(3)、インド独立への協力

日本では殆ど知られていませんが、インド独立のきっかけも太平洋戦争にありました。 英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、

インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。
と述べました。
注:1)
インパールとはインドの東北部、アッサム州マニプール土侯国の首府で、昭和十九年に当時第十五軍司令官の悪名高い牟田口中将が部下の師団長らの反対を押し切り、ビルマから険しいアラカン山脈を越えてインパールを攻略する無謀な作戦を進めた結果補給が途絶え、万単位の餓死者、戦死者を出して撤退した作戦として有名です。

注:2)
インド国民軍とはインドの英雄スバス・チャンドラボースによる自由インド仮政府の下で結成されたインド解放軍のことで、日本軍のインパール作戦には、二万人のインド国民軍がチャロ・デリー(首都デリーへ)を合い言葉に参加しました。インド国民軍の進軍歌とは

(一番)
征(ゆ)け征けデリーへ、母の大地へ/いざや征かん、いざ祖国目指して

[上記を繰り返す]
進軍の歌ぞ高鳴る/我らの勇士よ靴上げて/見よ翻る独立の旗

注:3)
インド国民軍の善戦にもかかわらずインパール作戦そのものは悲惨な敗戦に終わり、戦後英国は国民軍幹部を英国に対する反逆罪で裁こうとしましたが、インド独立運動の愛国者を何故反逆者にするのかという反英運動が広がり大暴動になりました。

反英運動は英国に忠誠を誓ったインド陸軍、海軍にも飛び火し、全インドで独立運動の武装蜂起も予想されたため、英国は二百年に及ぶ植民地支配を断念し昭和二十二年(1947年)にインドは独立しました。

注:4)

平成九年(1997年)八月にインド独立五十周年の式典が行われましたが、挨拶に立ったラビ、レイ元下院議長は
「このよき日を祝うに当たって、1905年を忘れることはできない。日本が日露戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられて独立運動に立ち上がったからである」

と述べました。 独立運動の闘士として知られ、インド法曹界の重鎮でもあるレイキ博士もインパール作戦にふれ、

「太陽が空を輝かし、月光が天地を潤(うるお)し、満天に星がまたたく限り、インド国民は日本の恩義を忘れない」、と日本への感謝の意を表しています。

戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(I N A 委員会)も日本に感謝を示すために、同じ年に靖国神社に感謝状を奉納しました。

インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。

インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。

S.S.ヤダフ、インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉



(4)、ミャンマーの不幸、ドラゴンの歯

ビルマ(ミャンマー)は英国の侵略に対して最後まで独立を守ろうとして抵抗したために、インドよりもはるかに過酷な統治を受けました。インド人は軍隊に募集され、インド人連隊もありましたが、ビルマでは英植民軍はインド出身のパンジャブ族と少数部族が中心となり、ビルマ族出身者は僅か二.五パーセントに過ぎませんでした。

ビルマ族は英植民軍とはほとんど無縁の生活を送り、武器の使い方を教えられず、刃物の所持さえ規制されていました。

英国の植民地となった後のビルマ(ミャンマー)は昭和二十三年(1948年)にイギリスから独立しましたが、その際に誘いを拒否し英国の女王を統合の象徴に頂くイギリス連邦には加盟しませんでした。

英国がどこよりも過酷な植民地支配をおこない、支配の狡猾な手法として長年に亘り分割統治(Divide & Rule)をして、ビルマ族、シャン族、カレン族などの百三十五の部族を互いに反目させてきたからでした。

例えば仏教国にもかかわらず第二の人口勢力を持つカレン族にはキリスト教を布教し、ヒンズー教徒であるインド人をビルマに移住させては一時的にその地方をインドの州にしました。

支配階級の最上位をイギリス人が占め、その下の中間支配層にインド人や中国人華僑を置き、更にその下の郵便局員や巡査などの下級官吏にはビルマの少数部族の者を採用しました。

人口の六十九パーセントを占めるビルマ族を社会の最下層の労働者や農民に押し込め抑圧する一方で、少数部族に対して優遇政策を採るなど、部族対立、内紛の原因を意図的に作り、ドラゴンの歯 ( Dragon's Teeth )を巧みにビルマの民衆の間に埋め込みました。

注:)ドラゴンの歯
もともとはギリシア神話から出た言葉で、テバイの伝説上の王カドモスが退治した竜の歯を地に蒔いたら戦士が生えてきて、お互いに争いを始めました。最後に残った5人を家来にしたというものです。つまり竜の歯は、「対立や混乱」、「災い」をもたらす種子のことをいいます。

将来民族間に ウイン・アウン外務大臣は植民地時代を回想して

我々は互いに敵視するよう、それぞれ別な色のペンキを塗られて、殺し合いにかり立てられた闘鶏の如く扱われた。
と述懐していました。

[アウン・サン将軍とその娘]

アウン・将軍サン その当時英国からの独立運動を指導したアウン・サン( Aung Sang) 将軍は、昭和十五年(1940年)八月と、戦時中の昭和十八年(1943年)三月に東京を訪れています。日本の支援によりビルマは同年八月一日にバーモウを首相として臨時政府を樹立して独立を果たし、アウン・サンは陸軍大臣となりました。

しかし日本が太平洋戦争において形勢不利になると、昭和二十年(1945年)三月二十七日に突如、日本に対して敵対行動を取り日本軍を攻撃しました。

のちに政治の主導権争いから昭和二十二年(1947年)七月十九日に、三十二才で反対派により暗殺されましたが、彼の未亡人キン・チーはその後「インド駐在、ビルマ大使」を勤めました。その娘が1991年にノーベル平和賞をもらったアウン・サン・スー・チー女史です。

