久々の更新になってしまい、大変お恥ずかしい限りです。
さて、成田空港近くに、航空科学博物館という日本で最初にオープンした航空博物館があります。そこには、YS-11やら三菱のビジネスジェットMU-2など往年の名機が展示されています。
戦後日本初の民間旅客機YS-11。ターボフロップ双発機で、
昭和40年に量産1号機を納入。以後、合計182機が生産さ
れたが、売上が伸びず昭和48年に生産終了
三菱重工「MU-2」。7人乗りのビジネスジェットで、昭和38年
から合計762機生産された。昭和62年に生産終了
こうした往年の名機を眺めるのは、とても素晴らしいことですが、現在の日本の航空産業が、実質的に海外メーカーの「下請け」に甘んじていることを残念に思います。
もちろん日本企業は技術レベルが高いので、主翼であるとか胴体であるとか、航空機の重要な部分の製造を担っているわけですが、やはり日本オリジナルの飛行機が空を飛んでくれることを、心から願うものであります。
その意味で、後ろ向きな報道も数ある中、三菱ジェットMRJには、技術面だけでなく販売・経営面でもぜひ成功してほしいものです!
(MRJのホームページ)
http://www.mrj-japan.com/
(三菱ジェットに懸ける思い)
三菱重工業株式会社 取締役会長 西岡喬 氏
http://www.takarabe-hrj.co.jp/ring_016.htm
*財部誠一さんの取材に同行させていただいた時の記事です
(航空機部品の共同受注組織の例)
航空機部品共同受注グループ「ウィングウィン岡山」
http://www.wing-win.jp/
*2005年4月に取材しました
話が飛びましたが、今回航空科学博物館を訪れて驚いたのは、エンジンの実物展示がかなりあったことです。
これは、型式を失念してしまいましたが、ボーイング747のエンジン実物です。写真の左側から空気を取り入れ、コンプレッサー羽根を高速回転させて空気を圧縮。そこに燃料を噴射して点火し、高圧の燃焼ガスを右側に排出するという構造です
ちなみに、これは航空自衛隊の旧T-2高等練習機のエンジンブレード(ブレード内部に冷却構造がないので空気を圧縮するコンプレッサーブレードではないかと思います)。こういった羽根一枚一枚が、こんな感じで(下記写真参照)、くっついているわけですね
ボーイング747のエンジン拡大写真。ブレードが実際にエンジンに装着されているところを、初めて見ました!
話は前後しますが、なな、なんと、古めかしいV型12気筒のレシプロエンジンがあるではありませんか――。もちろん戦前のプロペラ機に装備されていたものです。
これは昭和2年頃から三菱重工が製造していた「イスパノスイザエンジン」で、設計は仏イスパノスイザ社。水冷で出力は450馬力とのこと。手持ちの資料(『写真図説日本海軍航空隊』)で調べてみたところ、複葉2座の13式艦上攻撃機に装備されていたということです。
そして、今回最大の驚きが、これ――。
三菱重工が昭和19年に陸軍用に開発した「ハ50」です! 星形空冷エンジンで、11気筒×2列で出力は2600馬力。これは3基試作されたうちの1基で、昭和59年に羽田空港で発掘されたものだそうです。
かのゼロ戦(零式艦上戦闘機)21型に搭載されていた「栄12型」エンジンの出力が940馬力(離昇)、同52型の「栄21型」が1130馬力(同上)でしたから、ハ50がどれだけ大きなエンジンだったか想像がつくでしょうか。
これは現在でもあまり変わらないのですが、1国の国力は、エンジンの開発力に現れるという考え方があります。
あの戦争の時代、日本の航空産業は大馬力エンジンの開発に苦労していました。
陸軍の四式戦「疾風」や海軍の「紫電改」といった戦闘機に使用された、有名な中島飛行機製の「ハ45」(離昇1,825馬力/海軍名は「誉21型」で離昇1,990馬力)にしろ、不調が相次ぎ、同エンジンを搭載した機体が思ったほどの成果を上げることができなかった、ということがよく言われています。
そこには、当時のエンジンの無理な(コンパクトかつ高性能を狙いすぎていた)設計思想はもちろん、材料・システムなどの関連技術の未熟に加え、工作不良も非常にありました。これは戦争後期になるほどひどくなっていくのですが、当時のパイロットたちの回想記を読むと、「日本の飛行機のエンジンからは絶えず潤滑油が漏れていた。なのにアメリカの飛行機のエンジンにはまったく油漏れがない」という記述をよく目にします。
当時の日本の機械加工の精度が非常に悪かったことの証でしょう。(当時の国産)工作機械の精度不足然り、熟練工の召集や「勤労動員」による現場作業員の技能低下然り――。
私は戦後日本は、こうした技術面での敗戦を真剣に受け止め、「あの失敗を繰り返してはならない」と、がむしゃらにものづくりに取り組んだ結果、今の地位を築いたのではないかと思っています。
つまり、日本の技術は昔から「一流」だったわけではなく、反省のあるところに技術の進歩があったわけで、逆に言えば、反省のないところに技術の進歩なし――。
これはおそらく、今後も変わらない戒め、ともいえるものでしょう。
エンジンを眺めていると、日本の技術の歴史がぼんやりと見えてくるようです
by parkmount
「民団、民主・公明支援へ」―…