( 2 )、戦争を始める意図、動機

戦争の原因を考える場合、両国を取り巻く戦略的環境、つまりどちらの側に 戦争を始めようとする意図や動機 、があったのかを知ることが重要です。

[ 主要な輸入国を相手に、戦争ができるのか? ]

日米開戦の前年である昭和15年 (1940年 )当時の貿易統計によれば、日本は主要物資の輸入の大半を米国に依存していました。即ち戦略物資である

鉄鋼類の輸入量の 70パーセント

石油の輸入量の 78パーセント

工作機械類の輸入量の 66パーセント

を米国からの輸入に頼っていました。

常識で考えても産業必需物資の 7割もの輸入を依存する相手 に対して、日本から戦争を仕掛ける意図や動機があったとは到底考えられません。なぜなら戦争になれば相手からの必需物資の輸入が止まり、たちまち原材料や石油 エネルギーが不足して国内産業は行き詰まり、 継戦能力を失うのは明白 だからです。

注:)
当時産業の米 ( 必需品の意味 )といわれた鉄鋼の生産高は米国が年間7千5百万 トン、英国が1千2百万 トン、これに対して日本は7百万 トンであり、日本の G N P ( 国民総生産 ) はアメリカの 24分の1 でした。

対 イラク戦争時の実例から

しかも日本は昭和12年 ( 1937年 ) 以来 4 年に亘る泥沼の 日中戦争を継続中 であり、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていました。その状況下で更に米国、英国、オランダなどの大国を相手にして、 新たな戦争 ( 太平洋戦争 )を始めなければならない動機や必要性など、 日本には全くありません でした。

参考までに現在の イラク情勢を見ても、米国ほどの資源豊富な超軍事大国といえども、対 イラク戦争の最中に北朝鮮とも同時に戦争をするという 二正面作戦をなるべく避けようとする意図 が明白でした。それは敵に勝つ為には攻撃力 ( 兵力 )を集中するという戦争の常道から、当然導き出された結論によるものです。太平洋戦争について結論を言えば、

戦争の意図や動機があったのは日本ではなく、明らかに 米国の側 だったということです。

日本の真珠湾攻撃について言及すれば戦争の意図、動機、原因を考える場合に、どちらが先に攻撃を仕掛けたのかは殆ど意味がありません。というのは昔から開戦のきっかけ、口実を作るためには、相手に対する挑発行為、攻撃の偽装工作、意図的な発砲、爆破、暗殺、破壊工作などが、頻繁におこなわれてきたからです。

[ ベトナム戦争の実例 ]

偽装工作の実例を挙げると、米国が ベトナム戦争に全面介入するための 「 きっかけ 」 となった昭和39年 ( 1964年 )8月2日と4日に起きたとされた トンキン湾事件 では、北ベトナムの魚雷艇がトンキン湾上の米駆逐艦 マドックスに対して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式発表しました。

しかしベトナム戦争終了後に時が経ってから、実はこの攻撃は 「 まぼろし 」の魚雷艇からの攻撃であったことが公表されました。米軍が参戦するための虚偽の口実として、魚雷艇の攻撃を作りあげたのです。

米国の日本に対する挑発行為については、次の(3)と(4)で述べます。

( 3 )、交戦相手に対する軍事援助

実は日米開戦の 9ヶ月も前から米国は昭和16年 (1941年 ) 3月11日に施行した 武器貸与法 により、日中戦争の交戦相手であった中国 ( 蒋介石政権 ) に航空機、武器弾薬、軍需物資などを供給し続けてきました。

交戦国の一方に対する軍事援助は国際法上、中立国の立場を放棄したものと見なされ、武力攻撃の対象となり得るものです。米国は当然そのことを予想したはずです。

注1:)
武器貸与法とは 「 米国大統領が それを防衛することが合衆国の防衛に不可欠と考える国 の政府に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給し、処分する権限を大統領に与えるもの」でしたが、法案審議の段階から米国内には戦争行為に該当するという反対意見がありました。

さらに米国の西海岸から 1 万 キロ も遠く離れた中国本土の防衛が合衆国の防衛に不可欠などと、信じた者は米国には 一人もいませんでした。問題は アメリカの国防ではなく、アメリカ資本主義の生産品を売り込むための市場の獲得でした。

