て去ることだった。手始めにまず髪を切り、スカート丈を短くする。そのことによって、きりっとしたなかに、女性らしい色気と個性美が生まれた。ガルボといえば帽子が連想される。しかし、帽子はガルボに限らず、グロリア・スワンソン、ヴィルマ・パンキー、ベティ・アーマン、ジョン・クロフォードなどなど、ほとんどの女優が愛用している。

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髯剃り見習いから「神聖ガルボ帝国」の女王へ

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    グレタ・グスタフソンは、1905年9月18日、ストックホルムの貧しい家庭に生まれた。両親は正式な結婚ではなく、14歳の時に日雇労務者の父が病死すると、学校を中退して、理髪店で髯剃り見習いをやっていたという。(この世の中には少女時代のガルボに髯を剃ってもらった男がいたという驚きの歴史的事実)その後、姉の友人の紹介でデパートに就職。帽子売り場の売り子をした。やがて、その美貌を買われて帽子カタログのモデルを努める。1924年、スウェーデン映画の立役者マウリッツ・スティルレル(1883-1928)に見出されて、「イェスタ・ベルリングの伝説」のヒロインに抜擢される。1925年6月6日、二人はニューヨークに着いた。メトロの重役ルイス・B・メイヤーはハリウッド中の美容師を動員して泥臭い女優を磨きあげ、「グレタ・ガルボ」という芸名をつけた。またスティルレルは、ガルボに礼儀作法から服の選び方まであらゆるたしなみを教えた。こうして理想の女性は男たちによって創りあげられた。

   主演第2回作品「明眸罪あり」の初日あいさつで、司会者が「こちらがミス・ガルボです。一言も英語がしゃべれません」と紹介し、ガルボもスウェーデン語で答えたが、観客はなんとなく笑ってしまった。以来ガルボは決して、初日の招待試写会に出席しなくなった。言葉の問題と、生来の社交嫌いは、ガルボの神秘性を際立たせ、効果的な魅力となった。ロン・チャーニーはガルボにこう言った。「神秘はぼくに役立っている。しかし、きみにはもっと役立つだろう」ガルボ伝説のはじまりである。華やか名声とは裏腹に、倹約家で香水や化粧品のたぐいを持たなかったという。その謎めいた私生活のゆえに、ガルボはいっそう永遠の面影を人々に与えた。日本ではむかしから永遠に冒すべからざる女神として「神聖ガルボ帝国」とよく呼んでいる。(これは映画評論家の筈見恒夫の造語である。)36歳の若さで引退し、何度もカムバックの噂はあったが、長い隠遁生活に入る。1990年、85歳で永眠。

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銀幕の女王グレタ・ガルボ

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   きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボ(1905-1990)であろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。

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2008年5月24日 (土)

エステル・テイラー

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    セダ・バラは「愚者ありき」(1914)という映画で、男を片っ端から破滅に陥れる悪女を演じ、「ヴァンプ」と呼ばれて人気を集めた。以後も、クレオパトラ、カルメン、サロメといった毒婦、悪女を次々と演じた。そもそも「ヴァンプ」とは何か。「ヴァンパイア」の略である。広辞苑には「妖婦。毒婦。淫婦。また、その役を演ずる女優。バンプ」とある。ほかの辞書には「故意に男性を魅惑し食い物にする女」とある。イギリスの詩人ラドヤード・キップリングの詩に「ヴァンパイア」があるのが起源という。

    1920年代のハリウッド映画はまさにヴァンプ花盛りであった。今ではその名をほとんど知られないが、エステル・テイラー(1899-1958)もヴァンプ女優の典型であった。古老の話(双葉十三郎と淀川長治の対談)を聞いてみよう。

双葉 セダ・バラは長さんが言ったみたいに演技もメークもいわば歌舞伎的だったけど、その後に来たエステル・テーラーは同じヴァンプでも少し現実味が出てきて、ほんとになまめかしい、いい女だったね。

淀川 フォックスはだいたい田舎くさいのに、エステル・テーラーが出てきた時はびっくりしたね。何とも知れんきれいで、「ある愚者ありき」なんかセダ・バラがやった後にエステル・テーラーで作ったけど、よかったよ。あんな女優には誰でも征服されちゃうね。

双葉 長さんはエステル・テーラー気違いだからな。ヘビー級のチャンピオンのジャック・デンプシーと結婚して、また有名になったね。

淀川 僕は清純派の双葉さんと違って、ヴァンパイアーが好きだから(笑)。

   *   *   *   *   *

    エステル・テイラーは17歳で離婚後に演技を学び、ブロードウェイのコーラス・ガールになる。美女テイラーと結婚した拳闘家ジャック・テンプシーは闘争本能を忘れ3年間も試合をせず、1926年9月にジェーン・タニーに敗れ王座を去った。映画だけでなく実生活でも男を破滅する女だったのだろうか。代表作「紐育の丑満時」(1920)「或る愚者有りき」(1922)「十誡」(1923)「ドン・ファン」(1926)「リリオム」(1930)「街の風景」(1931)「シマロン」(1931)「南部の人」(1945)

   (参考文献:「スタアがスタアだった時代」別冊太陽・女優Ⅱ)

2008年5月20日 (火)

禁酒法時代の女性のファッションと映画

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リリアン・ギッシュ(1896-1993)アメリカ映画の先駆者グリフィスに育てられた純情型の人気スター。「散り行く花」「東への道」

  アメリカの1920年代を歴史家は「ローリング・トゥウェンティーズ」と呼んでいる。景気がよく、なにかと騒々しかった時代という意味である。この他にも、ジャズ・エイジ、ナンセンス時代、迷える世代、とかあるが、やはり禁酒法時代(1920-1933)という呼び名が最も知られているだろう。ナイトクラブがニューヨークやシカゴに続々と誕生した。そうしたナイトクラブはギャングが経営する店であり、たいていジャズ・バンドと美しいコーラス・ガールが客を楽しませていた。ギャングはジャズ・バンドのパトロンであり、コーラス・ガールの愛人だった。そして、ギャングは禁制の酒を大衆に提供する「恩人」だった。アル・カポネは言った。「私はビジネス・マンだ。」

   政治の世界では汚職・スキャンダルが絶えなかった。ハーディング大統領は、大統領らしい顔をしているからという理由で、大統領に選ばれ、クーリッジはホワイト・ハウスで最も多く昼寝した大統領だといわれる。

   しかしながらこの1920年代を最も象徴する出来事は女性のファッションが激変したことではないだろうか。スカートは足首から膝まで上昇した。これはミニ・スカート以上の女性の服装の変化であった。肌の色に近いストッキングを女性がはくようになったのも1920年代である。ブラジャーの発達によって、女性たちはヴィクトリア朝の遺物と化したコルセットを棄てるようになった。しかし、女性のファッションには、1920年代のアメリカにおいて、もっと大きな変化があった。一つはスタイルの国際化である。アメリカはパリの影響をもろに受けるようになり、そして、パリ・コレクション紹介の先達となったのが、いまでもつづいている「ヴォーグ」である。もう一つの変化は既製服の大量生産であり、これによってファッショナブルな衣類が安い値段で着られるようになった。だが、1920年代に行なわれた調査によると、女がどんなものを着ているかということに大部分の男は気がついていない。とすれば、なせファッションは1920年代にこれほど大きな重要性を持っていたのか?それは女は男のために着飾るのではなく、ほかの女と競争するために着飾る、と。

   とにかく、鈍感なる男たちも女性のファッションの変化に気づくとすれば、それは映画の中で華やかに着飾った女優たちによってであろう。アメリカ映画はスター・システムによって映画の最初の黄金時代をつくり、世界の映画市場を征服した。アラ・ナジモヴァ、セダ・バラ、パール・ホワイト、ルース・チャタートン、メアリー・ピックフォード、ルース・ローランド、ノーマ・タルマッジ、リリアン・ギッシュ、ポーラ・ネグり、コンスタンス・タルマッジ、グロリア・スワンスン、ドロシー・ギッシュ、ビリー・ダヴ、マレーネ・ディートリッヒ、クララ・バウ、ジャネット・ゲイナー、グレタ・ガルボなどなど女優たちによって、1920年代がそれを知らない後世の者たちにとっても、夢のような、楽しい時代として想い描かれるのである。

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  アラ・ナジモヴァ(1879-1943) ロシア出身の名女優。「人形の家」「サロメ」「椿姫」「孔雀夫人」

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 セダ・バラ(1885-1955)ヴァンプ(妖婦)の女王。「愚者ありき」「カルメン」「クレオパトラ」

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パール・ホワイト(1889-1938)連続冒険活劇の女王。「ポーリンの危難」「電光石火の侵入者」

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メアリー・ピックフォード(1893-1979)「アメリカの恋人」といわれた大スター。「小公女」「嵐の国のテス」「ロジタ」「雀」

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ノーマ・タルマッジ(1893-1957)美貌、演技力を兼ね備えた実力スター。「久遠の微笑み」「椿姫」「秘密」

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ルス・ローランド(1892-1937)連続冒険活劇の女王。「赤輪」「ルスの冒険」

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 ポーラ・ネグり(1897-1987)ヴァレンチノの恋人「カルメン」「チート」「スエズの東」

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 グロリア・スワンソン(1897-1983)社交界の女王。「夫を変える勿れ」「港の女」「男性と女性」「ありし日のナポレオン」「今宵ひととき」

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   コンスタンス・タルマッジ(1897-1973)「イントレランス」「恋のかけひき」「桃色女白波」「金魚娘」「粋な殿様」

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   ドロシー・ギッシュ(1898-1968)「嵐の孤児」「ロモラ」

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ビリー・ダヴ(1900-1998)ジークフォルド・フォリーズの踊り子からスターになった美女。「ダグラスの海賊」「アメリカ美人」

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 クララ・ボウ(1905-1965)性的魅力あふれる現代娘イット・ガール。「It(あれ)」「つばさ」「フラ」「暗黒街の女」

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ジャネット・ゲイナー(1906-1984)純情可憐の典型的美人。栄光あるオスカー女優第1号。「第七天国」「サンライズ」「街の天使」

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ルイーズ・ブルック(1906-1985)都会派、モダンガールの代表的女優。「美女競艶」「百貨店」「夜会服」「人生の乞食」

2008年5月19日 (月)

ヘプバーン、父親との再会

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    オードリー・ヘプバーンはイギリス人の保険会社で働く父ジョセフ・アンソニー・ヘプバーン・ラストンと、オランダ王室貴族へームストラ男爵の血筋を持つ母エッラ・ファン・ヘームストラとの間に1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれた。第二次大戦中、両親は離婚し、ヘプバーンは母の母国オランダのアルンヘムに住み、ナチス・ドイツ占領下の苦労を味わった。イギリス人の父ジョセフは、親ナチス運動に加わっていた。そのような彼女の経歴は当時、極秘とされていた。「魔女狩り」のようなマッカーシズムが吹き荒れていたアメリカの芸能界で、父親の親ナチス運動が公になることは、彼女にとって危険なことであったが、どうしても父親の安否が気がかりであった。

   1953年、「ローマの休日」で一躍世界のトップスターとなったヘプバーンは、1959年、映画「尼僧物語」の撮影のため、20年ぶりに故郷ベルギーのブルッへに戻ってきた。ヘプバーンは別れ別れになった父とどうしても会いたかった。その願いはかなえられた。父方の従兄、ウォルター・ラストンの手引きで、ヘプバーンは父親と再会をはたした。(一説によると二人は1957年、アイルランドのダブリンで再会したとも伝えられる。)

外国スターと声優

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   ケペルが小学生の頃、学校から帰るとテレビで「3時の名画座」を見ていた。主に1950年代以前のアメリカ映画を放送していた。お気に入りは、ビング・クロスビーとボブ・ホープの珍道中シリーズ。とくにボブ・ポープの柳沢真一の吹き替えが印象に残る。しかし、販売されているビデオの吹き替えでは、藤村有弘(ボブ・ホープ)、中村正(ビング・クロスビー)とある。記憶ちがいなのだろうか。

   最近はテレビ放送でも吹き替えより字幕を好む人が増えているという。ケペルは断然吹き替え派である。「ローマの休日」もオードリー・ヘプバーンの声を何人もの女性が担当しているが、声優により雰囲気が変わる。そのため放送される度に録画している。やはり池田昌子が好きだ。だいたい昭和40年代にはスターと声優は固定化されているようだ。それらの主なアテレコ声優をあげてみる。

クラーク・ゲーブル、ロバート・テーラー(納谷悟朗)

ハンフリー・ボガート(久米明)

ジャン・ギャバン(森山周一郎)

グレゴリー・ペック(城達也)

フランク・シナトラ(家弓家正)

モンゴメリー・クリフト(山内雅人)

アラン・ドロン(野沢那智、堀勝之佑)

トニー・カーチス(広川太一郎)

ケーリー・グラント(中村正)

リチャード・ウィドマーク(大塚周夫)

タイロン・パワー(前田昌明)

ジョン・ウェイン(小林昭二)

ジェームズ・ギャグニー(近石真介)

ジャック・レモン(愛川欽也)

ヘンリ・フォンダ(小山田宗徳)

ウィリアム・ホールデン(近藤洋介)

イングリッド・バーグマン、デボラ・カー(水城蘭子)

オードリー・ヘプバーン(池田昌子)

マリリン・モンロー(向井真理子)

エヴァ・ガードナー(翠準子、沢田敏子)

ドリス・デイ(楠トシエ)

ローレン・バコール(来宮良子、大塚道子)

エリザベス・テーラー(武藤礼子)

ソフィア・ローレン(此島愛子、今井和子)

ラナ・ターナー(瀬能礼子、津村悠子)

ブリジッド・バルドー(渋沢詩子、白石冬美)

シャーリー・マクレーン(小原乃梨子)

コニー・スティーヴンス(増山江威子)

キム・ノヴァク(真山知子)

グレース・ケリー(野口ふみえ)

ヴィヴィアン・リー(寺島信子)

ジナ・ロロブリジダ(森ひろ子)

   なかでも、知性派ヘンリー・フォンダ(小山田宗徳)や情熱家バート・ランカスター(久松保夫)はスターの個性と声優の持ち味がブレンドして、今でも耳に残る。久松保夫(1919-1982)は「日真名氏飛び出す」でお茶の間のスターとなり、「ララミー牧場」のジェス・ハーパー(ロバート・フラー)や「スタートレック」のスポック(レナード・ニモイ)もあるが、持ち役はバート・ランカスターである。

2008年5月17日 (土)

男の色気

   男の色気とは何か?これがなかなか定義することが難しい。タバコを加えて、一人で悦に入っている男もいるだろう。イタリア男のような軽いのりでジョークをとばす男もいるだろう。作務衣を着て修行僧になったつもりの男もいる。人それぞれで自分流のスタイルを見つけるのが良いだろう。

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    さて、「男の色気を感じる俳優は?」というアンケートをとれば、おそらくジョニー・デップかもしれない。でもケペル世代としては、アラン・ラッドとジェラール・フィリップをあげる。これぞ「男の色気ここにあり」という二人の珍しい写真である。軍服姿のアラン・ラッド(1913-1964)は天下一品であろう。「マッコーネル物語」(1955)の撮影開始まえの一瞬を捕らえた写真で、穏やかな人柄がよくでている。送られたファン・レターにはほとんど自筆で返事していたという。日本にもファンは多かったが、背の低さに悩み続け、ほとんど人前に出るのを嫌った孤独で寂しいアラン・ラッドに、ケペルは「シェーン!カムバック」と泣きながら叫ぶのである。

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   ジェラール・フィリップ(1922-1959)といえば、世界中の女性のハートを鷲つかみにしたフランスの貴公子である。わずか36歳でこの世を去ったが、佳人薄命は男にも適用されるものなのか。淡くやさしい瞳の二枚目であるが、容貌もさることながら、その演技力で名優としての高い評価を得た俳優なのである。あまりにも完璧であるため、これまでケペルは近づきにくかったが、この写真、どこかおどけていて親しみがもてます。パリの馴染みの喫茶店。一人でリラックスしていた時間、突然、日本人カメラマンの早田雄二が闖入して「写真をお願いします」といわれて、まずは、日本のファンへのごあいさつ、といったところかもしれない。

2008年5月 4日 (日)

ヴェロニカ・ゲリン

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   次々と新作が公開され、好調なケート・ブランシェット。実在した女性記者ヴェロニカ・ゲリン(1959-1996)の麻薬犯罪との勇気ある戦いを描く。BSで映画「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年度、ジョエル・シューマカー監督)を見た。

   1994年、ダブリンの低所得者住宅地にはまだ子供の麻薬中毒者が溢れていた。女性記者ヴェロニカは犯罪者の利益のため多くの子供が犠牲になっていることを許せず、この事実を報道する決意を夫に打ち明ける。早速、裏社会に詳しいトレーナーや刑事から情報を集め、危険人物にも果敢な取材を行なう。そんなある日、彼女の自宅の窓に銃弾が撃ち込まれる。恐怖を感じるヴェロニカだが、脅しに屈せず取材を続ける。そんな彼女に2度目の渓谷が。今度は自宅に押し入った男が彼女の太股に銃弾を撃ったのだ。だがこれで世論を味方につけたヴェロニカは、麻薬犯罪組織の首謀者ギリガン(ジェラード・マクソーリー)に迫る。

   この映画の背景には北アイルランドをめぐる民族問題がある。17世紀以降、アイルランド北部のアルスター地方にイギリスから多数のプロテスタントが移住した。19世紀になり、アルスター地方に繊維工業や造船業などがさかんになると、アイルランド南部から移住するカトリック教徒も増え、文化・習慣が異なる両者の間で、職や住居をめぐり、対立が激化するようになった。1922年、イギリス自治領としてアイルランド自由国が成立したとき、9州からなるアルスター地方のうち、プロテスタントの多い6州はそれに加わらず、「北アイルランド」としてイギリス(連合王国)に属した。アイルランド共和国も1937年の憲法で北アイルランドを自国領とした。しかし、カトリックの多い地方でも自己に有利な選挙区を設定して政治の実権を握っている北アイルランドのプロテスタントは、政治や経済の上で、少数派のカトリック教徒に対し優位を占めてきた。就職や住居などでしばしばプロテスタントから差別をうけているカトリックの住民の中には、実力でアイルランドの統一をめざすIRA(アイルランド共和国軍)などの組織も生まれている。プロテスタントとカトリック教徒の対立の根は深く、住民の意見も多様だが、1998年になってようやく平和的な解決に向かうって動きはじめた。

2008年5月 3日 (土)

ブルース・リー伝説

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 子役時代のブルース・リー(作品不明)

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   「グリーン・ホーネット」の頃(1966年)

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 バン・ウィリアムズとブルース・リー

    ブルース・リー(1940-1973)は、サンフランシスコで生まれたが、6歳のときから少年時代を香港で過ごす。古典劇の名優であった父親の影響で子役として約20本の香港映画に出演している。18歳のとき単身渡米する。ワシントン大学哲学科に入学。道場を開いて、中国武術を広めようとしていた。当時の写真を見ると、書棚には武道・哲学・古美術などあらゆる書物が並べられ向学心に燃えた青年であることがうかがえる。ところが、その武道がハリウッド関係者の目にとまり、TV「グリーン・ホーネット」のカトー役に抜擢される。たちまち派手なアクションで人気がでる。いま世界中で武道が見直されているが、ブルース・リーが世界に与えた影響ははかりしれないものがある。

デビッド・キャシディ

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   映画「理想の恋人.com」を見ていたら、サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)の理想のタイプはデビッド・キャシディ、という話がでてくる。そして「人気家族パートリッジ」の歌を三姉妹で歌うシーンもある。デビッド・キャシデイとはその甘いマスクと歌声で70年代初期、少女達を夢中にさせたアイドルである。日本でもかなりのファンがいた。その人気絶頂のとき、あるライブ会場でファンの少女が転倒して死亡するという事故があって、それが原因で一時ステージから遠ざかったという。現在58歳。ネットで調べるといまは元気に歌手として活動しているようだ。ちなみにケペルは長女のローリーを演じていたスーザン・デイがお気に入りだった。あの人は今、どうしているだろう。

2008年5月 1日 (木)

実力派女優ケート・ブランシェット

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  クリスチィーナ・リッチが好きで、「耳に残るは君の歌声」(2000年)を映画館でみた。だがヒロインのスージー(クリスチィーナ・リッチ)よりも友人のロシア人ダンサーのブロンド美女に魅せられた記憶がある。あの「エリザベス」で有名になったケート・ブランシェットである。昨夜はBSで「シャーロット・グレイ」(2001年)を見る。

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   第二次大戦下、シャーロットはスパイの特訓を受けて、フランスに潜入する。南仏のレジスタンスのリーダーのジュリアン(ビリー・クラダップ)の手引きで、彼の父ルベード(マイケル・ガンボン)の家のメードとして住み込み、諜報活動をする。その家には二人のユダヤ人少年がかくまわれていた。彼女はドイツ軍列車爆破などに関わっていく。やがてドイツ軍がこの山奥の町にも侵攻してくる。何者かが仕組んだわなで偽の情報をつかまされ仲間を失い、さらには探していたピーター(ロバート・ペンリー・ジョーンズ)も死んだと聞かされ失意のシャーロットに、ナチの手先となった村の教師が言い寄ってくる。彼はルベード家に乗り込み、ルベードと少年たちをナチに引き渡す。ジュリアンは教師を殺害し、シャーロットと逃亡しようとする。だが、彼女はそれを断わると、少年たちの乗る収容所行きの列車を追いかけ、彼らに生きる希望を与える一通の手紙を渡す。戦争が終わり、ジュリアンと再会する。「ずっと言いたかった。私の名前はシャーロット・グレイよ」と。

   今夜もBSでケート・ブランシェットの「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年)が放送される。楽しみだ。

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2008年4月29日 (火)

今宵もダイアン・レーン

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    今宵もBSでダイアン・レーン主演の「理想の恋人.com」を見る。離婚したばかりの幼稚園の教諭サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)は落ち込んでいる。姉のキャロル(エリザベス・パーキンス)はサラになりすましてインターネットの恋人募集サイトに無断で登録する。「当方、グラマーでユーモア抜群。愛犬家に限る」まもなくサラは殺到する恋人候補とのデートで大忙しになる。なんと50歳といっていた男は、サラの父親の71歳のビル(クリストファー・プラマー)だった。悲惨な初デートの連続の中で、サラが気になる男性が一人だけ。ボートの設計者のジェイク(ジョン・キューザック)だ。ビルからジェイクの本当の気持ちを知ったサラは真実の愛を自ら進んでつかむ。ネットで見つけた理想の恋人探しをロマンチック・コメディとしてまとめている。

    40歳を越えて主演作品が続くダイアン・レーン。思えば、80年代初頭は美少女スターが花盛りだった。ブルック・シールズ(「青い珊瑚礁」「エンドレス・ラブ」)、テータム・オ二ール(「インターナショナル・ベルベッド」「リトル・ダーリング」)、クリスティー・マクニコル(「リトル・ダーリング」)、ジョディー・フォスター(「白い家の少女」「フォクシー・レディー」)、そしてダイアン・レーン(「リトル・ロマンス」「ラスト・レター」)。ジョディー・フォスターは別格として、一番個性的ではなかったダイアン・レーンが今日までスター女優として生き残れたのは何故だろうか。それはダイアンが少女のみずみずしさを保ちながら、大人の女性としての知的なセンスを磨きあげたことに、現代女性から支持されたのだろう。映画「理想の恋人」は決して名作ではないかもしれないが、リラックスして大人が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。ダイアン・レーンも適役である。美少女スターが年をとって老け顔になっても、年齢が魅力になって人気が回復したケースは稀であろう。

2008年4月28日 (月)

ダイアン・レーンはイタリアがよく似合う

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   今夜はBSでダイアン・レーンの「トスカーナの休日」(2003年)を見る。離婚を経験したアメリカの書評家(作家)フランシス(ダイアン・レーン)は、その傷心ぶりをみかねた親友からトスカーナ旅行をプレゼントされる。コルトーナで一軒の築300年の屋敷を衝動買いしてしまう。フランシスは親切な不動産屋(ヴィンセント・リオッタ)の協力で、荒れ果てた家の修復に取りかかる。フランシスの夢はこの家で結婚式のパーティーをして家族をもつことになった。シャンデリアの部品を買うためローマに出かけたフランシスは、若くてハンサムなマルチェロ(ラウル・ボヴァ)と出会い、情熱的な一夜を過ごす。その日から見違えたように輝いていくフランシス。だが、妊娠した親友が遊びに来たり、若いポーランド人の大工の純愛をサポートしたりして、マルチェロとは会えない日々が続く。ある日、フランシスは思いきって白いドレスを着てマルチェロのいるアマルフィ海岸のポジターノへ突然に会いに行く。待望の彼との再会も悲恋に終わってしまう。それでも彼女はトスカーナの太陽のもと、力強く生きていくことをちかう。

   原作はフランシス・メーズのベストセラー小説だそうだが、往年のキャサリン・ヘプバーン主演「旅情」を彷彿させるものがある。「リトル・ロマンス」(1979)で14歳でデビューしたダイアン・レーンも43歳。少女スターが大人の女優として成功することは至難であるが、ダイアンはみごと演技派として復活した。クリストフ・ランベールとの結婚、出産、離婚、ジョシェ・ブローリンとの再婚と、ひととおりの経験を経て、「パーフェクト・ストーム」(2000)ではマーク・ワールバーグの年上の恋人、「運命の女」(2002)では不倫するリチャード・ギアの妻を演じている。この「トスカーナの休日」以後も「理想の恋人.com」などロマンチック・コメディーなどの作品が好調である。

    それにしても「リトル・ロマンス」の舞台はベニスだったが、今回はトスカーナ。なぜかダイアン・レーンのお相手には明るく陽気なイタリア男がよく似合う。

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2008年4月26日 (土)

スーパーマンの悲劇

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弾よりも速く、力は機関車よりも強く

高いビルも、ひとっ飛び

空を見ろ!

鳥だ!

飛行機だ!

いや スーパーマンだ!

そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。

    地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月、謎のピストル自殺を遂げた。

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 「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。

2008年4月21日 (月)

プロレスラーになった逃亡者

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   東京オリンピックが華やかに行なわれていた頃、日本の奥様方は今でいうヨン様の「太王四神記」のように、ひとりのアメリカ俳優のドラマ「逃亡者」を夢中になってみていた。デビッド・ジャンセンという中年の渋い俳優だった。それまでアメリカ人といえば陽気なヤンキーというイメージがあったが、無実の罪をきせられたリチャード・キンブルは物静かで理知的で、いつも孤独な影がある、そこが母性本能を刺激したようだ。睦五郎の吹き替えも女心を酔わせた。

    リチャード・キンブル。職業、医師。正しいかるべき正義も時として盲しいる事がある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる、執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、現在を、今夜を、そして明日を生きるために。

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   矢島正明のナレーションが始まるとテレビの前に釘づけになった。妻殺しの片腕の男を追うキンブルと、キンブルを追うジェラード警部の、二つの逃亡・追跡劇がサスペンスを盛りあげる。これまで日本で放送されたアメリカのテレビは西部劇中心だったが、「逃亡者」は、長距離バスや列車、田舎町、ドラグストアなどアメリカの現代社会を知るうえでも役立ったドラマだった。最終回、キンブルが片腕の男を追いつめ無人の遊園地でのシーンは全米でもテレビ史上最高の視聴率をマークしたという。

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    ところで、「逃亡者」リチャード・キンブルには実際のモデルがいる。1954年7月4日、オハイオ州クリーブランド郊外の自宅で医師のサム・シェパードは妻マリリン・シェバードを殴り殺した罪で有罪を宣告された。1966年11月16日、無罪となった。翌年12月に医師免許の復活を認められたが、医療事故を起こして廃業。その後、45歳のサムはなんとプロレスラーに転向、初戦を勝利で飾った。コリーン・ストリックランドという20歳の女性とも再婚したが、その半年後の1970年4月6日、急死した。

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わたし作る人、ぼく食べる人

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    ハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。

「今なんどきですか?」

「ハイ、ラーメンどっきっよ!」

そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。

「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。

   このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割をより定着させるもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、CM中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。

2008年4月20日 (日)

山口百恵不死鳥伝説

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    昭和48年ひとりの14歳の少女が歌手としてデビューした。山口百恵である。昭和55年10月日本武道館で引退コンサートまで、8年間、1970年代を疾風の如く駆け抜けた。「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)と評されるほどに、芸能活動を一切行なわなくとも不死鳥のようなスターとしての存在感は今や伝説となっている。

    昭和47年12月、「スター誕生」決勝大会で牧葉ユミ「回転木馬」を歌った山口百恵は、昭和48年5月「としごろ」でデビュー。続く「青い果実」「ひと夏の経験」のキワドイ歌詞で注目されるようになった。昭和48年ではまだライバルたちとは横一線であった。画像は、左から菅原昭子、百恵、森昌子、藤正樹、桜田淳子である。菅原昭子は「17才の行進曲」、森昌子は「せんせい」、桜田淳子「天使も夢みる」でそれぞれデビューした。百恵の最大のライバル、桜田淳子はメリハリのきいた明るい歌声で「花物語」「三色すみれ」「黄色いリボン」「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」「夏にご用心」「気まぐれヴィーナス」とヒットを連発させていた。百恵は映画「伊豆の踊り子」が興行的に成功し、テレビ「赤いシリーズ」も高視聴率をマークした。東大生が「山口百恵を守る会」を発足した話題も人気向上に貢献したであろう。芸能界で売れる、売れないは紙一重の違いであろう。演歌の菅原昭子は歌唱力もあり美人だったが、売れなかった。あゆ朱美(「ギターをひいてよ」「小さなブランコ」)も売れなかったが、のちに戸田恵子として声優、女優として成功をおさめた。小林美樹(「人魚の夏」)も人気はありながらヒットに恵まれず、アナウンサーに転身した。麻丘めぐみの実姉の立木久美子(「思い出のカルチェラタン」)も山口百恵の「青い果実」と同時昭和48年9月にリリースしたが売れなかった。スタ誕出身者では、最上由紀子(「初恋」)、松下恵子(「花嫁の父」)、三橋ひろ子(「私の花言葉」)、堺淳子(「祭りの想い出」)、そして百恵に勝利したシルビア・リー(「霧のエトランゼ」)、すべて玉砕した。百恵のライバル・マッハ文朱(「花を咲かそう」)も女子プロ界でスターとなったが、百恵に敗れたタレントといえるであろう。百恵・淳子の戦いは、淳子が少女歌手から大人女性への転身を図るため中島みゆきの曲を歌う頃から、アイドル性を喪失してファンは少しづつ離れていったように思える。平成4年に結婚し、結局二人は主婦という同じ道を歩むことになる。百恵にとって淳子は最大のライバルであったであろう。「淳子ちゃんは、正しいと思ったことは、私たちにとって鬼より怖いプロデューサーやディレクターにも堂々と意見を言った。淳子ちゃんは誰がなんと言おうと自分のペースで成長してきたけど、私は周囲に無理矢理大人にさせられたようで、そんな私を淳子ちゃんにだけは見られるのがいやで、いつも淳子ちゃんを意識していた」と雑誌のインタビューに百恵は語った。

安保闘争と炎加代子

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    昭和35年は安保闘争の年である。炎加代子という女優はこの時代を象徴している。当時、学生たちの間では既存の権威を否定してかかる「ナンセンス」という言葉が流行った。炎加代子が出演した作品にも安保闘争を描いたものが多い。「乾いた湖」(篠田正浩監督)では学生運動の闘士・下条卓也(三上真一郎)が大衆運動を軽蔑し、「デモなんかくだらない!革命だ」と叫ぶ。「太陽の墓場」(大島渚監督)では炎加代子は大阪の釜ヶ崎の女を熱演した。実生活では共演の若手男優と心中未遂を起こして、すぐに映画界から消えたが、少年たちに強烈な印象を残した女優である。ある雑誌の対談での発言「セックスしている時が最高よ」と語ったことからたちまち流行語となった。それは安保という政治的な時代の中で、ひたすらセックスという私ごとを追い求めることへの共感があったからであろう。

2008年4月13日 (日)

ハリス・フーセンガムと恵とも子

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    いま50歳以上の男性ならば、この懐かしいアイドル・タレントの名前を半数近くの方は知っているだろうし、50歳以下ならばほとんど知らないだろう。現在のようなグラビア・アイドルの位置が確立していない時代、男の子の記憶に残る永遠の青春スターであった。

    恵とも子。昭和24年生まれ。アメリカ人の父を持つハーフ・タレント。茶色の髪に青い瞳が可愛い。昭和38年に東京音楽院に入学、スクール・メイツの一員として音楽番組に出演。明星スター・パレードのマスコットガールになる。太田博之との「プラチナ・ゴールデンショー」の司会や映画「てなもんや幽霊道中」「東京市街戦」「陽のあたる坂道」に出演。レコードは昭和40年「ピンクの口紅」(「なぜか教えて」)、「大人の匂い」(花のおしゃべり」)。渡辺プロに所属し、テレビ出演も多数ある。昭和40年、41年、42年と雑誌のモデルとしても活躍する。「明星」の昭和41年1月号は橋幸夫、恵とも子である。2月号が舟木一夫、吉永小百合であるから、当時全盛だった吉永を抑えての正月号の登場であった。プロマイドの売り上げもローティーンの男子に人気があったので吉永に匹敵していたと思う。カネボウハリスはフーセンガム広告に恵とも子を大々的に起用し、週刊少年マガジンに頻繁に登場した。ちばてつや「ハリスの旋風」は「あしたのジョー」の前作品であるが、それまで少年週刊誌は戦争記事や忍者特集などで、女性タレントが誌面にでることは皆無だった。現在の少年誌は表紙も中味も女性アイドル中心であるが、恵とも子はその先駆け的役割を果たしたグラビア・アイドルといえる。

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              昭和41年1月号

女優の顔

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   「立川志らくのシネマ徒然草」248回「ソン・ヘギョ淡いままでいてください」(キネマ旬報1480)を読む。立川は女優の顔を「濃い顔」と「淡い顔」に分類している。エリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、オードリー・ヘプバーンは濃い顔である。韓国女優のソン・ヘギョ(「フルハウス」)は「淡い顔」(薄い顔)であるという。

    立川に限らず最近の日本男性はどうやら「薄い顔」を好むようである。そういえば電車の中吊り広告に見る女性誌の特集記事には「モテ顔」「小顔」「あっさり顔」「癒し系」「童顔」「かわいい」「さわやか」「ナチュラル」「自然美」という語が肯定的に使われていることからも、薄いメイクでキツイ印象を与えない女性が当世風美人とされているようである。インドの女優の写真を見るとスゴイ美人が多いが、日本でスターとなった女優は一人もいない。しかし日本男性は昔から「薄い顔」が好みだったというとそうでもない。日本映画界最大の美人女優といえば原節子である。ところが原の顔立ちは鼻は大きく、あっさり顔というよりは「濃い顔」である。山本富士子も鼻が立派で「濃い顔」である。石原裕次郎の奥さん、北原三枝は「君の名は」で情熱的なアイヌ娘を演じて人気がでた女優である。やはり「濃い眉」が特徴である。当時、ヘプバーン旋風が日本を席巻していたが、サブリナの濃い眉を若い女性はまねをしていた。久我美子、岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子、淡路恵子、根岸明美、青山京子など皆んな眉は太く長く「濃い顔」をしている。この傾向は基本的には1980年代まで続いている。薬師丸ひろ子が一人勝ちの人気を誇った時代も、「濃い顔」で売れた。「跳んだカップル」の敵役の石原真理子の濃い眉は時代の象徴であった。現在のような「薄い顔」が好まれるようになったのは、何時頃からであるかは明言できない。例えば、飯島直子が濃い眉をしていたが、缶コーヒーのCMでブレイクしたときは、「癒し系」の顔立ちへと変化していた。現在の「薄い顔」の象徴は小西真奈美であろう。長身で小顔。小さい目であっさりした顔立ち。モデルのShihoがさわやか系で人気をえたことも、「薄い顔」の成立に大きく貢献したかもしれない。

    このように「薄い顔」が標準美人として君臨するようになったが、「爽やかな笑顔と明るいキャラクター」というだけでは女優としては物足らないように感じる。やはりハリウッドでは「濃い顔」「個性的キャラクター」が女優に求められる。美人系のキーラ・ナイトリー(「パイレーツ・オブ・カビリアン」)、アン・ハサウェー、ペネロペ・クルズは「濃い顔」であるし、ミラ・ジョヴォヴィッチ、アンジェリーナ・ジョリー、レネー・ゼルウェガー、ナタリー・ポートマン、二コール・キッドマン、シャリーズ・セロン、ジョデー・フォスターなどトップ女優は個性派(知性派とアクション派に分かれるが)が健在で「薄い顔」の女優は少ない。日本映画界のほうは、上野樹里、沢尻エリカ、長澤まさみ、田中麗奈、石原さとみ、宮崎あおい、蒼井優、榮倉奈々、谷村美月、成海璃子、伊藤美咲、長谷川京子、相武紗季、多部未華子、新垣結衣、堀北真希、山田優、池脇千鶴と若手主演級の女優を並べてみたが、往年の映画女優の華やかさに比べると物足らなさを感ずるのはケペルだけだろうか。やはり現在アジアでの人気女優は韓国女優のソン・ヘギョが一番かもしれない。

