(4)植民地支配を謝罪しないのが、国際社会の常識かつて植民地支配をおこなった国は G -8 諸国を初め、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギーなど世界に 数多くありますが、それについて謝罪し、補償金を支払った国は、世界中で唯一日本だけでした。 、平成九年(1997年)におこなわれたホンコン返還の実例を見ても、アヘン戦争による侵略以後百五十六年も続いた ホンコン、九龍半島の植民地支配を英国は決して謝罪せず、一銭の補償金の支払いもしませんでしたが、中国政府もそれを要求しませんでした。
なぜ欧米諸国は謝罪や補償をせず、また旧植民地政府もそれを要求しなかったのかといえば、それが国際社会の常識だからです。日本は
国際常識についての無知を中国、韓国、( 北朝鮮 ) などにつけ込まれたのです。欧米側の主張によれば、
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碑文には 「 北米合衆国水師提督伯理( ペリーの意味 )上陸記念碑 」の文字が刻まれています。
日本は黒船来航が契機となってもたらされた文明開化を、相手には感謝しながら、その一方で
未開の世界最貧弱国 ( 前述 )であった朝鮮に対して、植民地支配により文明の恩恵をもたらしたとい
う厳然たる事実を、相手の謝罪、補償要求に対しては、この際明確に主張するべきなのです。 四百年間中国の属国の地位に甘んじ、儒教の教えである四書五経の世界から抜けだせず、貧困と不衛生、賄賂で腐敗堕落しきった両班 ( 貴族 ) 政治の下で、 マッチ一箱作る産業も無 く ( イザベラ・バードの朝鮮紀行 )輸入に頼っていた朝鮮に、文明をもたらしたものは、植民地支配者の日本でした。 しかし功罪のうち罪のみが韓国などに贖罪意識を掻き立てる武器として利用されて前述の如く、世界の旧植民地 宗主国のなかで、唯一日本だけが謝罪とカネの支払いを繰り返しています。 この二重基準に矛盾を感じませんか?。そしてアヘン戦争後の英国によるホンコンの侵略統治と、日本の朝鮮半島統治と、どこがどれ ほど違っていたのかご存じですか?。
前述の如く李王朝時代の貧しい朝鮮には近代的な学校制度が全く存在せず、ごく少数の貴族や富裕層の子弟などが私塾である 書院 や寺子屋のような 書堂 に 通っただけで、一般庶民は教育とは無縁で大部分が文盲でした。その無知蒙昧で あった人々の為に、日本政府は日韓併合の翌年、明治四十四年 ( 1911年 )には普通学校(朝鮮人の為の小学校)173校 を作り二万人の児童が教育を受けられるようになり、昭和九年(1934年)にはその数が2,221 校になり六十四万人の児童が通学しました。 たとえ日本語を使用したとしても、学校に行けなかった朝鮮人児童に教育の機会を与え、昭和十八年から朝鮮全土で義務教育 を施し、さらに大学教育についても日本国内における大阪帝国大学(現大阪大学)や名古屋帝国大学(現名古屋大学)の開校よりも 早く、大正十五年(1926年)には京城(現ソウル)に京城帝国大学を作り、学生定員の 三割を朝鮮人学生に開放しました。 植民地住民に対し大学教育を含むこれ程充実した教育の機会を与えた国は、その当時の世界のどこにも存在しませんでした。 朝鮮半島の植民地統治において日本が犯した最大の過ちとは、彼等に人間として必要な教育を ほどこし、知識を与え、技術を習得させたことでした。日本人の教育熱心、彼等に対する親切心が逆に 「仇」となり、与えた教育が敗戦による植民地支配終了後は日本に対する 反日教育を進める際の道具になりました。 植民地住民には教育を与えないとする欧米諸国の 愚民化政策 を日本は見習うべきでした。 参考までに、阿片戦争以来百五十年間ホンコンを支配した英国は1997年の領土返還まで義務教育の制度を遂に 実施しませんでした。英国が支配した多くの植民地と同様に、現地人をなるべく 無知蒙昧 ( むちもうまい )の状態にして置くのが植民地支配の常道だからでした。