注:2)
米国の軍事援助に関する昭和16年 ( 1941年 ) 6月24日付けの日本軍の調査資料によれば、中国の蒋介石政権を支援する 3本の補給 ルートいわゆる「 援蒋ルート 」 のうち、仏印 ( 現ベトナム ) ルートを経由するものが、ガソリン、鉄材、トラックおよび弾薬その他で毎月 1万1千トン。

ビルマルート経由が武器弾薬、火薬、工作機械など毎月4千トン、南支那 ( 中国南部 ) ルートが同様な物資を、毎月9千 トンで、補給物資の合計は毎月 2万4千トン でした。

( 4 )、戦争挑発計画

ワシントンの海軍情報部極東課長をしていた アーサー・マッカラム が昭和15年 ( 1940年 )10月7日に立案し、上司が承認した計画 ( 文書名、Memorandum for the Director )、題名、 太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告 ( Estimate of the Situation in the Pacific and Recommendations for Action by the United States ) は、ルーズベルト大統領の最も信頼する顧問に宛てて作成されたものでしたが、それは 日本を挑発することにより、米国に対して戦争行為をするように計画 したものでした。その背景としては、

  1. 日露戦争以後急速に高まった黄禍 ( Yellow Peril ) の原因である日本の勢力拡大を阻止し、アジア ( 中国 )、太平洋地域における 米国の覇権獲得のため 、及び白人による アジアの植民地支配体制の維持 を図るため。

  2. ヨーロッパで既に始まった第2次大戦において ドイツ軍が勝利を収めれば、米国の安全保障に脅威を与える事態になる。しかも昭和15年 ( 1940年 ) 6月には ドイツが フランスを占領したため、 不利な戦況に追い込まれた英国を援助するために 米国は早急にヨーロッパに 参戦する 必要があった

  3. しかし昭和16年 ( 1941年 ) 1月30日に実施された ギャラップ社の世論調査によれば、 米国民の 88 パーセントは米国の欧州戦争介入に 反対でした 。( 翌日のニューヨーク・タイムズ紙の記事参照 )。

そこで日本に対する戦争挑発計画を実施することにより、 日本に最初の弾丸 ( First Shot ) を発射させ 戦争状態になれば、その後は米国にとって 一石二鳥 の状況になることが予想されました。なぜなら日本と戦争になれば日独伊 三国同盟から当然 ドイツとも戦争になり、 米国は正々堂々とヨーロッパでの戦に参戦できる からでした。日本が真珠湾を攻撃した ニュースを聞いた チャーチルは、これで ドイツとの戦争に勝てると大喜びしたと伝えられています。

米国は マッカラムの戦争挑発計画に従い昭和16年 ( 1941年 )7月25日には、アジアにおける植民地支配体制の維持に障碍となる日本の叩き潰しを図る英国、オランダとも共謀して、自国内の 日本資産 1億3千万 ドルを凍結し、貿易、金融関係を全て断絶する経済封鎖 を実施し、フランス、カナダ、ポルトガルも同調しましたが、まさに開戦を意図した挑発行為そのものでした。なお カナダ以外は当時アジアに植民地を持つ国々でした。

注:)
資産凍結とは国が外国などの資産の処分、移動を禁止することで、特に 戦時において 自国内にある敵国政府、敵国籍の会社、敵国人の資産を接収または管理することをいいますが、米国、英国、オランダ、フランスなどは、 開戦前にもかかわらず 、この措置を日本に対して取りました。

更に米国の大統領ルーズベルトは 8月1日に英国、オランダと協力して 石油などの対日輸出禁止 の追い打ちを掛けましたが、当時の日本の石油自給率は僅か 5 パーセントであり、95 パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、 日本経済の窒息はもとより、国家としての存亡の危機に見舞われました。

これこそ ルーズベルトが日本をして先制攻撃をさせる為に仕組んだ筋書きでした。ロンドンにある英国の Royal Public Record Office ( 王立公文書館 ) の資料の中に、チャーチル首相が大西洋上の軍艦で ルーズベルト大統領と昭和16年 ( 1941年 ) 8月10日と11日におこなった大西洋憲章制定に関する秘密会談の内容の一部があります。