2008年4月 5日 (土)

松竹歌舞伎と松竹映画

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(左より)佐分利信、佐野周二、上原謙、岡田茉莉子、小山明子、高千穂ひづる、佐田啓二、高橋貞二ら松竹映画スター

 松竹の創業は、大谷竹次郎(1877-1969)が京都阪井座を買収した明治28年である。「松竹」の名前は、明治35年、双子の兄の白井松五郎(1877-1951)と共に、松竹合名会社を設立したことに始まる。演劇興行会社で100年以上もの歴史を持つことは世界にもあまり類例がない。

    明治36年1月、1回目の興行は、歌舞伎の実川延二郎(後の2代目延若)一座で、出し物は「曽我の実録」「乳貰い」「左甚五郎」。興行は大成功だったという。竹次郎が大津の連隊に入隊したのを契機に兄松次郎もこの仕事に加わり、2人は競い合うように京阪の劇場を手中にして、明治43年には本郷座と新富座を買収して東京へ進出した。大正3年、歌舞伎座経営、昭和5年には東京劇場を新築開場した。松竹が、映画に乗り出したのは大正9年のことで、「松竹キネマ」を興し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子、英百合子、柳さく子、岡田嘉子、伏見直江、歌川八重子、八雲恵美子、田中絹代などの看板女優を中心に蒲田調といわれる女性向映画を得意とした。戦後の松竹大船調では、小津安二郎、木下恵介、大庭秀雄、中村登、吉村公三郎、渋谷実、野村芳太郎などの監督が健在で日本映画の黄金時代を築いた。昭和35年頃から大島渚、吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーベル・バーグといわれる若手監督が登場する。映画産業そのものは斜陽となったが、松竹では山田洋次監督による渥美清の喜劇路線で不振を何とか乗り切ってきた。岩下志麻、倍賞千恵子、松坂慶子らが長らく松竹の看板女優であったが、近年、田中麗奈が「犬と私の10の約束」「築地魚河岸三代目」「ゲゲケの鬼太郎千年呪い歌」と松竹作品の出演が続いている。

角川春樹とハワード・ヒューズ

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    「愛情物語」クランク・アップ記念撮影

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      「地獄の天使」(1930年)ポスター

   16歳のミュージカルを夢見る少女仲道美帆(原田知世)は3歳の時に捨てられた孤児ではあるが、「あしながおじさん」を探すために長崎へ旅をする。「時をかける少女」(昭和58年)で一躍、薬師丸ひろ子に並ぶアイドル女優になった原田知世の主演第二作は、角川春樹自らが監督した作品「愛情物語」(昭和59年)だった。このように実業家(出版業)がメガホンをとることはめずらしいが、映画の都ハリウッドでもサイレントからトーキーへと代わる時代に、実業家ハワード・ヒューズ(1905-1976)が映画監督をしている。

   1930年、石油成金の息子で大富豪のハワード・ヒューズは初作品「地獄の天使」のヒロインの代役を探していた。主演女優はスウェーデンの女優グレタ・ニッセンであったが、彼女の訛りがひどかったので、トーキー映画に使えなくなった。そんな時、たまたまエキストラの無名女優ジーン・ハーロウ(1911-1937)がスタジオにいた。ヒューズはこの映画に莫大な制作費を投じた。世間はヒューズの愚かさを嘲笑し、その失敗を誰もが予言した。ところが大方の予想に反して、映画は大ヒットした。妖婦ジーン・ハーロウはこの映画で「プラチナ・ブロンド」といわれるセックス・シンボルになった。ジーンが登場する舞踏会のシーンはブロンドを見せるためにテクニカラーが施している。

   最近では「アビエイター」(2005年)という映画で、レオナルド・デカプリオがヒューズを演じている。そしてジーン・ハーロウをグウェン・ステファニー、キャサリン・ヘプバーンをケイト・ブランシェット、エヴァ・ガードナーをケイト・ベッキンセールが演じているというが興味をそそられる。

   ジーン・ハーロウの私生活は不可解をきわめ、1932年、MGMの製作者ポール・バーンと結婚したものの、バーンは謎の自殺をとげた。1933年撮影監督ハロルド・ロッスンと三度目の結婚をしたがこれも長つづきはしなかった。バーンに打たれた腎臓が障害をおこして、1937年6月7日、26歳の若さで急死した。

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2008年4月 3日 (木)

映画にみるクレオパトラ

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  古代エジプト、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ(前69-前30)はその美貌をもってして歴史にその名を知られるが、彼女は本当に美人だったのだろうか。残念なことにクレオパトラが美人だったという証拠は何もない。ただプルタルコスの記録には、「彼女に親しく接することには、抵抗できない魅力があった。そして彼女の容姿は、説得力にみちた言葉や、そのふるまいに多少とも表れていた独自の性格と結びついて、一種の心地よい刺激をかもし出した。彼女が語るとき、その声の響きは甘く快かった」とあるように魅力的な女性だったことは間違いなさそうだ。実際は小柄で痩せ型だったといわれるクレオパトラを絶世の美女にしたのは、やはり映画の影響が大きいだろう。無声映画時代からクレオパトラはスクリーンに登場した。セダ・バラの「クレオパトラ」(1917年)は彼女の数ある出演作のなかでも、有名な作品となった。続いてクローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1939年)、ヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」(1945年)、リンダ・クリスタルの「クレオパトラ」(1959年)などがあるが、なんといっても20世紀フォックスが社運をかけた超大作、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」(1963年)がクレオパトラ映画の決定版であろう。その後もヒルデガード・ニールが「アントニーとクレオパトラ」(1971年)で演じているが、エリザベス・テーラーを超える存在感のあるクレオパトラはスクリーンでは登場していない。

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  セダ・バラ

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  クローデット・コルベール

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  ヴィウィアン・リー

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  リンダ・クリスタル

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  ヒルデガード・ニール

2008年3月20日 (木)

東京大空襲

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     焼け野原となった東京

   2夜連続でドラマ「東京大空襲」を見た。ケペルの両親はすでに他界したが、東京大空襲のとき、墨田区に住んでいた。姉和子(当時3歳)と3人で暮らしていた。母から断片的に聞いたことはあるが、詳しく聞いたことは一度も無い。こんな悲惨な経験をしていたのかと思うと、何ともいえない感情になる。両親がもし空襲で死んでいたら、今の自分はこの世に存在していないのだから…。家を失い、父の田舎へ疎開したが、都会育ちの母は疎開先での暮らしに馴れなかった。

   昭和20年3月10日未明、グアム、サイパン、テニアンから飛来した米軍のB29爆撃機279機が、低空で東京上空に侵入、江東、墨田、台東区を中心に2時間あまりにわたって東京下町一帯を爆撃した。約10万人以上の尊い命が一夜にして奪われた。

   このようなわたしたちの父母の時代の出来事をもとに、フィクションを加えてドラマをつくっている。藤原竜也(大場博人)、堀北真希(桜木晴子)、瑛太(朴順仁)、柴本幸(山田和江)などフレッシュな顔ぶれも魅力である。主題歌は秋川雅史「愛する人よ」。

2008年3月17日 (月)

七人の刑事と警視庁物語

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        七人の刑事

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        警視庁物語

  もの悲しいハミングが流れ、よれよれのコートにハンチング帽という中年の渋い部長刑事、芦田伸介が登場する。TBSのテレビドラマ「七人の刑事」(昭和36年から44年)は警視庁赤木班(堀雄二)の七人の刑事たちの聞き込みや張り込み、参考人への取調べといった地道な捜査を通じて真実に迫るドキュメンタリー・タッチの社会派ドラマだった。キャストは課長の堀雄二をはじめ、芦田伸介、菅原謙次、佐藤英夫、美川陽一郎、城所英夫、天田俊明。山下毅雄作曲、歌・ゼーグ・デチネのテーマソングも良かった。赤坂のクラブで遊び歌っていた客のユダヤ人の宝石商デチネをたまたま居あわせた山下がレコーディングさせ、大ヒットとなった。ところが、ゼーグはその後、詐欺容疑で海外に逃亡したため、「七人の刑事」の歌を聞くことはできない。またドラマそのものも当時は録画保存という体制がなかったため、数回分だけでほとんど現存していない。リアルタイムで見れた幸せを感謝したい。

   この「七人の刑事」の原型ともいえるのが、東映の「警視庁物語」である。脚本の多くは長谷川公之が手がけているし、堀雄二が主演している。1時間ちょっとの映画なのでSP作品。二本立てということだが、地方の映画館では三本立て興行だったかもしれない。お目当ては東映イーストマンカラーのオールスター総天然色、明朗痛快娯楽時代劇だったが、添え物的に白黒のリアルな現代ドラマをみせられ強烈な印象となった記憶がある。それにあの月光仮面の大村文武が登場している。込み入った話の筋は理解できなかったかもしれないが、リアリズムというものも意外に、子どもにも楽しめる作品だった。警視庁に電話がなって、捜査員が受話器をとる。「なに!女性のバラバラ死体!」と、いった調子で話が展開していく。全25本あるそうだが、昭和30年の「終電車の死美人」を第1回とするかどうかは、研究者によって異なるという。昭和31年作品は「逃亡五分前」「魔の最終列車」「追跡七十三時間」、昭和32年作品は「白昼魔」「上野発五時三五分」「夜の野獣」、昭和33年作品は「七人の追跡者」「魔の伝言板」、昭和34年作品は「顔のない女」「一〇八号車」「遺留品なし」、昭和35年作品は「深夜便一三〇号車」「血液型の秘密」「聞き込み」、昭和36年作品は「不在証明(ありばい)」「十五才の女」「十二人の刑事」、昭和37年作品は「謎の赤電話」「十九号埋立地」、昭和38年作品は「ウラ付け捜査」「全国縦断捜査」「十代の足どり」、昭和39年作品は「自供」「行方不明」。  メンバーは「七人の刑事」のような固定制ではなく、毎回異なっている。堀雄二、神田隆、花沢徳衛、中山昭二、波島進、宇佐美諄、伊藤久哉、松本克平、福原秀雄、曽根秀介、菅沼正、外野村晋、関山耕司、南原伸二(南原宏治)、今井健二ら。下の写真の俳優すべて知っているかたは相当なマニアですね。

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左上より:佐原広二、山本麟一、須藤健、千葉真一、花沢徳衛、堀雄二

右上より:神田隆、南広、中山昭二、波島進、大村文武、石原房太郎

2008年2月28日 (木)

ふたりのナターシャ

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(ご注意)本記事は「ケペルの架空対談」第3回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するとい新企画の架空記事です。

   1968年、朱里エイコがパンチのきいた声で「がんばれアニマル・ワン。メキシコめざして」と歌っていた年、ケペルにとって二人のナターシャがいた。ひとりは、メキシコ五輪の女子体操の名花ナタリア・クチンスカヤ。当時、ソ連のプラハ侵攻の直後であったため、世界の同情はベラ・チャフラフスカに集まった。しかしケペルの視線は19歳のクチンスカヤの若々しい肢体に集中していた。判定においても彼女に不利な状況であっかが、笑顔を絶やさず可愛らしかった。まさしく、彼女こそ「戦争と平和」のナターシャであった。

   その2年前、ソ連は国家的事業で「戦争と平和」を制作していた。完成までに6年を費やした、ヒロインのリュドミラ・サベーリエワに会いにケペルはモスクワへ行った。

   *    *    *    *    *    *

ケペル「はじめまして。戦争と平和は本当に大作ですね。ナターシャ役はどのようにして決ったのですか」

リュドミラ「子どもの頃からバレエの学校へ行ってプリマになることが夢だっんです。そのころセルゲイ・ボンダルチュク監督は超大作の映画に取り組んでいましたが、ナターシャ役が未定で1年が過ぎていました。そこで文化省のお声がかりで、コンテストにでることになって、選ばれてしまいました」

ケペル「撮影にはどれくらいかかりましたか」

リュドミラ「原作では17歳から21歳までですが、私もナターシャの年齢とほぼ同じに少女から女性へと成長していくように撮影しました。」

ケペル「これからの夢は何ですか」

リュドミラ「もうプリマへの夢は諦めました。ナターシャの役が大きすぎたのでなかなか映画出演も決らなかったのですが、最近、新作を撮っています」

ケペル「何という映画ですか」

リュドミラ「ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの映画です」

ケペル「最近結婚されたそうですね」

リュドミラ「ええ、アレクサンドル・ズブルーイェフと結婚しました。娘が生まれました」

可愛い赤ちゃんを抱いていた。

ケペル「名前はなんというの?}

リュドミラ「ナターシャです」

    *   *   *   *   *    *    *

   旧ソ連が制作した超大作「戦争と平和」のヒロイン女優リュドミラ・サベーリエワは1942年1月24日生まれ。現在66歳になっている。澄んだ瞳は北国の湖、透明な肌は純白の雪。ソビエト映画界が世界に誇る花リュドミラ・サベーリエワ、いまごろどうしているだろう。

2008年2月27日 (水)

明日に飛躍する女子高生・内藤洋子

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」第2回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

   雑誌「りぼん」のカバー・カールから、「氷点」の暗い宿命を健気に生きる辻口陽子で一躍美少女スターとして人気が沸騰した内藤洋子。ケペルは鎌倉の学校に通う内藤洋子を訊ねた。

    *   *    *   *   *   *

ケペル「洋子ちゃん、初めまして」

洋子「先生、関西からわざわざ来きていただきありがとうごさいます」

ケペル「ええ、鎌倉の川端先生宅で李朝の陶器をみせていただいた帰りに寄ってみました」

洋子「黒澤監督の赤ひげでデビューして3年になります」

ケペル「次回の新作はどんな作品?」

洋子「舟木一夫さんと共演で、なんとミュージカル映画なんです」

ケペル「それはすごい。歌のレッスンはしているの」

洋子「毎日、猛特訓で。挿入曲が白馬のルンナっていうんです。昨日、レコード化が決まりました」

洋子は、可愛いおでことくりくりとした目で笑顔でこう言った。

洋子「私どんな役でもこなせる女優になりたいんです」

映画は松山善三監督で「その人は昔」という。今後の彼女の活躍が楽しみだ。

牧場を駆ける少女ジュディ・バウカー

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」シリーズ第1回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

   フランコ・ゼフィレリ監督の「ブラザー・サン シスター・ムーン」で聖女クレアを演じたジュディ・バウカーは一躍スターとなった。最新作はアンナ・シューエルの児童文学の古典的名作「ブラック・ビューティ」(1877年)のテレビドラマ化。

     *    *    *    *    *

   美しい森に囲まれたイギリスの小さな村に主人公ヒッキーを演じるジュディ・バウカーがいた。ブルー・グレイの澄んだ瞳が美しい少女だ。

「初めまして、日本から来たケペルです」

ジュディ「初めまして。日本へは是非一度行きたいと思っています」

「ブラザー・サン シスタームーンを観ました。こころが洗われるような映画です」

ジュデイ「ロンドンのアート・アンド・テクニカル・カレッジでダンスを習っていましたが、私の写真がファション雑誌に載って、それで監督からクレア役のお話があったんです」

「映画の成功でたくさんの出演依頼がきたでしょう」

ジュデイ「ええ、とても驚いています。依頼が殺到しましたが、黒馬物語は子どものころから愛読していたので、お引受しました」

「日本でもNHK放送されるそうです。これからのご活躍を祈っています」

ジュディはおとぎの国のお姫様のように美しく、栗色の髪をなびかせて、緑の森の中を駆けていった。

     *    *    *    *    *

    ジュディ・バウカーは1954年4月6日生まれで、「黒馬物語」のときは20歳。イギリスのシャウフォード生まれ。彼女が3歳のとき、政治家である父親がアフリカにあるイギリスの植民地ザンビアの知事を命ぜられて一家はアフリカに移った。8年間、アフリカの修道院で過ごした。イギリスに戻って宗教系のサリスピューリー校に入学。趣味はピアノ、ダンス、絵画。

「そっくりショー」と青春歌謡

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   昨夜のNHK歌謡コンサートで仲宗根美樹の昭和36年のヒット曲「川は流れる」を久しぶりに聞いた。仲宗根は昭和19年6月23日生れであるから、当時16歳か17歳だった。我が家にテレビが来たのが昭和35年。あの頃の女性歌手の記憶が鮮明なのは何故だろう。ハワイアンの日野てる子は昭和20年7月13日生まれ。昭和40年には歌謡曲に転身し、「夏の想いで」をヒットさせた。

   日野てる子といえば何故か「そっくりショー」を思い出す。ハイビスカスの花を髪にかざして南国ムードたっぷりに歌う可憐な容姿。そしてボードビリアン小野栄一の軽妙な司会ぶり。「そっくりショー」はコロッケなどの戯画化したものまねではなく、一般素人の容姿が似ているかどうかがポイントで歌は多少下手でも優勝できた。審査委員長は、蝶ネクタイがトレードマークで日劇ヌードショーの元締め丸尾長顕(1911-1986)である。

    当時は青春歌謡の全盛時代であった。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を筆頭に三田明、梶光夫、安達明、久保浩、叶修二、川路英夫、山田太郎、太田博之、望月浩などなど美形の男性が出現した。青春歌謡で現在も第一線で活躍しているのは美川憲一くらいであろうか。ともかく生中継の時代、テレビは面白かった。

2008年2月26日 (火)

映画は見世物から第七芸術へ

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                   バイオグラフ社の広告(1909年)

    アメリカやフランスの科学者によって発明された動く写真は、はじめは見世物としての大衆娯楽でしかなかったが、メリエスやグリフィスやアベル・ガンスら欧米作家たちの創意による分析や構成が加えられ、それら映像のもつリズムやテンポが新しい芸術手段として評価されるようになった。イタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュード(1877-1923)は、音楽・舞踏・文学という「時間の芸術」と、建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」の既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した。(「第七芸術宣言」1911年)

   カニュードのいう映画の総合芸術とは、装置の美術性とか、演技の演劇性とかいう意味ではなく、あらゆる芸術の本質的な諸機能を統一したものという意味で、映画は第七芸術という総合芸術だというのである。

   1900年になって、イギリスのアルバート・スミス、スチュアート・ブラックストンによって、アメリカで最初の映画会社ヴァイタグラフが創立され、ニューヨークに撮影所が設置された。ベントレイ・キャンベルの戯曲「白い奴隷」が、第1回作品として発表されている。1908年になると活動写真はますます盛んになった。エジソン、バイオグラフ、エッサネイ、カレム、ルビン、ヴァイタグラフ、シーリング、パテー、ジョージ・クライン、メリエスなどの会社がアメリカ全土に配給戦を演じた。

    ドイツでは、演劇界の巨人マックス・ラインハルトが、初めて映画を監督、「擲弾兵ローランド」を発表した。スウェーデンでは、スヴェンスカ社が映画制作を開始している。後年、イングリッド・バーグマンを生んだのもこの社である。

    無声映画時代は純粋な映像表現が追求され、表現主義や前衛映画運動が起こり、フォトジェニー、モンタージュの理論が実践された。ロベール・ウィーネ監督の「カリガリ博士」(1919年)は表現主義の画家ヴァルター・レーリッヒが装置を担当し、表現派美術を応用して、第一次大戦後の不安定な社会心理が国民にある共感を呼び起こさせた。ウェルネス・クラウス(カリガリ博士)、コンラット・ファイト(眠り男セザレ)、フリードリヒ・フェアー(フランシス)らも好演している。

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    カリガリ博士

2008年2月25日 (月)

沖行く船の無事を祈る

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                   千葉県・勝浦灯台

   灯台守の妻・田中きよ(1911-1999)が雑誌「婦人倶楽部」に「海を守る夫とともに20年」という手記を寄稿したのは昭和31年のことだった。夫・田中績(1909-2002)は、昭和8年の岩手・魹ヶ崎を始め、サハリンのモネロン島(海馬島)、長崎・五島列島の女島、千葉・勝浦埼、福島・塩屋埼、秋田・入道崎、宮崎・都井岬など8ヵ所、37年間、任地はすべて人里離れた「陸の孤島」であった。妻きよは夫の仕事を支え、10人の子どもを育てた。この手記を読んだ木下恵介が感動して、映画「喜びも悲しみも幾歳月」を制作した話はあまりに有名であろう。(引用文献:「二人でかざす一筋の光」朝日新聞2008.2.23)

シモーヌ・シニョレとマリオン・コディヤール

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   シモーヌ・シニョレとチャールトン・ヘストン

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     女の情念を演じ続けたシモーヌ・シニョレ

   第80回米アカデミー賞の授賞式が24日夜、ロサンゼルス・ハリウッドのコダックシアターで開かれた。作品賞は「ノーカントリー」(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督)、主演男優賞はダニエル・デイ・ルイス(「ゼア・ウィルビー・ブラッド」)、主演女優賞はマリオン・コティヤール(「エディット・ピアフ愛の讃歌)。ダニエル・デイ・ルイスは第62回「マイ・レフトフット」で2度目で予想通りの受賞といえる。番狂わせは主演女優賞であろう。本命のケート・ブランシェット、ジュリー・クリスティーを抑えて、フランス映画で、フランス語で演技をしたフランス人女優が受賞したことになる。過去フランス女優がアカデミー主演女優賞を受賞したのは、第32回(1959)の「年上の女」のシモーヌ・シニョレ以来49年ぶりである。ただしこの「年上の女」はジャック・クレイトン監督、ローレンス・ハーヴェイ共演によるイギリス映画作品。つまりシモーヌ・シニョレはイギリス女性役で英語だったようだ。そもそもアカデミー賞の受賞作品の対象になるのは、「その年度の1月1日から12月31日までの間にロサンジェルス地区の劇場で1週間以上商業上映されたもの(外国語映画など一部例外あり)」という規定である。要するに「羅生門」「地獄門」のように外国語映画でも受賞の可能性はあるが、主演賞となるとかなりハードルは高い。マリオン・コディヤールの受賞はフランスのセザール賞主演女優賞とのダブル受賞となるが、フランス語で演技したフランス女優というのは、アカデミー史上初めての快挙なのである。

   だが、シモーヌ・シニョレ(1921-1985)がハリウッドで認められたことも意外な事実であろう。女の哀しい宿命を演じたら、彼女の右に出る女優は世界中探してもいないであろう。たが余りにフランス的であり、ハリウッドに馴染まないタイプだろう。オスカー受賞後、「愚か者の船」(1965)、「悪魔のくちづけ」(1967)など数本の作品に出演したが、フランスに戻った。

   シモーヌ・シニョレはドイツのビースバーデンで生まれた。幼くして、パリに移住し、タイピストや英語教師などを経て演技に興味を抱き、1942年から映画にエキストラ出演。本格的デビューは1945年の「理想的なカップル」。その後「デデという名の娼婦」(1946)「肉体の冠」(1951)「嘆きのテレーズ」(1953)「悪魔のような女」(1955)「年上の女」(1958)で個性的な容貌、抜きんでた演技力と存在感で戦後のフランス映画界を代表する女優だった。

   後進のアヌーク・エーメ、ジャンヌ・モロー、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなどの美人女優がオスカーを手中にはできなかったが、マリオン・コディヤールの受賞を心から喜びたい。

2008年2月17日 (日)

女の道は一本道

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   「汚れた手」の佐々木すみ江(昭和42年)

    NHK大河ドラマ篤姫第6回「女の道」(2月10日放送)。今和泉島津家の於一(宮崎あおい)が当主・島津斉彬の養女となることに決まった。城に出向く日の朝、奥女中の菊本(佐々木すみ江)はそっと於一の髪をなおしていう。「御養女の件、お迷いなのはわかりますが、女の道は一本道に御座います。定めに背き引き返すは恥に御座います」というセリフがいい。そして菊本は自害して於一に武家の女の生き様を示す。菊本のとった行動がいま大きな話題になっている。視聴者の中にも、昔の日本人が身に付けていた品格や礼節をドラマを通して感じたようだ。菊本自害の理由は今夜の放送で明らかになるだろう。

    ところで、この菊本を演じた佐々木すみ江。若い世代の方でも「ふぞろいの林檎たち」を初め多数のドラマでお馴染みのベテラン女優だが、劇団民芸出身(民芸俳優養成所第1期生)。ケペルは残念ながら舞台は一度も見ていない。「穀倉地帯」「楡の樹蔭の欲望」「セールスマンの死」「かもめ」など翻案劇が多いため、西洋人のインテリ女性が似合っていた。画像に見える「汚れた手」オルガ役に扮する佐々木は、大柄で目鼻立ちのハッキリした女性党員を好演している。テレビドラマの姑役しかしらないが、若い時代、和製ソフィア・ローレンという感じだったらしい。

2008年1月21日 (月)

アル・ディ・ラ「恋愛専科」

    朝刊で女優スザンヌ・プレシェット死去のニュースを知る。昭和37年8月公開のトロイ・ドナヒュー共演の「恋愛専科」はイタリアの観光地をふんだんに取り入れた青春映画の愛すべき作品だった。ことにプレシェットの美しさが印象にあり、その後も「鳥」「遠い喇叭」「黒ひげ大旋風」「火曜日ならベルギーよ」と彼女が出ていれば何でも見た。デビッド・ジャンセンの「逃亡者」にも「絶望の時」(39話)「臆病の兎たち」(68話)にゲスト出演している。

   ところで「恋愛専科」の主題曲「アル・ディ・ラ」とはどういう意味であろうか。イタリア語「al di la」は「~の向こうに」という意味で、「アル・ディ・ラ(~の向こうに)…チ・セ・トゥ(君がいる)」ということらしい。映画ではエミリオ・ペリコーリが歌ったが、もともとサンレモ音楽祭の優勝曲でルチアノ・タヨーリとベティ・クルティスが歌った。そのほかにもトニー・ダララ、コニー・フランシス、ペギー葉山、岸洋子など多数の歌手がレコーディングしている。

とんなに貴重なものにもまして

君が 

どんなに大それた夢にもまして

君が

この世で一番美しいものにもまして

星のかなたに 

君が

あのかなたに君が僕のために

僕一人のためだけに

深い深い海のかなたに

君が 

この世の果てへのかなたに

君が 

果てしない大空のかなたに

生命にもまして

君が 

あのかなたに君が僕のために

炎の光、恋の夢

あのかなたに

   映画「恋愛専科」が近所の映画館で上映していた頃をはっきり記憶している。映画館の真向かいはレコード屋だった。市場の横でいつも大勢の人で賑わっていた。だが昭和40年代になると映画は斜陽となり、そこも間もなくスーパーという新形式の店が出現した。ハリウッドのスザンヌ・プレシェットにお会いしたことは一度もないが、海をへだてた日本にもファンは多く、「アル・ディ・ラ」の甘いメロディーとともに皆それぞれの思い出があるだろう。

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2008年1月20日 (日)

ワンサカ娘とワンサガール

  「♪ドライブウェイに春が来りゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ」と「レナウン・ワンサカ娘」(小林亜星作詞・作曲)のCMが日曜洋画劇場で毎週流れた。昭和36年、かまやつひろし、昭和37年、デューク・エイセス、昭和38年、ジェリー藤尾&渡辺友子、昭和39年、弘田三枝子、昭和40、41年、シルヴィ・バルタン、その後もヒデとロザンナ、久美かおり、セルスターズと一流ミュージシャンが歌い継いでいる。ところで「ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ」という「ワンサ」という意味がよく分からなかった。広辞苑によると①「がやがやと大勢が押しかけるさま」とある。③わんさガールの略、とある。「わんさガール」とは「下っ端の映画女優や踊り子。大部屋女優」とある。

    当時まだ若かった小林亜星が③の意味で使ったとは考えられない。おそらく「ワンサカ ワンサ」とは①の沢山という一般的な意味で使用したのであろうが、当時のご年輩方には同時に「ワンサガール」という古い流行語を懐かしく思い出した方も定めしおられたにちがいない。現代感覚と昭和初期モダンとが「ワンサ」という一語に込められたとても優れたCMソングだ。

   ワンサガールの語源は「映画撮影所の大部屋女優や無名女優のことである。これは大正9年に松竹の蒲田撮影所が創立されてまもなくできたことばであるが、大部屋のあたりにわんさとむらがっている女優たちをみて、こんなのをワンサガールというんだわ、とある人がいったのが、すっかり流行したものであって、もちろん英語ではない。現今では少女歌劇のライン・ダンスにでる女優のこともワンサガールという。またワンサと略することもある。」(日置昌一著「ことばの事典)

 

2008年1月18日 (金)

浦辺粂子と「稲妻」

   浦辺粂子(1902-1989)は明治35年10月5日、静岡県下田で生まれた。沼津高女卒業後、浅草の金竜館の踊り子としてデビューするが、芽がでず、芸名も遠山ちどり、静浦ちどり、と変えたが売れなかった。ある時、思いあぐねて易者に見てもらうと「このまま東京にいると死ぬか大怪我をする」と言われ、大阪へ向かった。この年の9月に関東大震災が起きた。一座の娘役が急病で倒れたため、芸名を浦辺粂子に変えて舞台に立ったところ、好演が認められた。大正13年日活の「清作の妻」で映画に出演し、20代で老け役女優として活躍した。

    戦後は昭和24年「異国の丘」、昭和25年「細雪」、昭和27年「稲妻」、昭和28年「雁」「煙突の見える場所」と脇役ながら日本映画の全盛期の名作に出演し好演した。とくに「稲妻」の高峰秀子の母親おせい役は印象に残る。東京の観光バスガールをする清子(高峰秀子)は勝気な美しい娘。母おせいは結婚、離婚を繰り返し、四人の兄妹の父は皆違うという複雑な家庭。長姉縫子(村田知英子)、次姉光子(三浦光子)、兄嘉助(丸山修)。次姉光子の夫が急死したことから保険金をめぐって兄弟間でトラブルが起きる。嫌気がさした末っ子の清子は家出をする。いやな男(小沢栄)や好男子(根上淳)なども登場するが、あくまで娘と母親との和解で物語りは終わる。戦後、適齢期の男はほとんど戦争で死んで、男1人に女28人の時代。女が一人で生きていくことが難しい時代だった。林芙美子の原作だったらしく、公開当時の映画ポスターには「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」とある。女性映画の第一人者の成瀬巳喜男はこの映画で1952年度ブルーリボン作品賞をとっている。助演女優賞は中北千栄子だったが、浦辺粂子こそ受賞にふさわしかったと思う。

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2008年1月16日 (水)

ヒッチコック「汚名」のキス・シーン

    戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン)であった。(ともに1943年製作)

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。

昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)

昭和24年「汚名」(1946年製作)

昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)

昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)

昭和27年「凱旋門」(1948年製作)

昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)

    6年の間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。

「あらすじ」

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚わ受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2008年1月15日 (火)

風を聴く日

    「そのころ私たちの家は、池上本門寺裏の、石段を上がった所にありました」と黒柳徹子のナレーションで始まる向田邦子新春シリーズ「風を聴く日」を見る。

    長沢家は植物学者の父・浩二郎(菅原謙次)が1年半前に家出し、病気がちな母・里子(加藤治子)と二女の晶子(小泉今日子)、三女の愛子(林美穂)が暮らしていた。昭和14年の暮れ、夫が戦死した長女・絹子(田中裕子)が、正月で久々に実家に戻った。

    ある日、晶子が会社の帰りに家出した父が愛人(風吹ジュン)と一緒にいるところを目撃する。後日、絹子と晶子は父の隠れ家を訪ねる。父と母との微妙な感情のずれが少しづつ浮き出されていく。田中裕子、加藤治子らいつものレギュラー陣だが、今回の見所は、やはり父親役の菅原謙次(1926-1999)だろう。オカリナを吹いたり、ビング・クロスビーのレコードを聞いている。往年の映画スターで、愛煙家として知られ柔道三段の腕前を持つ彼も大病したらしく痩せているのがたいへん痛ましく感じる。正月ドラマなのに父も母も亡くなるという縁起悪いストーリー展開。だが、どこかにほのぼのしているところが感じられるのが向田邦子ワールドである。このドラマが放送された1995年1月9日から8日後に阪神大震災が発生した。

元祖ラブコメは何か?