モザンビークの大統領の学歴アフリカの南東部にあるモザンビーク人民共和国は昭和五十年(1975年)に独立するまで、四百年間ポルトガル の植民地でした。初代大統領となったサモラ・マシェル氏は看護助手養成所、卒業 の学歴でした。彼によれば看護助手になりたくて養成所に入ったわけではなく、その当時モザンビークの 植民地住民に許されていた 最高の教育とは 、小学校を終えたあと、白人の監督下で下働きの仕事をするための看護助手の養成所に行くことでした。 もちろんポルトガル語による教育でした。モザンビークについての正確な識字率の調査がおこなわれたことはありませんが、 国連の推定では 十パーセント です。 植民地時代のモザンビークと日本統治下の朝鮮を比較して、貴方はどのような感想を持ちましたか?。下司 ( げす ) の 後知恵 ( あとじえ )ですが、朝鮮人には愚民化政策を採るべきであった、と後悔して いませんか?。 日本のマスコミが決して報道しない、欧米諸国が植民地支配に対する謝罪を拒否する理由(この頁で前述)や、それが どこの国の言葉でおこなわれようと、植民地住民にとって教育をしないよりも、した方が彼等にとって遙かに利益となり、 その見地から人間にとって最も大切な教育を、日本が植民地の住民に与えた世界に誇るべき業績を公平に評価しなければなりません。
[ 植民地住民への最良の贈り物、それは教育です ]
朝鮮人は日本人に言葉を奪われたとよく主張しますが、前述の如く李王朝下の庶民には学校もなく、朝鮮語では受ける機会が
皆無であった 教育という貴重な宝物 を、日韓併合後に日本が作った近代的学校制度の下で、
日本語によって初めて与えられたのです。 教育の目的は単に日本語を学ぶだけではなく、日本語を通じて学問、文化、技術を学び、人間として視野を広げることです 。 朝鮮、台湾など日本の旧植民地から独立した国は、日本の技術、経済援助により、昭和四十年 ( 1965年 )代から漢江 ( ハンガン )の奇跡( 韓国 )、世界有数の外貨準備高 ( 台湾 )と言われるほどの目覚ましい経済発展を遂げましたが、その反面 前述のモザンビ−クを初め欧米の旧植民地から独立した、アフリカやアジアの国々は発展しませんでした。その根本原因は長年 続いた欧米植民地支配における愚民化政策、即ち教育からの隔離政策にありました。 日本の植民地統治が教育面で、世界に誇るべき立派な業績を残したという 歴史の真実 を、日本人 はよく認識し、胸をはって韓国人や朝鮮人に教えてやって下さい。彼等の歪曲された反日教育では、この事実を学校では決して 教えませんから。
台湾のケンブリッジ、オックスフォードといわれた総督府医学校と師範学校ができたのは、明治三十二年 ( 1899年 )
でしたが、台湾人のための専門教育は、明治三十三年に創設された国語学校の鉄道科、電信科を皮切りに高等中学、高等女学校、
実業学校、盲唖学校などが続々と設立されました。植民地の台湾に台北帝国大学が創立されたのは、前述の京城(現ソウル)
帝国大学に続いで二番目であり、大阪や名古屋帝国大学よりも早い時期でした。 太平洋戦争前に植民地住民のために盲唖学校を作った国は、世界中で日本だけでした。このことを含めて日本が、如何に植民地教育 に熱心に取り組んでいたかの証拠です。
ハンセン病患者の治療 以上の事実を知ったうえでも、日本は 「 植民地支配で 良いことは少しもしなかっ 」、とす る自虐史観にあなたは賛成しますか?。そして常に偏った視点からしか日本の歴史を見ようとしない自虐史観について、どのよう に感じましたか?。 さらに日本に統治された側の人達の意見も続けてお読み下さい。
注:1) 「 台湾に日本統治の五十年がなければ、人々は依然として ( 貧しい暮らしで有名な )中国の海南島と同じ程度の低い レベルにあったであろう 」(台湾紀行から、司馬遼太郎著)ホンコンの南東に位置し中国大陸のすぐ傍にあり、大きさも台湾とほぼ同じの海南島は、今でも中国で最も貧しい地域のひとつです。 一人当たりのの G D P は中国人の平均の半分以下ですが、これに比べて台湾の一人当たり の G D P は、 中国人の二十倍から三十倍です 。海南島は二千年前の漢の時代から中国の領土でしたが、 台湾が中国文明と出会ったのはようやく三百年前のことでした。その後台湾は日本の植民地支配を僅か五十年間 受けただけなのに、なぜ両者の間に天と地ほどの格差が生まれたのでしょうか?。その答えは以下にあります。