それは英国議会の秘密会議におけるルーズベルトとの会談報告ですが、その中で ルーズベルトの発言として、

「 如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。 と述べた旨の発言が記録されていました。

さらに次の事実もあります。日本との外交交渉責任者であった国務長官 コーデル . ハル ( Hull )は、日米外交交渉の決裂を狙って昭和16年 ( 1941年 )11月27日に、日本にとっては受諾不可能な条件を故意に要求した 10項目からなる、 Hull Note ( ハル の対日覚え書き ) を、日本に突きつけましたが、その直後に述べた言葉があります。

「 私の仕事 ( 対日外交交渉 ) はこれで終わった。あとは陸軍と海軍に任せよう。」

注:)その当時空軍は独立した軍事組織ではなく、陸軍の一部に所属していました。

この米国の態度が引き金となって日本も外交交渉による解決を断念し、その結果 石油の枯渇から 座して死を待つよりも、勝算のない戦に挑む 、最終決断をしました。そして米国が予想していた フィリピンではなく、ハワイを攻撃しました。

太平洋戦争終了後の昭和 21年 ( 1946年 ) 7月に米国上下両院合同調査委員会は 、真珠湾攻撃直後から疑惑が持たれていた ルーズベルト政権による事前の攻撃情報隠蔽の経緯について、 真珠湾攻撃に関する調査報告書 を公表しました。

( 5 )、封印された米英首脳会談資料

米国では情報公開法の規定により外交関連文書についても、一般には 30年経過すれば公開される制度になっています。

しかしワシントンにある National Archives ( 国立公文書館 ) の資料のうち、昭和16年 ( 1941年 )8月10、11日にカナダ大西洋岸 ニューファウンドランド沖の英戦艦 プリンス・オブ・ウエールズでおこなわれた、大西洋憲章制定 ( 8月14日 )という表向きの会談とは別に、ルーズベルトとチャーチル両首脳による 秘密会談の資料 は未だに非公開です。

更に開戦に至るまでの米国政府の動きを知る 核心部分の資料 に関しても、 60年以上経過し 、すでに過去の歴史的遺物となっているにもかかわらず未だに公開されません。

その理由は資料の公開が合衆国の国益に反するからであって、今後も公開されることは決して無いと思います。この資料こそ日本が太平洋戦争を計画し実行したとする、東京裁判の訴追理由である 「 平和に対する罪、戦争に対する共同謀議という、えん罪 」 を晴らすための決定的な証拠なのです。

人種差別主義者であった英国の首相 チャーチルと共謀して、アングロサクソンによる世界制覇を目指し、白人による植民地支配体制の現状維持を図り、アジア、太平洋地域での権益拡大を図った大統領 フランクリン・ルーズベルト(1882〜1945年 ) こそ、太平洋戦争を惹き起こした真犯人 であるという歴史上の事実を、日本人は決して忘れるべきではありません。

注:1)
ルーズベルトという名前には彼以外にも、日露戦争における講和条約の仲介に当たった、26代大統領の セオドア・ルーズベルト(1858〜1919年 )がいました。

注:2)
イギリス陸軍の騎兵中尉として インド駐留の経験を持つ チャーチルについて、主治医の モーガンは1942年に著書で次のように述べています。

チャーチルは 人間の皮膚の色のことしか考えなかった 。彼はまさに ビクトリア朝 ( ビクトリア女王在位1837〜1901年 ) 的人間だと私が思うのは、彼が インドや中国のことを話す時だった。

「 黄色い小人たち 」、「 細目野郎 」、「 弁髪野郎 」というのは、彼が中国人のことを言う時によく口にした言葉であった。

注:3)
数百年もの間 ジャワ ( 現インドネシア ) で植民地支配を続け、有色人種に対する蔑視、差別意識が特に根強い オランダから米国に移民した子孫である ルーズベルトによれば、
日本人のような 野蛮な人種 をなくすために、極東で ヨーロッパ人と アジア人種の交配 を促進してはどうか、日本人の侵略行動は おそらくその頭蓋骨が 白人に比べて未発達であるからだ
というのであった。( 1942年 8月 6日、駐米 イギリス公使、サー ・ ロナルド ・ キャンベルとの会談の際の発言から )