   いま日本でも韓国でも恋愛映画、なかでもハッピーでロマンチックなコメディ、いわゆる「ラブコメ」というジャンルが人気だ。ロマコメとラブコメとの違いは、どちらも恋愛とハッピーエンドを条件として区別はなかなか困難であるが、ラブコメはより喜劇性、ドタバタ性の強いものをいう。例えば、「ローマの休日」はロマコメであり、ドラマ「おくさまは18歳」は典型的ラブコメである。現在、日本では上野樹里、韓国ではキム・ジョンウン、キム・ハヌルなどがラブコメの女王ともいえる地位を確立している。LaLaテレビ放送中のソン・ヘギョ&ピの「フルハウス」などは典型的ラブコメであろう。日本映画での元祖ラブコメといえば薬師丸ひろ子&鶴見辰吾の「翔んだカップル」(1980)という説がある。しかし、ラブコメのルーツとなるとやはりハリウッド映画であろう。

    19世紀末のヨーロッパの演劇界や文学は悲劇的な結末のものが流行した。その影響を受けたアメリカ映画界でもサイレント初期はリリアン・ギッシュの「散り行く花」、グレタ・ガルボの「肉体の悪魔」(1927)、「恋多き女」(1929)など悲恋物語ばかりだった。「アメリカの恋人」とよばれ愛されたメリー・ピックフォードが元祖ラブコメの女王といえるかもしれない。トーキー時代になってダンスとジャズのミュージカル映画が全盛となる。このころアメリカ映画はほとんどがハッピーエンドというアメリカン・ロマンスのスタイルが成立したとみている。そして銀幕を不滅の黄金コンビが彩った。ルビー・キラー&ディック・パウエル、ジンジャー・ロジャーズ&フレッド・アステア。元祖ラブコメといえばクラーク・ゲイブル&クローデッド・コルベールの「或る夜の出来事」といわれている。しかしロマコメとラブコメとの区別がつきにくい作品であろう。真の意味でのラブ・コメ映画の出現となると、チビッコの青春コンビ、ジュディ・ガーランド&ミッキー・ルーニーのアンディ・ハーディシリーズ(1938-1941)だろう。残念ながらこの時期、戦争のために日本では劇場公開できなかったため、ラブコメが日本に移入することはなかった。戦後アメリカ映画のラブコメのヒロインといえば、シャーリー・マクレーン、ゴールディ・ホーン、メグ・ライアン、キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、キルステン・ダンストと続々と現れている。

   つまり日本、韓国でのラブコメの成立は、アメリカに比べ50年は遅い。なぜこれほど遅れたのだろう。吉永小百合&浜田光夫、山口百恵&三浦友和の共演映画も観客は悲劇性を好んでいた。ラブコメも作ってはみたがファンには不評だった。日本でのほんとうのラブコメの登場はバブル期まで待たねばならなかった。

2008年1月13日 (日)

ボギーあんたの時代はよかった

   ハンフリー・ボガート(1899-1957)の初期の出演作29本のうち半分は殺されるか死刑になる役だった。共演者といえば、ジェームズ・ギャグニー、エドワード・G・ロビンソン、ジョージ・ラフトといったギャングスターばかり。恐いという印象がある。ところが実際のボガートは「とても傷つきやすく、穏やかな人だった。そして嘘と名のつくものはすべて嫌った」とローレン・バコールはいう。「マルタの鷹」(1941年)の探偵サム・スペード役で大スターとなった。

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                                            ハードボイルド映画で花をそえたヒロインたち。ベティ・デイビス(化石の森、札つき女、倒れるまで、愛の勝利)、シルビア・シドニー(デッド・エンド)、ジョーン・ブロンデル(身代わり花形)、プリシラ・レーン(彼奴は顔役だ)、メアリー・アスター(マルタの鷹)、アイダ・ルピノ(ハイ・シエラ)、イングリッド・バーグマン(カサブランカ)、ローレン・バコール(脱出、三つ数えろ、潜行者、キーラーゴ)、バーバラ・スタンウィック(第二の妻)、キャサリン・ヘプバーン(アフリカの女王)、ジェニファー・ジョーンズ(悪魔をやっつけろ)、エヴァ・ガードナー(裸足の伯爵夫人)、オードリー・ヘプバーン(麗しのサブリナ)。

男は神に非ず

    さて問題。ビビアン・リー、エリザベス・テーラー、オードリー・ヘプバーン、三人の美人女優全てと共演した誠にうらやましい男優は誰か。

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   本名はレジナルド・ケアリー・ハリソン(1908-1990)。ハリソンは1908年3月5日、イギリスのランカシャーで絹仲買人の息子として生まれ、16歳の時にリバプールのレパートリー劇場で初舞台。リバプール・カレッジを卒業後は地方巡業に出て1930年、ロンドンに進出する。映画デビュー作はガートルード・ローレンスの「男は神に非ず」。マール・オベロンと「月のかなたに」、ビビアン・リーと「茶碗の中の嵐」「セント・マーティンの小径」、ロザリンド・ラッセルの「城砦」、マーガレット・ロックウッドと「ミュンヘンの夜行列車」、アンナ・ニーゲルと「大空に散る恋」、アイリーン・ダンと「アンナとシャム王」、ジーン・ティアニーと「幽霊と未亡人」、リンダ・ダーネルと「殺人幻想曲」、ケイ・ケンドールと「完全なる良人」、ドリス・デイと「誰かが狙っている」、リタ・ヘイワースと「楽しい泥棒日記」、エリザベス・テーラーと「クレオパトラ」、オードリー・ヘプバーンと「マイ・フェア・レディ」、ジャンヌ・モローと「黄色いロールスロイス」でそれぞれ共演している。このような恵まれた女優歴を飾れたのは、上品で洗練された紳士役で女性の美しさを際立たせるのが上手だったためであろう。実際、彼は名うてのプレイボーイで共演女優の多くと結ばれている。「艶事師」で共演したリリー・パルマー(1914-1986)、「完全なる良人」で共演したケイ・ケンドール(1926-1959)、レイチェル・ロバーツ(1929-1980)みな女優と結婚、離婚を繰り返している。彼とは、レックスとセクシーを合成させた「レクシー・ハリソン」の異名を持つレックス・ハリソン(1908-1990)である。

戦中の戦争映画

    戦時中に封切りされた戦意高揚を目的に撮られた映画の中で最も多くの日本人が見た映画は、おそらく日米開戦1周年を目前に控えた昭和17年12月3日封切りの「ハワイ・マレー沖海戦」であろう。海軍省の後援で全国の学生、軍需工場、婦人会などが動員され、占領地も含めると約1億人がこの映画を観たといわれている。

    ストーリーは、予科練に入隊した友田義一(伊藤薫)が山下教官(藤田進)たちから海軍精神を叩き込まれて一人前の飛行兵に成長していく過程と、真珠湾攻撃、マレー沖での活躍ぶりを記録映画風に再現している。だが現実での戦況は、この年6月のミッドウェイ海戦の敗北ですでに劣勢に追い込まれていた、という事実を1億人は何も知らなかった。

    日中戦争が始まってから戦争映画は数多くつくられた。主な作品を挙げると、小杉勇「五人の斥候兵」「土と兵隊」、佐分利信「西住戦車長伝」、藤田進「海軍爆撃隊」、大日向伝「燃ゆる大空」、井上莞「空の少年」、阪東妻三郎「将軍と参謀と兵」、高田稔「望楼の決死隊」、佐分利信「愛機南へ飛ぶ」、高田稔「決戦の大空」、中田弘二「シンガポール総攻撃」、山内明「海軍」、大河内伝次郎「あの旗を撃て」、藤田進「加藤隼戦闘隊」、渡辺義夫「轟沈」、星野和夫「君こそ次の荒鷲だ」、水島道太郎「肉弾挺身隊」、藤田進「雷撃隊出動」、長谷川一夫「後に続くを信ず」、高田稔「愛と誓い」など。

2008年1月 2日 (水)

昭和の精神史としての「父の鎮魂歌」

    小泉信三(1888-1966)の一人息子・信吉は、大正7年に生れ、慶応を卒業し、海軍士官になり、昭和17年10月22日、特設砲艦「八海山丸」に乗艦し南太平洋沖にて戦死した。享年25歳。山田太一脚本のドラマ「父の鎮魂歌」は小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を原作に東芝日曜劇場ドキュメンタリードラマとして平成4年に放送された。父親・信三のイメージを大切にしたいという小泉家の要望で、演ずる杉浦直樹は終始後ろ姿で登場する。

    昭和17年2月、重巡洋艦「那智」は南方攻略作戦支援任務のためスラバヤ沖海戦に参加した。小泉信吉(杉浦直樹)は初任務につく信吉(志村東吾)に次のような手紙を書く。

    「君の出征に臨んで言って置く。吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何より誇りとしている。僕は若し生れ替わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない」

   信吉の人柄は、自由闊達で、父・母(冨司純子)を尊敬し、二人の妹(有森也美、美栞了・旧芸名・小柴香織)を慈しみ、常に穏やかで寡黙の人だった。友人から武田信玄といわれていた。戦前期の昭和をドラマ化すると、当時の日本軍国主義を批判し、美化と誇張が目立つものが大半である。しかしこの「父の鎮魂歌」は、当時の限られた状況のなかで、ごく自然に父親の息子を偲ぶ心情がドキュメンタリードラマ風に仕上がっている。進行役に西田敏行、評論家・桶谷秀昭も解説者として登場。

2008年1月 1日 (火)

平清盛と市川雷蔵

    市川雷蔵(当時24歳)は、関西歌舞伎から映画界に入った翌年、溝口健二監督の「新・平家物語」(昭和30年)の主役に抜擢された。若武者雷蔵の迫力ある演技は新鮮で美しかった。ラストの名場面。雷蔵扮する平清盛が貴族の神輿に弓を放つ場面の撮影の時だった。衣裳係が手間取った。溝口はネチネチいじめることで有名だ。「早くしてください。夕陽が沈んだらこのシーンは撮れないんですよ」この時突然、これまで無言だった雷蔵がタンカを切った。「やかまし言うない。今日お日さんが沈んだら、明日は東から出てくるわい。明日撮ったらええやろ」溝口は「なにを言う」と小声で口ごもり、雷蔵の気迫に度肝を抜かれた。溝口はあとで「若いから元気よくて気持ちいいよ」とスタッフに言っていた。こうして雷蔵は天下の名監督との勝負に勝った。端役の歌舞伎役者にケリをつけて、映画界で青年平清盛を颯爽と演じ、スターの地位を確立したことは言うまでも無い。

   市川雷蔵、本名・亀崎章雄は昭和6年8月29日、京都市堀川丸太町で商社員の父・亀崎松太郎と商家出身の母・中尾富久との間に生れた。しかし生後6ヵ月で伯母夫婦である関西歌舞伎の市川九団次の養子となり、竹内嘉男と改名、15歳で市川筵蔵となり、さらに昭和26年市川壽海の養子となり、太田吉哉と改名、八代目市川雷蔵となる。もともと歌舞伎の血筋ではなく、養父が歌舞伎役者だあったため、亀崎章雄は竹内嘉男、太田吉哉と三度も改名することとなった。

   では、次の映画スターは誰だろう?

①中村鶴三

②大辺男

③門田潔人

④植木正義

⑤高橋照市

⑥加藤郁郎

⑦浅川善之助

⑧池端清亮

⑨有島行光

⑩小野榮一

⑪丹羽富成

⑫奥村利夫

⑬小田剛一

⑭小川錦一

⑮柴田吾郎

⑯佐野邦俊

      *

回答

①尾上松之助、②大河内伝次郎、③月形龍之介、④片岡千恵蔵、⑤嵐寛十郎、⑥古川緑波、⑦市川右太衛門、⑧上原謙、⑨森雅之、⑩鶴田浩二、⑪大川橋蔵、⑫勝新太郎、⑬高倉健、⑭中村錦之助、⑮田宮二郎、⑯里見浩太朗

あの娘の名まえを呼んでみたら

   「恋というもの知りたくて、あの娘の名まえを呼んでみたら、俺の心のかたすみを、冷たい夜風が吹きぬけた♪」(にしきのあきら「もう恋なのか」)

    男にとって女の名まえには、いとおしさ、せつなさがつきものです。「ひとみちゃん」(神戸一郎)、「江梨子」(橋幸夫)、「純子」(小林旭)、「順子」(長渕剛)、「SACHIKO」(ばんばひろふみ)とヒット曲も多数ある。そこで美人女優の本名を調べてみた。むかしの女優は「100メートル先から見ても、実にきれいだ」という伝説の美女ばかりを集めた。次の本名は誰でしょう?

①会田昌江

②平山秀子

③西山都留子

④旭爪明子

⑤河野美保子

⑥加治信子

⑦香川阿都子

⑧大鷹淑子

⑨倉成直子

⑩牧野香子

⑪浅井信子

⑫富沢住恵

⑬加藤和枝

⑭坂爪セツ子

⑮菱田美恵子

       *

①原節子、②高峰秀子、③轟夕起子、④月丘夢路、⑤越路吹雪、⑥乙羽信子、⑦浜木綿子、⑧李香蘭、⑨津島恵子、⑩香川京子、⑪浅丘ルリ子、⑫桂木洋子、⑬美空ひばり、⑭若山セツ子、⑮丘さとみ

2007年12月30日 (日)

大奥ブームと「篤姫」

    吉屋信子の「徳川の夫人たち」が昭和41年から43年まで朝日新聞に連載され大奥ブームを作るきっかけとなった。映画では東映が昭和42年「大奥秘物語」(佐久間良子、山田五十鈴、藤純子主演)、「続・大奥秘物語」(小川知子・緑魔子主演)、昭和43年「大奥絵巻」(佐久間良子、淡島千景、大原麗子主演)で興行的成功を収めた。フジテレビでも昭和43年、昭和58年と「大奥」を放送した。平成15年の「大奥」では菅野美穂が天璋院篤姫を演じ、池脇千鶴、浅野ゆう子らが主演して、平成の大奥ブームが再燃した。平成16年に「大奥第一章」(松下由樹主演)、平成17年に「大奥華の乱」(内山理名、藤原紀香、小池栄子主演)で女の嫉妬、憎悪、陰湿なイジメ、ドロドロの陰謀が人気を呼んだ。NHK大河ドラマもこの「大奥ブーム」に便乗したかたちで「篤姫」がいよいよ登場する。幕末の動乱期、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定の正室として大奥を統率した天璋院篤姫(1836-1883)。ピュアなイメージのある宮崎あおいがいかに幕末の尼将軍といわれた篤姫を演じるかに注目が集まる。

   大奥とは、江戸城中で将軍の御台所と側室の住居。江戸城総面積1万1千余坪の半分以上を、大奥が占める。政務の表と大奥の境の廊下は御錠口(御鈴口)と呼ばれ、銅板張りの大戸が立てられ「此より内男入る可からず」という紙札が掲げられていた。大奥に入れる男は将軍ただ一人だった。大奥には下働きまで含めれば約1千人の女性がいた。7、8人の側室がいるのがふつうで、最多の11代将軍家斉には21人の側室がいた。将軍の正室は公家や親王家から選ばれ、お付きの女中も多かったから、大奥での生活は京都風で、落語の「たらちね」さながらの状況だったという。

2007年12月29日 (土)

嘆きの天使

     ラート(エミール・ヤニングス)は、中年をすぎた堅物の独身教師。学校と下宿を往復する以外の世界を知らなかった。ある日、学生が落としたエロ写真から、補導上、キャバレーへ自ら乗り込む。

   灯に身を焦がす  蛾のように

   私は男を狂わす  根無し草

    そこには学生たちの人気者の歌姫ローラ・ローラ(マルレーネ・デートリッヒ)がいた。そして、妖艶なローラの部屋へ案内されたラートは、すっかり彼女の魅力に心を奪われてしまった。翌日の夜も、ラートはキャバレーへ行き、その夜は下宿へも戻らなかった。翌日、学生たちはラートをひやかした。彼は学生たちをどなりつけたが、学生たちは騒ぎたて、授業をボイコットした。これがもとで学校を退学したラートはローラと結婚し、一座と旅回りに出た。だが、一座の経営は思わしくなく、たくわえを使い果たしたラートは、妻のヌード写真を酒場で売り歩くまでに落ちぶれた。座長キーぺルト(クルト・ゲロン)はラートを道化役にしたてることにした。商売に抜け目のない座長は、落ちぶれたラートが教鞭をとっていた高校のある町へ乗り込んだ。道化姿のラートの前には、自分が手塩にかけた学生たちが見物していた。しかも、舞台裏ではローラが若い男と接吻していた。これを知ったラートはローラにつかみかかったが、一座の者にたたきのめされた。絶望したラートは雪の降る町に逃げた。翌朝、高校の教室で道化姿のラートが死んでいた。

    原作はハインリッヒ・マンの小説「ウンラート教授」。「ウンラート」とはダメ教授という意味があるらしい。世紀末ドイツでは、デカダンスとファム・ファタール(宿命の女)が流行し、蟲惑的な魔性の美女が中年男を惑わす話が好まれた。

    「嘆きの天使」は、1930年、ジョゼフ・フォン・スタンバーグで映画化されるや、デートリッヒの脚線美によって全世界に衝撃の嵐を呼んだ。しかし、この映画をナチスは退廃芸術という理由で上映禁止処分にした。キーぺルトを演じたユダヤ人俳優クルト・ゲロンもアウシュビッツの収容所で殺された。

「夢千代日記」に見る女性美

   ドラマの舞台となった山陰・湯村温泉荒湯の近くには吉永小百合がモデルとなった「夢千代像」がある。NHKドラマ「夢千代日記」(早坂暁脚本、深町幸男演出)によって、吉永小百合=夢千代=芸者というイメージが一般には広まったような感がする。しかし5話連続の最初の作品を見たかぎり、夢千代(吉永小百合)ほど芸者らしくない芸者はないないという印象を持った。民謡「貝殻節」を踊るシーンは何度もあるが、客と親しく話すとか、酌をするというシーンはほとんど無かった。インテリ芸者で笑顔もなく、はかなげで寂しそうである。清純派・吉永小百合ほど芸者が似合わない女優もめずらしい。思えば日本映画の大女優はほとんど芸妓が似合う。酒井米子、柳さく子、八雲恵美子、梅村蓉子、田中絹代、飯塚敏子、山田五十鈴、花柳小菊、淡島千景、山本富士子。日本情緒をかもし出す芸者役ができて看板女優であった。吉永が「伊豆の踊子」を演じたときも、利発そうな吉永が、字がよめないカオル役で学生に文字を聞くシーンなど不自然だという声をきいたことがある。現代的、健康的、聡明という優等生イメージの強い吉永が、古風な女、病弱、暗い、という孤独で哀しい女をいかに演じるかに興味の大半がそそがれる作品なのである。聖女としての夢千代を鮮明にするためには、対照的な女優を配する必要がある。小悪魔的な緑魔子、秋吉久美子であり、若い大衆演劇の男と駆け落ちをするプレイガールの大信田礼子を配し、聖の対比である俗を印象づける。注目すべきは、芸者置屋の下働きを演じた夏川静江の存在であろう。古風な女優の多い戦前の日本映画界にあって、理知的で近代的な印象のある女優であった。また、さびれたストリップ小屋に流れる暗い70年代のアングラソングも効果的である。「私の名は朝子です。歳は18、身長は163センチです。自分では綺麗な方だと思っています。今、髪は短いですが、じき長くなると思います。お酒はまだあまりのめませんが、ブルースとタンゴくらいは踊れます」というナレーションで緑魔子のストリップショーが始まる。場末のさびしさや惨めさがよく表現されている演出であろう。

   日本では明治以来、男性が描く理想的な女性像として、近代的でバタくさくハイカラな女性美に憧れることと、竹久夢二の描く大正美人に憧れることが、絶えず繰り返えしている。女性崇拝で知られる谷崎潤一郎が「痴人の愛」でナオミを描き、古典回帰後に「蘆刈」「春琴抄」「細雪」で日本的女性美を讃美したことなど典型例であろう。ドラマ「夢千代日記」は近代的女性・永井左千子が運命ゆえに芸者となり、たえず死の影につきまとわれながら生きていくという、孤独な女の人生を場末の猥雑な人間模様の中で描いている。吉永小百合の美しさを際だつことに成功した数少ない作品であろう。

2007年12月27日 (木)

夢千代日記

   いまBS放送で5夜連続「夢千代日記」(1981年)を放送している。山陰の陰鬱なムードの中で、とらえどころのないストーリーの展開である。吉永小百合主演、そして名作という予備知識がないと見ていないかもしれない。本日、第4話が終わった。「ドラマ人間模様」と題するだけあって、次々と多彩な人物が登場する。主人公、置屋「はる屋」の女将・夢千代(吉永小百合)の被爆も第4話の暴力団の沼田(草薙幸二郎)の話しでようやくわかった。山根刑事(林隆三)が張り込んでいた殺人犯・市駒(片桐夕子)も自首したことによって、ストリーの大筋がほぼ見えてきた。金魚(秋吉久美子)、千代春(楠トシエ)、菊奴(樹木希林)、小夢(中村久美)、ストリッパーのアサ子(緑魔子)、ほかに大信田礼子、田島令子、夏川静江、加藤治子などなど絢爛たる女優陣と、中条静雄、長門勇、ケーシー高峰というベテラン個性派男優陣を配している。吉永小百合という日本を代表する美人女優を共演させるにあたって相当な異色で大胆なキャスティングであったと思えるが、それが大成功している。吉永小百合は国民から優等生を求められる女優であるだけに、役柄には限界が生じる。その分を個性的な共演者を散りばめることによって、一見喜劇と思えるようだが、いっそう美しいヒロインの悲しみ、孤独感が強められ、深まっている。まるでモーパッサンの悲観とバルザックの人間喜劇を合わせたような作品構成であり、脚本家の早坂暁の独創性には脱帽する。しかしこの「夢千代日記」は、いわゆるグランドホテル形式といわれるもので、あまり新しい手法ではない。もともとグレタ・ガルボがあまりに美しすぎて映画が通俗的なメロドラマになるので、一流ホテルを舞台にさまざまな客の人間模様を描いたところ大成功した。グランドホテル形式には、「大空港」「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」「タイタニック」など事故ものが多いが、日本海にある淋しい温泉場を舞台にした良質のグランドホテル形式は高く評価してよい。(この作品はすでに高く評価されてますね)

   今年「女性の品格」が流行語にもなったが、吉永小百合はまさにこの「夢千代日記」によってアイドル女優から、一女性の哀しみ、孤独感を表現できる女優となったように思う。昭和20年生まれという吉永は、沖縄戦、原爆などの社会の問題にも積極的に関わり、自らの生と人に対する優しさを持ち続けて、まさに女性の品格の体現者となりつつある。山田洋次監督の新作にも期待したい。

2007年12月24日 (月)

美女と老婆

    女性のなりたい顔ベストランキングというのがある。すこし古いデータだが(2003年10月)韓国でのベストテンは以下のとおり。

    第1位はキム・ハヌル(「彼女を信じないでください」)4206票、第2位はソン・イエジン(「私の頭の中の消しゴム」)3210票、第3位はチェ・ジウ(「エアポート」)1580票、第4位はキム・ナムジュ(キム・スンウと結婚)、第5位はイ・ヨンエ(「親切なクムジャさん」)、第6位はソン・ヘギョ(「ファン・ジニ」)、第7位はキム・ヒソン(「悲しき恋歌」)、第8位はパク・ソルミ(「黄金のリンゴ」)、第9位はキム・ソヨン(「イブのすべて」)

    4年前の統計なので、現在ならキム・テヒ、ハ・ジウォン、ハン・ジヘ、ハン・ジミン、ナム・サンミや若手のハン・ヒョズ(「春のワルツ」)、ソン・ジヒョ(「朱蒙』)、パク・シネ(「「天国の樹』)、ユン・ウネ(「宮」)、キム・オクビン(「こんにちは神様」)などが台頭しているかもしれない。

   ところで、男性から見て意外に思えるのは、韓国を代表する美人といえば、キム・ヒソンかイ・ヨンエであろうが、なんとこれら正統派美人女優を抑えて、なごみ系、いやし系のキム・ハヌルがダントツの1位だったことである。おそらく、韓国女性は、あまりキレイキレイでなく、ほどほどを選択したのであろう。この結果には、当然との声もあり、「やっぱりハヌルでしょう」「同じ女でも、かわいいと感じる」と同性から好かれる人柄に人気が集中したようだ。

    これに比べると、日本女性は、なんとストレートにズバリ顔で選んでいる。「月刊デ・ビュ10月号」(オリコン・エンタメント)では1000人の女性を対象として「なりたい顔の女性芸能人」アンケートを実施した。

    第1位は沢尻エリカと新垣結衣、第3位は宮崎あおい、第4位は長澤まさみ、第5位は香里奈、第6位は浜崎あゆみ、第7位はリア・ディソン、第8位は蛯原友里、第9位は綾瀬はるか、第10位は松嶋菜々子と柴咲コウ。

    沢尻エリカが第1位の理由としては、「肌がきれいで顔型もきれい」「目鼻立ちがハッキリしている」「エキゾチックな風貌」「美人であり可愛い」「清純さと小悪魔的セクシーさを併せ持つ」という点に人気が集中した。やはり今年一番話題をふりまいた女優はエリカ様だった。

    エリカの魅力のポイントである「小悪魔」というキーワードで思い出すことがある。ケペルが学生の頃、銭湯の脱衣場に封切り映画のポスターがズラリと貼ってあった。緑魔子という女優はまさに小悪魔的魅力の象徴で、主演映画のポスターを眺めていたが、残念なことに映画は一度も見ずにおわった。ところがなんとNHK大河ドラマ「風林火山」の終盤の回に彼女が登場していた。川中島の決戦をしらす貪欲な老婆の役である。もちろん彼女の目はありし日の美貌を伝えるものの、多くの視聴者はただの奇怪な老婆にしか見えないであろう。女優というのは、いろいろの役を演じることで結構楽しんでいるのかもしれない。

霧笛が俺を呼んでいる

    昭和30年代、日活はタフガイ石原裕次郎を筆頭に、マイトガイ小林旭、そして「第三の男」として赤木圭一郎(1939-1961)を売り出した。都会的な甘いマスクで憂いを感じさせた「トニー」はまたたくまに人気スターとなった。(愛称の由来は、西河克巳監督がトニー・カーティスに似ていると感じたことからきている)

   赤木圭一郎の代表作のひとつ「霧笛が俺を呼んでいる」(山崎徳次郎監督、昭和35年)。すずらん丸のエンジンが故障して港に着いた航海士・杉敬一(赤木圭一郎)は旧友の浜崎(葉山良二)を訪ねる。が、杉は浜崎が2週間前に突堤で溺死体で発見されたことを知る。杉は浜崎の恋人美也子(芦川いづみ)とバンドホテルで会う。杉は森本刑事(西村晃)から浜崎が麻薬の売人だったと知らされる。実は浜崎は生きていた。浜崎は麻薬を持ち出し逃亡しようとする。それを知った渡辺(二本柳寛)一味は浜崎を殺そうとする。赤木は浜崎に自首をすすめる。しかし浜崎はビルの非常階段から転落死する。

   ストーリーは、もちろんキャロル・リードの名作「第三の男」そのままであるのはご愛嬌。アメリカ人の作家ホリーが赤木で、ハリー・ライムが葉山で、アンナが芦川であろう。石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」がハンフリー・ボガートの「カサブランカ」の翻案であるのと同様、映画ファンのお楽しみでもあるのだ。

    原作の「第三の男」に無い登場人物は難病の美少女。まだ少女の面影を残す吉永小百合が葉山良二の妹役で登場しているが、添え物的であり、ヒロインはやはり芦川いづみである。スカーフをした芦川の憂いに満ちた表情は美しい。霧の流れる波止場でのラストシーン。芦川が「これから私は北海道へ行きます。あなたはどこへいらっしゃるの」と聞くと、「そうさなぁ。なんだか霧笛が俺を呼んでいるような気がするぜ。霧笛にでも聞いてくれよ」という気障なセリフも、赤木圭一郎だからサマになる。赤木ほど「マドロス」が似合うスターはいない。実際に赤木は海への憧れやみがたく、当時の東京商船大学を受験している。失敗して成城大学に入学し、日活第4期ニューフェースとして入社。この映画が撮影された頃の東京は安保闘争で混乱していた。

    昭和35年6月15日、赤木(当時大学在学中だった)はスポーツカーを運転して日活撮影所に向かう途中、安保反対のデモ隊に遭遇した。赤木は撮影所のテレビでデモの様子を熱心に見つめていたと、共演者の西村晃は語る。そして赤木は西村に頼んで、9日後の樺美智子の追討デモに参加している。「こんな時に、ピストルごっこなんかやっていていいのかな?」と赤木は同じ大学生として感想を周囲にもらしたという。翌年、赤木圭一郎はゴーカートによる激突事故で21歳の短い生涯を閉じる。

   共演者の吉永小百合は後年、次のように語っている。「撮影所だけが私の世界だったのです。そこで好意を持ったり、初恋とも呼べる感情を抱かなかったと言えば、うそになります。でも、そこに踏み込んでいくほど積極的に恋愛を考えませんでしたし、忙しさの中で私はみたされていたのかも知れません」(「現代」1996.3)この15歳のスターレット吉永小百合の初恋の相手とは誰であろう。おそらくは、憧れのスター、赤木圭一郎ではないだろうか。

2007年12月20日 (木)

三波春夫と美空ひばり

   大晦日のNHK紅白歌合戦の曲順が発表され、大トリを五木ひろし、トリを石川さゆりが勤めるという。ところで「トリを取る(最後に高座にあがる)」というのは、もともと落語、講談、義太夫、浪花節などの寄席でつかわれた言葉である。落語家には、前座・二ッ目・真打という三段階のランクがある。技量のすぐれた出演者が一日の最後の演目をしめくくる責任を持つことから、最後の出番を勤めることを「トリを取る」といい、その実力のある噺家を「真打ち」というようになった。しかし今日、ニュースなどでよく耳にするのは、紅白歌合戦の最後の出演者、つまり歌手の誰がその年の「トリを取る」かに関心が集まるようだ。

   紅白歌合戦でのトリといえば美空ひばり(1937-1987)と三波春夫(1923-2001)の対戦が思い出される。まさに歌謡曲黄金時代の年の締めくくりに相応しい豪華なショーであった。

昭和38年「哀愁出船」「佐渡の恋歌」

昭和39年「柔」「俵星玄蕃」

昭和41年「悲しい酒」「紀伊国屋文左ェ門」

昭和42年「芸道一代」「赤垣源蔵」

   過去4度の対戦があったが、昭和38年は81.4パーセントで最高視聴率を記録した。昭和41年の対戦は三波春夫が大トリを取り「豪商一代紀伊国屋文左衛門」(作詞・北村桃児、作曲・長津義司)を熱唱した。この歌は三波の持ち歌のなかでもとくに所要時間が長い歌謡浪曲である。

  沖の暗いのに白帆がサー見ゆる

  あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ

  みかん船じゃ エー

  八重の汐路に 広がる歌が

  海の男の 夢を呼ぶ

  花のお江戸は もうすぐ近い

  豪商一代 紀の国屋

  百万両の 船が行く

2007年12月 8日 (土)

第58回紅白歌合戦出場歌手人名録

   紅白初出場歌手「有原栞菜」の名前が読めますか?若い人は常識なんでしょうね。答えは、この記事の最後にあります。   

   ところで、TVで見た紅白歌合戦の初出場者が、ほとんど見知らぬ歌手が大勢いるのを奇怪に感じたが、そのうち多くは「AKB48」という秋葉原を拠点とするアイドルグループだった。同グループ内に佐藤という同姓(佐藤亜美菜、佐藤夏希、佐藤由加理)が3人もいる。

    この顔ぶれをみてみると、紅白の対決というよりも、つんくvs秋元康の紅組の楽屋対決ではないだろうか。

紅組

aiko

秋元才加(AKB48)

阿久津博子(ミヒマルGT)

綾香

有原栞菜(キュート)

アンジェラ・アキ

石川さゆり

板野友美(AKB48)

井上奈瑠(AKB48)

梅田彩佳(AKB48)

梅田えりか(キュート)

浦野一美(AKB48)

大江朝美(AKB48)

大島麻衣(AKB48)

大島優子(AKB48)

大塚愛

大堀恵(AKB48)

岡井千聖(キュート)

岡村孝子(あみん)

奥真奈美(AKB48)

小野恵令奈(AKB48)

柏木由紀(AKB48)

河西智美(AKB48)

片山陽加(AKB48)

加藤晴子(あみん)

亀井絵里(モーニング娘。)

川崎希(AKB48)

川中美幸

菊地彩香(AKB48)

久住千春(モーニング娘。)

熊井友理奈(ベリーズ工房)

倉持明日香(AKB48)

香西かおり

倖田來未

小嶋陽菜(AKB48)

伍代夏子

小林香菜(AKB48)

小林幸子

駒谷仁美(AKB48)

佐伯美香(AKB48)

早乙女美樹(AKB48)

坂本冬美

佐藤亜美菜(AKB48)

佐藤夏希(AKB48)

佐藤由加理(AKB48)

篠田麻里子(AKB48)

ジュンジュン(モーニング娘。)

須藤茉麻(ベリーズ工房)

清水佐紀(ベリーズ工房)

菅谷梨沙子(ベリーズ工房)

鈴木愛理(キュート)

高橋愛(モーニング娘。)

高橋みなみ(AKB48)

多田愛佳(AKB48)

田中れいな(モーニング娘。)

田名部生来(AKB48)

嗣永桃子(ベリーズ工房)

出口陽(AKB48)

天童よしみ

徳永千奈美(ベリーズ工房)

戸島花(AKB48)

中川翔子

仲川遥香(AKB48)

中島早貴(キュート)

中島美嘉

中西里菜(AKB48)

中村正人(ドリームズ・カム・トゥルー)

中村中

中村美律子

仲谷明香(AKB48)

長山洋子

夏焼雅(ベリーズ工房)

成田梨紗(AKB48)

成瀬理沙(AKB48)

新垣里沙(モーニング娘。)

野口玲菜(AKB48)

野呂佳代(AKB48)

萩原舞(キュート)

浜崎あゆみ

早野薫(AKB48)

一青窈

平嶋夏海(AKB48)

平原綾香

BOA

前田敦子(AKB48)

増田有葉(AKB48)

松岡由紀(AKB48)

松原夏海(AKB48)

水森かおり

道重さゆみ(モーニング娘。)

光井愛佳(モーニング娘。)

峯岸みなみ(AKB48)

三宅光幸(ミヒマルGT)

宮澤佐江(AKB48)

矢島舞美(キュート)

吉田美和(ドリームズ・カム・トゥルー)

米沢瑠美(AKB48)

リア・ディソン

リンリン(モーニング娘。)

和田アキ子

渡辺麻友(AKB48)

白組

秋川雅史

石井竜也(米米クラブ)

五木ひろし

稲垣吾郎(スマップ)

ウエンツ瑛士(WaT)

宇佐美吉啓(エクザイル)

大久保謙作(米米クラブ)

大橋卓弥(スキマスイッチ)

緒方龍一(ウィンズ)

岡野昭仁(ポルノグラフィティ)

小野田安秀(米米クラブ)

Gackt(神威楽斗)

香取慎吾(スマップ)

金子隆博(米米クラブ)

北島三郎

北山たけし

木村拓哉(スマップ)

草彅剛(スマップ)

黒澤良平(エクザイル)

黒田俊介(コブクロ)

小池徹平(WaT)

国分太一(トキオ)

小渕健太郎(コブクロ)

坂口良治(米米クラブ)

さだまさし

佐藤篤志(エクザイル)

城島茂(トキオ)

新藤晴一(ポルノグラフィティ)

すぎもとまさし

田崎敬浩(エクザイル)

橘慶太(ウィンズ)

千葉涼平(ウィンズ)

常田真太郎(スキマスイッチ)

寺尾聰

徳永英明

得能律郎(米米クラブ)

鳥羽一郎

中居正広(スマップ)

長瀬智也(トキオ)

馬場俊英

林部直樹(米米クラブ)

氷川きよし

平井堅

布施明

前川清

眞木大輔(エクザイル)

槇原敬之

松岡昌宏(トキオ)

松本利夫(エクザイル)

美川憲一

森進一

山口達也(トキオ)

                  *

クイズの正解。有原栞菜(ありはらかんな)。最近、「栞菜」という女子の名前はちょっと流行みたいです。

2007年12月 7日 (金)

懐かしの「紅白歌合戦 昭和38年」

    NHKは第58回紅白歌合戦の出場歌手を発表した。初出場歌手の顔ぶれを見てもなじみがない。ちなみに最高視聴率81.1パーセントだった第14回(昭和38年)の50組の歌手は皆知っている。

紅組

司会・江利チエミ、弘田三枝子「悲しきハート」、仲宗根美樹「奄美恋しや」、松山恵子「別れの入場券」、雪村いづみ「思い出のサンフランシスコ」、こまどり姉妹「浮き草三味線」、坂本スミ子「テ・キエロ・ディヒステ」、高石かつ枝「りんごの花咲く町」、楠トシエ「銀座かっぽれ」、江利チエミ「踊り明かそう」、トリオこいさんず「いやーかなわんわ」、吉永小百合「伊豆の踊子」、朝丘雪路「永良部百合の花」、島倉千代子「武蔵野エレジー」、畠山みどり「出世街道」、西田佐知子「エリカの花散るとき」、越路吹雪「ラスト・ダンスは私に」、スリー・グレイセス「アイ・フィール・プリティ」、倍賞千恵子「下町の太陽」、三沢あけみ「島のブルース」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、ペギー葉山「女に生れて幸せ」、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」、五月みどり「一週間に十日来い」、中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり「キューティパイ・メドレー」、美空ひばり「哀愁出船」

白組

司会・宮田輝、田辺靖雄「雲に聞いておくれ」、守屋浩「がまの油売り」、北島三郎「ギター仁義」、アイ・ジョージ「ダニー・ボーイ」、和田弘とマヒナスターズ「男ならやってみな」、ジェリー藤尾「誰かと誰かが」、三浦洸一「こころの灯」、森繁久彌「フラメンコかっぽれ」、立川澄人「運がよけりゃ」、ボニー・ジャックス「一週間」、北原謙二「若い明日」、田端義夫「島育ち」、三橋美智也「流れ星だよ」、村田英雄「柔道一代」、橋幸夫「お嬢吉三」、フランク永井「逢いたくて」、ダーク・ダックス「カリンカ」、芦野宏「パパと踊ろう」、舟木一夫「高校三年生」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、旗照夫「史上最大の作戦マーチ」、デューク・エイセス「ミスター・ベイスマン」、春日八郎「長崎の女」、植木等「どうしてこんなにもてるんだろう・ホンダラ行進曲」、三波春夫「佐渡の恋唄」

          *

   最多出場44回の北島三郎はこの年「ギター仁義」で紅白初出場する。昭和38年出場歌手で今年も選ばれたのは北島ただ一人である。多くの人気歌手の中で北島への拍手は少なかった。あの時、誰が今日を想像できただろうか。芸能界の浮き沈みは予測不可能なのだ。

 この年の大ヒット曲はもちろん「こんにちは赤ちゃん」である。また低迷期を脱した美空みばりが「哀愁出船」(昭和38年)、「柔」(昭和39年)、「柔」(昭和40年)、「悲しい酒」(昭和41年)、「芸道一代」(昭和42年)、「熱禱(いのり)」(昭和43年)、「別れてもありがとう」(昭和44年)、「人生将棋」(昭和5年)、「この道を行く」(昭和46年)、「ある女の詩」(昭和47年)と10年連続をトリをつとめたスタートの年であった。そして美空ひばりがトリだった昭和47年の紅白の視聴率80.6パーセントを最後に、二度と80パーセントの大台に乗ることはなく、逓減傾向は顕著になっていった。

   ケペルはあの頃は子供だったが、市場で商売をしていたので、大晦日は稼ぎ時でいつもより遅くまで店をあけていた。9時5分に紅白が始まったが、まだ店のあとかたずけやら、天上から吊り下げられたモールの撤去やらで、なかなかテレビの紅白が見られないのでラジオから流れる紅白を聴いていた思い出がある。

2007年12月 3日 (月)

カレンダー女優の近況

   師走になると書店では来年のカレンダーが並んでいる。古くなったカレンダーは捨ててしまうだろう。しかし収集癖のあるケペルはカレンダーを破らず保存しておく。あとで懐かしい自分だけのコレクションになる。1994年の東宝東和スターカレンダーが倉庫からでてきた。表紙はアリッサ・ミラノ、1月はジャニン・ターナー、2月はダイアン・レーン、3月はブリジット・フォンダ、4月はアリッサ・ミラノ、5月はブルック・シールズ、6月はコン・リー、7月はシャロン・ストーン、8月はミラ・ジョヴォヴィッチ、9月はジェニファー・ティリー、10月はマリー・ジラン、11月はリンダ・ハミルトン、12月はジェーン・マーチ。14年前という、ちょっと懐かしめなのがいい。

    アリッサ・ミラノ。「コマンドー」(85)でシュワルツェネッガーの肩にちょこんと乗っていた少女も今では35歳の女ざかり。90年代にはセクシー路線に転じて、TV「チャームド」の再放送などでお馴染み。

   ミラ・ジョヴォヴィッチ(32歳)はリュック・べッソン監督の作品で女優として開眼し、いまでは「バイオハザード」のシリーズでアクション女優の大スターとなった。

   コン・リー(42歳)は「中国の山口百恵」といわれたほどの国民的女優。チャン・イーモウ監督に見出され「赤いコーリャン」(88)「菊豆」(90)「紅夢」(91)「秋菊の物語」(92)など名作多数。1996年にはシンガポールの煙草会社の大富豪と結婚。チャン・ツィイーとともに「SAYURI」(05)などに出演しアジアを代表する国際的女優として活躍している。

    ダイアン・レーン(42歳)は「リトルロマンス」(79)で可憐な美少女スターだったが、フランシス・コッポラ監督に認められ「ランブルフィッシュ」(83)「コットンクラブ」(84)に出演。近年は「トスカーナの休日」(03)など大人の演技派女優として活躍している。