注:2) 日本がもたらした教育制度や、コメの品種改良などの新しい農業技術が、 戦前戦後の経済発展の基礎となったことは疑う余地がない 。 戦争末期の昭和十八年(1943年)には台湾での小学校の就学率は七十一.三パーセントとなり、アジアでは日本に次い で二位であった。注:4) シンガポールの首相を長く勤めた、リー・クアン・ユー(Lee Kuan Yew)の言葉、 植民地時代に日本が残した、教育制度、勤勉、忠誠心はすばらしい。歴史を自分の好む視点だけか ら見るのではなく、もっと多面的な観点から公平に評価しなければ、歴史を正しく学んだことにはならない。以上は反日という濃い色眼鏡でしか物事を見ず、日本の植民地統治についても、韓国に不利な事実の主張を 妄言 ( もうげん、でまかせの言葉 )と称して否定すると共に、 日本の功を無視し、罪の部分だけしか見ることをしない韓国のマスコミや歴史学者、 そして在日や、日本の自虐史観の支持者、左翼主義者たちに、ぜひ聞かせ、読ませてやりたい言葉です。
これは植民地支配の歴史を論じる場合にも、当然当てはまります。日韓併合 ( 1910年 ) という 百年近く前の出来事を 、現代の
法律、道徳、人権感覚などで判断しようとする多くの在日や 一部の愚かな日本人は、 歴史を判断する際の基本原則 に対する、 自らの 無知や、浅薄な思考 を、さらけ出すものです。
それはあたかも 百年まえの物価を、 現在の貨幣価値 そのままで判断して、高い安いを論じるような 愚かな行為と同じです 。
(5)、日本人の悪しき習性、恨み憎しみの記念碑を作った中国、韓国などと比較して日本人の、なんとオメデタイ、能天気な振る舞いでしょうか!。原爆による大量虐殺の加害者を糾弾するどころか、逆に被害者である日本人が原爆の犠牲者に謝罪をするという、世界に前例の無い広島の原爆慰霊碑を作りました。これこそ敗戦後の米軍防諜部による多額の資金投入により行われた「 戦争の罪悪感を日本人の心に植え付ける 」ことを目的とした心理作戦 ( War Guilt Information Program ) により洗脳され、さらに占領軍という、絶大な権力者の意向に迎合し、その加害責任のすり替えに自らも協力するという、日本人特有の卑屈な習性、の産物でした。 この 「 長いものには巻かれろ 」 という事大主義の卑屈な習性は、日本人の D N A 遺伝子に深く刻み込まれているものです。 慰霊碑の件に限らず敗戦後のシベリアの捕虜収容所に抑留された 六十万人 にも及ぶ日本兵の間でも、ソ連当局への迎合から共産主義への非同調者を 「 反動分子 」とする密告が盛んにおこなわれました。 その結果自己の信念に忠実な日本人が反革命あるいは反ソ行為の罪を着せられて、ソ連の裁判に掛けられた末、二十年から二十五年の刑を宣告されて、強制収容所送りとなる事態が起きました。 密告や仲間への裏切り行為で積極的に ソ連側に協力し、政治将校に取り入り、その権力を背景にして日本人に対する支配権を握り、現地では シベリア天皇( 本名、浅原正基、ペンネーム諸戸文夫、当時のモロトフ 「 ソ連外相 」 の名をもじったもの ) やチタ ( 地名 ) 法皇と称された者もいましたが、その連中の中には帰国後、今度は 百八十度の思想転換をして某大学の教授にまでなった、変わり身の早い卑劣な男もいました。 平成十年( 1998年 )六月、中国系アメリカ人の反日団体である 「 アライアンス 」 が組織した、「 731部隊展、アジアの忘れられた ホロ・コースト 」 に参加するため日本から渡米した元731部隊隊員 S が、シカゴ空港で入国不適格者 リストに名前があるという理由で入国拒否されて、日本に強制送還されました。( 朝日新聞六月二十三日付 ) 一説によれば 731部隊の悪行の 「 語り部 」 として活躍していた彼をアメリカに密告したのは、皮肉にも 日本の N G O 組織の仲間だった と言われていました。
注:)731部隊
