( 2 )、戦争を始める意図、動機戦争の原因を考える場合、両国を取り巻く戦略的環境、つまりどちらの側に 戦争を始めようとする意図や動機 、があったのかを知ることが重要です。[ 主要な輸入国を相手に、戦争ができるのか? ] 日米開戦の前年である昭和15年 (1940年 )当時の貿易統計によれば、日本は主要物資の輸入の大半を米国に依存していました。即ち戦略物資である 鉄鋼類の輸入量の 70パーセントを米国からの輸入に頼っていました。 常識で考えても産業必需物資の 7割もの輸入を依存する相手 に対して、日本から戦争を仕掛ける意図や動機があったとは到底考えられません。なぜなら戦争になれば相手からの必需物資の輸入が止まり、たちまち原材料や石油 エネルギーが不足して国内産業は行き詰まり、 継戦能力を失うのは明白 だからです。
注:)
対 イラク戦争時の実例からしかも日本は昭和12年 ( 1937年 ) 以来 4 年に亘る泥沼の 日中戦争を継続中 であり、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていました。その状況下で更に米国、英国、オランダなどの大国を相手にして、 新たな戦争 ( 太平洋戦争 )を始めなければならない動機や必要性など、 日本には全くありません でした。参考までに現在の イラク情勢を見ても、米国ほどの資源豊富な超軍事大国といえども、対 イラク戦争の最中に北朝鮮とも同時に戦争をするという 二正面作戦をなるべく避けようとする意図 が明白でした。それは敵に勝つ為には攻撃力 ( 兵力 )を集中するという戦争の常道から、当然導き出された結論によるものです。太平洋戦争について結論を言えば、 戦争の意図や動機があったのは日本ではなく、明らかに 米国の側 だったということです。 日本の真珠湾攻撃について言及すれば戦争の意図、動機、原因を考える場合に、どちらが先に攻撃を仕掛けたのかは殆ど意味がありません。というのは昔から開戦のきっかけ、口実を作るためには、相手に対する挑発行為、攻撃の偽装工作、意図的な発砲、爆破、暗殺、破壊工作などが、頻繁におこなわれてきたからです。 [ ベトナム戦争の実例 ] 偽装工作の実例を挙げると、米国が ベトナム戦争に全面介入するための 「 きっかけ 」 となった昭和39年 ( 1964年 )8月2日と4日に起きたとされた トンキン湾事件 では、北ベトナムの魚雷艇がトンキン湾上の米駆逐艦 マドックスに対して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式発表しました。 しかしベトナム戦争終了後に時が経ってから、実はこの攻撃は 「 まぼろし 」の魚雷艇からの攻撃であったことが公表されました。米軍が参戦するための虚偽の口実として、魚雷艇の攻撃を作りあげたのです。 米国の日本に対する挑発行為については、次の(3)と(4)で述べます。 ( 3 )、交戦相手に対する軍事援助 実は日米開戦の 9ヶ月も前から米国は昭和16年 (1941年 ) 3月11日に施行した 武器貸与法 により、日中戦争の交戦相手であった中国 ( 蒋介石政権 ) に航空機、武器弾薬、軍需物資などを供給し続けてきました。 交戦国の一方に対する軍事援助は国際法上、中立国の立場を放棄したものと見なされ、武力攻撃の対象となり得るものです。米国は当然そのことを予想したはずです。
注1:) さらに米国の西海岸から 1 万 キロ も遠く離れた中国本土の防衛が合衆国の防衛に不可欠などと、信じた者は米国には 一人もいませんでした。問題は アメリカの国防ではなく、アメリカ資本主義の生産品を売り込むための市場の獲得でした。
注:2) ビルマルート経由が武器弾薬、火薬、工作機械など毎月4千トン、南支那 ( 中国南部 ) ルートが同様な物資を、毎月9千 トンで、補給物資の合計は毎月 2万4千トン でした。 ワシントンの海軍情報部極東課長をしていた アーサー・マッカラム が昭和15年 ( 1940年 )10月7日に立案し、上司が承認した計画 ( 文書名、Memorandum for the Director )、題名、 太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告 ( Estimate of the Situation in the Pacific and Recommendations for Action by the United States ) は、ルーズベルト大統領の最も信頼する顧問に宛てて作成されたものでしたが、それは 日本を挑発することにより、米国に対して戦争行為をするように計画 したものでした。その背景としては、