   リンダ・ハミルトン(51歳)は、「ターミネーター」(84)のサラ・コナー役を好演。近年はTV出演で新作映画がないのが残念である。

   シャロン・ストーン(49歳)は「氷の微笑」(92)「硝子の塔」(93)でセックス・シンボルとなった。出演作も多く、チャリティ活動でも知られる。

    ブルック・シールズ(42歳)は「プリティ・ベイビー」(78)「青い珊瑚礁」(80)「エンドレスラブ」(81)と「エリザベス・テーラーを凌ぐ美貌」と絶賛された。その後は肥満とリズと同じコースをたどるが、近年はTVや舞台で活動しているという。

   ブリジット・フォンダ(43歳)は、祖父がヘンリー・フォンダ、父がピーター・フォンダというフォンダ一家の三代目。「アサシン」(93)で注目されたが、作曲家ダニー・エルフマンと03年に結婚、一児の母である。

    マリー・ジラン(32歳)は、ジェラール・ドパルデューと共演した「さよなら、モンペール」(91)でデビューし、シャルロット・ゲンズブール以来のフランス映画界の美少女アイドルとして騒がれた。「ひとりぼっちの狩人たち」(95)でロミー・シュナイダー賞を受賞。「アンネの日記」などの舞台にも出演。近作は「美しき運命の傷跡」(05)

    ジェーン・マーチ(34歳)は「愛人ラマン」(92)で映画デビュー。「薔薇の素顔」(94)の大胆な演技も話題になった。「ドラキュラ・イン・ブラッド血塗られた運命」(00)でルドルフ・マーティンと共演。「ザ・ヴァイキング」(03)では主演している。

    ジェニファー・テリー(49歳)は白人と中国人との混血。「恋のゆくえ」(89)「ゲッタウェイ」(94)

    ジャニン・ターナー(45歳)は「クリフハンガー」(93)でシルベスター・スタローンの恋人ジェシー役で出演。

    いずれにせよ12人の美女たちはみなさん、ご健在で活躍中とのことです。

2007年12月 2日 (日)

老優の活躍にも注目を

   ケペルはいまでも洋画雑誌を毎月購読している。ジョニー・デップ、ブラッド・ピット、ダニエル・ラドクリフ、オーランド・ブルーム、など旬の人気スターには正直ほとんど興味がない。昔はすみずみまで読んだのにここ何年かはパラパラめくるだけ。映画館にも行かない。遅れてテレビで見る。

   「るい」さんからのコメントでピーター・オトゥールの主演映画「ビィーナス」(2006)を初めて知る。75歳で現役。今年の主演映画は「スターダスト」「ザ・クリスマス・コテッジ」の2本。「アラビアのロレンス」で共演したオマー・シャリフ(75歳)も「オーシャン・オブ・ファイヤー」(2004)で復活した。70年代、セクシーなアクションスターで人気だったバート・レイノルズ(71歳)は難病、離婚、自己破産と低迷していたが「ブギーナイツ」(1997)で再起し、活躍している。

    こうして洋画界を見ると現役で活躍の大スターはまだまだいる。その筆頭格はクリストファー・リー(85歳)。ドラキュラ伯爵役のホラー映画で知られ、出演作は250本にも上る。クリント・イーストウッド(77歳)「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」などの活躍はご存知のとおり。マイケル・ケーン(74歳)も「サイダーハウス・ルール」(1999)以後も多数出演作がある。アメリカン・ニューシネマのスターたちも皆70歳近くなった。「明日に向かって撃て」のロバート・レッドフォード(71歳)、「卒業」のダスティン・ホフマン(70歳)、「真夜中のカーボーイ」のジョン・ボイド(69歳)、「イージー・ライダー」のピーター・フォンダ(67歳)、デニス・ホッパー(71歳)、「マッシュ」のドナルド・サザーランド(72歳)、「愛の狩人」のジャック・ニコルソン(70歳)などみなん現役スターである。

    個性派では、「コレクター」のテレンス・スタンプ(68歳)も渋い脇役で活躍している。二枚から喜劇に転じたレスリー・ニールセン(81歳)も息の長い俳優だ。美男スターのウォーレン・ビーティ(77歳)もアネット・ベニングと結婚して悠々自適。外国スターといえば日本ではアラン・ドロン(72歳)である。映画出演はないものの日本のテレビに出演したり、その存在感はいまだ健在である。

2007年11月24日 (土)

永山一夫と「ゼロ戦黒雲隊」

    ブーゲンビル島の南側にバラレ、ファウロ、ピエズなどのショートランド諸島がある。昭和18年4月18日午前7時30分過ぎ、連合艦隊司令長官・山本五十六は、ラバウル基地からバラレ島に赴く途中、米軍戦闘機の襲撃を受けた。午前7時50分頃、山本長官搭乗の一番機は、モイラ岬のジャングルに墜落、山本五十六以下11名は全員死亡。

   バラレ島は小さな島であったが昭和18年頃は、ここを根拠地として零戦の航空隊が活躍していた。そのような航空隊の活躍を描いたドラマ・映画・漫画は昭和30年代数多くつくられた。漫画では、ちばてつや「紫電改のタカ」、貝塚ひろし「零戦レッド」、九里一平「大空のちかい」、辻なおき「0戦はやと」「0戦太郎」。映画では、石原裕次郎の「零戦黒雲一家」、加山雄三の「ゼロファイター」「太平洋の翼」など。

   テレビドラマでは「ゼロ戦黒雲隊」(昭和39年)があった。加茂正人(亀石征一郎)隊長が南方最後の基地バラレ島に指揮官として赴任したのは、米軍の攻撃は日増しに激しくなる昭和18年のことであった。バラレを死守する40数名の部下たちはならず者の集団だった。隊員のなかでも中村甲太(永山一夫)はとくに乱暴者であった。加茂は中村と対立しながらも、やがて強い絆で結ばれ、「ゼロ戦黒雲隊」と敵に恐れられた強力な部隊を統率していった。

   永山一夫の俳優としての活躍はこの「ゼロ戦黒雲隊」をはじめとして「空手三四郎」、映画「日本暗黒史」「昭和残侠伝」など迫力のある演技が光った。永山はNHK番組「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ブーフーウー」の狼の声としても知られていた。

   永山一夫はテレビ初期に日本人に強烈な印象を残した俳優である。本名コン・ヒョンスン。永山は二人の子どもを連れて昭和46年10月24日、万景峰号で北朝鮮に帰国した。当時36歳で売れっ子の俳優の突然の帰国は週刊誌などでも大きく取り上げられた。「社会主義の祖国」「地上の楽園」と謳われ夢を抱いて北朝鮮に帰国したが、その多くは悲惨な現実に直面したという。しかし約9万人といわれる北朝鮮帰国者たちのその後の人生がどうであったかという詳しい情報はいまではわからないという。北朝鮮帰還事業を思うと、いまでも永山一夫のドスの聞いた声が耳に残る。フランク赤木が歌う「ゼロ戦黒雲隊」の主題歌。

  空が赤いぜ赤いぜ血潮の色だ

  雲が走るぜ走るぜ果て無く遠く

  行くぞ大空風切って

  翼ひとふりにっこり笑う

  ゼロ戦ゼロ戦黒雲隊

2007年11月 5日 (月)

流れる星は生きている

   「いま、日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、国家の品格を取り戻すことである」という数学者・藤原正彦の「国家の品格」は今でもよく読まれている。ところで藤原正彦の父・新田次郎(1912-1980)は、昭和18年満州国観象台(中央気象台)に高層気象課長しとて赴任した。その年、正彦は、次男として満州の新京で生まれた。昭和20年には、妹の咲子も生まれた。ところが、昭和20年敗戦により、新田次郎は抑留生活を送る。妻の藤原てい(当時26歳)は、長男正宏(6歳)、次男正彦(3歳)、長女咲子(1ヵ月)の3人の愛児を連れて想像を絶する苦難の末、満州から引き揚げた。この体験をもとにした小説「流れる星は生きている」は戦後の大ベストセラーとなった。昭和24年9月、大映作品で三益愛子(1910-1982)主演で映画化(小石栄一監督)され、劇中三條美紀が歌う主題歌「流れる星は生きている」(古関裕而・曲、藤原てい・詩)もヒットした。(ジャズ歌手池真理子の吹き替え)

    映画、小説とフィクションであるが、当時同じ体験をした日本人は多く、ほとんど事実であるかの如く、共感をもって迎えられた。

    藤村けい子(三益愛子)は三人の子を連れてようやく内地に引き揚げた。恋人と別れた堀井節子(三條美紀)も引揚者の一人だった。しかし内地の風は冷たく、肉親にも裏切られた。ようやく身を寄せた引き上げ寮には、かつての満州に宮原幸枝(羽鳥敏子)もいた。節子は幸枝の勧めで嫌々ながらキャバレーの歌手になる。けい子は製本屋で働く。長男の正一(大久保進)も靴みがきをして母を助ける。ところが次郎(佐藤勝彦)が養子に出されることを盗み聞きした正一と次郎は家出する。ようやく2人を探し出したときは、正一はジフテリアにかかっていた。けい子は診療費に窮して、身を売る決心をする。しかし、節子はこれを押しとめた。幸い善良な医師(徳川無声)のおかげで、次郎は一命をとりとめた。そして、けい子や節子が待ちに待った、良人や恋人の引き上げ船が入港するのはそれから間もなくのことであった。

    大映母もの映画といえば、三益愛子主演で計31作品が製作された。なかでも三條美紀との共演が思いで深い。「山猫令嬢」「母」「母紅梅」「流れる星は生きている」「母燈台」「母椿」「姉妹星」。三條美紀は時には「山猫令嬢」のようにセーラー服の女学生だったり、「流れる星は生きている」ではキャバレー歌手だったりで、三益愛子との関係は多彩である。いずれにせよ、昨今ブームの泣ける映画、韓国ドラマをはるかに超えたドラマチックな仕上がりである。宮原幸枝(羽鳥敏子)は満州で愛児を亡くし、帰国して身を売ってキャバレーで働く。三益愛子とは対照的な女の生き方として注目される。戦後スターの羽鳥敏子はこの頃池部良と結婚していた。かなり活躍した女優である。また「愛のスウィング」で戦後ジャズブームを築いた池真理子の歌声が聞けるのも楽しい。池真理子は世界的に知られる禅学者の鈴木大拙の長男・鈴木勝と結婚している。ジャズ歌手と禅、山岳小説と数学者、引き揚げ・靴磨きと品格、60年の歳月は日本人の戦後を物語っている。

2007年10月21日 (日)

白昼の死角

    映画「白昼の死角」(村川透監督、昭和54年)は高木彬光(1920-1995)の同名の小説を映画化したピカレスク・ロマン。戦後の混乱が続く昭和23年。東大生の隅田光一(岸田森)は鶴岡七郎(夏八木勲)、木島良助(竜崎勝)、九鬼善司(中尾彬)らと金融会社「太陽クラブ」を設立する。しかし闇金融疑惑で隅田は検挙され焼身自殺を遂げる。同志の非業の死を見た鶴岡は復讐を誓う。現行の法律の死角を突く完全なる経済犯罪者として鶴岡は蘇る。

    高木は昭和34年「黄金の死角」として「週刊スリラー」に連載したが、翌年カッパブックスに「白昼の死角」として改題し刊行した。小説の序盤に登場する隅田光一のモデルは光クラブ事件の山崎晃嗣(1923-1949)であることはよく知られている。ほかにも山崎をモデルにした小説としては、三島由紀夫「青の時代」、清水一行「産業集団」、北原武夫「悪の華」、田村泰次郎「大学の門」など多数あるが、高木作品が成功例といえるだろう。

    山崎晃嗣は大正12年、木更津に生まれた。父は市長を勤める医者の長男。木更津中学、一高、東大と進み、大学時代には17科目に優、3科目だけが良という秀才だった。この抜群の頭脳を生かして日医大3年生の三木仙也らと闇金融「光クラブ」を設立して、インフレに苦しむ中小企業に金貸しをはじめた。しかし昭和24年11月、資金繰りに困り、「貸借法、全て清算カリ自殺」と遺書を残して服毒自殺した。

    山崎は、翌日の行動プランを分刻みに記録していたというほど几帳面な性格であった。自分の合理主義をもって時代に挑戦することにあった。「人生は劇場だ。僕はそこで脚本を書き、演出し、主役を演じる」いわば劇場型人間。もっとも高木彬光「白昼の死角」では主役ではなく脇役である。山崎晃嗣は戦後社会が生んだアプレ・ゲールの典型であるが、山崎のエピゴーネンともいえる村上世彰、堀江貴文など現在においてもしばしば登場する。これまでも山崎の日記は出版されているが、大学ノート3冊に書かれた昭和21年ごろの日記が神田の古書店で出品され、いま話題になっている。

セーラー服と機関銃

   映画「セーラー服と機関銃」の撮影は昭和56年夏、薬師丸ひろ子の夏期休暇に合わせて、東京・新宿周辺でのロケが行なわれた。当時、薬師丸ひろ子は、東京都立八潮高等学校2年生で「野性の証明」「翔んだカップル」「ねらわれた学園」に続く4本目の主演作品だった。6月8日、ひろ子と相米慎二(1948-2001)監督との打ち合わせが青山のレストランであった。6月29日には、相米監督とともに脚本家の田中陽三との打ち合わせ。田中のひろ子の印象は「キ真面目な女の子に会ったという感じ。普通、あまり役者さんはいろんなこと言わないもんだけど、しっかり喋ってくれて、なんだか怒られてしまった気分です。マルッ!」と語る。6月30日、学校のテストを受けたあと、調布の日活撮影所で機関銃の試射、弾着テストを行なう。初めて機関銃をぶっとばしたひろ子は大きな目をさらに大きくして、「凄い!」とビックリ。7月6日、期末試験。この頃映画の準備は着々と進んでいた。7月17日、衣裳合わせ、本読みと撮影開始に向かって盛り上がってきた。7月22日、五反田の喫茶店リットーでクランク・イン。7月31日、ひろ子はこの日、機関銃発射の感じをつかむためクレー射撃場へ体験取材に行ったが、高倉健とバッタリ会う。8月11日、九段の暁星学園でロケ。高校生を中心にエキストラ300人を集めて、星泉を目高組組員が校門で待ち受けているシーン。8月18日、映画最大のヤマ場、浜口物産機関銃殴り込みシーン撮影。ひろ子の撃った火薬が弾けて砕け散ったビンの破片がひろ子の頬を襲った。すぐに救急病院に飛び込んだが、左頬に1センチ弱の傷になってしまった。翌日、撮影中止。8月20日、絆創膏をとり、撮影再開。8月27日、伊豆ロケ。ひろ子は夏休みの宿題の追い込み。「80%くらいしかできなかった」と情けない顔をする。9月6日、クレーンに吊るされてコンクリート漬けにされるシーン。9月7日、これもハイライトであるキスシーンを撮る。何度かためらった末の撮影。9月13日、暴走族シーンを撮り終えて、後はラストシーンを残すだけ。ひろ子の体調は最悪。9月15日、伊勢丹新宿店の前で、地下鉄通風口からの風でスカートをひらめかせるシーン。ついにクランク・アップ。ロケ・バスに戻りひとりで大声で泣く。10月には、主題歌「セーラー服と機関銃」(詩・来生えつこ、曲・来生たかお)、EP盤B面「あたりまえの虹」をレコーディング(KRS)。11月30日、フジTV「夜のヒットスタジオ」に生出演。当日の出演者は松田聖子、沢田研二だった。12月17日、TBS「ザ・ベストテン」出演。12月19日、映画は全国東映系で公開。丸の内、渋谷、新宿の舞台挨拶。映画は大ヒツトとなり、機関銃を撃った後に吐く台詞「カ・イ・カ・ン」は流行語となる。主題歌も爆発的ヒット。ひろ子の歌い方は何か学校の音楽の時間を思い出す。アイドル歌手としては天地真理以来のファルセット唱法で新鮮であり、清潔感、透明感があった。(参考:「薬師丸ひろ子フォトメモワールPart3」富士見書房)

  さよなら別れの

  言葉じゃなくて

  再び逢うまでの

  遠い約束

  現在を嘆いても

  胸をいためても

  ほんの夢の途中

  このまま何時間でも

  抱いていたいけど

  ただこのまま 冷たい頬を

  あたためたいけど

  都会は秒刻みの

  あわただしさ

  恋もコンクリートの

  籠の中

  君がめぐり逢う

  愛に疲れたら

  きっともどっておいで

  愛した男たちを

  想い出にかえて

  いつの日にか

  僕のことを

  想い出すがいい

  ただ心の 片隅にでも

  小さくメモして

  スーツケース

  いっぱいに つめこんだ

  希望という名の

  重い荷物を 君は軽々と

  きっと持ち上げて

  笑顔見せるだろう

  愛した男たちを

  かがやきにかえて

  いつの日にか

  僕のことを

  想い出すがいい

  ただ心の 片隅にでも

  小さくメモして

2007年10月11日 (木)

ぬげた草履

    昭和40年7月15日、中島さと子(1904-1974)は、ある婦人雑誌の企画「新時代の嫁と姑」というテーマで女優の左幸子と対談をした。その頃、さと子は4年前に書いた「咲子さんちょっと」がドラマ化され原作本もベストセラーとなり、文筆業で忙しくなっていた。夫の中島菊夫(1897-1962)はすでに3年前に他界していた。その日は真夏のこととてクーラーがよく効いていた。本題以外の雑談や食事もあって、3時間近くかかったであろう。その時間中に、私の片足の草履が、ひとりでにポトリと床に落ちた。別に気になるほどのことでもなかった。だが、対談が終わって玄関まで歩くとき、なんだか少し足が冷たすぎ、草履を重いと感じた。なんとかタクシーで家に着いた。自宅の門前に着いたとき、またもや草履が脱げて地面に落ちた。私の足はまるで鉄棒のように重くなり、魔術をかけられたみたいに地面へくっついていた。クーラーで冷えすぎたからだ思い風呂にはいり、血液の循環を促した。しかし湯からでても、膝から下はやはり冷たい。そうしているうちに、さと子は4、5日前の朝日新聞の病気相談「聴診器」の最近発生している奇病の記事を思い出した。それは7月11日の朝刊だった。相談者は「下痢後下半身が下からしびれ始め、現在は歩行困難、視力も衰える一方、診断は医師によりまちまち」という。東大医学部神経内科の豊倉康夫は「一見お互いに関係がないように見えるさまざまな診断が、病気がなにであるかを解くカギになりそうです。あなたの病気は最近全国的に流行してきた「腹部症状を伴う脊髄症」と言う病気である可能性が大きいと思われます。(略)」さと子は二度も三度も読んだ。そうして自分の病気もこれに関係があるかも知れないと思った。

    スモン病は、整腸剤キノホルムを服用したことによる副作用だと考えられている。昭和30年ころから散発し、昭和42年、43年の大量発生で社会の注目を集めた。昭和47年までに全国で11127名の患者が確認されている。厚生省は昭和45年9月8日、キノホルムの製造販売及び使用停止を決定し、それ以降は新患者の発生はない。

    中島さと子は明治37年10月15日、高知県に生まれる。高知師範卒後教職につき、中島菊夫と知り合い結婚して退職。昭和16年、菊夫の漫画「日の丸旗之助」が少年倶楽部に連載される。昭和36年、息子が結婚して、新妻との同居家族の記録が明るいホームドラマとして全国的に知られる。昭和40年、スモン発病。昭和49年12月25日、死去。

(参考:中島さと子「愛する力もてスモン病と闘う日々」)

2007年10月 8日 (月)

和田信賢と館野守男

    NHKアナウンサー・和田信賢(1912-1952)は、昭和14年1月15日、大相撲春場所4日目、双葉山・安芸の海戦の中継を担当したことで知られる。館野守男(1914-2002)は昭和16年12月8日の日米開戦を伝えたアナウンサー。そして昭和20年8月15日、館野は正午から放送される玉音放送の事前予告を担当、和田は進行役と詔書奉読を行なった。東宝映画「日本のいちばん長い日」で、畑中少佐から拳銃を突きつけられ、放送を強要される加山雄三扮するアナウンサーは、館野守男である。

咲子さんちょっと

   「おおい、居ないか、ちょっと来てみい」

   高太郎が呼んでいる。何でも呼びつけるのが高太郎の癖である。

                        *

   中島さと子の原作「咲子さんちょっと」(嫁に贈る手紙)のドラマ化が江利チエミ主演で実現したのは昭和36年のことであった。

   昭和30年代、歌手江利チエミは「サザエさん」のような庶民的なキャラクターでホームドラマには欠かせない女優でもあった。昭和36年から40年まで断続的に制作された「咲子さんちょっと」はテレビ初期の人気番組。新妻の咲子(江利チエミ)、作曲家の夫の京太郎(小泉博)、京太郎の父・高太郎(伊志井寛)、規子(葦原邦子)らの暖かい人間関係を描く。主題歌「咲子さんちょっと」や劇中歌の神津善行の「新妻に捧げる歌」もヒツトした。

   原作者の中島さと子(1904-1974)の夫は漫画家の中島菊夫(1897-1962)であり、長男の中島靖侃はSFマガジンの表紙イラストレーターとして知られている。咲子さんのモデルは、中島和子。

             咲子さんちょっと

          作詞:宮田達男、曲:神津善行

  ちょっと ちょっと来て

  ちょっと  待って

  ハイ ハイ

  ハイハイハイハイ

  ハイハイハイハイ

  目がまわる

  ある日ある時 日が暮れて

  甘く明るい 窓あかり

  ちょっぴりおセンチ ああ……

  ちょっとふくれた 花嫁さん

  ワン トゥー スリー フォー

  アッハッ ハヒフヘホホホー

  アッハッ ハヒフヘホホホー

  ちゃっかり笑った 咲子さん

2007年10月 7日 (日)

これが青春だ

   イギリス帰りの大岩雷太(竜雷太)は、山と海に囲まれた南海高校の教師となり、サッカーを通じて劣等生たちに「どろんこ紳士道」を教える。第12話「ホラ吹き大将故郷に帰る」(倉本聰・脚本)の大岩先生のセリフ「人を信じない奴は、俺は嫌いだ!」はとくに印象に残る。

   南海高校の卒業生山上大作(西沢利明)は、東京で行なわれる東西大学対抗試合にサッカー部全員を招待するという。しかし、部員たちは「どうせホラだから行かない」と言い出す。

   大岩「なるほど、お前らには親がいたわけだな。いい親、悪い親、…各人おのおの親を持っている。…親の意見が君らにうけつがれ、君らは頭からそれを信ずる。不憫なことだな。親を持っているということは」みんなは雷太の言っていることがよくわからない。なおも雷太は歩きまわりながら、「君らは親の意見に従い、山上大作を信じないと言う。ところが大作の方は、君らを信じてる。君らのサッカーを育ててやりたいと、本気になって考えている。あんな立看板でからかわれてもだ!なおかつ彼は、君らを信じている」と雷太は立止まって、凄い目つきで一同をにらみつけた。

   「人を信じないような奴は、俺はきらいだ!人にだまされることを怖れるあまり、人を信じない奴を俺はきらいだ!そんなのは若者のなまえに恥じる。信じてだまされた。何が恥ずかしい。少しも恥じるべきところなどない。恥ずべきは、最初から人を信じない奴、努力しない奴、そういう奴だ。そういう奴こそ俺は認めない。若者として全く認めない。

   俺がお前たちにのぞむのはどろんこ紳士だ。みんなどろんこになれ、しかし紳士であれ!」

   雷太の言葉に圧倒されて、一同何も言えない。「今日の授業はここまで!」というと雷太はパチンと本を閉じて教室を出た。

   日曜日。神宮のサッカー場入口で、時計をみながら大岩先生と大作は部員たちを待っている。大作がしょんぼりと「先生、もう来ませんよ」と雷太に話しかけるが、雷太は黙って立っている。「あの町じゃあ、俺の言葉なんか信用するやつはいない。俺は今まで全くろくでなしだったし信用しないのが当たり前です。試合が終わっちゃいますよ。もう入りましょう」大岩「もう少し待とう」煙草に火をつけ落ち着かない大作。じっと待つ大岩先生。その時。

    部員たちの声「先生ーッ」「みてみろ!奴らはやっぱりあんたを信じていただろう」大作は何度も大きく頷く。その胸にこみあげてくるうれしさをかくしきれない。「先輩!遅くなってすみません」と出目(矢野間啓治)は汗だくで二人のところに走って来た。続いて金田(木村豊幸)が、「何しろ東京ってところは初めてだもんで」と走ってきた。次々と集まってくる。「よく来た。俺は信じてたよ」

   若さはつっ走る。信じあう仲間と、大きなかたまりになって球場を!つっ走る!。.

   「これが青春だ」の脚本には、須崎勝彌、井出俊郎、桜井康裕、倉本聰があたっていた。この「ホラ吹き大将故郷へ帰る」の巻では、初期倉本作品であり、その長セリフにも彼の特徴をよくううがうことができる。

2007年9月29日 (土)

戦後イタリアの映画と音楽

   映画「家族日誌」(ヴァレリオ・ズルリーニ監督)が日本で公開されのは、東京オリンピックが開催されていた昭和39年のことだった。ラスト近くで病気で衰弱した弟のロレンツォ(ジャック・ぺラン)がオレンジ・マーマレードが食べたいと言い、兄のエンリコ(マルチェロ・マストロヤンニ)が雨の中を探し回るが見つけることができなかった。「この時ほど戦争を恨んだことはなかった」

   イタリアは日本と同じ敗戦国。小市民生活の哀歓を描く作品も多く、ハリウッド映画と異なり、庶民が共感できる映画が多かった。「靴みがき」「自転車泥棒」(ビットリオ・デ・シーカ監督)、「にがい米」(ジュゼッペ・デ・サンテス監督)、「無防備都市」(ロべルト・ロッセリーニ監督)など。イタリアン・ネオリスモは国際的ブームとなった。その後もフェデリコ・フェリーニの「道」「「カビリアの夜」「甘い生活」、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」「わらの男」「刑事」、ミケランジェロ・アントニオーニの「情事」「太陽はひとりぼっち」、ヴァレリオ・ズルリーニの「家族日誌」、エルマンノ・オルミの「就職」、マウロ・ボロニーニの「堕落」など芸術性の高い作品がイタリア映画界から生まれた。

   日本でのイタリアブームは映画だけではなかった。ポピュラー音楽では、カンツォーネブームが昭和35年から昭和40年前半まで続いた。森山加代子の「月影のナポリ」(ミーナ)、ザ・ピーナッツ「ブーべの恋人」、弘田三枝子「砂に消えた涙」(ミーナ)などのカヴァ曲がヒットパレードでアメリカン・ポップスを抑えてカンツォーネが第一位を飾っていた。ホイホイミュージックスクール出身の布施明の発声法はいまでもカンツォーネ風なのはその影響によるものである。伊東ゆかり「恋する瞳」のサンレモ音楽祭入賞を頂点として、日本でのカンツォーネブームは衰退に向かう。イタリア映画界も、マカロニウエスタン全盛となり、マウロ・ボロニーニ監督の「わが青春のフローレンス」(マッシモ・ラニエリ、オッタビア・ピッコロ)以降あまり記憶にない。今年7月30日、ミケランジェロ・アントニオーニが94歳で亡くなったという。

2007年9月14日 (金)

メロドラマのヒロイン、ジェーン・ワイマン

   ロバート・ゼメキス監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワン・シーン。若き日のドク(クリストファー・ロイド)がタイムスリップしたマーティー(マイケル・J・フォックス)に「ロナルド・レーガンが大統領なら、ファースト・レディはジェーン・ワイマンかい?」というセリフがあった。ジェーン・ワイマン(1914-2007)は1940年から1948年までロナルド・レーガンと結婚していた。今年9月10日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅で老衰のため死去した。享年93歳。

    サラー・ジェーン・フォークスは、1914年1月5日、 ミズーリ州セントジョセフに生まれた。誕生名はサラ・ジェーン・メイフィールド。父は町長。8歳の時、両親が離婚したので、彼女の名前はサラ・ジェーン・フォークスとなった。女優であった母の希望で幼い頃からダンスを習い、ロサンゼルスへ移住。10代でハリウッドで仕事を探したが失敗。帰郷してミズーリ大学卒業後、ネイリストや電話交換手をしていた。1932年頃、ラジオのコーラスガールとなり、ジェーン・デュエルという芸名で歌手となったが、やがてハリウッドへ行く。1936年、ワーナーブラザーズと契約し、「踊る三十七年」でジェーン・ワイマンに改名したが、その後もなかなかチャンスは掴めずブロンド娘役など脇役をしていた。「カナリヤ姫」「ハリウッド玉手箱」などで次第に脇役から主役級になっていく。1945年に「失われた週末」のアル中のレイ・ミランドを支える恋人役で注目されるようになった。クラレンス・ブラウン監督の「子鹿物語」(1946年)で厳格な南部の開拓農民の妻に扮してアカデミー主演女優賞にノミネートされた。「ジョニー・ベリンダ」(1948年)で聾唖のレイプ被害者を演じ、アカデミー最優秀主演女優賞を獲得した。「青いヴェール」(1951年)で二度目のオスカーをとりそこなったものの、1950年代半ばになると、ダグラス・サーク(1897-1987)監督のメロドラマで演技派女優としての貫禄が加わってきた。「心のともしび」(1954年)「天はすべて許し給う」(1955年)でロック・ハドソンと共演。ジェーン・ワイマン主演の作品はやがてお涙頂戴ものの陳腐なメロドラマとしてアメリカでは評価が低かったが、70年代になってヨーロッパでダグラス・サークの評価が高まった。母を演じ、妻を演じ、そして年下の青年との恋に苦悩するメロドラマ。50年代ハリウッド映画界には、ジェーン・ワイマン、ラナ・ターナー、スーザン・ヘイワード、デボラ・カー、ドロシー・マクガイアなどの名女優が健在であった。日本でいえば、三益愛子、月丘夢路、高峰三枝子といった感じであろうか。私生活では、マイロン・ファーマン、ロナルド・レーガン、フレデリック・カーガーの3人の男性と4度の結婚をしている。このほか「西部戦線異状なし」の俳優リュー・エアーズとのロマンスの噂もあった。レーガンとの娘モーリンはTV女優として活躍している。

         *  *  *  *  *  *  *

   ジェーン・ワイマンの人気が全盛であった頃の「映画の友」の記事を紹介する。「ドリス・デイには虫がおさまらぬ事がただ一つ、それはジェーン・ワイマンがビング・クロスビーとの共演以来(花婿御入来、あなただけの為に)、レコードにデイ張りの唄い方をすることです。これにはさすがのドリスもすっかりツムジを曲げ、今のところ、イッカナ仲のとりなしようもありません。そのジェーン・ワイマンは先日、ビング映画を監督の為欧州へ旅立ウィリアム・パールバークの為に大パーティを催して、ハリウッド各方面の名士が総出席、朝まで盛大に踊りぬきました。スタアではグリア・ガースン、ゲーリー・クーパー、ヴァン・へフリン、ヴァン・ジョンソンの奥方イーヴァーは一人で現れフランス語の唄を歌ってバーバラ・スタンウィックと一緒に来たジャン・ピエール・オーモンを顔負けさせ、ベティ・ハットン、チャールス・オカーラン(振付師)夫妻は得意のダンスをご披露し、タイロン・パワーはバンドに交じってドラムをたたく脱線ぶりの賑やかさでした。」(映画の友、1953.1、91p)

2007年9月 9日 (日)

山田太郎と御村託也

   「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ~♪」という山田太郎のさわやかな青春歌謡が町に流れていたのは、昭和40年のことであった。昔の郷愁にひかれてテレビドラマ「山田太郎ものがたり」を見た。高校生の山田太郎(二宮和也)は貧乏家族で6人もの弟妹たちの給食費を稼ぐため、アルバイトをして、節約し、貯金をためる。時代は変われど、山田太郎という名前は、貧しく明るく生きる勤労青年だった。

   ところで、山田太郎というありふれたネームは、ごく一般の庶民というイメージから、なんとなく親しみやすく、ユーモラスな感じのある日本人名前の典型であろう。鈴木一郎も平凡でありふれているが、山田太郎のほうがなんとなくビンボーな感じが漂っている。(原作は漫画家の森永あい)

   太郎の6人弟妹の子役名と芸名を調査する。次郎(鎗田晟裕)、三郎(清水尚弥)、よし子(村中暖奈)、五子(吉田里琴)、六生(渋谷武尊)、七生(稲垣鈴夏)である。役名が簡単なのに比べて、芸名は非常に珍しいことに気づいた。ビンボー貴公子の二宮くんと対照的な、セレブ貴公子の櫻井翔の役名は御村託也という珍しい名前だった。貫地谷しほり、本仮屋ユイカ、相武紗季など珍しい芸名がトレンドだそうだ。山田太郎はその流行の逆ねらいともいえそうだ。

    ドラマは今週で最終回を迎える。ところで山田くんに恋する池上隆子を演じる多部未華子ちゃん。おデコが内藤洋子に似てカワイイ。第9話で披露したカンフー回し蹴りも決まっていました。

2007年9月 8日 (土)

伊井蓉峰から木村拓哉まで

    木村拓哉主演「HERO」映画版が全国東宝系で本日から公開される。キムタクは先ごろ発表された雑誌「anan」の好きな男ランキングで14年連続1位を獲得している。現在そのカリスマ性で映画館に観客を呼べる数少ないスターといえる。それは永遠の二枚目といわれた林長ニ郎こと長谷川一夫の域に迫っている。気になるアンアンのランキングは次のとおり。1位木村拓哉。2位以下は、福山雅治、中居正広、岡田准一、松本潤、香取慎吾、妻夫木聡、赤西仁、稲垣吾郎、亀梨和也、草なぎ剛、滝沢秀明、オダギリジョー、山下智久、堂本光一、長瀬智也、速水もこみち、二宮和也、小栗旬、坂口憲ニ、櫻井翔、錦戸亮、小池徹平、玉木宏、堂本剛、瑛太、大倉忠義、成宮寛貴、松田翔太、小出恵介の順。

   31位以下は未調査であるが、大野智、相葉雅紀、ウェンツ瑛士、今井翼、塚本高史、山田孝之、山本耕史、吉沢悠、加瀬亮、佐藤隆太、森山未來、市原隼人、斉藤祥太、斉藤慶太、辻本祐樹、生田斗真、玉山鉄ニ、忍成修吾、坂本昌行、三宅健、井ノ原快彦、森田剛、長野博、山口達也、松岡昌宏、国分太一、城島茂、藤原竜也、姜暢雄、塩谷瞬らがランキング外にいると思われる。

    いい男、イケメン、美男など流行るが、近代日本演芸史を紐解いてみても歌舞伎、新派、活動写真など分野は違えども二枚目はやはり、立役、主役が王道である。新派の重鎮・伊井蓉峰(1871-1932)が無声映画草創期に出演したが、演技的にオーバーすぎたがやはり主演が似合う。ちなみに伊井蓉峰の芸名の由来は、依田学海(1833-1909)が「いい容貌」をもじってつけたものである。ともかくも伊井は江戸っ子肌で統制力があり新派劇では活躍し、「金色夜叉」の間貫一、「婦系図」の早瀬主税、「不如帰」の川島武男などを当り役とした。

    戦前の映画界では鈴木伝明、岡田時彦、中野英二、早川雪州、諸口十九、勝見庸太郎、立花貞二郎、南光明、河部五郎、高田稔、竹内良一、岡譲二、新井淳、磯野秋雄、藤井貢、林長二郎、羅門光三郎、阪東妻三郎、江川宇礼雄、片岡千恵蔵、市川百々助、沢田清、市川右太衛門、黒川弥太郎、坂東好太郎、夏川大二郎、高田浩吉、上原謙、大日方伝、佐分利信、佐野周二、森雅之たちが二枚目として活躍していた。

   戦後の二枚目スター第1号といえば、小林桂樹に始まる。正確にいえば小林は昭和17年に日活に入社して、大映を経て東宝に入社。評論家・大宅壮一から「戦後は物資不足のおりから二枚目も不足している」とデビュー時に酷評され、以後二枚目を断念して、二枚目半のユーモラスな味を出すことで成功した。また多くの男性俳優は若いときは二枚目で売り出しやがて悪役に転向して息の長い俳優となるケースが多い。日活アクション路線で悪役のイメージの強い安部徹も戦前昭和14年、原不二雄の芸名で新興キネマ「結婚問答」でデビューし、「決戦」(昭和19年、松竹)では高峰三枝子の相手役を演ずる二枚目だった。奇怪な俳優として知られた天本英世も「女の園」「二十四の瞳」では高峰秀子の相手役であり、二枚目スターだった。コメディアンのイメージが強い石立鉄男も「愛の渇き」(昭和42年)で浅丘ルリ子と三島文学のメロドラマで共演している。