注:4)
ルーズベルトの長女の夫である カーチス・ドール の証言によれば、ルーズベルトは一家の会食の席で家族にこう言いました。 「 私は決して宣戦はしない、私は戦争を作るのだ 」 。そして真珠湾の前日の会食では、「 明日戦争が起こる 」 とつぶやきました。

( 6 )、アイゼンハウアーの言葉

米国の国立公文書館は第34代大統領アイゼンハウアー( 1890〜1969年 )が、昭和30年(1955年 )1月17日に当時の上院外交委員長 ウオルター・ジョージ民主党上院議員と、執務室で交わした会話の録音の一部を公開しました。

それによれば、第2次大戦を勝利に導いたとされる2代前の大統領フランクリン・ルーズベルトについて、アイゼンハウアー大統領( 当時 )は、

私は 非常に大きい間違いをした、ある大統領 の名前を挙げることができる。 ルーズベルト は自分の信念や行動しか認めない、極めて自己中心的な人物である。
と彼の謀略政治姿勢や、その人間性を厳しく批評しましたが、アイゼンハウアーが述べた 「 非常に大きい間違い 」 とは、言うまでもなく対日戦争を計画し実行したことでした。

( 7 )、ニューヨーク・タイムズ紙

日本がポツダム宣言を受諾した直後のニューヨーク・タイムス紙は、昭和20年8月14日( 日本よりも1日、日付が遅くなる )付の紙面で、「 太平洋の覇権を我が 手に 」 という大見出しの下に、

我々は初めて ペリー( 提督 )以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の マーケットは、我々のものになった
という記事を載せました。これによって米国は ペリー以来の アジアに対するすべての行動が、当初は日本の征服を図り、次に中国大陸の市場獲得を目指した米国の西進主義にとって、障害となった日本を打倒することにより、アジアにおける覇権獲得を目指していたことが容易に理解できます。

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8:禁輸に対する対抗措置

太平洋戦争開始直後に日本は陸軍が マレー、スマトラを攻略し、海軍が ボルネオ、セレベス、ジャワ( 現 インドネシア )周辺の制海権を手中に納めたのも英国や オランダが、日本に禁輸した南方資源( 石油、ゴム、錫、アルミニウムの原料となる ボーキサイトなど )を、国家生存の為に敢えて武力で獲得する為でもありました。

この日本の行為を単純に非難するわけにはいきません、米国も同様な行為を計画しましたから。 禁輸 ( Embargo ) とは戦争を惹き起こす非常に危険な行為なのです。

( その一 )
昭和48年 (1973年 )10月6日に、イスラエル軍対エジプト、シリア連合軍が衝突した第四次中東戦争が勃発しました。

それは当時イスラエルに武器を供給していた米国対アラブ諸国との対立にまで発展し、O P E C 諸国は原油の生産削減と イスラエル支持国への原油割り当て削減を決定しました。同月下旬には原油価格の値上げに端を発して、第一次 オイル、ショックが起きました。

その際にアラブ強硬派であった サウジアラビアは、イルラエルを軍事的に支援した米国に対する制裁措置として、自国産原油の対米輸出禁止を計画しました。

それに対して米国の キッシンジャー国務長官 ( 当時 )は、 「 もしそういう事態になれば、米国は サウジアラビアの油田地帯に海兵隊を派遣して占領する 」 と警告したので、サウジアラビアも禁輸を断念せざるを得ませんでした。

( その二 )
イタリアのムッソリーニは、昭和10年 (1935年 )10月3日にエチオピアへの侵略を開始しました。それに対して当時の国際連盟 ( 国際連合の前身 ) は経済制裁を決議しましたが、ムッソリーニが 「 禁輸は、イタリアに対する戦争を意味する 」 と戦争勃発を警告したため、国際連盟 ( 当時 )は経済制裁を遂に発動できませんでした。

( その三 )
国連創立五十周年記念の国連特別総会において、米国から経済封鎖を受けている キューバの支配者フィデロ・カストロは、演説の中で 「 経済封鎖とは老若男女を死に追いやる残忍な、静かな原爆である。」と述べました。