注:)表と裏から見ることの必要性
アウン・サン将軍の例を引くまでもなく歴史を見て感じることは、他国民が一筋縄ではいかずに、日本人にはみられない、したたかさを持つということです。

相手を利用する場合には主義や思想にこだわらず、誰とでも手を結び何でも利用するが、不要となればすぐに離反するだけでなく、自分の利益になると思えば裏切りは当然のことで、「昨日の友は今日の敵」として攻撃することも当たり前です。冷徹な打算に基づく国際関係においては、日本人が好む信義など、全く存在せず、中国やインドネシアを初めアジア諸国が、日本からあれほど多額の O D A 経済援助を受けながら、日本の安保理常任理事国入りに反対票を投じた事実からも裏付けられます。

つまり自国の国益確保だけが目的であり、国家間に信義や恩義などは、爪のアカほども存在しない現実を日本人は知らなければなりません。

アウン・サン・スー・チー女史について日本ではマスコミの報道から、民主主義の闘士、正義の味方のように思われていますが、別の見方や事実もあります。英国からミャンマーへの帰国後の初演説を、昭和六十三年(1988年)八月二十六日に首都ヤンゴン(ラングーン)にある有名なシュエダゴン・パゴダの西側広場でおこないましたが、壇上に並んだ十一名の代表者のうち九名は、ビルマ(ミャンマー)では誰もが知っている著名な共産主義者でした。

共産主義と西欧民主主義は共存できるのでしょうか?。彼女を知る人達によれば、彼女は独立運動の著名な将軍の娘として気位が非常に高く、高慢で自己主張をするのみで他人の言葉を聴かない。

その政治姿勢については自分の言うことは全て正しいとして、軍事政権のすることに何でも反対するがその対案が全くない、あるいは一部の政治家のリモコンにすぎないなどの、厳しい見方をする外国のジャーナリストもいます。

この点について彼女自身も、

さまざまな政治色をもったベテラン政治家が数多くいて、私の実際の行動を助けてくれているのは確かである。
と述べていました。

彼女のことに限らず何事につけても一方の面だけから見たり、一つの情報に基づき判断をする、いわゆる素朴な材料論者の手法を採るのではなく、少なくとも表と裏の両面から見ることが、正しい評価をするために必要です。

その観点からすれば、かつて中国には「泥棒やハエがいない」とか、北朝鮮を「地上の楽園」であるとの、虚偽の宣伝に熱心に荷担した日本の多くのマスコミは失格ですが、その行為を反省することもなく今も偏向した情報、正しくない情報を送り続けています。

(5)、日本が果たした役割の再評価

敗戦後五十七年が経ちその間太平洋戦争についての日本の功罪のうち、罪(?)についてはこれまで内外の歴史家、評論家により十分過ぎるほど議論されてきましたが、その基本姿勢は、勝てば官軍、力は正義なり(Might is right)の東京裁判史観に沿ったもの、あるいは自虐史観やマルクス主義のイデオロギーに色濃く染まった観点からのものが大部分でした。そして彼等にとって不利になる功の部分については、意図的に捨て置かれてきました。

[公平な評価の必要性]

前述の様に物事の表と裏の二面を見ることで正確な姿を捉えることができますが、太平洋戦争についてもこれまで東京裁判史観、自虐史観の横行から目に触れる機会の少なかったの部分、についても目を向ける必要があります。

戦争終了後アジアは勿論のことアフリカなど殆どの植民地が白人の過酷な支配から解放され、次々に独立の道を歩みましたが、その契機を作ったのは他ならぬ日本であったという歴史の事実、果たした役割の大きさについて、公平に評価しなければなりません。

英国サッセックス大学のクリストファー・ソーン教授は著書「太平洋戦争とは何だったのか」において、

日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉(しゅうえん)を早めた。

帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は(西欧人にとって)苦痛に満ちた劇的なものだったが、結局はヨーロッパに各国にとって利益だと考えられるようになった

と述べ、日本の太平洋戦争(大東亜戦争)において果たした役割を客観的に記述しています。

同様に或るヨーロッパの歴史家によれば

太平洋戦争はヨーロッパ人が、アジアで傲慢(ごうまん)に振る舞うことができた時代の終りという、アジアの歴史における大変化をもたらした、
とありました。

無知無能、怠惰、貧困、不潔と白人支配者から蔑まれ、卑しめられた有色人種の間から戦後に民族主義が台頭し、白人支配を打破してアジア、アフリカで多数の植民地が独立しましたが、これは太平洋戦争なくしては決して起こり得なかったことです。

もし日本が日露戦争に勝利せず、太平洋戦争も戦わなかったとしたならば、アジア、アフリカ地域の民族はいまだに欧米列強の植民地支配で虐げられていたに違いありません。

現に日本が戦に敗れると、従来の植民地支配を継続しようとしてイギリス、フランス、オランダ軍がアジアに舞い戻り、インドネシアからマレー半島、インド、ベトナムに至るまで独立戦争の戦火が長期間絶えなかったという事実からもそれはうかがえます。

アジア、アフリカ諸国の独立は太平洋戦争により、国によっては百年も早く訪れた、と述べた歴史家もいました。さらに日本は一般的な意味では戦争に敗れましたが、

アジアの全植民地が植民地支配から解放され、独立を果たした事実を見るとき、前述のクラウゼビッツの戦争論に従えば、日本は疑うことなく戦争目的を達成した。つまり結果的には戦争に勝ったのだという見方すらあります。

前述の東京裁判のオランダ代表判事を勤めたレーリンクは、著書でつぎの様に述べています。

日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、その四半世紀もたたないうちに、昭和三十五年(1960年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。

参考までに国連で植民地主義が悪と見なされるようになったのは、多くの旧植民地が独立し、国連で百を超える議席を得たため、それらの国の発言力が増大したからです。



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