author : 奥野 隆司 | 2008.11.28 Friday
祖国復興日本浄礼
今回の厚生省事務次官刺殺事件はテロではなく、小泉純一郎指揮下のもと
五千万件の名簿紛失した実行犯の口封じのため小泉純一郎の支配下のもと
山口組の犯行である。
実行犯は東京、弘道会小松組である、俺は事件の二日後の朝、山口組本家、
弘道会小松組どちらにも電話しこいつらの慌てぶりを確認している。
したがって小泉毅は身代わり出頭であって実行犯ではない。
警察はコイツで帳尻をあわそうと行動している見たいな気配だが、
この事だけを取ってみても山口組と警察のウラの繋がりが立証されるのでないのか、
そのつなぎの役をしているのが小泉純一郎である
詳しくは、インターネットホームページ司誠開発
尚、現在の各省庁の不手際はこのような根本的な国の乱れからなりたっている
ものであって、すべての国のトップ連中は諦め、妥協で流されているのが
現状ではないのか!昨日オバマ次期大統領が今回の金融危機の対策として
アメリカの国債を発行して60兆以上もの国債を日本に買い取らす事を示唆している。
アメリカの国債は買いっぱなしで現金に換える事は出来ない、ようするに紙切れを
買えと脅迫されているのである。
俺が前から言っている様にアメリカにとって日本は金ずるでしかないという事が
証明されたのではないのか!
金が無くなれば切り捨てられるだけ!こんな簡単な仕組みがなぜ今の日本人は
分からないのか、戦後60年アメリカの指揮下のもと金儲けばかりに走り
表向きだけは良くなったのだがそれは中身がないハリボテのトラのような国に
成り下がったのではないのか、少子化問題、ニート問題、地方過疎化問題等は
外にばかり目を向けた結果ではないのか!
もっと内向きに足もとを固め家族や地域の繋がり農業酪農や杉の木の伐採の手入れを
今職のない人達に斡旋し自給料を上げる事に着手する事を
もっと早く目を向けなけらばならなかったのではないのか、内需拡大をする事により
日本国全体に活気が甦って来るのではないのか、
今からでも遅くはなく、次の時代の子供達の為の世の中を作るため俺と泉は
決して諦めることなく前向きに努力していきます。
俺達2人はいつか又巡り合い必ず結ばれます。俺達2人は大きな夢を見続け
これからも生き続けていきます。
俺は元々一匹狼だ、仲間が一人もいなくても信じた道を貫き通す、
俺の死に様を良く見届けて下さい。
本気の奥野隆司 ヨロシク!
追伸:小泉毅が出頭したのは俺が山口組にでんわしたから、山口組が組織の
繋がりがばれるのを恐れたため!
小泉毅が実行犯としても、単独の可能性は低い、警察は色んな角度から
事件を考え行動しなけらばいけない、色んな可能性を考えなければいけない。
何故、背後関係を調べる調査をしないのか!
株式会社 司誠開発
NPO法人 泉学園

| 警察 政治家 極道 右翼 | 20:35 | comments(8) | trackbacks(0) |
▲
確かに本当ならとか信じない方もおられる方も思うかもしれませんが、私は奥野さんの事一部ですが存じてます。 後こんな事嘘なら公表も載せれないですよ堂々と何もかも。 私は総合的に奥野さんが好きですし応援したいです。
| 日本人 | 2008/12/07 11:14 AM |
記載されてる事が本当なら…あなた自身の安全がなくなるんぢゃないかな…って思ったんですが、精神病患者さんでしたね!ww
| もしも | 2008/12/07 6:20 AM |
二代目高山組有本興業のほうが毅の住所に近いですがそちらは今回関係ないのでしょうか。
| 侠 | 2008/12/06 5:00 AM |
嘉悦孝子伝
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第二十二章 敗れたる祖国と共に
孝にとって輝ける年であった昭和十五年の暮、筆者は戦病を得て現役を免除され、傷痍軍人として金沢陸軍病院から帰還した。
この年、陸海軍の支持を失った阿部内閣に代って米内光政内閣が誕生したが、米内内閣打倒を目差す陸軍首脳部の意向にそって畑陸軍大臣が単独辞職をし、これによって内閣は第二次近衛内閣となった。阿部・米内の二代にわたる武人内閣に代った文人内閣ではあったが、中国を支援する米・英両国は日本に対する経済封鎖を強め、日本はいよいよ独・伊枢軸側に接近せざるをえなくなり、九月二十七日、日独伊三国協定に調印し、英米に対する対抗の姿勢を強めて行った。