変心、変身、槙枝氏の場合その後は札幌にある陸軍の北部軍司令部の憲兵隊 ( 軍事警察 ) で犯罪捜査、思想弾圧にたずさわる 憲兵将校 になりま した。敗戦になると今度は百八十度の大変針をして、当時流行の マルクス・レーニン主義者 に素早く衣替えして労働運動に専念し、 日教組の活動家になり、後には日教組の委員長を務めるまでになりました。 教師から憲兵へ、そして日本教職員組合の トップ へと、時代の流れに沿って巧みに 「 変心、変針、変身 」 を繰り返した彼の処世 術や 節操の無さ を、戦死した彼の教え子達は、あの世でどのように感じたのでしょうか?。彼によって軍国主義思想を吹き込まれ、人生の蕾の頃に戦死した少年兵達は、槙枝 氏にさぞ裏切られたと思ったことでしょう。
注:1 )
注:2 )
注:3 )
注:4 ) この国 ( 北朝鮮 ) には 泥棒がいない 、泥棒とは富の偏在したところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理や怪我人の為に社会安全員が街角や交差点に立っているだけだ。( チュチェの国、朝鮮を訪ねて。 元日教組書記長の槙枝元文 著から引用。)飢えや貧困に苦しむ者が大勢いるというのに、将軍様をはじめ政府や労働党幹部など特権階級の者だけが豊かな生活をする現状を、富の偏在と著者は全く認識していないのです。泥棒がいないどころか北朝鮮から親と一緒に帰国した蓮池さん、地村さんの子供たちの感想によれば、日本の路上にある自動販売機を見て、北朝鮮であれば直ぐに破壊されて中身とカネを盗まれるが、日本は安全な国であることが分かった と述べました。 ろくに車が通行しない平壌市内の道路や市内に怪我人がなぜ発生するのでしょうか?。社会安全員という名の警官が多数存在するのは、社会主義 国家の常として、 人々の行動や言動を監視し、密告に対処する為 であることを彼は知らないのです。 それに泥棒がいないどころか、地方では飢えに駆られて泥棒が横行し、農村では大切な牛まで殺して食べたり、食人事件まで多発して ( 著書、北朝鮮人喰い収容所 )死刑になった農民もいました。 1990年代後半に国民の一割以上、 三百万人 の餓死者が出た事実も彼は知らないのです。いや知ろうとしないのです。そして北朝鮮を 「 地上の楽園 」 とまで誉め称えました。彼の戦中、戦後の行動には節操が無く小賢しく立ち回る処世術に長けた点で、教育者集団である日教組の委員長や書記長として真にふさわしい人物でした。 4:中国の実情に戻るにはここをクリック 日本軍の犯した米軍捕虜の処刑や虐待に関する敗戦後のB、C級戦争犯罪の摘発に於いても、密告が盛んに行われました。 調査に当たっていた米軍係官も、 日本人はなぜ仲間を裏切る密告をするのか、われわれ外国人には考えられないことだと米軍に寄せられた密告の多さには驚いていました。( 孤島の土となるとも、BC級戦犯裁判 ) これらはいずれも新しい権力者への 哀れな忠義立てや自己保身 の為の、卑屈な迎合、ご機嫌取りによるもので、その為には仲間や国家への裏切りを恥じることもなく、共に戦った戦友すら平気で密告するという日本人の 悪しき習性 の現れでした。 日本に対する平和条約 ( Treaty of Peace with Japan ) が昭和27年4月28日に発効しましたが、同じ年の7月22日に原爆死没者慰霊碑 ( 公式名称は広島平和都市記念碑 ) に書く碑文が決まりました。平和を願い、ヒロシマの悲劇を二度と繰り返すまいと考えるのは理解できますが、そのために原爆を投下した加害者ではなく、被害者の側が犠牲者に謝罪するという構図が私にとっては到底理解不能です。 慰霊碑の碑文は、以下の形式で記されています。