    戦後のスターといえば、池部良(漫画家池部均の子息で正確には昭和16年デビュー)、山村聡、水島道太郎、竜崎一郎、沼崎勲、大友柳太郎、細川俊夫、三船敏郎、岡田英次、小泉博、丹波哲郎、堀雄二、三国連太郎、船越英二、木村功、伊豆肇、根上淳、三橋達也、鶴田浩二、佐田啓二、菅原謙次、東千代介、高橋貞二、原保美、田村高広、大川橋蔵、市川雷蔵、天知茂、葉山良二、二谷英明、勝新太郎、南原宏治、大村文武、波島進、南広、宇津井健、御木本伸介、大木実、安井昌二、高倉健、仲代達矢、中村錦之介、川崎敬三、石浜朗、宍戸錠、菅原文太、吉田輝男、寺島達夫、高宮敬二、石原裕次郎、岡田真澄、宝田明、田宮二郎、江原真二郎、川口浩、里見浩太郎、小林旭、加山雄三、赤木圭一郎、津川雅彦、和田浩治、川地民夫、渡哲也、杉良太郎、本郷功次郎、藤巻潤、川津祐介、園井啓介、勝呂誉、森美樹、待田京介、千葉真一、山内賢、青山恭二、沢本忠雄、小高雄二、天田俊明、栗塚旭、石坂浩二、松方弘樹、北大路欣也、梅宮辰夫、沢村精四郎、浜田光夫、高橋英樹、太田博之、加藤剛、夏木陽介、近藤正臣、船戸順、佐原健二、高島忠夫、竹脇無我、平幹二郎、渡瀬恒彦、市川染五郎、緒方拳、若林豪、中山仁、松橋登、萩原健一、森田健作、浜畑賢吉、志垣太郎、沖雅也、仲雅美、藤岡弘、草刈正雄、原田大二郎、田中健、三浦友和、水谷豊、田村正和、古谷一行、田村亮、篠田三郎、村野武範、永島敏行、高岡健二、柴俊夫、長塚京三、松田優作、中村雅俊、藤竜也、三ツ木清隆、風間杜夫、国広富之、柴田恭兵、舘ひろし、名高達男、西岡徳馬、神田正輝、仲村トオル、真田広之、松村雄基、村上弘明、長谷川初範、萩原流行、奥田瑛二、古尾谷雅人、林隆三、速水亮、勝野洋、三田村邦彦、榎本孝明、渡辺謙、佐藤浩一、中井貴一、時任三郎、広岡瞬、渡辺裕之、高嶋政宏、高嶋政伸、藤井フミヤ、三上博史、別所哲也、本木雅弘、東幹久、役所光司、吉岡秀隆、柳葉敏郎、鹿賀丈史。

   平成になると、「愛と平成の色男」の石田純一から始まる。加勢大周、吉田栄作、織田裕二、風間トオル、岸谷五朗、阿部寛、唐沢寿明、宅間伸、緒方直人、マイケル富岡、岡本健一、東山紀之、永瀬正敏、保坂尚輝、筒井道隆、上川隆也、豊川悦司、小澤征悦、押尾学、徳重聡、渡部篤郎、竹野内豊、反町隆史、江口洋介、大沢たかお、武田真治、羽場裕一、袴田吉彦、萩原聖人、浅野忠信、勝村政信、葛山信吾、佐々木蔵之介、北村一輝、小泉孝太郎、加藤雅也、要潤、田辺誠一、豊原功補、椎名桔平、藤木直人、窪塚洋介、大鶴義丹、永井大、山田純大、杉浦太陽、堤真一、高橋克典、寺脇康文、松岡充、伊藤英明、伊原剛志、ユースケ・サンタマリア、谷原章介、賀集利樹、柏原崇、中村獅童、Gackt、赤坂晃、有吉崇匡、一条俊、小橋賢児、松田龍平、西島秀俊。(以下調査中)

   これまでのアンアン「好きな男ランキング」をみると、1977年は第1位に水谷豊、第2位に田中邦衛、第3位に矢沢永吉と、ルックスよりも個性を重視した選考基準だった。不思議なことに青大将の田中邦衛が「好きな男ランキング」第2位で、若大将の加山雄三は一度もランキング入りしていない。青大将の石山は役柄とはいえ、カンニングはするし、「うちのパパは社長だ」と自慢し、スポーツカーに乗せて「澄ちゃん~」 といって強姦をはたらく。映画ながらもサイテイ男なんだけれども、当時の女性がどこが「いい男」と選んだのか不可解である。要するに「いい男ランキング」は遊び感覚でスタートしたものであった。

   それ以後は次第に真剣味を増して、「好きな男」の基準は、ルックスと優しさが重要視され、「いい男」の基準がはっきりしてきた。反面そのために毎年の顔ぶれの固定化傾向が目立つようになる。1988年は田原俊彦、1991は織田裕二、1993年は真田広之、1994年に木村拓哉が1位となってからは、14年連続、福山雅治も2000年から8年不動の2位である。

   そこで結論として、独断と偏見をもって、ケペル的「いい男ランキング」を発表する。

 第1位 加山雄三

 第2位 高倉健

 第3位 三船敏郎

 第4位 早川雪州

 第5位 坂東妻三郎

 第6位 市川雷蔵

 第7位 片岡千恵蔵

 第8位 石原裕次郎

 第9位 佐分利信

 第10位 赤木圭一郎

    第1位の加山雄三の選考理由は、これまでの日本人男性に類例をみない、ギリシア神話のアポロンのような向日性、明朗性、健全性を高く評価するからである。もとより男性ナンバーワンを決めることは不可能であることから、1位から10位までの男性は偶像(イコン)のような存在と思っていただきたい。21世紀の石原裕次郎や加山雄三を目指せ!と芸能スカウトは明日のスターを探している。

「たった一度の雪」と「チルソクの夏」

   1972年2月3日、アジアで初めての冬季オリンピック「札幌オリンピック」が開会された。神田沙也加とチェン・ボーリン(陳柏霖)主演の「たった一度の雪」は日本人選手と台湾人選手の国境を越えた淡い冬の恋。「チルソクの夏」は1977年7月7日、下関と釜山との間で行なわれた親善陸上競技大会での日韓高校生の夏の恋。二つのドラマの背景には未だに解決されずにいる戦後政治のアジア問題がある。

   「たった一度の雪」の台湾選手はスキーを一度もしたことがなかった。1971年10月25日、それまで中華民国として国連および安保理の常任理事国であった台湾は、大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、国連を脱退せざるを得なくなった。台湾選手はこのような問題を世界にアピールするため五輪に派遣されたものであった。ヒロイン下村千穂は、はじめはガールハントだけに興味をもつ孫台生に反感をもっていたが、政治的な事情があることを知って、やがて二人の間に友情が生まれてくる。現在も台湾は国連の枠組みから外されているため、「中華民国」名義でのオリンピック参加も承認されず「中華台北」で参加している。

   ドラマの背景となる台湾問題を深く知るためには、太平洋戦争末期の日本統治下時代にまでさかのぼらなければならないであろう。戦後すぐに刊行された弘文堂のアテネ文庫の一冊に「アジア問題辞典」(平野義太郎編、昭和26年)がある。朝鮮戦争勃発時の同時代史としての視点でアジア問題が記されているので「台湾問題」の項目を引用する。

  昭和18年のカイロ宣言によって台湾は中国への返還が約束され、さらにポツダム宣言によって確認され、日本降伏後は国民政府軍によって占領され、国民政府は昭和20年9月に台湾省行政長官公署組織条例を公布して、台湾を中国の一省として編入した。したがって台湾は中国領土であるという原則は確認されたはずであったが、中華人民共和国の成立と前後してアメリカ政界では台湾を中共の手に渡すなとの議論が次第に勢いをうるようになった。これに対しトルーマン大統領は1950年1月5日の声明でカイロ宣言とポツダム宣言を確認するとともに台湾干渉の政策をとらないと言明したが、同年6月の朝鮮戦争発生とともにアメリカ第7艦隊を台湾水域に派遣して台湾を防衛するという処置をとった。この処置は、北京政府の立場からは、中国の内政への干渉であり、中国領土の侵犯であるとされ、北京政府はソ連の援助をえて国連に抗議し、国連第5回総会は北京政府代表・伍修権の出席を求めてこの問題を討議した。しかしこれと前後して中国志願兵の朝鮮参戦問題が発生したので、アメリカ側は朝鮮問題の先議を優先を主張し、これに対して北京政府は朝鮮問題の平和的解決の前提として朝鮮・台湾からの米軍撤退を主張している。台湾の地位がこのように紛糾しているのは、その戦略的地位がアメリカによって重要視されているからで、台湾が北京政府の手に帰すれば、日本とフィリピンをつなぐ線が台湾で切断され、中国をその外部で包囲しようとするアメリカのアジア政策が破綻をきたすからである。(以下略)

2007年8月27日 (月)

お笑い三人組は楽しい

   むかし「お笑い三人組」というNHKの長寿番組があった。(昭和31年~41年)。三遊亭小金馬、一竜斎貞鳳、江戸屋猫八の三人が主役の下町喜劇。「お笑い三人組」という言葉はしっくりと決まるが、これが「お笑い四人組」だと何故かおさまりが悪い感じがする。3人だと、ボケ、ツッコミ、残る1人がオサメル、ナダメルでクッションとしての役割をはたすので自然にバランスがとれるという説がある。トリオはまさに黄金比率なのだ。

   同じころ外国テレビで「三バカ大将」という伝説の番組があった。リアルタイムで見た本当に幸せな世代だ。「ウッヒハ ヘンチクリン ヘンチクリン ドンスカドン ラリーだ モーだ カーリーだ」という主題歌で始まるドタバタ喜劇。ラリー・ハワード(1895-1975、オカッパ)、ラリー・ファイン(1902-1975、途中まで禿あがっている)、カーリー・ハワード(1895-1955、丸坊主)。カーリーが死んで、途中からジョー・デリータに変わった。

   昭和30年代、トリオ漫才の全盛期だった。かしまし娘(庄司歌江、照枝、花江)の「うちら陽気なかしまし娘、誰が言ったか知らないが、女三人寄ったら、かしましいとは愉快だね」という明るい歌声がラヂオから聞えたのは昭和32年のことだった。フラワーショウ(ぼたん、ばら、あやめ、昭和36年結成)、ちゃっきり娘(昭和39年結成)、ジョウサンズなど関西では女性の音曲トリオ漫才も華やかだった。

   テレビが一般家庭にも普及しだしたころ、脱線トリオ(由利徹、南利明、八波むと志)が爆発的人気者だった。脱線に対抗して、転覆ということで「てんぷくトリオ」(三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗)、「トリオ・ザ・パンチ」(内藤陳、井波健、栗実)、「ナンセンス・トリオ」(江口章、岸野猛、前田隣)、「トリオスカイライン」(小島三児、原田健二、東八郎)など続々誕生した。関西でも「漫画トリオ」(横山ノック、フック、パンチ)、「タイヘイトリオ」(夢路、糸路、洋児)、「宮川左近ショー」、「レッゴー三匹」(正児、じゅん、長作)などトリオ漫才は盛んであった。

    映画界でトリオの黄金比率を発見した監督といえば、東宝の杉江敏男であろう。杉江は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、の三人娘シリーズで大ヒットを連発した。「ジャンケン娘」「ロマンス娘」「大当り三人娘」である。つづいて杉江は、団令子、重山規子、中島そのみ、で「銀座のお姐ちゃん」「大学のお姐ちゃん」などで社会現象にもなる流行語や新風俗を生み出した。団令子の「アンパンのへそ」というキャッチ・コピーは傑作であるし、お姐ちゃんが若くてハンサムな青年に「あんたMMKね」と言ってからかうMMK(もてて、もてて、困るでしょ、という意味)は当時の女性が使用していた。実際にケペルも若手頃、職場の年上の女性から言われたことがある。このいわゆる「お姐ちゃんシリーズ」の骨格は加山雄三の「若大将シリーズ」に継承されていく。大学の若大将・田沼雄一(加山雄三)、対象的なドラ息子・青大将(田中邦衛)、美人のすみちゃん・澄子(星由里子)と、やっぱりトリオ映画だ。TV時代劇では五社英雄の「三匹の侍」(丹波哲郎、平幹二郎、長門勇)が人気を博した。

   近年の洋画ヒット作品をみても、「ハリー・ポッター」「パイレーツ・オブ・カビリアン」「シュレック」など三人組であることに気づく。トリオは不滅の黄金比率である。

2007年8月19日 (日)

吉永小百合と山路ふみ子

   オリコンが「品格のある著名人ランキング」を男女別に調査したところ、イチローと吉永小百合が第1位に選ばれた。吉永は昭和61年からボランティアで全国の小中高生たちの前で原爆詩の朗読会を開いてきた。この20年間で2百数十回にも及ぶ。

   吉永小百合が昭和38年1月に第13回ブルーリボン賞女優主演賞を史上最年少で受賞したとき大きな話題になったことを思い出した。昭和25年からの受賞者は、淡島千景、原節子、山田五十鈴、乙羽信子、高峰秀子、望月優子、山本富士子、北林谷栄、岸恵子、若尾文子であった。「キューポラのある街」(浦山桐郎監督)の撮影中は精華学園女子高等学校在学の17歳だった。吉永の映画デビューは昭和34年の「朝を呼ぶ口笛」から4年間ですでに27本の出演作があったが、浜田光夫とのコンビの「ガラスの中の少女」「草を刈る娘」に続く、本格的主演映画であった。その後の数多い主演作品のなかでも、昭和60年の「夢千代日記」(浦山桐郎監督)は彼女の大きな転機となった作品である。こののち朗読会を開くようになる。また第11回山路ふみ子賞女優賞を受賞している。吉永の数多い受賞歴であまり注目されることはないかも知れないが、山路ふみ子映画賞は戦前の新興キネマなどて活躍した女優の山路ふみ子が私財を投じて、昭和51年に文化財団を設立したもので、現在も続いている。その年の一番早くに発表があり、とくに女優賞が注目される。近年は蒼井優、紫咲コウなどが受賞している。吉永小百合は女優としての自覚がてできたころ、とくに田中絹代を意識していたようだし、彼女の半生まで演じているが、実は山路ふみ子という女優も溝口健二が育てた女優の一人である。

    山路ふみ子(1912-2004)。本名大久保ふみ子。昭和4年、ミス神戸で、昭和6年「神戸行進曲」でデビュー。昭和12年「愛怨峡」で東京の大学を出た温泉宿の若主人と駆け落ちしたものの、気の弱い男の親から呼び戻され、子どもをかかえて苦闘する宿の女中を好演した。この作品で溝口監督に鍛えられ、つづいて「露営の歌」「ああ故郷」「元禄忠臣蔵」など溝口作品に出演した。

   こうして考えると溝口監督は田中絹代にしても、山路ふみ子にしても、演技以上のもの、女優としての人生そのものに大きな影響を与えた人物であったような気がする。吉永小百合がこのような日本映画の良質の部分を継承して、品格ある女優としての道を歩んでいることはよろこばしいものであろう。

川端康成「伊豆の踊子」の映画化

   川端康成(1899-1972)の短編小説「伊豆の踊子」は雑誌「文芸時代」大正15年2月号、4月号に発表され、同年、金星堂から刊行された。松竹キネマが田中絹代(1909-1977)主演で映画化したのは、それから8年も後のことである。田中絹代はすでに23歳になっていたが、口もとに指を持っていくしぐさが可愛かった。「文芸時代」は新感覚派の文芸運動の強い雑誌で、「伊豆の踊子」は初恋物語の形を借りながら、職業差別や女性の地位の低さ、貧困など根深い当時の社会問題も原作にはみられるが、五所平之助(1902-1981)監督によって「恋の花咲く伊豆の踊子」(昭和8年)という抒情味あふれる作品となり、以後の映画化にも継承されていく。昭和8年当時、ほとんどの映画がトーキーになっていたが、わざわざサイレントで撮っている。「百舌が鳴く、天城七里の峠道」という字幕で、桃割れ姿の可憐な絹代が太鼓を背負って登場する。原作では「踊り子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった」とある。田中絹代以降、踊子かおる役には、美空ひばり(昭和12生、当時17歳)、鰐淵晴子(昭和20年生、当時15歳)、吉永小百合(昭和20年生、当時18歳)、内藤洋子(昭和24年生、当時17歳)、山口百恵(昭和34年生、当時15歳)といずれも15歳から18歳の十代のヒロインが選ばれている。「芸術新潮、平成19年2月号」特集「おそるべし!川端康成コレクション」の記事に、川端康成と内藤洋子が並んで写っている写真が掲載されている。キャプションには「骨董屋には愛想のない川端だが、美女にはこんな優しい顔も。白いワンピースの少女は当時十七歳の女優、内藤洋子」とある。伊豆の踊子の撮影前に川端康成に面会したのは、内藤洋子だけではないだろうか。川端好みの美少女なのでご機嫌な様子が一枚の写真ではっきりと確認できる。内藤洋子主演の「伊豆の踊子」(昭和42年、恩地日出夫監督)は川端康成公認版といえる。映画には短編「温泉宿」の挿話も含まれている。

   ところで「伊豆の踊子」は6本の映画化作品のほか、テレビドラマとして5作品がある。かおる役には、小林千登勢、栗田ひろみ、小田茜、早瀬美里、後藤真希が演じている。昭和36年にはNHKは「連続テレビ小説」と銘打った小林千登勢「伊豆の踊子」を夜に放送した。この作品の成功により、4月3日から朝の時間帯に「娘と私」がスタートしたという。

   「伊豆の踊子」薫は女優の登竜門であるが、映画では昭和49年の山口百恵、ドラマでは平成14年の後藤真希を最後に登場していない。いま旬の10代女優のなかで、薫にふさわしいのは誰であろう。「パパとムスメの7日間」の新垣結良(19歳)、「花ざかりの君たちへ」の堀北真希(18歳)、「山田太郎ものがたり」の多部未華子(18歳)、「天然コケッコー」の夏帆(16歳)、「受験の神様」の成海璃子(15歳)、「14歳の母」の志田未来(14歳)、「風林火山・美留姫」の菅野莉央(13歳)といったところであろうか。

2007年8月17日 (金)

溝口健二と一条百合子

    「映画女優」(市川崑監督)は吉永小百合99本記念映画であり、田中絹代の生涯を吉永が演ずるというこで話題となった作品である。田中絹代は昭和15年「浪花女」という映画で溝口健二と出会う(劇中では溝内健二監督になっていた)。田中は後年、「溝口先生に会わなかったら、私の女優生活は終わっていたかもしれない」と語っている。

  菅原文太が演ずる溝内健二の背中の切り傷の話は、実際に起こった事件だ。大正14年6月11日の東京朝日新聞に「日活の溝口監督、情婦に斬らる、別れ話から剃刀で夕食中に大立ち回り」と報じられた。「赤い夕陽に照らされて」のロケーションから帰宅した溝口は、木屋町の芸妓で溝口に惚れ、押し掛け女房におさまっていた一条百合子と痴話喧嘩となり、カミソリで背中を切られ、溝口は謹慎させられた。事件当時溝口と自炊していて、一条を取り押さえた助監督の安積幸ニは、「あの事件以来、溝口さんの女性に対する執拗なまでの凝視がはじまった」という。映画「赤い夕陽に照らされて」は三枝源次郎監督の手によって完成した。そのころの溝口は酒乱で、お茶屋の床の間へ小便して庭の石灯籠に縛りつけられたり、大酒をくらって放埓の限りをつくし、売春婦に耽溺していた。一条百合子は、小柄でぽっちゃりとした丸顔、小股がきれあがっておきゃんな気風があり、溝口との痴話けんかは近所の評判だった。百合子は警察に引っ張られたが、すぐに釈放され、行方をくらました。溝口は、百合子が浅草にいると聞いて、追っかけて行ったが、会えなかった。

   もしも、溝口の女難がなかったなら、女を描いて随一の定評をとることもなかったかもしれない。「浪華悲歌」「祇園の姉妹」の梅村蓉子、山田五十鈴も「愛怨峡」の山路ふみ子、「近松物語」の香川京子、「西鶴一代女」の田中絹代も見ることは出来なかったかもしれない。

    今日一般的に言えば、溝口健二は日本映画監督三大巨匠の一人に数えられている。その三人とは、溝口健二(1898-1956)、小津安二郎(1903-1963)、黒澤明(1910-1998)である。(参考:新藤兼人「小説田中絹代」)

2007年8月 6日 (月)

園まり「愛のきずな」

   松本清張「たづたづし」を原作とした異色サスペンス映画。専務の娘(原知沙子)と結婚した鈴木良平(藤田まこと)は出世コースにのるサラリーマン。けれども、父親や権威をかさにきる妻とは深い溝があった。そんなある雨の日、良平は可憐な娘雪子(園まり)に出会い、愛しあう。しかし、雪子には服役中の夫(佐藤允)がいた。それまで良平は雪子がまだ結婚していないと信じていた。雪子との愛の生活を選ぶか、現実を選ぶか悩んだ良平は、ついに現実を選択する。雪子を信州に連れ出して絞殺した。数日間、新聞記事を丹念に探したが山中での絞殺死体が発見されたという記事は見当たらなかった。偶然に会社の新しいCMに雪子とそっくりの女性を見る。雪子は死んでいなかった。明け方の寒さと夜霧で息を吹き返したのだ。だが雪子は記憶喪失となってエルムという喫茶店で働いていた。良平は「あなたの前歴を知っている。あなたをもとの世界に返したい。わたしといっしょに東京へ行きましょう」という手紙を渡した。雪子はやって来た。「あの、手紙を読みましたが、本当でしょうか」「あなたのことが出ている新聞を東京で読んだんです。ですから、もしやと思ってきたのですが、やっぱりあなたでしたね」帰りの汽車は奇妙な道中だった。良平は自分の手で締めた女といっしょに居る。彼女の白い咽喉には策条の跡はなかった。ああ、なんたることか。二人はあの雨の日に出会った時に完全に戻ったのである。だが雪子は、これまでと違った新しい雪子だった。あの忌まわしい夫がいるという悩みをもたない雪子だった。あるのは、新鮮な、生き生きとした、全く別の雪子だった。二人の幸福な生活は一月は続いた。

   ここから映画と原作では大きく違う。映画では凶暴な夫が後を付け回して、ついに雪子を見つけ、汽車で良平と前夫は格闘し転落死する。雨の日、雪子が立っていると再び別の男の誘いにのるところで終わる。小説では、2年後、地方に左遷された良平は子どもを背負った雪子を偶然に見かける。前夫に連れ出されてよりを戻したのだ。だがその子どもはおそらく良平の子であろう。雪子の記憶がもどっているのかはわからない。

   「たづたづし」は「小説新潮」昭和38年5月号に掲載された短編である。映画は原作のテーマを完全に無視したもので、ビデオ化もなく作品評価も低いであろう。藤田まこと・松本清張とは不似合いであるが、他の清張の映画化作品には見られない味がある。重苦しい心理サスペンスを藤田のコミカルな味わいが作品に幅をもたせている。藤田まことは二枚目半の大スターである。テレビ界で「てんなもんや三度笠」「必殺シリーズ」「はぐれ刑事純情派」と3本もヒットシリーズを成功させた役者は他にはいない。もっともこの映画は園まりの歌謡映画として企画されたものであろう。雪子という薄幸の謎の女性と園まりは適役であろう。この映画は女優園まりの代表作といってもいいだろう。昭和19年生まれ。本名、薗部毬子。小学校時代キングレコードに「つゆの玉コロリ」の童謡を吹き込む。昭和37年5月「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビュー。カバーポップスからムード歌謡の昭和40年代前半、ヒットを連発していた。その独特の腹話術的歌唱法と愛らしい容貌でメロメロになった男性も多くいた。最近は懐メロ番組で復活したらしい。25年ぶりの新曲「2人はパートナー」(韓国ドラマ「初恋」の挿入歌)。まりちゃんのこれからのご活躍に、私祈ってます~♪。

2007年7月28日 (土)

新藤兼人「愛妻物語」

   NHKクローズアップ現代「新藤兼人監督95歳の日々」を見る。新藤兼人(映画監督・シナリオライター)は世界最長老の映像作家。これまでに47本の監督作品と238本のシナリオ作品がある。最新作は「陸に上がった軍艦」。

   戦後の日本映画の傾向のひとつに独立プロの運動がある。戦後の民主勢力の高揚とともに、左翼映画人や労働組合系の独立プロが興り消えていく中で、現在も活動を続ける近代映画協会はユニークな足跡を残している。

   あるとき映画「愛妻物語」を見た映画会社の幹部が「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」という批判をした。新藤は自らの作家性を貫くため、吉村公三郎、絲屋寿雄、殿山泰司らと昭和25年「近代映画協会」を設立した。自主制作の第1作「原爆の子」は原爆を直接取り上げた劇映画としては初めてのものであり、被爆、核の脅威という社会性、現代性あるテーマを扱い世界的な映像作家が誕生した記念的作品となった。「夜明け前」「縮図」「足摺岬」「どぶ」「狼」「女優」「第五福竜丸」「裸の島」「北斎漫画」「墨東綺譚」「午後の遺言状」など脚本作品も含めると名作は夥しいほどある。新藤の特徴としてあげられることに、山本薩夫のような政治的、社会的事件を直接的に訴いかけるというよりも、人間そのものの本性をさらけだすという点にある。したがって人間のもつ愛と欲とを徹底的に描く。一時彼は「文芸エロ」と呼ばれ、大胆な愛欲シーンで話題をよぶことも多かった。若い頃、「愛妻物語」をみて新藤兼人に好感を持ったが、「墨東綺譚」を見ていささか嫌悪するようになっていた。新藤監督は精神的に少しも老いない、古びない、古今稀有な人であり、大いに尊敬している。でもケペルはやはり「愛妻物語」が一番好きな作品です。

    実は宇野重吉、乙羽信子の映画よりも、テレビ化された「愛妻物語」を初めて見たのである。「新藤兼人劇場・愛妻物語」(昭和45年)全4回、明石勤、日色ともえ主演であった。無名のシナリオ作家が、大監督(溝口健二がモデルか?)のところへ脚本を見てもらいに行く。「こんなものはシナリオではない。ストーリーだ」と酷評をえる。「書き直してきます。僕とあなたとの真剣勝負です」。一から勉強のやり直しである。シェイクスピア、モリエール、イプセンなどの古典を毎日読む。そんな苦しい京都での貧しい明け暮れの中、美しい新妻は明るくふるまって慰めてくれる。縁側で妻と将棋を指すシーンは最高である。だが、貧乏暮らしがたたってか愛妻は肺を病んで床についてしまう。彼女はひっそりと夫の成功を信じ、それを祈って昇天していく。夏の朝であった。のちに映画もみたが、テレビでみたシーンがなかった。主演の明石勤さんは無名の新進俳優だったが、それだけ売れないシナリオ作家という役にはまっていた。ケペルは明石勤が好きでその後の脇役で出演している番組でもよくみるようになったが、残念ながらほとんど出演作を見ることはなく忘れていた。今回クローズアップ現代で新藤兼人の元気な姿を見て明石勤のことが気になった。ネットで検索すると、有名な老俳優である明石潮(1808-1986)の子であるということを初めて知った。映画では、当時、タカラヅカから大映に入り「百万ドルのえくぼ」で売り出した乙羽信子の愛妻ぶりはさすがによかった。映画で菅井一郎の役は観世栄夫であったが先ごろお亡くなりになったという。映画版もテレビ版ももう一度みたい。

2007年7月20日 (金)

松本清張の黒い画集・寒流

    サラリーマン人生には二種類ある。つまり暖流の中にいる者と、寒流の中にいる者である。この映画は暖流の中にいたサラリーマンが、思いもかけないことで、家庭も愛人も出世の道も全てを失い、気づいてみると寒流の中に自分が入っていたという話である。

    安井銀行に勤める沖野一郎(池部良)は、大学時代の同級生で前頭取の息子の常務・桑山英己(平田昭彦)の引き立てによって、池袋支店長に抜擢された。沖野が、割烹料理屋「みなみ」の女主人前川奈美(新珠三千代)を知ったのは、新任支店長として取引先をまわったときが最初であった。

    ある日、奈美が「みなみ」の増築のため一千万円の融資を頼みにきた。沖野は店の経営状態から判断してその融資を承諾した。それから二人は親密の度を増していった。病弱の妻(荒木道子)を抱える沖野は、奈美の「結婚して」の言葉に心を動かされる。一方、奈美を知った桑山は彼女に一目惚れし、ゴルフに誘う。桑山と奈美は特別に関係となり、まもなく沖野は宇都宮支店に左遷させられる。

    沖野は秘密探偵伊牟田博助(宮口精二)に桑山の素行調査を依頼した。奈美は旧大名屋敷を買い取り六千万円はする店内の改装、それに桑山との情事の日取りまでが伊牟田の調査報告で明らかとなった。沖野はこの資料を総会屋の福光喜太郎(志村喬)に見せた。株主総会で不正貸付とスキャンダルを暴露し、桑山を社会的に葬ろうとした。だが福光が桑山に買収されてしまった。沖野は伊牟田の協力で別の計画をはかる。

    渋谷の「春月」で奈美と会っていた桑山は、盗難車のダッジとは知らず奈美と乗った。自分の60年型ダッジと同じだからだ。二人は沖野の密告で警察に逮捕される。だが銀行は世間体をはばかって事件のもみけしを図った。桑山は左遷されるだろうが、沖野の思うようにもならず、沖野は寒流の真中に自分が入ったことを知って愕然とする。

2007年7月14日 (土)

浅丘ルリ子「憎いあンちくしょう」

    昭和30年、ミュージカル映画「緑はるかに」の主役公募で3000人の中から選ばれて女優デビューしてから早くも半世紀がたつが、女優としての情熱はいまなお衰えず頑張っている、われらのルリ子ちゃん。近作では「博士の愛した数式」で数学者(寺尾聡)の姉役であった。男性中心の日活アクション映画では刺身のつま的ヒロイン役を可憐に演じていたが、昭和37年の「憎いあンちくしょう」(蔵原惟繕監督)で女の情念やエロスを演ずる女優へと脱皮していった。

   マスコミの人気者北大作(石原裕次郎)が無医村で働く医師に中古のジープを送り届ける。それを恋人の榊田典子(浅丘ルリ子)がジャガーに乗って追いかける。東京から九州まで日本縦断のオールロケであり、日本映画ロードムービーの原点ともいえる作品。蔵原監督は浅丘ルリ子の女優としての魅力を引き出した監督であり、その後も「執念」「愛の渇き」の野心作がある。「憎いあンちくしょう」という映画は「俺は待ってるぜ」の裕次郎を期待するファンにはものたらないかもしれないが、浅丘ルリ子の女としての美しさを見るにはオススメの作品である。

   そしてこの作品中、形骸化した男女の愛を裕次郎がギターを爪弾きながらうたう主題歌がいい。映画の音楽担当は黛敏郎。

1 あいする よろび

  かなしみ いづこに

  おもいで さぐれど

  さぐれど うかぶは

  いろあせて むなしい

  あいのことば

  うつろなる うつろなる

  しろいページ

2 やわはだ かたえに

  くろかみ たぐれど

  きみゆえ ものうき

  まひるの うれいは

  めくるめく ひかりに

  もえおちる

  おろかなる おろなる

  あいのあかし

  もえたち もえおち

  きえゆく ほのほよ

   (作詞・藤田繁夫 作編曲・六条隆)

  六条隆とは黛敏郎のペンネーム

2007年6月27日 (水)

佳人薄命

    美しい容姿にめぐまれた女性はとかく短命だという意味で、蘇東坡の詩に「古来より佳人多く命薄し、門を閉じ春尽きて揚花落つ」とある。むかしの女性は軒の深い家に住んでいてめったに外出などせず、色白になりそれで美人といわれたのだが、日光浴をしなかったので早死にした人が多かったのかもしれない。

    世界三大美人といわれる、楊貴妃とクレオパトラはともに40歳近くの女盛りで亡くなっているが、小野小町については生没年は不詳であるが伝説によるとかなり長命だったようである。古川柳に「薄命でなくて小町は恥をかき」がある。

   現代は、女優や人気アイドルの突然の死が大きくニュースとなり、社会に大きな衝撃となることがある。ZARD・坂井泉水(1967-2007)の突然の死は記憶に新しいところである。佳人薄命で思い出すのは、夏目雅子(1957-1985)であろう。正統派アイドル、岡田有希子(1967-1986)の自殺が社会に与えた衝撃も大きかった。堀江しのぶ(1965-1988)、テレサ・テン(1953-1995)、可愛かずみ(1964-1997)、本田美奈子(1967-2005)、甲斐智枝美(1963-2006)など女神たちの昇天に合掌。

2007年6月26日 (火)

あるサラリーマンの証言

   石野真一郎(小林桂樹)は、ある毛織物会社の課長。妻(中北千枝子)と子供二人の円満な家庭を持っているが、一つだけ秘密がある。同じ課のOL梅谷千恵子(原知佐子)とひそかな情事を楽しんでいる。7月16日の夜、彼はいつものように新大久保のアパートに千恵子を訪ねて一時の悦楽をたのしんだ帰り、ふと近くの駅で、近所の保険外交員杉山孝三(織田政雄)とすれ違い、うっかり目礼をかわしてしまった。妻には映画を観てきたとごまかしたが、三日後、刑事の来訪をうけ、16日の夜9時30分頃、大久保で杉山と会ったかどうか質問された。彼は千恵子との情事のバレるのを恐れ、会わないと白を切った。彼の否認によって、杉山は向島の若妻殺しの容疑者として逮捕されたのである。

   杉山が殺人犯でないことは、石野と会った時刻に向島で事件が起こったことで明らかである。だが法廷で証人訊問された彼は、あくまで会ったことがないと否認、どうして嘘をつくのかと悲痛に叫ぶ杉山の言葉を心を鬼にしてきき流した。

    向島の若妻殺人事件から3年が経った。梅谷千恵子は若い恋人に、新聞をみて、ふと、洩らした。「杉山さんという方は、お気の毒ね。あれは白よ」彼女の若い恋人はその理由を聞いた。杉山が石野と行き会ったことは事実だと話した。男は、友達に話した。それが、事件を担当している弁護士の耳にはいった。弁護士は、石野を偽証罪として告訴した。石野が秘匿していた生活がにわかに明るみに出た。彼が、あれほど防衛していた破局が、急速に彼の上におそってきた。石野は、長いこと梅谷にそんな愛人がいることを知らなかった。あざむかれたのは、梅谷千恵子の嘘のためである。人間の嘘には、人間の嘘が復讐するのであろうか。(松本清張「黒い画集」)

2007年6月17日 (日)

「エデンの海」の清水巴

    若杉慧(1903-1987)の「エデンの海」が「朝日評論」に発表されたのは戦後すぐのころである。舞台は瀬戸内海。(広島県忠海)

   巡航船が白い波を駆り立てて入海に入っていくのが見える。女学校の南風寮。その窓下の塀外に、白シャツの中学生がハーモニカを吹いて、喧しく誘いに来ている。隅の方で宿題をしていた一人が、水を頭上にザブリと浴びせ、中学生が塀を壊しにかかると、彼女はほうきをもって室から飛び出していった。「巴ちゃん、だめよ…」と呼ぶ級友の声も耳にはいらないようだ。…夕焼け雲が美しい。岬の突端は、奇岩が重なって、なかでも冠岩と呼ばれる巨岩が目立つ。その上に、巴がひとり、遥かな水平線を見つめている。健康そうな顔、髪を汐風になぶらせて、唇からは南国の民謡が流れていた。足音にふり向くと、そこには、いつの間に来たのか、白麻の背広を着た青年が、じっと巴を見下ろしている。彼女はわけもなくあわてて、岩から飛び降りると駆けだしていた。

   女学生・清水巴と東京から赴任してきた生物学専攻の青年教師・南条一男との恋愛を、暖かい瀬戸内海の女学校生活を舞台に描いた「エデンの海」は、石坂洋次郎の「若い人」とともに永遠の青春の文学といえる。情景が絵画的であることから、昭和24年には舞台と映画で大人気となった。舞台では、角梨枝子、千秋実、映画では藤田泰子、鶴田浩二だった。その後も、日活で昭和38年、和泉雅子、高橋英樹、ホリプロで昭和51年、山口百恵、南条豊で映画化されている。「おい、おい、おろしてくれ」と叫ぶ南条を清水巴が裸馬に乗せて学校に乗り込んでくる場面が有名。そしてヒロイン清水巴は江波恵子(「若い人」)、寺沢新子(「青い山脈」)とともに自由奔放な永遠の女学生像である。

    若杉慧は明治36年、広島県安佐郡戸山村(沼田町)に生まれる。若杉は大正15年から昭和2年まで忠海高等女学校の教師として在職し、その時の経験をもとに「エデンの海」を書いた。昭和21年に「エデンの海」を発表後、文筆活動に専念する。晩年は石仏に心を寄せて「野の仏」「石仏讃歌」などの著書がある。

2007年6月12日 (火)

「暗室」と「落陽」

   はじめて親父に連れられてみた映画は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」。記録によると昭和33年の正月映画だが、場末の映画館なので数ヵ月遅れで見たのだろう。とくに裕次郎がヤクザたちにドラマーの命である手を殺られるシーンが強烈な印象だった。映画の影響で「フックだ!ジャブだ!」とドラマーのまねをしていた。