米国は マッカラムの戦争挑発計画に従い昭和16年 ( 1941年 )7月25日には、アジアにおける植民地支配体制の維持に障碍となる日本の叩き潰しを図る英国、オランダとも共謀して、自国内の 日本資産 1億3千万 ドルを凍結し、貿易、金融関係を全て断絶する経済封鎖 を実施し、フランス、カナダ、ポルトガルも同調しましたが、まさに開戦を意図した挑発行為そのものでした。なお カナダ以外は当時アジアに植民地を持つ国々でした。
注:) 更に米国の大統領ルーズベルトは 8月1日に英国、オランダと協力して 石油などの対日輸出禁止 の追い打ちを掛けましたが、当時の日本の石油自給率は僅か 5 パーセントであり、95 パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、 日本経済の窒息はもとより、国家としての存亡の危機に見舞われました。 これこそ ルーズベルトが日本をして先制攻撃をさせる為に仕組んだ筋書きでした。ロンドンにある英国の Royal Public Record Office ( 王立公文書館 ) の資料の中に、チャーチル首相が大西洋上の軍艦で ルーズベルト大統領と昭和16年 ( 1941年 ) 8月10日と11日におこなった大西洋憲章制定に関する秘密会談の内容の一部があります。 それは英国議会の秘密会議におけるルーズベルトとの会談報告ですが、その中で ルーズベルトの発言として、 「 如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。 と述べた旨の発言が記録されていました。 さらに次の事実もあります。日本との外交交渉責任者であった国務長官 コーデル . ハル ( Hull )は、日米外交交渉の決裂を狙って昭和16年 ( 1941年 )11月27日に、日本にとっては受諾不可能な条件を故意に要求した 10項目からなる、 Hull Note ( ハル の対日覚え書き ) を、日本に突きつけましたが、その直後に述べた言葉があります。 「 私の仕事 ( 対日外交交渉 ) はこれで終わった。あとは陸軍と海軍に任せよう。」 注:)その当時空軍は独立した軍事組織ではなく、陸軍の一部に所属していました。 この米国の態度が引き金となって日本も外交交渉による解決を断念し、その結果 石油の枯渇から 、 座して死を待つよりも、勝算のない戦に挑む 、最終決断をしました。そして米国が予想していた フィリピンではなく、ハワイを攻撃しました。 太平洋戦争終了後の昭和 21年 ( 1946年 ) 7月に米国上下両院合同調査委員会は 、真珠湾攻撃直後から疑惑が持たれていた ルーズベルト政権による事前の攻撃情報隠蔽の経緯について、 真珠湾攻撃に関する調査報告書 を公表しました。 米国では情報公開法の規定により外交関連文書についても、一般には 30年経過すれば公開される制度になっています。 しかしワシントンにある National Archives ( 国立公文書館 ) の資料のうち、昭和16年 ( 1941年 )8月10、11日にカナダ大西洋岸 ニューファウンドランド沖の英戦艦 プリンス・オブ・ウエールズでおこなわれた、大西洋憲章制定 ( 8月14日 )という表向きの会談とは別に、ルーズベルトとチャーチル両首脳による 秘密会談の資料 は未だに非公開です。 更に開戦に至るまでの米国政府の動きを知る 核心部分の資料 に関しても、 60年以上経過し 、すでに過去の歴史的遺物となっているにもかかわらず未だに公開されません。 その理由は資料の公開が合衆国の国益に反するからであって、今後も公開されることは決して無いと思います。この資料こそ日本が太平洋戦争を計画し実行したとする、東京裁判の訴追理由である 「 平和に対する罪、戦争に対する共同謀議という、えん罪 」 を晴らすための決定的な証拠なのです。
人種差別主義者であった英国の首相 チャーチルと共謀して、アングロサクソンによる世界制覇を目指し、白人による植民地支配体制の現状維持を図り、アジア、太平洋地域での権益拡大を図った大統領 フランクリン・ルーズベルト(1882〜1945年 ) こそ、太平洋戦争を惹き起こした真犯人 であるという歴史上の事実を、日本人は決して忘れるべきではありません。