過ちは 繰り返しませぬから あやまちとは何を意味し、過ちを犯した者、その過ちを謝罪すべき者は誰であったのか?。 広島市民や日本人は政治的意図をもってした前述の米軍の心理作戦や、それに同調した一部のマスコミ、自虐主義者、左翼主義者などのプロパガンダを鵜呑みにするのではなく、日米開戦に至った経緯や日本が降伏寸前の状態であったにもかかわらず、前述した如く戦後の対立を睨んだソ連に対する戦略上の理由 ( 威嚇 )から、原爆の威力を 対人テストする為に投下した事実について、検証したことがあるのでしょうか?。 さらに昭和二十三年(1948年)の第二回平和祭 ( 後の原爆慰霊祭 ) において、来賓の英連邦軍総司令官 ロバートソン中将はこう演説しました。 広島市が受けた懲罰は、戦争遂行の途上において受けるべき、日本全体への報復の一部である原爆投下は報復や懲罰だと連合国が言っているのに、何十万人も懲罰により肉親が殺されて、広島市民は悔しくないのですか?。被害者の側が残虐行為をした戦争犯罪者にひれ伏して、過ちは繰り返しませんなどと、なぜ卑屈な謝罪を続けるのですか?。謝罪することにより焼き殺された死者は納得し、犠牲者の霊が成仏するのですか?。死者に対して恥ずかしく思いませんか?。
[碑文の解釈の歪曲]昭和27年4月28日に平和条約が発効するまで占領下の日本では、原爆投下に対する批判、死傷者の数の公表は、占領軍のプレス・コード(検閲規定)により一切禁止されていました。占領終結から僅か三ヶ月後に原爆記念碑が作られ、しかも日米安保条約により米軍の駐留が占領下と変わらぬ状態で続けられた当時、碑文が作られた本当の意味は、日本が侵略戦争戦争をした結果、原爆の被害に遭いましたが、この過ちは繰り返しません。安らかに−−−−。という日本人に戦争責任と原爆投下がもたらした大惨害の責任を負わせる、自虐的思考の産物であったことは間違いありません。一部の人たちは反核の意志表示であるなどと主張しましたが、占領軍の支配から解放されたばかりの日本で反核思想や運動など起きるわけがなく、日本で最初の反核運動は、昭和二十九年(1954年)に起きた第五福竜丸事件以後であり、広島で第一回の原水禁世界大会が催されたのは、昭和三十年(1955年)八月六日でした。碑文の本当の意味を自分達の運動にとって都合の良いように歪曲して解釈したのは、一部の広島市民と左翼主義者たちです。 市長や広島市民、日本人は外国から訪れる人達も指摘するこの碑文の内容に、疑問を感じないのでしょうか?。まやかしの平和主義者、左翼主義者達はその後になって、過ちの中に核兵器使用も含まれるなどと主張するようになりましたが、それまで原爆を持ったことのない日本が、投下の過ちを二度と繰り返さないと碑文の意味を解釈する事自体が、論理的に矛盾しています。世界で原爆実験が行われる度に広島市長が発信した抗議電報が千五百通を越えたそうですが、抗議電報など発信者である広島市長のパーフォーマンスと、自己満足以外に何の効果も無かった証拠です。市長や広島市民の独りよがりの自己満足( 換言すれば戦争被害者の中での エリート意識 ? )など、はたから見るとむしろ滑稽にすら見えます。
パル判事の碑文批判東京裁判においてインド代表判事であったパル博士は昭和二十七年(1952年)に再来日した際に、広島の原爆慰霊碑の碑文について次のように発言しました。過ちは繰り返しませぬからとあるのは勿論日本人を指しているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明らかである。落とした者の手は清められてはいない。この過ちとは、もしも前の戦争 ( 太平洋戦争 )を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その原因は西洋諸国が、東洋侵略のために起こしたものであることも明らかである。
[碑文の主語は人類とする、バカげた説について]まやかしの平和運動家や左翼主義者達は次のように反論しています。碑文の主語は日本人だけではなく、人類全体なのだと!。冗談もほどほどにしてもらいたいものです。
もしそうであるならば、残虐行為の加害責任はどうなりますか?。二十万人もの市民を虐殺した加害責任は、アメリカではなく誰が負うのですか?。解釈上の主語となる日本人や人類全体が、その虐殺責任を負うのですか?。人類全体に含まれる他国の人々もそれに同意していますか?。 それに関連して質問するならば、事実かどうかは別にして、三十万人が殺されたと中国が主張する南京虐殺の責任を、広島と同様になぜ人類全体で負わないのですか?。広島と比べて不公平だと思いませんか?。