   映画好きの母(大正3年生)がよく日活といっていたのは、戦後の日活アクション映画ではなくて、戦前・戦中、山中貞雄、稲垣浩、内田吐夢、田坂具隆、島耕二らの名監督を配して時代劇から文芸名作までを連発していた時代の日活であろう。昭和58年の浦山桐郎「暗室」(清水紘治、三浦真弓、木村理恵、芦川よしみ)は創立70周年記念作品であり、平成4年の伴野朗「落陽」(加藤雅也、ダイヤン・レイン、ユン・ピョウ)は創立80周年記念作品にもかかわらず失敗作として知られている。当時、実兄が日活の株で大損したことを思い出す。

   日本で最初の撮影所は吉沢商店の河浦謙一が映画事業を拡張して、明治41年、目黒の行人坂に建てた目黒撮影所グラス・ステージである。大正元年9月には、この吉沢商店と梅屋庄吉(エム・パテー商会)、横田永之助(横田商会)、田畑健造(福宝堂)の4社が合併して日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。大正2年、向島撮影所が開所した。圧倒的に人気のあったのは目玉の松ちゃんの愛称で知られた尾上松之助の京都のチャンバラ映画であったが、向島撮影所からも、のちの巨匠、溝口健二、衣笠貞之助、稲垣浩などの人材を輩出している。震災により向島撮影所は壊滅するが、京都の撮影所から名作が続々生まれる。村田実「清作の妻」、溝口健二「日本橋」、伊藤大輔「忠次旅日記」などである。大河内伝次郎、岡田時彦、入江たか子、夏川静江、岡田嘉子などのスターがいた。戦後、日活は川島雄三、鈴木清順、今村昌平、浦山桐郎などの鬼才、異才の監督を育てた。昭和46年7月、日活は事実上倒産したが、低予算映画のロマンポルノ路線で再活動した。はじめロマンポルノは世間から軽蔑されていたが、昭和47年の神代辰巳「一条さゆり・濡れた欲情」から映画評論家から評価されるようになった。映画「暗室」は吉行淳之介の原作である。官能的文学を得意とする中年作家・中田は妻の事故死という疑惑に満ちた過去を引きずりながら、華道の師匠、パトロンのいる女、レズビアンの女らとの多彩な女性関係を結び続ける。そして、濃密な情事の果てに、中田と訣別していく愛すべき女たち…。男にとって限りない「暗室」である女を追い求め、深い官能に浸りながら、いま男は子宮に帰る。この時代、「女性上位」という言葉がよく使われたが、浦山監督も意識していたらしい。「日活」「にっかつ」はその社会的な役割を果たし終えて消えていくのであろう。

2007年5月24日 (木)

憲法第九条「戦争放棄」の映画

    昭和21年11月に公布された日本国憲法を記念し、その第9条「戦争放棄」をテーマに、当時日本映画の民主化の先頭に立っていた東宝砧撮影所の映画人が、その総意を結集して製作した画期的な反戦映画「戦争と平和」(昭和22年、東宝)。監督・亀井文夫、山本薩夫、出演・伊豆肇、池辺良、岸旗江、大久保翼、谷間小百合、菅井一郎、立花満枝。キネマ旬報ベストテンの第2位。

美しい山 なつかしい川

追われ追われて果てしなき旅よ

道づれは涙 幸せはない

国の外にも 国の中にも

   荒廃した中国の街角で盲目の娘が歌う「流亡曲」が流れる。大陸を放浪する健一(伊豆肇)は中国民衆の姿を目撃し、自分が一兵士として参加した侵略戦争の罪業の深さに胸をつかれる。健一の乗っていた輸送船が撃沈され、中国人に助けられ、そのまま中国軍に加わり、敗戦で復員する。東京は焦土と化していた。ようやくたずね当てた妻町子(岸旗江)は、負傷して帰国していた戦友康吉(池辺良)と結婚していた。健一は盛り場でかつての上官(菅井一郎)と出会う。彼は闇成金で大儲けしていた。「要するに戦争で損をする奴も多いが、大いに儲ける者もあるというわけだ。人間が欲望に支配されている限り、戦争を本当に止める力なんかどこにもありゃせんぞ」と。映画はここで終わるが、シナリオには次のシーンが続き、実際に撮影もされていた。

街。食糧デモ。その人々の足、足、足。路傍に立って見ている健一。その勢いにのまれるように思わず列にならんで歩き出す。いつの間にか、その列にまきこまれ、デモの一人と腕を組んで行く健一。デモの人々の顔。顔。顔。労働者の大デモ。整然たるその行進。高らかに空にひびく労働歌の合唱。

    亀井文夫(1908-1987)は、明治41年、福島県相馬郡原町(:現・南相馬市)に松本長七、くま、の次男として生まれた。昭和3年、文化学院在学中、ソビエトへわたったが、途中ウラジオストックの映画館で「上海ドキュメント」という映画に衝撃を受ける。レニングラード映画演劇学校に学んだのち、昭和8年、PCLに入社。昭和13年記録映画「上海」を発表。反戦姿勢が反響を呼び、昭和14年「戦ふ兵隊」は軍部から上映禁止処分をうける。昭和16年、治安維持法により逮捕。昭和20年「日本の悲劇」で天皇の戦争責任を問い、吉田茂が激怒。フィルムは没収、上映禁止。昭和22年「戦争と平和」を山本薩夫と共同監督。「文化は暴力では破壊できない」といって、東宝争議で退社。昭和30年、日本ドキュメントフィルムを設立して、「流血の記録砂川」「世界は恐怖する」「生きていてよかった」「人間みな兄弟」など社会的問題作を発表。(参考:山田和夫「日本映画101年」)

2007年5月 7日 (月)

青年同心隊

    江戸八丁堀は町奉行の組屋敷があり、同心が住んでいた町として、映画やテレビドラマの舞台として登場することが多い。江戸の市民たちが「八丁堀」あるいは「八丁堀の旦那」と言えば町奉行の与力や同心を指す。

    与力は、御留守居・大御番頭・御書院組頭・御鉄砲組頭・御持弓組頭など高位武官に直属する与力と、町奉行に所属する与力とがあった。

   与力の下役として同心がある。起源は戦国時代に寄親(大名配下の有力家臣)の要請に騎馬で応じる同心という組織に由来する。町奉行所では町方同心、市中見回りを行なった回り方同心がよく知られている。ほかに物書同心(書記役)といった役目もある。

   外役としては三廻り、つまり隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、があった。

   テレビドラマでは、必殺シリーズ第2作「必殺仕置人」(昭和48年)から登場した中村主人(藤田まこと)や「大江戸捜査網」(昭和45年)の隠密同心、十文字小弥太(杉良太郎)、井坂十蔵(瑳川哲朗)などお茶の間で知られている。ケペルとしては「青年同心隊」(昭和39年)という4人の見習い同心のドラマが印象に残る。配役は、西島一、高島英志郎、戸浦六宏、南広、石川進、石間健史、石浜朗、佐野周二など。主題歌が記憶にある。

         青年同心隊

  歩いても 歩いても

  虹はこの手につかめない

  けれど虹はそこにある

  七つの色に輝いて

  町と町と結んでる

  たとえ命はつきるとも

  虹を求める

  心はひとつ

  われら青年同心隊

2007年4月23日 (月)

パラダイン夫人の恋

    映画「パラダイン夫人の恋」(1947年、日本公開1953年)はヒッチコック作品のうちでは失敗作といわれている。「レベッカ」「白い恐怖」に続くデビット・O・セルズニック制作映画であり、制作にあたってはセルズニックの干渉が強かったと思われる。キャスティングもヒッチコックの思いのままにはならなかったのだろう。それほどセルズニックは個性の強い製作者であった。

   ハリウッドのプロデューサーのデビッド・O・セルズニック(1902-1965)は、無名女優を発掘して、大女優にする名人である。ヴィヴィアン・リー、ジョン・フォンティーン、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、アリダ・ヴァリなど。バーグマンのスウェーデン映画「間奏曲」を見て、バーグマンと専属契約を結んだ。「間奏曲」のリメイク作「別離」(1939年)でレスリー・ハワードの相手役に抜擢し華々しいハリウッド・デビューをした。ヒッチコック監督「白い恐怖」(1945年)ではグレゴリー・ぺックと共演した。しかしハリウッドにあきたらないものを感じていたバーグマンは再契約を希望するセルズニックを断わり、1947年米国を去った。

   セルズニックは第2のバーグマンを探した。アリダ・ヴァリ(1921-2006)だった。14歳でイタリアで20本もの作品に出演したが、プロパガンダ映画への抵抗から本国での映画出演が困難だった。戦後、セルズニックと専属契約し、ヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」(1947年)で売り出そうと画策した。セルズニック自らが脚本を担当した。相手役はグレゴリー・ぺック。ところがこの作品は興行的にも成功とは言えなかった。ヴァリはイタリア訛りが強いことも原因の一つといわれる。むしろこの映画で魅力的だったのは弁護士の妻のゲイ・キーン役のアン・トッド(1909-1993)だった。戦後のイギリス映画が最初に送り出したスター女優で、ハリウッド女優にはない知性と美貌が輝いていた。アリダ・ヴァリも翌年、キャロル・リード監督「第三の男」ではヒロインのアンナ役を演じ、国際的女優となった。セルズニックの作品にはダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」やグレアム・グリーンの「第三の男」と原作探しにも定評があるが、「パラダイン夫人の恋」もロバート・ヒッチェンズという小説家の原作である。ヒッチェンズの小説の映画化は、マレーネ・デートリッヒ主演の「砂漠の花園」(1936年)でセルズニックは一度成功している。今回、パラダイン夫人役には、引退していたグレタ・ガルボの起用を計画したが失敗した。パラダイン夫人の美しさに心を奪われる弁護士キーンには、グレゴリー・ぺックではなく、ローレンス・オリビエかロナルド・コールマンを起用したいところだった。若いぺックがパイプを加えて実年齢よりふけを演じているが、イギリスの弁護士の雰囲気をだすには無理があった。召使のアンドレ役のルイ・ジュールダンは美男すぎて野卑な感じが出せなかった。判事のチャールズ・ロートンがアン・トッドに欲望を感じており、アンが夫をパラダイン夫人に奪われるとの不安が法廷劇とは別に存在していた。盲目の夫の殺人事件という謎解きよりもスターの心理描写を味わう作品であろう。

風林火山、虚構と史実

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、歴史ドラマの醍醐味を存分に見せてくれる。原作は井上靖(1907-1991)が「小説新潮」に昭和28年10月から29年12月まで15回にわたり連載した中編小説である。同じ年には井上靖の代表作ともいえる「あすなろ物語」を「オール読物」(昭和28年1月から6月)に連載している。

  井上靖(1907-1991)は北海道上川郡旭川町で生まれ、伊豆湯ヶ島で幼年時代を、沼津で中学時代を、金沢で四高時代を、大阪で新聞記者として過ごしてきた。「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的物語と「風林火山」「信松尼記」(昭和29年群像3月号)などの歴史小説と異なるジャンルを並行して書き上げる多作の作家だった。なぜ井上靖は実在性を疑問視される山本勘助を小説にしたのだろうか。単行本の帯には次のように書かれている。

   戦国時代には合戦に当って、作戦を指導し、秘策を練るというものがあった。彼自身は一軍の大将でもなければ、英雄でも豪傑でもない。併し合戦の勝敗は、この匿れた孤独の作戦者に負うところが極めて多かったようである。「風林火山」の主人公は、武田信玄の軍師山本勘助である。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ疑わしいが、それをふと一人の軍師の自己韜晦として想像した時、筆者は堪らなく勘助を、そのような人物を書いてみたいと思った。

   同じ新聞記者出身の作家である司馬遼太郎と比較すると、司馬は歴史の史観を重要視するのに対して、井上は歴史スペクタルとしての歴史読物的な要素に関心があるように思える。

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、これまで大森寿美男のオリジナルストーリーの部分であったが、ようやく井上靖の原作の部分が放送されるようになった。

    天文11年6月、武田晴信は、諏訪に侵攻、桑原城を急襲した。諏訪頼重は桑原城を開城、降伏した。晴信は頼重を甲府に連行すると、切腹を命じた。頼重の息女で15歳の諏訪姫(小説・ドラマでは由布姫)は美貌の少女だった。晴信は姫を側室にした。武田の重臣たちは、いかに女人といえ、敵の片割れをお側に召すことはよろしからずと反対したが、山本勘助だけが、もし諏訪姫に男児ができれば、諏訪の遺臣や一族も、滅びた家名がつながるとして、賛成し、勘助の助言により姫を側室に迎えることができたという。

   第16回「運命の出会い」の場面の原作小説の一節。姫は辱めをうける前に自害を、という周囲の説得を拒否した。

   勘助はそれまで呆然と姫の方に見惚れていたが、いきなり立ち上がると、姫の腕を掴み、「なぜ、自刃するのがお厭です」と言った。勘助の手を振り解こうとしながら、頼重の女は下から勘助の顔を見上げた。その時は、いつか見たあの敵意ある眼眸だった。「みんな死んで行く。せめてわたし一人は生きていたい」姫は言った。その言葉は勘助が今までに耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。「わたしまでが死んでどうなるの。わたしは生きて、この城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の眼で見たい。死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。自分で死ぬなんて厭!」憑かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。

   山本勘助。三河国牛窪の生まれといわれ、川中島合戦に討死した(1561年)と「甲陽軍鑑」に伝えられるが、その実在性には疑問があった。小幡景憲の「甲陽軍鑑」が江戸時代に編集された偽書・虚構としてみられてきたからである。ところが1969年に、勘助の名が書かれた史料「市河(市川)文書」が発見された。1557年(弘治3年)6月23日市河藤若宛武田晴信書状に、市河藤若への使者の山本菅助がみえる。実在の人物を小幡景憲が甲州流軍学の始祖に仮託したものかも知れない。また「甲陽軍鑑」は、戦国時代特有の表現が使われ、正確に写し留めている部分も認められ、偽書説を否定する意見もでてきている。このように「風林火山」をめぐる問題は、ドラマと小説との虚構性だけではなく、史料と史実との食い違いがあるからといって、すべてを否定するのではなく、再検証して、史料としての可能性を探る動きが歴史界にもでてきた。山本勘助とはそのような象徴的な人物であり、その人物に焦点をあてた井上靖の先見性を評価すべきであろう。

   「風林火山の旗」は、「孫子の旗」「四如の旗」ともいい、武田晴信が孫子の兵法書に通じていたことから、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」から抜粋したもの(孫子四如の略語)であることは広く知られている。「甲陽軍鑑」には「黒地に金をもってこの四つの語を書きたり、旗は四方なり」とある。現在、恵林寺や雲峰寺に所蔵している「四如の旗」は江戸時代のもので、「甲陽軍鑑」に記載されたデザインとは大きく異なる。ともかく16文字(四字四連句)「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と14文字(七字二連句)「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と二種のデザインが見られる。16文字と14文字の2文字の違いは、一行目と二行目に「其」の字を入れ、全体を整えたものである。ところで「風林火山」の句の孫子の真意であるが、軍争篇(陣取り合戦)にあることから、軍事行動のカムフラージュ作戦をのべたものであるらしい。ドラマで山本勘助は「戦わずして勝つ」という軍略を述べていたが、「戦いに勝つには相手の裏をかき、自分の有利な条件になるよう臨機応変に物事を良く見計らった上で行動する」という意味にとらえ、調略の重要性を唱えており、屈強な武田の騎馬軍団の軍事行動と大きくことなる点も興味深い。

2007年3月23日 (金)

ジミーとピアとの悲恋物語

   ジェームズ・ディーン(1931-1955)は1950年、父のすすめでカリフォルニア大学の法律科に入ったが、俳優への執着は強く、演劇科へ移った。この時代にエキストラとして「底抜け艦隊」などに出演したが、芽が出ないと知ってニューヨークへ行きアクターズ・スタジオで演技を磨いた。ニューヨークで同棲したリズ・シェリダンと破局後、ポール・ニューマンの紹介で、イタリア女優ピア・アンジェリと出会った。瞬く間に二人は恋に堕ちる。しかし、宗教上の問題や、ジミーの自由奔放な生活スタイルなどに反対したピアの母親は恋する二人を引き離した。1954年にピアは歌手のヴィック・ダモーンと半ば強制的に結婚させられる。ピアの結婚式の当日、教会の向かいの道には、オートバイをとめて沈痛な表情をしたジミーがいたという噂もある。1955年9月30日、ジェームズ・ディーンは愛車ポルシェ・スパイダーを運転中に交通事故で亡くなる。この事故の直後の昭和30年10月、日本ではジミーの「エデン東」とピアの「銀の盃」とのワーナーシネマスコープがほぼ同時期に公開された。去りし恋人の死の知らせをピアはどんな気持ちで聞いたことだろう。

   ジミーの恋人ピア・アンジェリ(1932-1971)とはどのような女優であったのか。イタリアのサルジニア島生まれの清純派女優。双生児のもう1人マリサ・パヴァンは演技派女優で名作「バラの刺青」がある。ピアは美術学校卒業後、イタリア映画でデビュー。思春期映画「明日では遅すぎる」(1949)で、一躍世界中の若者たちのアイドルとなった。ハリウッドへ渡り、フレッド・ジンネマン監督の「テレサ」(1951)、「赤い唇」(1952)、「三つの恋の物語」(1953)、「君知るや南の国」(1953)、「銀の盃」(1954)、「傷だらけの栄光」(1956)と清楚な美しさで一時は人気があったが、マリリン・モンローなどのようなグラマラスな女優がもてはやされるようになり作品に恵まれず次第に存在感が薄れていく。ダニー・ケイ主演の「僕はついてる」(1958)を最後に、1961年にはヴック・ダモーンと離婚し、欧州へ戻る。イタリアでは映画音楽の大御所アルマンド・トロバヨーリと再婚するが、うまくいかなかった。「ソドムとゴモラ」(1963)、「バンコ・バンコ作戦」(1964)、「バジル大作戦」(1965)、「殺し屋専科」(1965)、「キング・オブ・アフリカ」(1968)、「吸盤男オクトマン」(1971)の撮影後の1971年9月10日、バビルツールの過剰服用で亡くなった。友人に充てた手紙には「愛はもう過去のもの。愛はポルシェの中で死にました」と伝えたという。ピアの選んだ相手のヴィック・ダモーン、アルマンド・トロバヨーリもそれぞれ才能ある人たちだが、ピアが親の反対を押してもジミーの愛を受け入れていれば、ジミーの不慮の死もなかっただろう。そうすると永遠の青春スターのジェームズ・ディーンではなくて、マーロン・ブランドーやポール・ニューマン以上の演技派の老優ジェームズ・ディーンの姿が見れたかもしれない。

昭和29年映画女優論

   昭和29年頃といえば、エリザベス・テーラーやマリリン・モンローなどのスターがトップクラスの人気があった。ところが映画「ローマの休日」(1953年アメリカ制作)が、昭和29年4月19日、公開されるや女優の魅力に大きな変化がおきた。はっとするような美しさ、あどけなさ、初々しさ、その全てが印象的である。

    オードリー・ヘプバーンはこの一作でアカデミー主演女優賞を獲得し、押しも押されぬ大スターになった。日本でも、街中でオードリーをまねたショートカットの若い女性が現れた。「映画の友」昭和29年10月号では津村秀夫、南部圭之助、筈見恒夫による「涼風映画鼎談」において女優論を語っているが、歴史的観点でかつての男性の女優観の一端をこの記事から読みとることができる。

津村 ルース・ローマンは駄目だね。この間「遠い国」を見たが実にまずいと思った。もう一人の女優、うん、コリンヌ・カルヴェか、あれに完全にやられている。ローマンは見放したよ。

筈見 この頃のスターの没落は早いからね。

津村 本当にアメリカ女優というのはいないよ。

筈見 オードリー・ヘプバーンはどう?

津村 ヘプバーンがでてきたね。あれは子供みたいなものでこれからどう成長するかわからないが、大したものだ。だけど戦前、ずらりと顔をならべていたような…

筈見 いや、僕のいうのはね、「ローマの休日」の人気で、あと引き継いてうけるかということだよ。

津村 一本だけじゃわからない。

筈見 一本でああ人気が出たのだから、それだけに早い。去年のいま頃はエリザベス・テーラーで騒いでいた。いまじゃテイラーの地盤がヘプバーンに行ったわけだろう。

津村 エリザベス・テイラーなんて吹けば飛ぶようなものだ。女の子が騒ぐだけで、あんなものは問題じゃない。

筈見 かりに、「ローマの休日」をエリザベス・テーラーやジーン・シモンズがやったらつまらんだろう。

南部 そりゃそうだ。ジーン・シモンズじゃつまらない。

津村 実際、アメリカ女優の凋落はひどいものだよ。誰がいるかということを考えさせられるね。

筈見 僕たちの考えが戦前的なのかもしれないが、戦後にこれは大丈夫というのはいないんだ。

記者 南部さん、オードリー・ヘプバーンはどうです?

南部 まあいいと思いますね。飯島君は、評価を引き下げる役にまわる方だと言っていたが、先生自身、彼女を買ってないんだね。大いに議論しようと思ったが、やめたよ。

筈見 女の子のことでは好みがそれぞれあるわけだから、やめよう。僕はね、「ローマの休日」はよかったが、みんながあまり言いやがんで、こつちは言わないよ。若い子なんか、オードリー・ヘプバーンがどうのこうのと言うが、こっちはキャサリン・ヘプバーンがいいと言いいたくなるんだ。同じヘプバーンでも、ちょっとヘプバーンがちがう、といいたいよ。

津村 それはね、批評家の評価の仕方もちがうよ。昔のヘプバーンは芸もうまかった。いまの芸はこれからで、素質がいい、というところで。何か別のものだな、あの魅力は。

筈見 キャサリン・ヘプバーンを初めて知ったときは、新鮮な個性があった。

津村 いまのヘプバーンはそれとちがうのだよ。

筈見 議論をしてもしようがない。よそうよ。

津村 両極端なのだよ、あの二人は。しかし、オードリーが欧州育ちというのは面白いな。アメリカにああいうのは育たない。昔からそうだよ。欧州で育ったやつがアメリカに行って売り出すんだね。純粋のアメリカ女優では誰だろう。ジョーン・クロフォードぐらいだ。

筈見 昔はいろいろいたよ。

津村 昔はいたさ。けれどもトーキーになってからでは?

筈見 まあグロリア・スワンスンは古いから別としても、トーキー以後になってからだって相当あるだろう。戦後にはワリにいないのだよ。

津村 マーナ・ロイなんかどうしちゃつたのかね。

筈見 ジューン・アリスンなんかはいい方だろう。

津村 あれは糠味噌くさい。糠味噌くさい女優は大物にはならん。

津村 イングリッド・バーグマンもグリア・ガースンも凋落が早かったな。ジェーン・ワイマンとか、「ブルックリン横町」のドロシー・マクガイアー、あれなんかでも非常に有望と思ったが、カスンじゃつたね。

筈見 ジェーン・ワイマンはつまらんよ。

津村 「偽りの花園」に出ていたテレサ・ライトなんか、伸びるかと思ったら案外だった。ああいうヒラメの刺身みたいなのはアメリカでは伸びないんだな。何か非常に弱々しいのだよ。

南部 黒鯛の刺身とはいえないかな。

津村 黒鯛はこまる。

南部 サヨリの刺身か…

筈見 テレサ・ライトってのは相手役女優としては物足りないよ。

津村 昔はいろいろいい女優がいたぞ。シルヴィア・シドニーとか、なんとか。写真を支えるようなのが。

南部 それに、昔は製作がしつかりしていた。

津村 スーザン・ヘイワードやリタ・ヘイワースが花形になるようじゃ心細いよ。

筈見 雰囲気を持っていないのだ。

津村 戦後のジョーン・クロフォードはごひいきなんだけども、今度は西部劇に出ているね。

津村 西部劇に出るということは、ちょつと凋落だな。それはそうと、ディートリッヒはまだ欧州で遊んでいるの?

記者 ええ。今度映画に出るという話もありますが。

津村 なんだかんだといっても、彼女は大立者だ。いまはそういうのがいない。

記者 このないだイギリスの舞台にノエル・カワードの紹介で出て、大変な人気だったそうです。

南部 彼女の記事はいまでもアメリカの雑誌に出ているよ。みんなに評判がよい。

南部 そう。あんなになると思わなかったなあ。スタンバーグ監督のおかげで出世したのかと思ってたら、そうじゃないんだね。

              *

   津村、南部、筈見の三氏はやはり戦前のスターがご贔屓らしく、新星オードリー・ヘプバーンの魅力については、認めるものの、うまくその魅力を表現できずになにかしらとまどいを感じているようみえるのが面白い。へプバーンの新鮮な魅力を発見したのは若い女性たちだったようだ。この鼎談からまもなくして、秋に「麗しのサブリナ」が公開された。監督のビリー・ワイルダーは「この子はふくらんだ胸を過去のものにしてしまうかもしれない」と言った予言は的中した。彼女のファション・センスは現在でも雑誌などで頻繁に取り上げられ、人々を魅了し続けている。

2007年3月17日 (土)

未知の女の手紙 続

   私はレストランで会った陽気な友達にさそわれダンス・ホールにまいりました。いつもの私でしたらすぐにも断ったにちがいないのですが、なにか拒みがたい魔力にひかれたと申しましょうか。そこになにかが私を待っているような期待を感じました。シャンパンをぬき、さわぎがひとしきりたかまったとき、私は不意に心臓がしめつけられるような気持で思わず立ちあがりました。隣りの卓子にお友達のかたとあなたが坐って、ほれぼれとした眼差で私を見つめていられたのです。あなたは眼で私に合図をして店をお出になりました。私はもちろん後を追いました。

   あなたは瞳を輝かし、微笑みながら私を待っていらした。そのとき、私はすぐに感じました。やはりあなたは私を御存知なかったのです。そして、あなたはまた新しく知らない女の私をお誘いになったのです。その様子で、あなたは、私をただの夜の女としか見られなかったことがよくわかりました。私は御一緒に車であなたのお宅にまいりました。そのときの気持ち、私にはすべてが過去と現在がぴたりと重なりあったような格好でした。

   あなたは私を抱いて下さった。私はもう一度、楽しい夜をあなたのお側ですごしました。朝ごはんをあなたの居間で一緒にいただいたのもこれがはじめてのことでした。でも、あなたは私の名前も住所もお訊きになろうとはなさらなかった。あなたにとって私はやはり一夜の火遊びの相手でしかなかったのです。あなたは近いうちにアメリカに旅行なさると仰いました。私はどんなにか「一緒に連れていって」と叫びたかったことでしょう。

   私は、「私の好きなひとも、いつも旅行がちなのです」と申しました。私を思いだしてくれるにちがいないと、あなたの瞳をじっと見つめておりました。けれども、あなたは「きっと帰ってきますよ」と慰めてくださっただけです。私は「帰っていらしても、もうすっかり忘れていますわ」と答えました。あなたは優しい瞳で私を御覧になって、「楽しい思い出は忘れ難い。あなたのことはいつまでもおぼえていますよ」と仰いました。でも、とうとう私のことは思い出してくださいませんでした。

   私は鏡の前で乱れた髪をなおしているとき、あなたがこっそりと私のマフの中に紙幣を押しこむ様子をみたとき、どうしてあなたをぶたなかったのでしょう。忘れるだけでなく、卑しい商売女にまで私をひきおとさなければならなかったあなただったのでしょうか。私は居たまれませんでした。私は机の上にあなたの誕生日のために贈った白薔薇が花瓶に生けられているのを見て、ねだりました。あなたは「どうぞ」といい、「贈主はまるで見当つかないんです。誰だかわからないだけに、ぼくはなお好きですよ」とお答えでした。私は、もう一度じっとあなたを見つめ、思い出して!とねがいましたが、あなたは接吻してくださっただけでした。

   私はあふれそうになった涙を見せまいと大急ぎで扉の方にまいりました。そのとき、あぶなくヨハン爺やにぶつかりそうになりました。ヨハンはこの瞬間に私を見てあっと驚いたようでした。子供のときから会ったことのないこの老人が私を思いだしてくれたことを知りました。私はあなたがマフの中に押し込んだ紙幣をヨハンの手に押し込んでやるのがやっとでした。ヨハンはこの一秒の間にあなたが一生かかってなさったことよりも、もっとたくさんのことをしてくれたのでした。あなただけが私を忘れ、思い出してくださいませんでした。

   坊やが亡くなりました。もはやこの世のなかでは私の愛する人はあなただけです。でも私のことを思い出してもいただけなかったあなたは私にとっては死んだも同然の私が、どうしてこれから生きている必要がありましょうか。ほかのどなたよりもあにたを愛しあなたを待ちながら、一度も呼んでくださらなかったその女の遺書をあなたが御覧になるのは、私がもうこの世にいないときでございましょう。

   これから、あなたのお誕生日に誰が白薔薇をお贈りましょうか?あのカット・グラスの花瓶も空になりましょう。せめて私のささやかなそして最後のお願いをきいていただけましょうか。これからのお誕生日ごとに白薔薇を、その花瓶に生けてくださいませ。私は神も、ミサも信じません。ただ、あなただけを信じ、あなただけを愛します。あなたを愛し、死ぬ女より、ではさようなら…。

    (シュテファン・ツヴァイク「見知らぬ女よりの手紙」)

2007年3月12日 (月)

忘れじの面影

   映画「忘れじの面影」(1948年)。1900年のウィーン。決闘を明日に控えたステファン(ルイ・ジュールダン)に、名も知らぬ女性(ジョーン・フォンティーン)から一通の手紙が届く。そこには、彼がピアニストとして嘱望されていた頃に彼の隣室に住んでいたことや、初恋を胸に母と共に引越しをしたがその後ウィーンに戻り彼と再会、素晴らしい一夜を過ごした、という女の想いが綴られていた。そして、再度会った時には彼はすでに女を忘れ、想い出の夜にやどした息子は病死、本人も今や死の床にあると手紙は告げる。

    シュテファン・ツバイクの小説「未知の女からの手紙」の映画化。主演のジョーン・フォンテーンの当時の夫・ウィリアム・ドージャーの協力で創立したランバート・プロ(この一作で解散)が制作を担当。監督のマックス・オフュルス(1902-1957)はウィーンの人でメロドラマの巨匠である。オフュルスはドイツからハリウッドに渡り1947年から1949年にかけて4本の作品をつくったが、アメリカではあまり評判にはならず、失意を抱いてヨーロッパに戻り、フランスで「輪舞」「快楽」をつくって名声を快復した。しかし「忘れじの面影」は決して失敗作ではなかった。イギリスでは1951年に公開され絶賛をあびている。ハリウッドでつくられた映画でウィーンの情緒と劇的にもロマンチックなムードを醸し出した作品も珍しい。手紙を受け取る男性は原作ではRという小説家だが、映画では音楽的な情緒を生かすためにコンサート・ピアニストにかえられているのもよい。日本でも昭和29年7月に公開され多くの人がその甘美さに浸った想い出のある佳作である。なお近年の中国の女性監督で女優のシュー・シンレイによりリメイクされたという。(ケペルは未見)「見知らぬ女からの手紙」(2004)主演はシュー・シンレイ、チアン・ウェン。

             *

    高名な小説家のRが山岳地方からの旅を終えてウィーンに帰ってきたとき、駅で買った新聞の日付をみて、自分の誕生日だったことに気づいた。「私もとうとう40になった」しかし、彼に何の感慨もなかった。車を雇って自宅に帰り、たまった手紙をニ、三開封してみた。そのなかで、見なれぬ部厚な封書はあとまわしにした。お茶が選ばれてきたので、Rは椅子にふかぶかと腰をおろし、葉巻に火をつけ、思いなおしてその手紙を手にとった。それは、大急ぎで書いたように見える二十四、五枚もある、手紙というより小説のように見えた。Rはもう一度封筒をとりあげ、なにか添書でもはいってないかと思い、調べたが住所も署名もどこにも見当たらなかった。書き出しは「私を御存知ないあなたへ」とあった。Rは不可解な気持ちに襲われて読むのをちょっとやめた。これは、はたして自分宛の手紙なのだろうか、それとも夢想の人への手紙なのであろうか。彼は急に好奇心にかられて熱心に読みはじめた。

2007年3月11日 (日)

竜雷太と甘利虎泰

   甘利備前守虎泰(?-1548)は板垣信方と共に、信虎・晴信二代に「両職」として仕えた宿老で、板垣信方が策謀家であったのに対して、甘利虎泰は忠実無私の純粋な武人だった。永正5年(1508)、14歳で甲斐守護職についた信虎をたすけ、国守の座をねらう同族の油川信恵父子討伐に活躍した虎泰にとっては、信虎追放計画を知らされ動揺するものの、断腸の思いで主君の追放に手を貸すことになる。また、晴信が諏訪頼重の娘を側室に迎えようとしたとき、諏訪領民の反感をつのらせるばかりか、将来の天下人としての履歴に傷になるといって大反対した律義者である。彼の武功の第一は、志賀攻城戦の時で、上杉憲政の救援軍を小田井原に迎え撃ち、一人で数十人をなで斬ったという。だがその報復ともいうべき上田原で討死した。

    大河ドラマ「風林火山」で甘利虎泰を演じているのは竜雷太である。「これが青春だ」(昭和42-43)の大岩雷太をそのまま芸名にする話があったが、本人の希望で本名の長谷川龍男の「龍」を「竜」として「竜雷太」が誕生した。劇中に英語の授業がよくあったが、ワーズワースの英詩「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」を読み上げるシーンが印象的である。「かつては目をくらませし光も消え去れり 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還らずとも なげくなかれ その奥に秘めたる力を見出すべし」と大岩先生は朗読する。女生徒の松本めぐみは東大志望の秀才の有川博に恋しているが、有川は上京し去っていく。松本は一目みようと教室をぬけだし、列車に別れを告げる。あとに残るは少女の涙ばかりなり。竜雷太の新曲「あの娘と暮らしたい」が流れる。伝説の青春ドラマの名場面は今も鮮やかに脳裏にうかぶ。竜雷太はいつまでも「どろんこ紳士たれ」と喝を入れてくれる逞しい大岩雷太先生なのだ。

      あの娘と暮らしたい

まだ来ないのさ 日が暮れるのに

窓からじっと 見ていよう

夕やけ雲の 彼方から

バスに揺られてくる 可愛い娘

恋は夜毎の セレナーデ

僕はあの娘と 暮らしたい

訂正 ワーズワースの詩がてでくる回はサイトをよく調べると「これが青春だ第21話、初恋をこんにちは」でした。そして主役は松本めぐみではなく、岡田可愛でした。松本めぐみが主演したのは、「第18話、さらば故郷」です。どちらも汽車を追いかけるシーンがあったので、長い歳月とともに記憶が混乱していたようで、訂正とお詫びします。流れていた曲は岡田可愛の新曲「悲しきカナリア」。それにしても、ブテッィック経営者と加山夫人、皆さんご活躍で喜ばしいことです。

千葉真一と板垣信方

    武田氏と祖先を同じくする板垣駿河守信方(1489-1548)は、武田信虎・晴信の父子二代に仕えた重臣である。晴信による信虎追放事件では、無血クーデター成功の原動力となり、また信虎を今川家へ送りとどける役目も引き受けている。青年晴信のよき補佐役となり、時には詩歌に興じる晴信に対して死を賭して諌めたというエピソードも伝えられている。晴信を擁立した信方は、さっそく上原城主の諏訪頼重、頼高兄弟を滅ぼし、信州攻略の足掛りをつくった。この天文11年から17年までの6年間、信方の作戦と指揮ぶりは、佐久の志賀城、小県の長窪城攻めと残虐をきわめた。天文17年(1548)2月、村上義清、小笠原長時との北信濃連合軍との上田原の合戦で、信方は戦死する。享年60歳。後年、徳川時代譜代の井伊家に受け継がれた「赤備え」という甲冑、武器、旗差物すべてを朱一色に統一した騎馬隊を考案したのは板垣信方である。

    大河ドラマ「風林火山」で板垣信方を演じている千葉真一は久しぶりにテレビでその雄姿を見せている。ハリウッドでは「サニー千葉」として国際スターとして活躍されていたようだが、ケペル世代としては千葉真一といえば「七色仮面」「アラーの使者」である。はじめ七色仮面こと蘭光太郎役は波島進だったが、アクションがイマイチだったため第32話「影なき挑戦」から千葉真一になった。この突如の交代劇に全国のお茶の間のチビッ子たちもさぞや驚いたことだろうが、新人の千葉はハンサムでカッコよかった。続く「アラーの使者」で子どもたちの人気は不動のものとなった。思えば「月光仮面」世代の子どもたちは、祝十郎役の大瀬康一と蘭光太郎、鳴海五郎役の千葉真一を永遠のヒーローと信じている。ところで「月光仮面」「七色仮面」「アラーの使者」の原作者は川内康範であるが、「正義の味方」は絶対に不正を許さない人なのだろう。一説によると月光仮面のモデルは大山倍達であるというが、千葉真一の原点を知るうえでも興味深い因縁である。