昭和十六年に入って、四月には“日ソ中立条約”を締結、つづいて野村吉三郎駐米大使とハル国務長官による日米交渉が始まったが進展を見せず、七月には在米日本資産の凍結、ついで英国・蘭印も資産凍結を行い、日蘭民間石油協定を停止。八月アメリカは日本に対する石油輸出を全面的に禁止して、ますます対日経済封鎖を強めてきた。
石油を産出しない日本にとって、この措置は真綿で首を締められるどころではなく、短刀を突きつけられたも同然であった。
それでもなお、今上陛下も近衛首相も中国との和解を希望し、陸海軍の説得に努力したが及ばず、十月第三次近衛内閣に代って、現役軍人東条英機内閣が誕生した。もう日本は英米と一戦を交える他なかった。
手を拱いていれば餓死しかない。
武人の意地とか、軍人の強がり、軍国主義やファシズムというものでもない。(東条首相といえども個人独裁ではなく、政党は解消していたが一党独裁でもなかったのであるから、けっしてファシズムではなかった)
植民地化・奴隷化に対する、日本民族必死の抵抗であり、決死の覚悟による自衛であった。
今にして思えば、日本民族の宿命であったと言う他ないであろう。
戦後、東条大将を戦争好きの野心家のように誦する近視眼者流文化人もあるが、東条大将を含めて当時の陸海軍人や戦争遂行に参与した人々を非難することは正しくない。
日本民族すべてが、その時点にあっては、“愛国者”であり、護国の魂を堅持した人々であったと解するのが正しい日本人観である。
嘉悦孝もまたその一人であった。
昭和十六年十二月八日、一年生の級担任であった筆者は、校長嘉悦孝や千人に近い生徒と共に、校庭で“開戦の御詔勅”を拝した。
だが、この年、この月の三十日、思いがけない事故が孝を待ち受けていた。
その日は、お正月にそなえての大掃除の日であった。
早朝から孝は、家人や帰郷しない寄宿生の先頭に立って、七十五歳の年令を感じさせずに帚をもち叩きをもって立働いていた。
千駄ヶ谷の孝の居宅兼寄宿舎の一隅に孝の居間と仏間・寝室があり、その居間の床の間の後が地下室の階段で、孝は叩で床の間うらから障子に叩をかけようとして足を踏みすべらせ、二間ほどの階段下に転落し頭を強打して意識不明に陥ったのである。
何事も人委せにしないで、率先して仕事をする孝の積極性が招いた事故ではあったが、七十五歳の肉体にとっては大きすぎる事故であった。
一週間近く、意識不明の昏睡状態が続いた。意識の回復が無ければ、たとえ生命はとり止めたとしても廃人である。
昭和十七年のお正月は、戦果こそ“真珠湾攻撃”“マレー沖海戦”についで、一月二日にはマニラ占領などと華々しかったが、嘉悦家にとっては明るいものではなかった。
しかし、やっと一週間目ぐらいに昏睡から醒めて、すこしずつ食欲も出て、側で看護っている吾々を安心させたが、打撲の個所が脳であったので意識に混濁があり、記憶の快復は遅々としていた。例えば筆者の顔をみて“アア、康人さんかい”と言っても、弟の顔は見忘れていて“貴女さんはどなただったかね”などと聞いたりする。
それでも、熱海に転地療養したりして、約半年程の静養で、幸いにもこれらの症状も無くなり、周囲の者は安堵の胸を撫で下ろした。
こうして、十七年の秋頃からはボツボツと学校へも出校できるようになり、孝は嘉悦孝たる能力を失わずに社会復帰をすることができたが、何といっても七十五歳の肉体が受けたこの事故は大きく、かつての老いを知らぬかと思われた孝の心身にも衰えが目立ち始めたことは否定できないことであった。
大きな使命を果した嘉悦孝という一個の魂が、七十五年間の酷使を経てやっと安息の日々を迎えられる時機が当来し、休養と報酬を受ける生活に落着くことができる状態になった。だが、孝個人についてはそうであっても、社会的には孝といえどもそれが許されない時代であった。
| 大城戸中将 | 2008/12/06 2:47 AM |
もう死ねよこのアルツハイマー野郎は
| | 2008/12/05 6:35 PM |
最近の写真も載せて下さい。
| 魂 | 2008/12/04 7:19 PM |
よかっかた返事頂けませんか?
| 日本人 | 2008/12/01 12:44 AM |
(*≧m≦*)ププッ
| ばか | 2008/12/01 12:24 AM |
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