人類全体の謝罪を唱える、愚か者に対する三段論法
百歩譲ってたとえ日本が侵略戦争を始めたとしても、広島、長崎、東京大空襲などの非戦闘員の無差別大量虐殺の責任を日本人が負い、加害者ではなく、日本人が犠牲者に謝罪するとする理由が、私には到底理解できません。これこそ米軍の心理作戦の結果であり、米国の思うつぼなのです。
換言すれば占領軍という新しい支配者に対する前述の、自己保身の為の忠義立て、卑屈な迎合、媚びの産物や、自虐主義に他なりません。
5:投下責任不在の平和運動さらに平和運動家、原爆の語り部、偏向マスコミはこれまで原爆の被害を訴え核兵器の廃絶を主張しても、広島、長崎原爆による数十万人の虐殺について、アメリカの加害責任を決して追求しませんでした。
本来、被害と加害責任とは不可分のはずです。原爆による被害の悲惨な状況を何十年も訴え続けながら、その大量虐殺の責任を、意図的に軍部や日本人の責任にすり替えるという過ちを犯し続けました。なぜアメリカの加害責任を追求しないのですか ?。責任のすり替えを、おかしいと思いませんか?。アメリカの過去の行動は原爆投下を含めて、正義や人道主義に基づき正しかったと考えるのですか?、そして現在の行動も−−−。
この碑文は「過ち」を犯した主語が不在である如く、残虐行為の加害責任さえも不在なのです。それだけではありません。加害責任を日本人に押しつけることにより、加害者である米国に卑屈なまでに迎合し、大量虐殺の加害責任を曖昧にした慰霊碑に、広島市民はひたすら無意味な謝罪を続けているのです。
広島の市長が、原爆投下は戦争犯罪であると公式の席で初めて発言したのは、投下から実に五十年も経ってからのことでしたが、あまりにも遅すぎた発言でした。考えてみて下さい戦争犯罪の犠牲者に、加害者ではなく被害者の側が、今も謝罪を繰り返しているのです。この構図に疑問を感じませんか?、私は矛盾していると思います。くどいようですが、もう一度言わせてもらいます。
原爆被害者側の謝罪、反省に基づく反核運動は間違いであり、加害者の謝罪や加害予備群(ロシア、英国、フランス、中国、イスラエル、インド、パキスタンなど)の反省と、人類の将来を見据えた叡智無くしては核兵器の廃止は成り立たちません。 最近、宇和島水産高校の練習船愛媛丸遭難事故の慰霊碑がホノルルに建てられましたが、その碑文には米国潜水艦との衝突により沈没したと書かれていました。実際には急速浮上した潜水艦により衝突されて沈没したにもかかわらず。! この碑文でも事故原因は曖昧にしてありますが、勿論米国がそのように希望したからです。 いっそのこと「安らかに眠って下さい。過ちは、繰り返しませぬから」の方が、もっとふさわしいのにと思いました。
世界遺産登録平成八年十二月六日(日本時間)、ユネスコ世界遺産委員会は原爆ドームをアウシュビツツと共に世界遺産に登録することを決定しました。米国は原爆ドームの指定には最後まで反対していましたが、それはアウシュビツツこそ米国が叩き潰した「人類に対する犯罪」の象徴ですが、それと共に自分達が犯した非戦闘員の大量虐殺の象徴が同列に扱われることになるからでした。
二十大ニュース平成十一年(1999年)十二月二十日に世界三大通信社の一つである、 A P 通信に加盟する、世界三十六ヶ国にある七十一の報道機関が選んだ二十世紀における二十大ニュースの一位に選ばれたのは、広島、長崎に対する原爆投下でした。ちなみに日本軍の真珠湾攻撃は十八位でした。世界のジャーナリストが原爆投下を二十世紀最大のニュースとしたのは、核兵器の使用が人類史上、希にみる残虐な行為であり、 国家(米国)が犯した最大の過ちだったからです。 以上述べた事実を考えるとき、「二種類の原爆性能実験」のモルモットにされながら、なおかつ臆面もなく、加害者に代わり、犠牲者への理不尽な謝罪を続けている、 日本人の歴史に対する無知、自虐性、事大主義(勢力の強い者へ追従し自己保身を図る考え方)、これらに基づく救いようのない碑文の愚行には、言うべき言葉を失います。
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