    昨夜の「風林火山・両雄死す」(7月15日放送)は千葉板垣と竜甘利が壮絶な最期をとげる上田原の戦闘の場面。いつかはくると思っていたがつらい。千葉の殺陣には鬼気迫るものを感じた。そして今日15日、突然、千葉真一の俳優引退発表を知る。「板垣の死とともに千葉真一を葬りたい」と。嗚呼、残念無念。しかし、流石、千葉真一らしい見事な引き際。長い間、ごくろうさま。千葉さんはいつまでもぼくらのヒーローです。たくさんの夢をありがとう。

2007年3月 4日 (日)

山中貞雄と鳴滝組

    山中貞雄(1909-1938)は昭和初期、サイレンとからトーキーへの変動期の映画監督。東亜キネマから昭和8年に日活京都撮影所に移籍した。アメリカ映画にならって、数名で脚本を執筆しようと山中貞雄が中心となって稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、三村伸太郎、萩原遼、土肥正幹(鈴木桃作)、藤井滋司ら監督・脚本家とともに鳴滝組というグループを結成した。鳴滝とは京都の洛西、鳴滝音戸山の周辺に住んでいたことに由来する。当時の京都は太秦や嵯峨に、日活、帝国キネマ、千恵蔵プロ、マキノ、寛十郎プロの撮影所があった。彼らは所属の撮影所は違っていたが、お互いに仕事を助け合ってシナリオを共同制作した。そして共同ペンネームを梶原金八と称した。梶原は山中貞雄ごひいきの当時の東大野球部の名投手梶原からとったもので、金に縁のない8人が儲かりますようにと、縁起をかついで金八と名付けたと伝えられている。

    梶原金八のシナリオは19本がある。稲垣浩「富士の白雪」、山中貞雄との共同監督の「関の弥太ッぺ」「怪盗白頭巾」、山中貞雄「勝鬨」「雁太郎街道」「海鳴り街道」、滝沢英輔「晴れる木曽路」「太閤記」「海内無双」「宮本武蔵」その他。そのうち3本を除いてことごとく山中貞雄が執筆している。昭和13年に山中は従軍中の中国北部で戦病死してから、昭和16年、稲垣浩の「海を渡る祭礼」を最後の作品として鳴滝組の活動は休止した。

2007年2月26日 (月)

永遠の青春映画「エデンの東」

「父はぼくを憎んでいるのだろうか?」

   日曜日の8時から10時までの2時間は父子の対立のドラマ二本がいま高視聴率である。大河ドラマ「風林火山」と日曜劇場「華麗なる一族」(MBS)は、武田信虎(仲代達矢)と信玄(市川亀治郎)、万表大介(北大路欣也)と鉄平(木村拓也)、時代や状況は異なるが、ともにドラマの基本的構図は父子の確執を描いている。ところで父子の対立を描いたドラマの元祖といえば、ジェームズ・ディーンの「エデンの東」ではないだろうか。

    アロン(リチャード・ダバロス)とキャル(ジェームズ・ディーン)は同じ両親から生まれたとは信じられないくらい、性格がちがっていた。兄のアロンは父アダム・トラスク(;レイモンド・マッセイ)の信頼も厚く、町の模範青年なのに、弟のキャルは暴れん坊のひねくれ者。父もキャルには手をやいていた。

   ある日、キャルは、彼を産み落としてから離婚していた母ケイト(ジョー・ヴァン・フリート)の噂を聞き、彼女が経営しているいかがわしい賭博業兼バーへ行ってみた。キャルは老醜の母に対して、懐かしさと同時にかすかな嫌悪の情を抱いた。

   父はレタスを冷凍化して大量輸送する新事業に夢中だったが、失敗して財産のほとんどを失う。キャルは、父の損害を自分で取り戻し、それにより父の愛情をかちえようと考えた。あの母親に頼みこんで3千ドルの大金を借りると、第1次大戦による食料不足を予測して、豆をつくる農業に投資した。彼の予測はあたり、父の損害以上の金を得ることができた。

    父の誕生日。父の喜ぶ顔を期待してキャルは例の金をプレゼントした。だが父は断固これを拒否した。そんなものより、兄とアブラ(ジュリー・ハリス)の婚約のほうがずっとうれしいというのだ。キャルの絶望、むくわれぬ愛の悲しみはいつしか兄への憎悪と変わっていく。キャルは兄を連れ出すと、母のところへ連れていった。死んだと思っていた母がまだ生きていたばかりか、自分の最も軽蔑している種類の女であったことを知り、兄のアロンは理性を失う。ヤケ酒におぼれ、苦しみから逃れようと半狂乱のまま、兵役を志願し、町を去っていった。

    ショックのあまり父も脳卒中で倒れ、身動きできない重病人となる。良心の呵責に耐えきれず、キャルは許しを乞うたが、父の顔には何の表情も浮かんでこなかった。アブラは、心からキャルを愛している自分にめざめ、アダムの枕もとで、キャルが父親の愛情に飢えていることを説いた。そしてアダムは、はじめてキャルに父親らしい愛情をしめし、父子の間に愛が甦るのだった。

2007年2月16日 (金)

懐かしのアメリカンTVウエスタン

  テレビ開局草創期はまだ番組制作力が弱かったため、アメリカンTVがゴールデンタイムに放送されるという状況が昭和30年代終わりまで続いて、子供心にも満足のゆくラインナップだったように思う。昭和34年の「ローハイド」はフランキー・レインが歌う「ローレン ローレン ローレン」という主題歌でおなじみのカウボーイの物語。主役はエリック・フレミングだがクリント・イーストウッドを世に送り出した西部劇として日本人にも記憶にのこる。チャック・コナーズの「ライフルマン」も忘れられない。「四角い顔にやさしい目」という主題歌が懐かしい。監督はなんとサム・ペキンパーだった。「ガンスモーク」は保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネス)が町の治安を守る姿を描く。「ボナンザー カートライト兄弟」では若きマイケル・ランドンがででいた。そのほかショットガン片手にひとり荒野を行くスティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」、ヒュー・オブライエンの「保安官ワイアットアープ」、ヘンリー・フォンダの「胸に輝く銀の星」、ジーン・バリーの「バットマスターソン」、ゲイル・ディヴィスの「アニーよ銃をとれ」、ジームズ・ガーナーの「マーべリック」。そのほかにファミリー西部劇というジャンルに「ララミー牧場」「バークレー牧場」「ワイオミングの兄弟」などがある。とくに淀川長治解説の「ララミー牧場」のロバート・フラーの人気はすごかった。ロバート・フラーの写真が表紙の学習ノートがあった。デューク・エイセスが歌った主題歌も広く知られている。

  ララミー牧場  井田誠一訳詩

草は青く 山遠く

ここは西部の 大草原

たそがれの 牧場に

のぼる煙り なつかしや

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

      *

白い雲が とんでゆく

空にひびくは ムチの音

ならず者は よせつけぬ

腰の拳銃 伊達じゃない

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

            *

沈む夕陽 追いかけて

山の向こうへ とんでゆく

たくましい 渡り鳥

明日のねぐらを 誰が知ろう

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

お通という理想的女性像

   吉川英治の「宮本武蔵」では、武蔵と小次郎は実在の人物であるが、お通、本位田又八、その親のお杉婆、恋人朱美、その母のお甲などはみな架空の人物である。吉川英治が朝日新聞の夕刊に連載をはじめた昭和10年ころは、人気作家でありながら、自ら創刊した「青年太陽」が危機的状態で、最初の妻やすとは離別状態であった。そのころ43歳の吉川英治は16歳の池戸文子と銀座の料亭で知り合う。お通の描写が清々しいのはどうやらこの少女のイメージが投影されているからであろう。お通は小説では、こう描かれている。

孤児であるうえに、寺育ちのせいもあるのだろう、お通という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。年は、去年が十六、許婚の又八とは、一つ下だった。

    お通のイメージは吉川英治にとっても理想的女性像になっている。それは多分に古風で、貞節で、ひたぶる情熱を秘めた美しい女性像である。これまで映画化されたお通役の女優といえば、轟夕起子、宮城千賀子、相馬千恵子、八千草薫、入江若葉などである。お通になぜかタカラヅカ出身の女優が多いのは「清く、正しく、美しく」のモットーの表れであろうか。実はお通・タカラヅカに熱き想いをよせたのは我らが千恵蔵御大なのだ。

   片岡千恵蔵は、昭和12年3月に千恵プロを解散し、日活「謳え春風」に続く第2作は吉川英治「宮本武蔵」(尾崎純監督)と決まった。ところが、お通が決まらなかった。千恵蔵は少し前、宝塚劇場に「モオンブルウメン」というミュージカルを見た。「あれ、なんとう女優だ?」「月組のトップスターで轟夕起子というんだよ。トルコという愛称で大変な人気だ」同行した曽我の説明を聞いて千恵蔵はうなずいた。そして引き続き、トルコさんがジュリア役を演じている「気まぐれジュリア」を見に行った。こんどは楽屋まで訪ねて、トルコはびっくりした。34歳の時代劇スターは、19歳のプリマドンナの甘く初々しい美しさに惹かれた。千恵蔵は製作会議で強硬に轟夕起子のお通起用を主張した。これまで宝塚から映画界入りは霧立のぼるくらいであまり例がなかった。この美男美女スターの共演は熱狂的な人気を呼んだ。続くマキノ正博監督「江戸の荒鷲」で轟が目を傷めた事件が婦人雑誌の大ニュースとなり、そのことが縁でマキノ正博と轟は結婚する。お通・轟は1本だけで終わった。千恵蔵にとつてみれば自分が宝塚から彼女を引き抜いてきたのに、まんまとマキノ正博に横取りされたかたちとなった。だが戦後のGHQ時代劇禁止時代の多羅尾伴内「シリーズ第一作七つの顔」(昭和22年)にも富豪令嬢・馬場きみ子役で轟とは共演している。千恵蔵が背広にソフト帽の姿で拳銃を撃つ。「ある時は老探偵多羅尾伴内、ある時は片目の運転手。またある時はインドの魔法使い。しかしてその実態は、正義と真実の人、藤村大造」この名台詞とともに映画は大ヒットした。やはり千恵蔵=轟共演は大衆に受ける要素があるようだ。

   轟夕起子の引き抜きで日活と宝塚でいざこざはあったものの、次のお通も宝塚の東風うららという研究生が抜擢された。芸名は宮城千賀子に決まった。監督は稲垣浩。しかし撮影中に千恵蔵は病気となり完成までに1年を要した。「宮本武蔵」の映画は数多いがこの戦前の稲垣浩を第一とする人は多いであろう。戦後の稲垣浩(東宝)では三船敏郎・八千草薫だった。純情可憐な娘という容姿の点では八千草・お通が一番かも知れない。ここまでが、タカラヅカお通で、内田吐夢監督は入江たか子の娘入江若葉を起用、ダイナミックな演出とリアリズムの武蔵が生まれる。テレビにもお通はよく登場する。梓英子、古手川祐子、賀来千香子、鶴田真由、米倉涼子。今後も新進女優によるお通が生まれるであろうが、お通は日本的女性の理想像なのであまり現代的イメージの強い女優はふさわしくないような気がする。(参考:田山力哉「千恵蔵一代」)

2007年2月14日 (水)

デコちゃんと函館大火

   昭和9年3月21日の夕から翌朝にかけて函館市に大火があったことと、戦前の少女スターが日本映画を代表するような女優として成長することと関連するといえば「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話として笑われるかもしれない。

   いまネットでは簡単に高峰秀子の「森の水車」を聞くことができる。

緑の森の彼方から 

陽気な唄が聞えます

あれは水車のまわる音

耳をすましてお聞きなさい

コトコト コットン コトコト コットン

ファミレドシドレミファ

コトコト コットン コトコト コツトン

仕事にはげみましょう

コトコト コットン コトコト コットン

いつの日か 楽しい春がやって来る

  戦後生まれのケペルもなぜか、ラジオからよく流れていた歌「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)はよく聞いた。荒井恵子がJOAKラジオ歌謡で昭和26年ヒットした。つづいて並木路子が歌っていたのを覚えている。この曲はもともとは高峰秀子がポリドール(当時は大東亜蓄音器レコードといった)からレコーディングして昭和17年9月に発売していたことを知ったのは最近のことである。しかしこの曲は昭和18年1月に警視庁が指導した敵性音楽としてレコード発売、演奏を禁止した法律により敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。「ファミレドシドレミファ」の部分が問題になったらしい。

   ところで、高峰秀子は戦前にレコードを三枚だしている。昭和16年9月「煙草屋の娘」「宵の明星」、昭和17年9月「森の水車」「小鳥よお前は声自慢」、昭和18年2月「歌へ山彦」「小鳥のやうに」。マンドリン音楽家の鈴木静一 は「歌へ山彦」と同年に轟夕起子の「お使いは自転車に乗って」で大ヒット曲をだしたが、高峰の主演映画「愛の世界 山猫とみの話」は不良少女の映画だったので暗い感じの主題歌は残念ながらヒットにはならなかったようだ。

    函館生まれの高峰は、昭和の歩みとともに、子役として映画界で活躍するが、昭和9年の函館大火で祖父一家7人が上京し、養父母あわせて9人の面倒をみなければいけない家庭状況となった。松竹から東宝への移籍、多数の映画出演、レコーディングなど多忙な仕事ぶりはそのような経済的な事情と関係があるようで、子役から女優高峰秀子へと成長する陰には、函館大火という大惨事が遠因するとみれば、人生とは思わぬ結果が生ずるという一例ではないだろうか。

2007年2月11日 (日)

片岡千恵蔵、武蔵で得た人間修養

    片岡千恵蔵(1903-1983)の晩年を田山力哉は、「千恵蔵一代」で次のように書いている。「死の三週間ばかり前、千恵蔵は病室のべッドに正座し、手をあわせてお経を読んでいた。頬はこけ、鬚も剃ってなく、蒼白な顔色、真っ白になった頭髪は総毛立ち、入れ歯を外した顎はガタガタしていた。その咽喉の奥からうなり声がひびき、それは経典の文句なのだった。その凄絶な姿は、彼がその長い俳優生活を通じて繰り返し演じてきた宮本武蔵の生き写しのように見る者に映じた。」

   昭和2年、吉川英治原作「万花地獄」(中島宝三監督)でデビューした千恵蔵は、昭和4年に「宮本武蔵」(井上金太郎監督、千恵プロ)、昭和12年に「宮本武蔵」(尾崎純監督、日活京都)、昭和15年「宮本武蔵 第1部 草分人々」(稲垣浩、日活京都)「第2部 栄達の門」(稲垣浩監督)「第3部 剣心一路」(稲垣浩監督)、昭和17年に「宮本武蔵 一乗寺の決闘」(稲垣浩監督、日活京都)、昭和18年に「宮本武蔵 二刀流開眼」(伊藤大輔監督、大映京都)「宮本武蔵 決闘般若坂」(伊藤大輔監督、大映京都)がある。後年、千恵蔵自身が次のように書いている。

「武蔵で得た人間修養」 片岡千恵蔵

   吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。(「吉川英治全集月報30」)

   戦前の稲垣浩監督の「宮本武蔵」は総集編的なものだけが現存するという。佐々木小次郎(月形龍之介)との決闘シーンを見た人も多いだろうが、千恵蔵の文中にある「巌流島の決闘」という映画がフィルモグラフィーにでてこないのは謎である。千恵蔵はその生涯に武蔵を10回演じており、持ち役のひとつであることは自身のエッセーからもうかがえる。しかるに「コンサイス日本人名事典」に千恵蔵の代表作の「宮本武蔵」が遺漏しているのは誠に遺憾である。もちろん代表作も多いので芸術性を優先しているのであろう。「国士無双」「赤西蠣太」「血槍富士」「大菩薩峠」など名作を採録しているが、やはし千恵蔵の真髄は大衆性娯楽性なので「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)や「宮本武蔵 一乗寺決闘」(稲垣浩)も是非のせてほしい。

2007年2月 8日 (木)

高峰秀子に恋した男たち

   高峰秀子は「細雪」に出演した関係で谷崎潤一郎とは家族ぐるみで交流があった。その谷崎に連れられて、高峰は新村出の京都の家を訪問した。玄関を入ると「私の等身大よりもっと大きなナショナル色つきポスターがビロンと下がっていた」のに驚いたという。新村は森鴎外「雁」が東大付近が写るというので、生まれて初めて映画を見て、お玉に惚れたのだろう。家中が高峰グッズで一杯になった。

   真面目な学者の新村だけではなく、政界・財界にも高峰ファンは多いと聞く。かつて司馬遼太郎が高峰と対談したとき「どういう教育をすれば、高峰秀子さんのような人間ができるのかなぁ・・・」と言ったそうだ。だが大人となって才気や知性を備えた高峰ではなく、まだ少女の頃の高峰を養女にほしがり2年にわたり養父となって歌とピアノを教えた東海林太郎もいる。梅原龍三郎は高峰秀子の肖像画を何枚も描いている。文人では、川口松太郎、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、井伏鱒二。なんと太宰と志賀は不仲は周知のとおりだがデコちゃん贔屓では一致している。今日出海、池島信平、大宅壮一、山田風太郎、扇谷正造、宮城道雄。映画界では、黒澤明、木下恵介、市川崑、小津安二郎、成瀬巳喜男など当然ながらも多数いる。

   最近、終戦後すぐの新東宝時代の作品「花ひらく真知子より」「三百六十五夜」を見た。曽根真知子、小牧蘭子の役だが、戦後の暗い世相でも秀子の顔をみれば元気がでた男性も多かっただろう。「三百六十五夜」は主題歌「緑の風におくれ毛が やさしく揺れる恋の夜」(霧島昇・松原操)という大ヒットメロドラマ。主演は上原謙と山根寿子だが、上原を追いかける大阪のお金持ちの娘・蘭子はおきゃんな恋敵役なのだが、見ている男はデコちゃんの美しさ、可愛さに惹かれてしまい、ヒロインの山根寿子には古風すぎて新鮮味が感じられない。当時はまだ和服の似合う女性、とデコちゃんのような新しい女性の二派に分かれていたのだろうが。やっぱり若い監督の市川崑も主役でない高峰に惹かれたのであろう。のちに東映がリメイクしたが、小牧蘭子の役を美空ひばりが演じているのは、多くの新東宝版を見た人が助演の高峰秀子の印象が強かったからに他ならないと思う。

2006年12月25日 (月)

幕末の剣術の流派

   「燃えよ剣」、伝蔵と裏通り先生が将棋を指しながらの会話。

伝蔵「近藤勇はんは何流だす」、裏通り「天然理心流だ」、伝蔵「伊東甲子太郎はんは何流だす」裏通り「北辰一刀流だ」、伝蔵「藤堂平助はんは何流だす」裏通り「北辰一刀流だ」。藤堂平助は試衛館以来の新選組生え抜きの近藤勇の同志であるが、剣術の同門である伊東甲子太郎の誘いに応じて新選組を離脱し、高台寺として新選組と反目し、京七条油小路に散った。伝蔵いわく「ほんま、お侍はんの流派ちゅうのは難しいもんだすなぁ」

    幕末期、剣術の流派は北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流の三大流派を筆頭に500もの流派が存在した。ここで幕末の剣客の流派をまとめてみよう。

北辰一刀流

千葉周作、清河八郎、伊東甲子太郎、山南敬助、藤堂平助、内海次郎、坂本龍馬

神道無念流

斉藤弥九郎、桂小五郎、芹沢鴨、永倉新八、新見錦、野村弥吉(井上勝)、品川弥二郎、渡辺昇、鈴木三樹三郎

天然理心流

山本満次郎、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、大谷勇雄、中島登、佐藤彦五郎、小島鹿之助

宝蔵院流

谷三十郎

心形刀流

島田魁

大嶋流槍術

加納道之助

2006年12月24日 (日)

団子鼻のトル子さんとデコちゃん

   「団子鼻のトル子さん」とは、轟夕起子(1917-1967)であり、「デコちゃん」とは高峰秀子(1924-  )のことである。最近、川本三郎が日本映画の黄金期のことを本にしたり、ケーブルテレビなどで古い日本映画を観る機会が増えたのでケペル世代でもその魅力を知ることができる。戦前・戦後の映画を見ていると、失われた生活風俗がディティールとして描かれているのでアーカイブスとしても貴重な作品が多い。なぜ田中絹代、原節子ではなくて、轟夕起子と高峰秀子かというと、明るくて元気な元祖国民的アイドル女優だからだ。

    轟夕起子は大正6年9月11日、東京市麻布区新堀町で生まれた。本名西山都留子(つるこ)をもじって、トルコの愛称がつく。小夜福子とのコンビで娘役のトップスターになる。山田耕筰が芸名の名付け親、撮影中に失明しかかって自殺未遂、マキノ正博監督との秘密結婚、「おつかいは自転車に乗って」(昭和18年)の大ヒットなど、話題は豊富である。高峰秀子は昭和4年に子役で出演し、娘役となってから「秀子の応援団長」「秀子の車掌さん」、戦後は「陽気な女」「銀座カンカン娘」「カルメン故郷に帰る」で、暗い世相を吹き飛ばしてくれた。轟と高峰が共演した作品も多いが、昭和21年2月の「陽気な女」(佐伯清監督)では、野村恒子(轟)と新井陽子(高峰)が灰燼に帰した東京の街を二人で元気で生きようと語り合うシーンは女性は頼もしいと感じた。新東宝の「細雪」でも幸子(轟)、妙子(高峰)で共演している。頭の回転がよくて天才肌、歌も芝居もうまい、ふたりの会話はどんなに楽しいだろうか。轟の晩年は不遇といわれるが、日活の文芸作品「陽のあたる坂道」「あじさいの歌」やテレビのホームドラマの母親役で存在感のある演技を示していた。

お雪と磯部玉枝

   燃えよ剣、第10話「堀川の夜雨」では、お雪という女性が登場する。武家の女で、京都で江戸の女性に出会った土方歳三は惚れる。きりっとした武家の作法を身につけていて、しかも火のような情熱をうちに秘めている。司馬遼太郎の原作には「まつ毛の美しい女」とある。演ずる磯辺玉枝は、まさに原作のお雪のイメージどおりだった。歳三を見つめる表情だけで、その想いを表現している。原作のお雪は、箱館まで歳三を慕って追ってくる。原作の描写を抜粋する。

   < おれの名は、悪名として残る。やりすぎた者の名は、すべて悪名として人々のなかに生きるものだ > 歳三は、もはや自分を、なま身の自分ではなく劇中の人物として観察する余裕がうまれはじめている。いや余裕というものではなく、いま過去を観察している歳三は、歳三のなかからあらために誕生した別の人物かもしれなかった。「お雪」と、つよく抱き締めた。お雪の体を責めている。お雪は懸命にそれを受けつけようとしていた。歳三は、もはやいま生きているという実感を、お雪の体の中にもとめる以外に手がなくなっていた。いや、もう一つある。戦うということである。それ以外に、歳三の現世はすべて消滅してしまった。お雪も、歳三のそういう生命のうめきというか、最後に噴きだそうとする何かを体中で感じとっているのか、悲嘆などはまったく乾ききったような心で歳三を受けた。

    女優の磯部玉枝については、昭和20年11月23日生まれで日活にいたことしか知らない。山本陽子にしても磯部玉枝にしても、吉永小百合の全盛時代の日活では、いい役がつかなかったのだろうか。日活は昭和40年代になると、アクションから任侠路線に変更したが失敗した。磯部玉枝も任侠映画とテレビ時代劇が芸能活動の中心であった。彼女の女優としての存在たらしめたのは、土方歳三の愛人、お雪の情感溢れる演技であろう。

安食堂でみかけたスター

   「スクリーン」誌の増田貴光の記事を拾い読みしていたら、心惹かれる記事があった。(昭和45年9月号)

   ワイキキの三流食堂(キャフェテリア)で、ジョン・エリックスンに会いました。彼も僕も3ドルほどの安い晩めしを食べていたわけですが、僕の安い晩メシは、もともとにしても、「ラプソディー」等、いっとき、リズ・テイラーと共演した事のあるスターが、3ドルの晩メシ、とは、いささかわびしい気持ちになりました。でも「緑の火エメラルド」や「ハニーにおまかせ」で貴方は日本ではポピュラーですよ」と、おせじを云いましたら、大変喜んで、サインしてくれました。

   ジョン・エリックスン(JOHN ERICSON)、日本語表記では、エリクソン、エリクスンなどいろいろだが、ともかく1950年代から70年代にかけて活躍した二枚目スターらしい。とくに「ハニーにおまかせ」(日本公開は昭和41年)は、女探偵ハニー・ウェスト(アン・フランシス)は確かに日本では有名だ。「禁断の惑星」以来、アン・フランシスの人気は根強いものがある。ジョン・エリックスンはアンの相棒のサム・ホルトという役だった。エリックスンは、その後も「女刑事ペパー」(アンジー・ディキンスン 昭和50年)、「ナイトライダー」(昭和57)、「超音速攻撃ヘリ、エアーウルフ」(ジョン・マイケル・ビンセント、昭和59)などのTVヒット作品に単発ながら出演しているようなので、かならずしも落ちぶれたスターというほどではない。安食堂で晩メシをとっていたジョン・エリックソンは、貧乏ではなくて、きっとつつましい生活を好む単なる「いい人」なんだろう。気軽にサインしてくれたし。

   ところで「スクリーン」誌の増田貴光のコーナーの後任は、なんとディスク・ジョッキーみのもんた。「ヤングのためのおしゃべりコーナー」という欄だが、読んでみると、まるで内容のない記事だった。増田貴光とみのもんた、芸能人の明暗は、神のみぞ知るである。

2006年12月23日 (土)

増田貴光と映画雑誌「スクリーン」

   洋画ファンのための雑誌「スクリーン」が創刊60周年を迎えて、2007年2月号に「歴代人気スター100人」の附録がとても懐かしくていい。昭和23年の表紙は、表がタイロン・パワー、裏が原節子で、定価は4円80銭。昔は「映画の友」のほうが人気があったが、ハリウッド映画が次第に低下するなかで、ヌーベルバーグのヨーロッパ映画中心のスクリーンに人気がでた。もっとも男子のお目当ては水着の外国女優の写真だったが。

   スクリーンの長い歴史から見れば、ほんのひとときの閃光のようなものなのだが、なぜかスクリーンというと映画評論家の増田貴光を思い出す。記事としては「ヤング・シネ・ジャーナル」「貴光のおしやべりルーム」など短いコラムなどで荻昌弘のような専門の映画評論は皆無だが、昭和45年から49年にかけてのテレビでの活躍ぶりが印象にあるからであろう。「また、貴方とお会いしましょう」とカッコよく視聴者に指を差し、若いわりに古い映画もよく知っていたことに驚かされた。「ベルト・クイズ・Q&Q」の司会、ラジオのパーソナリティー、「夜の虫」「こころの傷」とレコードまで出している。当時、高校の文化祭の人気タレント投票ではダントツの一位の人気者だった。例の川口松太郎宅への「一件落着証詐欺事件」や週刊誌などのホモ騒動などが芸能界の引退原因であろうが、罪はすでにつぐなわれ、ホモに対する社会観念も当時と現代では変化しており、あの70年代初頭の映画評論家・タレント増田貴光の全仕事を見直してもいいのではないだろうか。

   いま「スクリーン」の古雑誌を読み直すと、増田貴光の書いた一文には、映画の虚像の世界と現実との世界との混同、妄想がよくみられる。例えば、「スクリーン」昭和45年11月号には次のような記事がある。

   試写をみてから、既にみつきもたつというのに、今だに僕には「サテリコン」にとり憑かれていて、昨夜も巨大な鉄の船に乗り、斜めに引きあげられてくる鉛色の鯨に押しつぶされた夢をみて、怖ろしい勢いで眠りから醒めました。そんなふうに僕は完全に「サテリコン」の深みに飲み込まれていて、浮きあがる事が出来るのは、他の映画を観ている時だけです。信じて頂けないかも知れませんが、食事中でも「サテリコン」を想い浮かべると、激しい嘔吐にみまわれてそれ以上食が進まなくなったりするのです。おまけに、「サテリコン」を観てからというもの、自分自身、すっかりスランプに落ち込んでしまいました。あの魅惑的で、毒々しい画面のひとつひとつに、毎日どっぷりと浸っていたい気持でいっぱいなのに、朝、目が醒めるとテレビ局からの車が待っていて、毎日の生放送の司会に出かけてゆき、カメラの前に立つと、ニッコリ笑って「今日はお元気ですか」なんて云わなければならない。常々、人間が生きていく為のそういう矛盾は感じてはいるものの、それが一層ひどくなってスランプになったんです。しかし、何という事でしょう。そのスランプが僕には楽しくて楽しくて仕方がないのです。吐き気だって、「ゲッー」とやっている時は、大変良い気持ちなのです。酒を飲みすぎた時の吐き気等は我慢がならない程不快なのに、僕はこの違いに自分でも吃驚しています。TBSに高樋洋子さんという凄いほどの才能を持っている女性ディレクターがいて、彼女も「サテリコン」を観て、そんな状態になったと聞いて、こんな仲間がもっといたらなあ、と再び「サテリコン」の事を考え始めるのです。僕の「サテリコン」病は、まだまだ続きそうです。もしかしたら、一生、続くかも……。

   映画中毒症という病名は存在しないが、感受性豊かな若者が映画を観て、また多忙な仕事の中で人間性を喪失することは、十分に考えられると思う。そして精神医学の未発達であった1970年代という時代状況を考えると、増田貴光という時代の寵児に、社会はやさしくあってもいいような気がする。

 おなじく「スクリーン」昭和45年9月号には、彼の1週間の仕事のスケジュールがのっている。

 月曜日から金曜日までは、「ベルト・クイズ・Q&Q」の司会。生放送で12時から。火曜日の6時は「土曜映画劇場」の解説の収録。土曜日はNHKで青少年番組の司会。その真夜中に「オール・ナイト・フジ」という3時間あまりの超ワイドテレビ番組の映画コーナーで、新しい映画の紹介をしている。その他、毎週ではないけれど、ファッション・ショウの司会とか、いろいろなテレビやラジオ番組のゲスト出演がある。そして、「スクリーン」を始めとして三冊の月刊誌にレギュラーで原稿を書いている。まだある。検察庁主催の「風俗取締り委員会」という15人の委員で構成されている会の、僕もなぜか委員のひとりに選ばれて、ピンク映画やモーテルなどを見学して、意見や感想等を述べる、ということ。

裏通り先生と松本良順

   燃えよ剣、第15話「わかれ雲」では、伊東甲子太郎(外山高士)は近藤勇、土方歳三らと話し合い、伊東グループは御陵衛士として新選組からの分離がいよいよ決定的になる。(慶応3年3月16日)そのなかで、試衛館以来の同志である藤堂平助(平沢彰)は苦悩する。鷲尾真知子が若い。

   毎回、町医者の裏通り先生(左右田一平)と八木家の下男の伝蔵(小田部通麿)との会話がとても楽しい。裏通り先生は架空の人物だが、松本良順(1832-1907)という名医は幕末・明治に実在し、新選組とも親しい関係にあったという。裏通り先生の台詞にも「大阪に松本良順という名医がいるから、みてもらいなさい」という場面があった。

   松本良順は、医師佐藤泰然の次男として、天保3年6月、江戸麻布で生まれた。松本家の養子となり、西洋医学を長崎のポンペに学び、文久3年に西洋医学所頭取を拝命し、将軍家侍医となる。元治元年には近藤勇と交流し、慶応元年に上洛したさいには屯所を訪れるなど、新選組の理解者だった。緒方洪庵没後、西洋医学所頭取を継ぐ。戊辰戦争では旧幕軍に同行し、負傷者の治癒にあたりながら会津から仙台に向かったが、継戦を断念し、横浜から船行して縛につく。明治2年12月に放免され、明治5年、陸軍初代の軍医頭となり、軍医制度の確立に尽力。明治7年、初代の陸軍軍医総監となり、陸軍医務局長も務めた。のち西南戦争にも従軍した。男爵となり、明治40年3月20日に死亡。

2006年12月17日 (日)

京 三条 池田屋

    燃えよ剣、9話「京 三条 池田屋」は、新選組が雷名をあげた池田屋事件を取り上げている。司馬遼太郎の「燃えよ剣」で次のように書いている。

    「普通、この変で当時の実力派の志士の多数が斬殺、捕殺されたために、明治維新がすくなくとも一年は遅れた、といわれるが、おそらく逆であろう。この変によってむしろ明治維新が早くきたとみるほうが正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかもしれない。」とある。

   元治元年6月、京の四条西木屋町で武具商を営む枡屋喜右衛門(本名、古高俊太郎)方を捜索、連行し、拷問にかけると、尊攘派のクーデター計画を自白した。古高逮捕を知った尊攘派は、三条小橋の旅館池田屋に集まって善後策を協議していた。近藤勇は新選組を率いて討ち入りをかけた。祇園祭の宵宮でにぎわう6月5日の夕刻である。長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、土佐の北添貴佶摩、望月亀弥太、石川潤次郎らが斃れ、多くの捕縛者を得る。新選組の犠牲者は奥沢栄助。

2006年12月13日 (水)

「燃えよ剣」と「部長刑事」

    燃えよ剣、第8話「月明無名小路」。京の町、無名小路に面した古道具屋の番頭利助(宗近晴見)は、仕事に無関心な主人喜右ェ門に不審を抱いていた。店には志士の吉田稔麿(楠年明)などが出入りする。利助はおよう(松川純子)と土蔵を開けてみると、多数の武器弾薬が隠されていた。利助は賞金ほしさに新選組に通報した。主人は古高俊太郎(幸田宗丸)という勤皇の志士で、京に火を付け、長州勢をひきいれ、混乱に乗じて天子様を奪う計画であった。この回は池田屋事件の序幕である。

    吉田稔麿(1841-1864)は、吉田松陰の門下、四天王の一人である。池田屋で重傷を負い、いったん長州藩邸の門まで帰り、自刃した。稔麿に重傷を与えたのは、沖田総司だといわれている。ところで、吉田稔麿を演じているのは楠年明。関西に住んでいる人なら一度は見たであろう長寿番組「部長刑事」(1958-2002)の新田刑事だ。そういえば、井上源三郎の北村英三は大鍋部長、新見錦の飯沼慧は沼部長、と「燃えよ剣」は実にたくさんの「部長刑事」の役者さんがでているのも懐かしい。

2006年12月 3日 (日)

「映画の父」はリュミエール兄弟

    1889年、アメリカの発明家トーマス・A・エジソンは、動く映像をスクリーンに映写する実験を行なった。しかし、エジソンが1894年に公開したのは、スクリーンに映写する装置ではなく、箱の中にフィルムを装填する「キネトスコープ」で、一度に一人しか観ることのできないものだった。エジソンが「キネトスコープ」を先に完成させた訳は、スクリーン映写型の装置は大量販売には向かないと判断したためだといわれる。ほかにも、同様の実験を行なった科学者は数多くいた。ドイツのスクラダノフスキー兄弟や、イギリスのロバート・ウィリアム・ポール、フランスのオーギュスタン・ル・プランスなど。しかし結果的に観客の前にスクーリーンに映画を映すというスタイルの興行を1895年にパリで行なったフランスのリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が「映画の父」の称号を勝ち取ったのである。(参考:「週刊20世紀シネマ館」)

2006年11月29日 (水)

テレビの怪人たち

   司馬遼太郎はテレビ開局はじめの昭和30年代、テレビによくでていた。読売テレビの「素顔のタレント」とか「日本の文学」の平家物語の巻で解説をしていた。まだ「新選組血風録」を書く前のことである。

   淀川長冶は「日曜洋画劇場」の解説の以前に「ララミー牧場」の解説でお茶の間で知られていた。しかしその頃、アメリカの西部劇に詳しい人だとは知っていたが映画の宣伝マンとか「映画の友」の編集長だったとかは一部の人しか知らなかった。

   「そっくりショー」という人気番組の審査委員長の丸尾長顕も蝶ネクタイをしている紳士というだけで、どういう素性の人かわからなかった。少し大きくなって谷崎潤一郎の書いたものにその名前がでてくるので、日劇ヌードショーのプロデューサーであると知って驚いたものだ。

   寺内大吉もお寺の坊さんらしいけど「キックボクシング」の解説者で本職は小説家なのか、はっきりとは知らなかった。あとで知ったことだか、産経新聞の「文壇短信」というコラムを書いていた寺内が産経新聞の記者の福田定一に小説を書くようにすすめて、あらゆる懸賞小説の応募規定をあつめて東京から大阪にいる福田に郵送した。福田はその中から講談倶楽部賞に「ペルシャの幻術師」という小説60枚を2晩で書き上げて送った。それが「第8回講壇倶楽部賞」に選ばれ、福田定一は司馬遼太郎というペンネームで世に出たという。

   司馬遼太郎、淀川長冶、丸尾長顕、寺内大吉たちは、いずれもテレビでよく見る何をしているかわからないおじさんだった。子供にとっては、いわば「テレビの怪人」だったが、ケペルは年をとってから彼らの魅力にますますひかれている。

2006年11月 5日 (日)