( その四 )
平成15年1月初旬、北朝鮮代表の国連大使は外国記者団との会見の席で、国連安全保障理事会による経済制裁がおこなわれた場合には、 北朝鮮に対する宣戦布告とみなす 旨の発言をしました。

国家の安全や生存に絶対に必要な物資を確保するためには、いざとなったら国際法などは完全に無視し、敢えて武力行使をおこないそれを入手する。そのためには戦争さえも辞さないのが国際社会の現実であり常識です。

逆に言えば 相手に対して戦争を仕掛ける には、相手の必需品について禁輸という手段を取るのが最も効果的だったわけです。日本も昭和16年 ( 1941年 )当時、米、英、オランダから石油を初めとする国家生存上の必需品に対する禁輸を受けたため、その考えに従い行動したのでした。

注:1)英国、ディリー・メイル紙の記事
日本が戦争を始めた理由は、フィリピンを初めとする東洋への アメリカの進出を、いかに日本が恐怖に感じたかを理解しなければ分からないだろう。また1941年( 昭和16年 )に、 アメリカが日本へのいっさいの石油資源の供給を絶った時の日本の感じた深刻さも、無視することはできないであろう。 そう考えてみれば、真珠湾攻撃を一方的に卑劣だと非難することはあたらない。さらに言うならば植民地支配の歴史を持つ西欧の国々 ( 英国、オランダなど ) が、他の国 日本 にその植民地支配を謝罪せよという立場にはない。

9:善玉、悪玉論の結論

以上述べた歴史上の事実を検証すれば日本が 悪玉 で米国が 正義の味方、善玉 であるとする、占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、連合国側の民主主義が日本の軍国主義、侵略主義を打ち破ったとする主張が、如何に欺瞞に満ちたものであるかが判明します。 建国以来のアメリカの 武力による西方への領土拡大 こそが、侵略主義、植民地主義の 権化 ( ごんげ、著しい特性 )であることを歴史の事実が証明済みです

日本と米国との戦争の原因は何であったのか?。そのひとつの答が米国 コーネル大学の ウオルター ・ ラフィーバー教授 ( 歴史学 )の著書にあります。

太平洋戦争は米国と日本との間で、ほぼ半世紀にわたって生成された問題が爆発したのだった。 最も重要な対立点 は、 日米どちらが 中国で重要な役割を果たすかだった。

つまり彼の説にもありますが、資本主義の宿命でもある生産した商品を売り込む為の市場の獲得競争に加え、国内資源の乏しかった日本にとっては、 生きる為に海外における資源を確保する という大きな目的もありました。

その一方で アメリカには、アジアにおける経済的勢力拡大という意図があり、軍事的、経済的に急成長を遂げた日本の存在が、 西進主義にとって大きな障碍 になったことも否定できない事実でした。

つまり客観的に言えば アジアを舞台にした両国による権益 ( 国益 ) 確保のための争い、すなわち 経済的帝国主義 が、日米戦争の真の原因であったと私は考えます。

[ 侵略戦争の定義変更と、経済 ブロック形成 ]

見方をかえれば、19世紀末に日本が発展の道を歩み出したとき直面したのは、米、英が支配する世界の経済体制でした。さらに日露戦争、第 1次大戦後にさまざまな分野で日本が非常な競争力を見せはじめると、西側はその増大を恐れるようになりました。

それと共に人種的偏見から有色人種国の日本を、 白人による植民地支配体制に加盟させない為に 、これまで長い間彼等がおこなってきた武力による侵略や植民地支配についての定義 ( 未開国を武力で侵略し、植民地支配をする行為は犯罪ではなく、国際法上も認められるとする考え )を、 突然一方的に変更して 昭和 6年 ( 1931年 )の満州事変以後、日本に侵略国の レッテルを貼り非難しました。

それ以前から欧米列国は彼等の アジア植民地支配にとって邪魔になる日本の勢力拡大を阻止するため、共同して日本に対する国際貿易の門戸を閉ざしたことも大きな原因だったと考えます。