注:1)
ルーズベルトという名前には彼以外にも、日露戦争における講和条約の仲介に当たった、26代大統領の セオドア・ルーズベルト(1858〜1919年 )がいました。
注:2) チャーチルは 人間の皮膚の色のことしか考えなかった 。彼はまさに ビクトリア朝 ( ビクトリア女王在位1837〜1901年 ) 的人間だと私が思うのは、彼が インドや中国のことを話す時だった。注:3) 数百年もの間 ジャワ ( 現インドネシア ) で植民地支配を続け、有色人種に対する蔑視、差別意識が特に根強い オランダから米国に移民した子孫である ルーズベルトによれば、 日本人のような 野蛮な人種 をなくすために、極東で ヨーロッパ人と アジア人種の交配 を促進してはどうか、日本人の侵略行動は おそらくその頭蓋骨が 白人に比べて未発達であるからだ。というのであった。( 1942年 8月 6日、駐米 イギリス公使、サー ・ ロナルド ・ キャンベルとの会談の際の発言から )
注:4) ( 6 )、アイゼンハウアーの言葉 米国の国立公文書館は第34代大統領アイゼンハウアー( 1890〜1969年 )が、昭和30年(1955年 )1月17日に当時の上院外交委員長 ウオルター・ジョージ民主党上院議員と、執務室で交わした会話の録音の一部を公開しました。 それによれば、第2次大戦を勝利に導いたとされる2代前の大統領フランクリン・ルーズベルトについて、アイゼンハウアー大統領( 当時 )は、 私は 非常に大きい間違いをした、ある大統領 の名前を挙げることができる。 ルーズベルト は自分の信念や行動しか認めない、極めて自己中心的な人物である。と彼の謀略政治姿勢や、その人間性を厳しく批評しましたが、アイゼンハウアーが述べた 「 非常に大きい間違い 」 とは、言うまでもなく対日戦争を計画し実行したことでした。
日本がポツダム宣言を受諾した直後のニューヨーク・タイムス紙は、昭和20年8月14日( 日本よりも1日、日付が遅くなる )付の紙面で、「 太平洋の覇権を我が
手に 」 という大見出しの下に、
復讐の意図へ戻るにはここをクリック 8:禁輸に対する対抗措置太平洋戦争開始直後に日本は陸軍が マレー、スマトラを攻略し、海軍が ボルネオ、セレベス、ジャワ( 現 インドネシア )周辺の制海権を手中に納めたのも英国や オランダが、日本に禁輸した南方資源( 石油、ゴム、錫、アルミニウムの原料となる ボーキサイトなど )を、国家生存の為に敢えて武力で獲得する為でもありました。この日本の行為を単純に非難するわけにはいきません、米国も同様な行為を計画しましたから。 禁輸 ( Embargo ) とは戦争を惹き起こす非常に危険な行為なのです。
( その一 ) それは当時イスラエルに武器を供給していた米国対アラブ諸国との対立にまで発展し、O P E C 諸国は原油の生産削減と イスラエル支持国への原油割り当て削減を決定しました。同月下旬には原油価格の値上げに端を発して、第一次 オイル、ショックが起きました。 その際にアラブ強硬派であった サウジアラビアは、イルラエルを軍事的に支援した米国に対する制裁措置として、自国産原油の対米輸出禁止を計画しました。 それに対して米国の キッシンジャー国務長官 ( 当時 )は、 「 もしそういう事態になれば、米国は サウジアラビアの油田地帯に海兵隊を派遣して占領する 」 と警告したので、サウジアラビアも禁輸を断念せざるを得ませんでした。
( その二 )
( その三 )
( その四 ) 国家の安全や生存に絶対に必要な物資を確保するためには、いざとなったら国際法などは完全に無視し、敢えて武力行使をおこないそれを入手する。そのためには戦争さえも辞さないのが国際社会の現実であり常識です。 逆に言えば 相手に対して戦争を仕掛ける には、相手の必需品について禁輸という手段を取るのが最も効果的だったわけです。日本も昭和16年 ( 1941年 )当時、米、英、オランダから石油を初めとする国家生存上の必需品に対する禁輸を受けたため、その考えに従い行動したのでした。
注:1)英国、ディリー・メイル紙の記事
日本と米国との戦争の原因は何であったのか?。そのひとつの答が米国 コーネル大学の ウオルター ・ ラフィーバー教授 ( 歴史学 )の著書にあります。
|