東映城の栄枯盛衰記

    昭和29年から昭和36~37年頃までの約10年間、東映といえば時代劇というほど、時代劇の東映は隆盛をきわめた。「日本映画界の興行収入の半分は、東映がいただく」と大川社長は豪語したとおり、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、月形竜之介、東千代之介、中村錦之助、大川橋蔵、伏見扇太郎、里見浩太郎、中村賀津雄、北大路欣也、松方弘樹、山城新伍など綺羅星のスターが存在した。しかし日本の社会は昭和30年代半ばに変貌し、大きく転換していく中で、時代劇も変化していった。昭和37年の大川橋蔵の「天草四郎時貞」(大島渚)は、時代劇の根底的変質を象徴した作品となった。翌年には、「十三人の刺客」(工藤栄一)、「十七人の忍者」(長谷川安人)など、いわゆる集団残酷時代劇が登場する。昭和39年にはこうした傾向はますます強まり、「大殺陣」(工藤栄一)、「忍者狩り」(山内鉄也)、「十兵衛暗殺剣」(倉田準二)、「幕末残酷物語」(加藤泰)などこれまでの明朗時代劇をあとかたもなく粉砕してしまった。これらは作品的にはすぐれたものであろうが、一般観客にはとまどいを感じた部分があった。このような時代劇の衰退とともに、東映はチャンバラ映画から任侠映画、やくざ路線に切り替えるわけである。昭和30年代半ばから第二東映を設立し、現代劇にもジャンルを広げてきたが、ここにきて高倉健を中心とした映画が昭和39年「日本侠客伝」(マキノ雅弘)、昭和40年「網走番外地」(石井輝男)がヒットする。既成の時代劇スターの中には、これらやくざ映画の出演を嫌がる俳優もいた。大川橋蔵のように「銭形平次」テレビシリーズ一本をライフワークとしたスター、独立プロを立ち上げ時代劇再興を夢みた中村錦之助、松方弘樹のようにやくざ映画と時代劇を両方出演するスター、里見浩太郎、北大路欣也のようにテレビ時代劇中心に活動するスターと昭和40年頃はまさに時代劇スターの分岐点だった。

   東映はテレビ製作に力を入れるべく、昭和39年「東映京都プロダクション」を設立する。第1回作品が「忍びの者」である。品川隆二の熱演もさることながら、原健策の悪玉ぶりが絶妙である。そして昭和40年に「新選組血風録」がスタートする。このニ作品ともに、従来のテレビドラマには見られなかった迫真のリアリズムがあり、視聴者を魅了したことはいうまでもない。

2006年10月19日 (木)

久松文雄「スーパージェッター」

   「秦始皇帝」(文藝春秋)を一気に読破する。といってもコミック中国史。ていねいな線で書き上げた品のいい少年漫画風。作者はなんと「スーパージェッター」の久松文雄だった。ケペルは「少年サンデー」を昭和34年の創刊号から愛読していた。「0マン」「スポーツマン金太郎」「伊賀の影丸」「おそ松くん」「オバケのQ太郎」「怪球Xあらわる」毎週発売日には「エスペロー」という書店に40円を握り締めて走った。しかし昭和40年にもなると、そろそろ漫画を卒業しなければという気持ちも少年ながら芽生えてきた頃だった。そんなとき「スーパージェッター」の連載が始まった。その頃の「少年サンデー」は小沢さとる「サブマリン707」、手塚治虫「W3」や「バンパイヤ」などのSF漫画に人気があった。未来の国からやってきた「スパージッター」は「手塚治虫より手塚的!?」といわれるほど、品のいい柔らかなタッチでスマートなキャラクターだった。もちろん絵をまねて描くことも好きだったので、手塚治虫や横山光輝の描く影丸のような美少年が好きだった。スパージェッターと流星号はまさに少年の夢の世界であった。テレビのアニメ化もされ大人気であったように思う。しかしながら久松文雄は「風のフジ丸」「冒険ガボテン島」を描いてからあまりその作品を見ることはなかった。いま、平成6年の「秦始皇帝」をはじめ「項羽と劉邦」「李陵」「呉越燃ゆ」とコミック人物中国史をライフワークとしてじっくり取り組んでおられるという。昭和18年生まれということでまだお若いのに驚く。「スーパージェッター」はなんと21歳の時の作品だったとは。手塚治虫、横山光輝、巨匠の亡き後、少年漫画の伝統を生かしてがんばってほしい。

2006年10月 9日 (月)

懐かしのテレビ・ドラマのヒーローたち

   昭和30年代前半、男の子の「路上遊び」の王者といえば、なんといっても「めんこ」だった。ケペルが育った神戸では「べったん」といっていたが、全国的には「めんこ」といったほうがいいだろう。「めんこ」(京都書院)という本に「めんこはゲームの一種である。とはいうものの、単なるゲームではない。鬼ごっこやかくれんぼなどのゲームとは異なり、自分の所有物が増えたり減ったりするのである。当然のことながら、自分が勝てば相手からめんこを貰えるし、負ければ相手にめんこを渡さなければならない。いわば、真剣勝負である。おのずから心は燃えてくるし、熱くなる」とある。そして我が家には近所のガキからぶん取った戦利品のめんこが山のようにあった。それを見た親父にすごく叱られた思い出がある。

    ところでめんこの楽しみは二つある。ひとつはゲームとしての楽しみだが、もう一つは絵柄を見る楽しみである。題材は、相撲、野球、力道山などスポーツ・ヒーローだったが、「月光仮面」の登場によってテレビから生まれたヒーローに人気があった。しかし、テレビ・ヒーローを演じた俳優名は知らないことが多かった。テレビ・ヒーローはやがてブラウン管から姿を消してその雄姿にまみえることはない。たまにCATVで再放送しているのを見ると、家族団らんでテレビを見ていた昭和30年代のノスタルジーにひたる。こころみに懐かしのテレビドラマのヒーロー(松山容子はヒロイン)を演じた俳優名を挙げる。(無意味なことと思われるでしょうが、このブログでは人名のキーワードにポイントをおいております)

「ハリマオ」の勝木敏之、「月光仮面」「隠密剣士」の大瀬康一、「赤銅鈴之助」の尾上緑也、「海底人ハヤブサ」の井上信彦、「鉄腕アトム」の瀬川雅人、「ホームラン教室」の小柳徹、「風雲黒潮丸」の高嶋新太郎、伏見扇太郎、「遊星王子」の三村俊夫、「忍者部隊月光」の水木襄、「矢車剣之助」の手塚茂夫、「天馬天平」の富士八郎、「変幻三日月丸」の中山大介、「風雲児北条時宗」「噂の錦四郎」の松本錦四郎、「若君日本晴れ」の明智十三郎、「織田信長」の林真一郎、「怪傑鷹の羽」の岩井良介、太田博之、「まぼろし探偵」の加藤弘、「少年ジェット」の中島浩史、「鉄人28号」の内藤正一、「琴姫七変化」「霧姫さま」の松山容子、「眠狂四郎」の江見俊太郎、「宇宙Gメン」の平井昌一、「空手風雲児」の園田哲也、「姿三四郎」の倉丘伸太郎、「柔道の鬼 徳三宝」の宮部昭夫、「口笛探偵長」の松本栄蔵、「イガグリ君」の奈村端、「ポンポン大将」の桂小金治、「もうれつ先生」の相模武、「アッちゃん」の蔵忠芳、「若いいのち」の梶光夫、近藤正臣、「丸出だめ夫」の保積ぺぺ、「怪人四十面相」の中田博久、「光速エスパー」の三ツ木清隆、「七色仮面」の波島進、千葉真一、「アラーの使者」の千葉真一、「少年ケニヤ」の山川ワタル、「風小僧」の目黒祐樹、「ナショナルキッド」の小嶋一郎、「少年発明王」の山田喜芳、「くらやみ五段」の千葉真一、「怪人二十面相」「CQペット21」の佐伯徹、「少年探偵団」の富岡浩太郎、「名探偵X氏」の沼田曜一、小柳徹、「豹の眼」の大瀬康一、「白馬童子」の山城新伍、「小天狗小太郎」の藤間城太郎、「怪獣マリンコング」「ふしぎな少年」の太田博之、「竜巻小天狗」の高峯圭二、「まぼろし城」の和田孝、「天下の暴れん坊猿飛佐助」「紅孔雀」「白鳥の騎士」の沢村精四郎、「チャンピオン太」の遠藤恵一、「恐怖のミイラ」の松原緑郎、「ゼロ戦黒雲隊」の亀石征一郎、「ガッツジュン」の藤間文彦、「スパイキャッチャーJ3」の川津祐介、「ウルトラセブン」の森次晃嗣、「円盤戦争バンキッド」の奥田英二、「マグマ大使」の江木俊夫、「仮面の忍者赤影」の坂口祐三郎、「バンパイヤ」の水谷豊、「新撰組血風録」「燃えよ剣」の栗塚旭、島田順司、「柔道一直線」「刑事くん」の桜木健一などなど遺漏も多いと思うが羅列する。子供が見て楽しめる実写版ドラマは昭和40代半ばからアニメにその王座を譲ることになる。「鉄腕アトム」「鉄人28号」は実写版とアニメがあるが「巨人の星」の実写版はついに実現しなかった。(舞台で志垣太郎の星飛雄馬があったらしいが)子供向けドラマから千葉真一、山城新伍、太田博之、小柳徹、江木俊夫、水谷豊、桜木健一、奥田英二などスターを輩出しているが、ヒーローの多くは役のイメージが強すぎて役者として大成することが至難であった。

2006年9月29日 (金)

1920年代のアメリカ映画

    映画すなわち活動写真はエジソンの発明によるが、これに芸術を加えたのがフランスでありイタリアであった。そのころアメリカは彼らのあとに従う幼稚さであった。ところが活動写真がアメリカに黄金の運命をもたらした。それは第一次大戦によるアメリカの活気、カリフォルニアのハリウッドへと東部のスタジオを移したことだった。かくしてアメリカは広大なハリウッドの土地で自由なキャメラで連続活劇とドタバタ喜劇を製作した。アメリカ映画はグリフィスの詩情、デミルの豪華なるスペクタル、それにストロハイムの写実主義という三大監督が三つのスタイルでアメリカ映画を世界のアメリカ映画に発展させた。また喜劇が痛快で、チャップリンをはじめ、ロスコー・アーバックル、バスター・キートン、ベン・タービン、ハロルド・ロイドがでた。かくて1920年代、アメリカ映画は、メリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、グロリア・スワンスン、ウォーレス・リード、さらにルドルフ・ヴァレンチノなどのスターの時代へとその華麗なる発展をとげていった。1920年代後半といえばジャズ時代、映画はサイレント時代なるもこのジャズ時代と結びつかぬわけはない。映画は、モダン・ガール、モダン・ボーイ、その当時のチャールストン・ダンスに明け暮れるパーティー映画も盛んに製作された.映画では陽気なアメリカ人が十分に表現され、アメリカ映画は世界中のあこがれとなっていった。しかし突然の大不況。かくてアメリカ映画危うしの土壇場でアメリカ映画はトーキーへとその危機を切り抜けてゆくのである。(参考:淀川長治「1920年代のアメリカ映画」世界の歴史月報17)

2006年9月16日 (土)

NHKドラマ「風見鶏」と異人館ブーム

   ドラマの舞台がクローズアップされて全国的に知られることは、よくある話だが、神戸北野異人館のように閑静な住宅街が全国的な観光地となることはあまり例がないのではないだろうか。もっとも住民にとってはたいへん迷惑な話だろうが。

   昭和52年秋、NHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」のストーリーは、和歌山県太地に生まれ育った松浦ぎん(新井春美)が、波乱の生涯の中で「心の中の鯨」を追い求めるという話。夫となるブルックマイヤー(蟇目良)は神戸北野でパン屋を開く。このドイツ人のパン職人にはモデルが実在する。

    ハインリッヒ・フロインドリーブ(1884-1955)。ドイツのチューリンゲンに生まれ、中国の青島で菓子店を営んでいたが、第一次大戦で日本の捕虜となり、C・ユーハイムらと収容所で生活していた。来日して名古屋の敷島パン、大阪の灘万を経て、大正13年、神戸の中山手でパン店「フロインドリーブ」を開業。本格的な欧風パンと洋菓子を日本に定着させた。

2006年8月17日 (木)

NHKドラマ「アイウエオ」覚書

    前にケペル先生のブログで「NHKドラマ・アイウエオは名作だ」をのせたところ二人の方からコメントをいただいた。お二人よりはケペル先生が年長なので、いろいろ覚えていることもあるが、ビデオがない時代なので正確なことはあまりわからない。しかし、いくつか明らかになった事もあるので紹介したい。

    放送期間は、昭和42年1月から昭和43年3月まで、全70回。昭和42年は、明治百年ということで、記念番組が数多く企画されたが、「アイウエオ」は、教育のイロハの時代の意味であり、「教育の原点」とは何かを幕末から明治20年代頃を生きた親子二代にわたるドラマだ。そして脚本は、なんと早坂暁である。放送作家デビュー数年であり、彼の初期の作品ということになる。明治の時代考証がゆきとどいていたのは、東大教授の岡田章雄の援助があったからであろうか。70回という長期にわたる連続ドラマの終了後、第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞している。内容は明治の教育制度の確立過程を描くという意図であったが、事件がどんどん広がり、予定の1年を終ってもまとまらず、翌年の3月まで続いたが明治27年あたりまでを描きながら未完のまま終了したらしい。

    物語の最初の頃の重蔵(木村功)の回と終わり頃の彦一郎(堀勝之祐)の回のストーリーを紹介する。

    明治5年、重蔵たちの北海塾は、生徒がたった3人になってしまった。札幌にいくと金がもらえるというので、みんな村を出て行ってしまったのだ。重蔵はある日、開拓民のひとり徳次郎らとともに開拓庁に出かけ、岩村判官に会って金で人間を集める開拓使の政策は間違っていると抗議する。そのあと彦一郎(武岡淳一)は父重蔵が牢に入れられたと聞かされ、釈放を求めて判官のところへ談判しにいく。

    彦一郎(堀勝之祐)は、台頭する国家主義、戦争、植民地政策のなかでしだいに悩みを深くするが、皮肉にも朝鮮の青年の憎悪の目にはげしく心をゆさぶられたあとで、台湾の教化のために赴任してくれ、と懇請を受ける。意外にも、アイヌの血をひく妻は、涙を流しながら赴任してくれという。その地ではまた、いわれのない差別がはじまり、人の心が荒んでゆくだろう。だからこそ、その人たちに、あなたが必要なのだ、と。彦一郎の妻の役には、娘時代は、上原ゆかりであるが、成人してからは役者がかわっているかもしれないが思いだせない。

   長編ドラマでとても全編のストーリーは不明であるが、朝日新聞にも骨太の生真面目さで、どこにも媚のないドラマで、明治百年に最もふさわしい内容であると、好意的な記事であった。夜6時の放送の番組は、当時子供向けの時間帯だったので、小学生も見ていたのだろう。私は高校の受験を控えていたころだった。明治人の気骨が感じられ、前にも書いたが「巨人の星」とともに土曜日6時、7時は楽しみにしていた。ともに青年の人間形成を描いたドラマでいわばビルディング・ロマンスといえるであろう。ここ数年NHKBSでは韓国ドラマ「初恋」「クッキ」を放送したが、ともに人間形成ドラマといえるでろう。なお「アイウエオ」は、当時売出中の立川談志が神妙なナレーターをつとめていたという。「はちがつ」さんのご記憶で「留学中」とあるのは、おそらく彦一郎のアメリカ留学中のシーンだとおもいますが「アイウエオ」のことと思います。

2006年7月31日 (月)

ローマの休日・王女と安物ワイン

   日本ではワインというと、まだまだ高級志向があるが、ヨーロッパではワインは家庭の食卓にでるもので安価なワインこそ市井の暮らしの象徴だ。そうしたテーブル・ワインを映画の中でさりげなく小道具として登場させているのが「ローマの休日」のワン・シーンである。

   ヨーロッパ各地を親善訪問中のアン王女は、こっそり抜け出し一日ローマ見物を満喫した。夜の船上のダンス・パーティーでは、王女を連れて行こうとする秘密探偵たちとの大乱闘で、新聞記者ジョーと二人は川に転落してずぶ濡れになる。

    王女がシャワーを浴び、ガウン姿のまま部屋に出てくると、ジョーがワラの袴をはいたキアンティの赤を差し出した。トスカーナ地方を代表するワインだが、このタイプはとても上物とはいえず、ましてや王室の人が飲むような代物ではない。それを王女はふつうのグラスで飲み干し、「もう一杯、ください」と催促した。半日前、王女はローマの街で生まれてはじめてカフェに入り、躊躇せずにいつも飲み慣れているシャンパンを注文していた。いまは、安物ワインを味わっているのである。王女が名残惜しそうにグラスを傾ける姿が何ともいじらしかった。

2006年7月22日 (土)

キネマ旬報人気投票 大正14年

         日本女優

1 岡田嘉子                      781

2 英百合子                      518

3 砂田駒子                      366

4 マキノ輝子                    198

5 栗島すみ子                   105

         日本男優

1 坂東妻三郎                   521

2 中野英治                     412

3 鈴木伝明                     289

4 近藤伊与吉                   263

5 勝見庸太郎                   243

         外国女優

1 リリアン・ギッシュ           473

2 グロリア・スワンスン      279

3 メリー・ピックフォード      247

4 ノーマ・シアラー         234

5 アラ・ナジモヴァ         171

         外国男優

1 ダグラス・フェアバンクス 384

2 リチャード・バーセルメス 371

3 ジャック・カトラン      311

4 ラモン・ナヴァロ       183

5 アドルフ・マンジュー       148

2006年7月 2日 (日)

映画「カサブランカ」

    ヒットラーの野望が全欧州に広がり、パリがすでにナチスに占領されていた1940年、フランス領モロッコの港町カサブランカには政治亡命者、反ナチの闘士、スパイ、犯罪者、利権屋などが渦巻いていた。そうした人たちの出入りする「カフェ・アメリカン」の経営者リックは苦労人で、侠気からいろんな人々に頼られていた。彼らは一様に転出査証を求めているのだ。折りしもドイツからの2人の急使が殺害されて旅券が奪われる。犯人はリックの店に逃げこみ、偶然その1枚がリックの手にはいった。

   反ナチの大立者ヴィクター・ラズロも妻と共にカサブランカにやってきてアメリカへの脱出の機会をうかがっていたが、それを阻止するためこの地に派遣されたゲシュタポ、ストラッサー少佐の監視はきびしかった。ラズロはリックの手にある旅券を譲ってほしいと頼む。

   カフェを訪れたイルサ・ラズロは、店にピアノひきの黒人がいるのを知って驚く。「時の過ぎ行くままに」という曲がかつての恋人イルサとリックを再会させたのだ。パリ陥落の日、愛し合うリックとイルサはともに脱出するはずだった。だがイルサのやむを得ぬ裏切りからふたりは離ればなれになったのだった。

   灼熱の太陽が白壁にまぶしい辺地で、昔日の愛情は再び燃えあがる。イルサははじめてなぜにパリで約束の時間に行かなかったかをリックに語る。それはナチスに捕らえられて死んだと思っていた夫が、重態でかくまわれていることを知ったためだった。

   ラズロは暗黒街の顔役フェラリに頼んで旅券を手に入れようとする。1枚さえあれば妻をアメリカへ逃避させることが出来るのだ。またイルサはリックに1枚を夫に渡してくれと頼む。ラズロが妻を深く愛していることを知ったリックは、夫の解放運動にもどんなに彼女が必要であるかを知って自分の恋をあきらめる決心をする。

   カサブランカの警視総監ルノオ大尉はリックの身辺や「カフェ・アメリカン」に大きな変化があるのを感じていたが、ストラッサー少佐には報告しなかった。彼には自由のために戦う尊さが次第に分かりかけてきたのだった。

   リックの体内にも昔日の闘志がよみがえってきた。ルノオ大尉をあざむいて同志の会合に出かけて捕らえられたラズロを釈放させ、それから脱出の手はずを整える。それはリツクがイルサとリスボンへ駆け落ちするかのようにみせかける大芝居をうつことだった。

   脱出を知ったゲシュタポのストラッサー少佐は、阻止せんものと飛行場にかけつけるが、リックは射殺してしまう。それを見ていてもルノオ大尉は逮捕しようとしなかった。彼もまた自由人なのだ。

   リックはルノオ大尉と共に夜空にリスボンをめざして飛んで行くラズロ夫妻の機をじっと見送るのだった。

2006年6月28日 (水)

小森和子とジェームズ・ディーン

   「映画の友」昭和31年9月号を読む。表紙はマリリン・モンロー。記事は淀川長治「エリア・カザンはじめてのシネマスコープ色彩映画 エデンの東」を紹介。しかしこの時まだ淀川は試写を見ていない。

    小森和子の「このところお賑やかな新入生教室   その名を覚えるのが困難なほど新型ぞくぞくと登場、さて、貴方の最新型のごひいきは誰?」という記事がそそられる。「実生活ではいろいろとお差支えも生じましょうが、映画の上でなら浮気もお好きな放題、どうぞご迷惑も税金のかかりようもありません。そこで、うだるような今日このごろのつれづれに、居ながらにして多情仏心の楽しさわ味わうのも鎖夏の一策。今月は私も夏休みをいただいてせめてそのご案内役なとつとめましょう。ここにご紹介します面々は、いずれも近き将来にスターダムにのしあがらんとする新人たち」「ところでうち見たところ、ズバ抜けた美男美女といえるほどの人はいませんね。しかし、みなそれぞれにひとくせもあり、心惹くものを持っています。これがいわゆる個性的魅力というものではないでしょうか」といい、先ずトップがなんと、アーネスト・ボーグナインだ。(ただし写真なし)アルド・レイ、ウィリアム・キャンベル、ベン・クーパー、ラス・タンブリンとつづいて、ジェームズ・ディーンが登場する。「まだ本もの(映画で)にはお目にかかりませんが興味シンシンなのはエデンの東のジェームズ・ディーン。前評判は二代目マーロン・ブロンドとのことですがモンティ・クリフト的なものが感じられます。5尺10寸に155ポンドというきゃしゃな体つきとなにか物憂そうな眼つきがそう想わせるのでしょうか。早くから母を失いインディアナ州フェアモントの叔父の農場で育ったというこの若者には今からいとおしさが感じられてなりません」小森のおばちゃは、すでに映画を見ずして、ジミーに「ビビビ・・・」と感じたのだ。

2006年6月26日 (月)

オリーヴの下に平和はない

   イタリア中部の丘陵地帯のチォチャリア。ある日、一人の若者が復員してきた。彼はフランチェスコといい、戦前は羊飼いだったが、彼の以前所有していた羊は今では村のボスであるアゴスティーノに盗まれていた。フランチェスコはこの事件を訴えたくとも証人がアゴスティーノに脅迫され沈黙しているのでどうすることもできなかった。そのわずかな証人の中にはフランチェスコのかつての恋人リチアもいた。彼女は今でも彼を愛していたが両親のためには好きでもないアゴスティーノの婚約者にならなければならなかった。

   その婚約披露の晩、フランチェスコは妹のマリアを連れて自分たちの羊の群を取り戻しリチアと一緒に逃げようとアゴスティーノの家を襲った。だが家の外で逃げ遅れたマリアはアゴスティーノに掴まって暴行を受けてしまった。

   翌朝フランチェスコは窃盗のかどで逮捕され、間もなく開かれた裁判はことごとく彼に不利なものであった。フランチェスコが投獄されてもなお、アゴスティーノは満足せず、貪欲な彼は高い地代で羊飼たちに牧場を貸そうと、この地一帯の牧場を手に入れることに成功した。このことは、彼に対する反感を一層はげしくした。

   一方、監獄を脱走して山に逃げ込んだフランチェスコは妹のマリアの復讐のためにアゴスティーノの間隙を狙っていた。それを知ったルチアは矢も盾もたまらずフランチェスコの隠れている山へ走った。彼はルチアと手を携えて警官隊の包囲を逃れアゴスティーノの家へ向かった。

   いち早くフランチェスコを見つけたアゴスティーノは機銃をとって発射した。フランチェスコはかすり傷を負った。既にアゴスティーノに犯され行く処もなく彼の家にいたマリアはアゴスティーノと逃げた。恐怖に襲われた彼は、羊飼たちに助けを求めた。しかしすべての家の戸は閉められていた。気狂いのように逃げまどう彼は逆上のあまり怒りをマリアに向けてついに彼女を絞殺した。

   マリアの屍体を発見して激怒した羊飼たちはアゴスティーノの逃げ道をすべて封じた。フランチェスコは死にもの狂いで機銃を撃ってくるアゴスティーノに一歩一歩と近づいていった。やがて、弾丸を射ちつくして崖ぎわまで追いつめられたアゴスティーノは足をふみはずして、まっさかさまに谷底へ落ちていった。今は復讐を終えたフランチェスコは駆けつけた警官隊に潔く両手を差し出すのであった。(イタリア映画 1950年)

「何と申しましょうか」小西得郎

    昭和30年6月7日、後楽園球場で行われた巨人対中日戦の出来事である。中日の杉下茂投手は打者の藤尾茂にシュートを投げた。藤尾は腰をくの字に曲げたがよけ切れず、ボールはなんと藤尾の股間の一物に命中してしまった。藤尾は、激痛に悶え苦しみ、脂汗が流れはじめた。

    当日は、ネット裏でNHKの志村正順アナウンサーと小西得郎がラジオの実況中継をしていた。志村アナウンサーは「当たりました。杉下のうなるような剛球が、なんと藤尾のき・・・・」。志村はここまで放送したが、さすがにあとの言葉が出ない。そこで志村アナは、左ぐつで小西の右ぐつを蹴っ飛ばした。次はあんたがいえという催促なのだ。

 くつを蹴っ飛ばされた小西も弱った。仕方がない。マイクに向かって何か言わなければならない。「なんと申しましょうか・・・・」。ここで間をおき、一呼吸してからポンといってのけた。「藤尾君の今の痛さばかりは、ご婦人には絶対、わからない痛さでして・・・」これが受けた。小西さん、よくいってくれたという感動の声が寄せられた。

   この件については、あとで小西さん自身もこんなことを言っている。「解説を終えて帰宅したら、小泉信三先生から電話をもらいまして、きょうの解説はよかった。あれでいいんだってほめてくださいました。あの一言が私の解説稼業の支えになりました。」(参考:近藤唯之『プロ野球監督列伝』)

2006年6月25日 (日)

マリリン・モンローの朝鮮訪問

   昭和29年2月上旬、東京を吹きまくったマリリン・モンロー旋風は、西へ西へと移動し、九州まで及んだ。夫君ジョー・ディマジオが野球コーチに専念しているあいだ、さらにモンロー女史は単身飛行機で朝鮮へと旅立った。

   ジェ-ン・ラッセルからマリリン・モンローへとGⅠのピンナップ・ガールの今や№1となった折も折、当のご本尊がやって来たとあっては、集まるわ集まるわ、国連軍最大の作戦といえどもこれほどのGⅠが参集することはないと言われる。

   特設のステージの上にたったマリリンを囲む、男、男、男・・・・。「こんなに男ばっかり集まっているのを見たのは生まれてはじめてだワ!」という彼女、およらくはよくぞ女に生まれけり、と心から思ったに違いない。寒い朝鮮の冬の下で、薄いドレス一枚での歴史的な大熱唱のステージだった。

2006年6月18日 (日)

イタリア映画「道」

   イタリアの荒れた海辺の村に住む娘ジェルソミーナを、ある日、大道芸人のザンパノーが買いに来た。今まで助手に使っていた彼女の姉が死んだからだ。

  ザンパノーは乱暴者で野獣のような男だった。旅に出発したその日の夜にジェルソミーナは強姦同様に体を奪われて、一時は悲しみに沈んだが、やがて彼に対して女らしい愛情をひそかに抱きはじめる。

  しかしそんな気持ちにザンパノーが気づくはずもなく、金があれば酒を飲み、娼婦を買い、ついにたまりかねてジェルソミーナは彼のもとを逃げ出したが、町で綱渡りを見物したあと発見され、手荒く連れ戻されてしまった。

  背中に天使のような羽根をつけて空中高く綱を渡っていた男はキ印というあだ名で、小さいバイオリンから妙なるメロディーを奏で出すこの男と、その後ザンパノーと一緒に加わったサーカス一座で知り合った。なぜか最初から男二人は仲が悪く、それが傷害事件にまで発展して、ザンパノーは留置場にほうり込まれてしまった。

  それをチャンスに彼から離れようと考えたジェルソミーナを、その夜やさしくさとしたのはキ印だった。「道ばたの小石だってきっと、誰かの役に立つようにと神様は創られたのだ」と。

   それならば、たとえ報われなくとも自分はザンパノーのそばにいて彼の役に立とう・・・・みんなから馬鹿にされるジェルソミーナにもやっとひとつの生き甲斐が生まれた。

  しかしザンパノーの生活は相変わらずで、ある夜親切に泊めてくれた尼僧院から聖器を盗み出そうとする有り様である。そればかりか、人気のない田舎道でバッタリ出会ったキ印を、誤って今度は殺してしまった。

   ジェルソミーナの気が狂ってしまったのはその事件以来であった。もはや大道芸の助手としても役に立たなくなった彼女を、ザンパノーは彼女が眠っているすきに雪の残る道に捨てた。

   数年がたった。年をとってうらぶれ果てたザンパノーは、海岸の町で、ジェルソミーナの死を聞かされた。夜、酔いしれて砂浜に出た彼は、見上げた空の星に、はじめて孤独の恐ろしさを知った。自分にとっての救いがジェルソミーナだったことに気づいて、野獣のような目に彼はとめどない涙を流すのだった。

真実の口

  「ローマの休日」の撮影のほとんどはローマ市内のロケであった。新進女優のオードリー・ヘップバーンは、監督ウィリアム・ワイラーのキメ細かい指導どおりに素直に演技し、撮影は順調だった。ただこの年の夏の異常な暑さを除けばであるが。

  最も世界の人々から愛された映画のひつとつである「ローマの休日」の数々の名シーンの中でも「真実の口」という場面がとくに人々の記憶に残るであろう。グレゴリー・ペックが真実の口に手を入れたとたん、手がかまれて、オードリーが今にも泣き叫ばんばかりに心配するという、まことに愛らしいシーンだ。新人オードリーの魅力である純真さが最も光輝く。

  ところがこのアイデアは、実はグレゴリー・ペックのアイデアが一役かっている。ペックは数日前に見たテレビ番組「スケルトン大笑劇場」でレッド・スケルトンのギャグを思い出し、監督に発案を申し出たのだ。名作とは俳優と監督が一体となって、和気藹々のムードの中で生まれることもあるという代表例であろう。

リチャード・キンブル

  リチャード・キンブルという名前は、「リチャード・キンブル。職業医師。正しかるべき正義も時として盲しいる事がある。」というナレーション(日本語訳では矢島正明)で始まるアメリカABCのテレビ番組「逃亡者」(1963~1967)の主演デビッド・ジャンセンが演じた役名であるが、「スーパーマン」のクラーク・ケントや「ベン・ケーシー」とともに日本人にもなじみの深いアメリカ人名のひとつである。

  妻の殺害という無実の罪で死刑を宣告されたが、州立刑務所へ移送中に列車事故でからくも脱走した。無実の罪を自らの手で晴らすために、ジェラード警部(バリー・モース)の執拗な追跡をかわしながらも、なぞの真犯人「片腕の男」を捜す。「孤独と戦いながら、今日を、そして明日を生きるために」。毎回の逃避行のスリリングな展開とキンブルの知的で物静かな態度に女性ファンが魅了された。声優の睦五郎も適任だった。

  この「逃亡者」のテレビ・シナリオには実際の事件をヒントに書かれたらしい。モデルとなった医師サム・シェパードは1954年のオハイオ州の自宅で妻を殴り殺した罪で、有罪を宣告された。最高裁はマスコミの報道に陪審員が影響されたとして、1966年では証拠不十分で無罪になっている。

   

2006年6月11日 (日)

NHK連続テレビ小説論

  昭和36年「娘と私」(獅子文六)、昭和37年「あしたの風(」壺井栄)、昭和38年「あかつき」(武者小路実篤)、昭和39年「うず潮」(林芙美子)、昭和40年「たまゆら」(川端康成)、昭和41年「おはなはん」(林謙一)と第1回から第6回までを一覧する。そもそも連続テレビ小説というのは、新聞小説のような味わいで文芸作品をドラマ化するという試みであろう。現在のような新進女優の登竜門となったのは第4回の林美智子と第6回の樫山文枝の人気によって、朝ドラ・ヒロインが定着したのである。

 その中で「たまゆら」は川端康成の初のテレビに書き下ろし、映画界の名優・笠智衆はテレビ初出演という意欲作であった。川端の1回分の分量が400字詰め1枚半。これを山田豊、尾崎甫が脚本にする。扇千景、直木晶子、亀井光代の3人の娘は美人ぞろい。平和な家庭である。これだけ条件がそろいながら、評判はあまり良くなかった。家庭内の平凡な生活ばかりがダラダラつづき、事件らしいものは一つもない。ようするに「つまらない」の一言に尽きる。川端文学の世界と昭和40年時代の視聴者のテンポとには大きな隔たりがあったようだ。続く「おはなはん」が登場したとき、ヒロインのたくましさと聡明さ、明治の近代的女性の魅力、次々起こる事件、多くの視聴者は「おはなはん」に感情移入できた。6年目にしてようやく連続テレビ小説のスタッフは成功の方程式をつかんだようだ。

デビッド・O・セルズニック

 近年著作権の保護期限を過ぎた往年の洋画DVDが安価で購入できることはとても有難い。洋画はいろいろ見てきたが、たくさんの中から個人コレクションしたい作品はセルズニック製作のものです。デビッド・O・セルズニック(1902~1965)は最も有名なアメリカ映画製作者だとおもいますが、MGM・パラマウント・ユニバーサルという大会社の製作者ではなく、独立プロダクション「セルズニック・インターナショナル」という小さな会社です。それだけにスタジオの経費削減や映画の撮影現場への干渉も細かく、製作はいつも難航します。しかしセルズニックの映画作りへの情熱と執念はどの作品を見てもわかります。作品にはアメリカの良識が色濃くでていますが、なによりも功績はスターを発掘しその魅力をスクリーンに表現することには天才的だったことでしょう。「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーを筆頭に、「レベッカ」「断崖」のジョーン・フォンテーン、「別離」のイングリッド・バーグマン、「聖少女」「白昼の決闘」「ジョニーの肖像」「終着駅」のジェニファー・ジョーンズ、「第三の男」のアリダ・ヴァリ、男優では「白い恐怖」のグレゴリー・ペックや「疑惑の花園」のジョセフ・コットンなどです。とくにイングリッド・バーグマンは後年ハリウッドを去りヨーロッパで活動の場を求めますが、結局セルズニック時代の作品が彼女の魅力のすべてを今日に伝えています。

2006年6月10日 (土)

NHK番組「アイウエオ」は名作だ

 NHKサービスセンターの「テレビ50年」(平成15年)というムックを読む。連続テレビ小説、大河ドラマ、紅白歌合戦などこの半世紀わたしたちはNHKの番組を通じて教養・文化・娯楽を享受してきた。そして50年の歳月にはテレビを囲んでみんなで見た家族団欒の楽しい思い出がある。このブログ名もNHKの番組から拝借している。だが「テレビ50年」の資料一覧を何度もさがすのだが、なんと「アイウエオ」が掲載されてないのである。そこでどんな番組であったかをおぼろげな記憶ながら紹介する。放送年は昭和43年。総合テレビ夜6時から6時30分。出演は堀勝之祐、渡辺康子、武岡淳一、上原ゆかり、中村雅子。それに大物スターとして木村功、織本順吉ら青俳の役者がでている。内容は幕末の時代で北海道の蝦夷地での木村功の物語ではじまるが、実際の主役は息子役の堀勝之祐である。いまは声優で有名であるが若き日の堀の力強い声の魅力で明治の気骨が表現されていた。札幌農学校時代の内村鑑三や新渡戸稲造らも登場するが、堀はアメリカへ留学し帰国する。織本に何を学んだか聞かれ、アメリカで音楽を学んだという。あきれ顔の織本が印象に残る。明治iに西洋音楽を導入した教育者・伊沢修二も登場する。しかし堀のモデルは誰か定かでない。脚本家はかなりすぐれた人だと思う。この年は明治100年で企画されたものだろう。感動的なシーンが多かったが細かい点は覚えていない。なぜ昭和43年を覚えているかというと、土曜日7時は日本テレビの「巨人の星」があったからだ。「アイウエオ」をみたあと、さらに「巨人の星」でモーレツに感動したものである。もちろん「巨人の星」はDVDを持っている。しかし本当に大人になったいまもう一度みたいドラマは「アイウエオ」である。

 なぜこのような名作の連続ドラマが資料から漏れたのか不可解である。「NHK年鑑を基に作成したもので、すべての番組が掲載されているわけではありません」と断りがあることから、若い担当者が機械的にリストアップしたものなのだろう。考えるに番組の放送時間帯から子供向けドラマとしての評価か。実際に青少年にふさわしい内容だったので類似番組が少ないだけに割愛されたのは惜しい。他にも子供向けだが柔道家の徳三宝のドラマを見た記憶があるが、やはり「テレビ50年」には見当たらなかった。