例えば アメリカは昭和 4年(1929年 )の世界恐慌をきっかけに、翌年(1930年 )に高率関税を可能にした、 ストーム・ホーリー法 を制定し、市場確保の為の経済 ( 通商 )ブロックを形成しました。これに対抗するため イギリスはそれまで毎回 ロンドンで開催していた帝国経済会議 ( Imperial Conferences、現 イギリス連邦会議 )を異例なことに カナダの首都 オタワで開催し( オタワ会議 )、対外貿易の決済をポンド ( 英通貨の単位 ) だけでおこなう経済 ブロックを形成しました。

更に英国は、日本製品に対して、ソーシアル・ダンピング ( 投げ売り )だと非難し、英本国だけでなく 植民地に輸入される日本製品にも高額の輸入関税を課し、あるいは輸入品に対する量的制限を一方的に設けて日本製品の流入阻止をはかりました。その後米国や フランスも同様な経済政策をおこないました。

複数の国が共通の目的を達成するために作る政治的経済的連合を経済 ブロック ( 圏 )と呼びますが、英国とその植民地を中心とする経済 ブロックを、英国通貨の名称である スターリング( Sterling )から スターリング ・ ブロック と呼び、フランスとその植民地で作る経済圏を フラン( Franc )・ ブロック 、米国を中心とした南北米大陸の経済圏を ドル ・ ブロック と称しました。

同一経済 ブロックに属する国に対しては互いに貿易上の優遇措置を与えるなどの、輸出入の拡大政策をとり、圏外の国には高い関税障壁を設けて対抗しました。こうした列国の経済 ブロックの確立により、日本製品は次第に輸出市場を失いました。輸出ができなくなっても国内産業に必要な石油、鉄鋼、クズ鉄、羊毛、生 ゴムなどの原材料の輸入は依然として必要であり、その為に支払う外貨も当然必要でした。国際経済のブロック化は、前述のように世界大恐慌により、ますます拡大の一途をたどりました。

ここで重要な点は 日本の侵略行動が原因で、経済ブロックが作られたのではない ということです。前述の如く、まず列国が経済的利益 を図るために経済ブロックを作ったこと。それによって日本は世界貿易の枠組みから、次第に閉め出されていったこと。

その結果経済ブロックを持たず、列強の経済 ブロックにも加盟させてもらえなかった日本は、 国の経済的破綻を防ぎ 国家生存のため 、止むなく軍事力を用いて中国大陸、東南アジアに進出しました。

つまり日本が欧米諸国と同様に、侵略行為をせざるを得なかった 経済的原因 を作ったのは、 他ならぬ欧米諸国であったということです。この事実を日本の歴史家がなぜ指摘しないのか理解に苦しみます。

さらに付け加えると東京裁判で日本を断罪したのは、昭和 6年 (1931年 ) の満州事変以後の行動についてでしたが、それ以前の日本をして経済的に疲弊させ、侵略行動をせざるを得ない状況をもたらした、彼等による経済 ブロック形成は、 巧みに審理の対象外 にしていました。

注:)
昭和10年当時の日本の人口は 6,600万人でしたが、国内産米の生産高は 5,750万石でした。単純に考えても 一人最低1石 ( こく、2.5俵 = 150 キログラム)の米が年間に必要でしたので、 850万石の米の不足 は、850 万人分の米を輸入に頼らざるを得ない状況でした。輸入には外貨が必要でしたが、前述のように世界市場の ブロック化により輸出市場から閉め出された日本は、生きる道を求めて欧米諸国の権益を敢えて侵す道を選びました。

太平洋戦争の開戦前には、日本の アジア侵略に対抗して、権益保護や植民地支配継続のため、A ( アメリカ )、B ( ブリテン、英国 )、C ( チャイナ、中国 )、D ( ダッチ、オランダ ) 諸国による A、B、C、D、包囲陣が形成され 、日本の石油輸入は完全に止められ、石油の枯渇から座して死を待つよりも、日本は世界の大国を相手にやむなく戦争する道を選びました。

第 2次世界大戦 終了後に生まれた侵略主義、植民地支配を悪とする考え方に従えば、それまで アジア、アフリカを侵略し植民地支配をしてきた欧州諸国 ( イギリス、フランス、ロシア、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、南アフリカ連邦 と同様に 日米両国とも 悪玉であった 、とするのが正しい結論です。



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