3:地理的、歴史的必然性在日をはじめ一部の人々が、日本の行動を侵略だと声高に非難するのは簡単です。しかしながら、もし朝鮮が 1910年 に日本に併合されなかったならば、独立国のままで存続できたなどと信じること自体、 アジアの歴史に対する彼等の 無知の証拠 であると言えます。 当時の朝鮮は清 ( しん )の属国としての地位に甘んじて近代国家と言うにはほど遠く、中国人政治家の袁世凱 ( えんせいがい ) の言葉 によれば、 万国の中で、最貧弱国の状態 ( 注:1参照 )でした。狼の群に囲まれた羊の如く、弱肉強食の侵略主義のはびこる19世紀末の国際情勢の下で、朝鮮が 独立国のままでいられた可能性 など、 200パーセント無かった と確信します。
[ 朝鮮が頼みとした宗主国でさえも ]なぜなら属国であった朝鮮が 300年もの間 宗主国と仰いだ中国の清 ( しん ) 王朝でさえも、アヘン戦争 (1840〜42年 )、 アロー戦争 ( 注:3参照 ) の結果英国に ホンコン島、九龍半島を奪われ、また 不凍港を求めて南下政策を採った ロシア に旅順港、大連港などがある遼東半島の支配を許し、前述のように1899年 ( 明治32年 ) の義和団事件を契機に、ロシア軍に 全満州 ( 中国の東北部 )を占領されました。国家としての威信を失い侵略主義の餌食となった清 ( しん )王朝は、その後、広州、上海、青島 ( チンタオ ) 漢口、天津などの 各都市で、欧米侵略主義勢力が治外法権の租界を設定することに同意させられました。 どん欲な ロシア( ソ連 )はその後 ポーランドや バルト三国 ( エストニア、ラトビア、リトアニア共和国 )、スロベニア、ウクライナ、 そして フィンランドの一部を収奪するなど、周辺諸国を次々と侵略し、ソビエト連邦に併合した過去の歴史があります。 その侵略の歴史を見る時、その当時 ロシアの隣国 に位置し、しかも 軍事的に 無力な朝鮮だけが例外であり、侵略もされずに独立を保てたなどとする主張は、ロシア ( ソ連 ) の侵略性とアジアの歴史に対する 無知の極み と言わざるを得ません。 必ずやその領土を奪われ、鉄の カーテンの内側に取り込まれ、平成元年 ( 1989年 ) の ベルリンの壁崩壊まで、 79年間 も 共産主義の圧政下に置かれたことは間違いありません。
注:)1
注:)2
注:)3
[ 植民地支配を招いた原因、小中華思想 ]朝鮮人に対して率直な意見を述べれば、李王朝 ( 1392〜1910年 ) 下の朝鮮が、ということです。 韓国や北朝鮮が日本の植民地支配を非難するのは彼等の権利ですが、同時に 日本の植民地支配を招いた最大の原因は 彼等自身にあった 、という歴史的事実 を認めなければなりません。その点についての反省を、彼等自身の口からこれまで聞いたことがありませんが、それこそ 歴史の真実 に目を向けようとしない 朝鮮人の民族的悪癖 だと思います。
ロシアは東ばかりでなく南にも進み、千島列島から島伝いに日本列島へ、シベリア沿岸から朝鮮半島、満州 ( 中国東北部 )、さらにモンゴル、へと侵出して行きました。 フレデリック・シューマンの 「 ソ連の内政と外交 」 によれば、1613年にロマノフ王朝が成立して以来、1913年に至る三百年間に領土拡大の速度は、1日平均 60平方 マイルの割合でした。 当時のロシアは中国東北部をすでに占領し、清( しん )朝から租借した遼東半島の旅順に軍港と堅固な要塞を築き、次に朝鮮半島にまで勢力を伸ばしました。もし朝鮮半島がロシアの支配下になれば、日本の脇腹にナイフを突きつけられたのと同じ国防上の危機をもたらすため、日本はロシアによる朝鮮半島支配を阻止し、自衛の為にロシアと戦いました。当時の帝政ロシアは日本の 40倍の国土と強力な軍隊を持つ世界有数の大国であり、 世界の 99 パーセントの人々 は当然ロシアが勝つものと予想していました。
右は当時の フランスの新聞 ( Le Petit Parisien ) に書かれた風刺画ですが、当時の国際情勢が巧みに描かれていました。リングの上のいかにも強そうな大男の ロシア人のレスラーに立ち向かう、小さくて貧弱な日本人 レスラー、その試合を見物する世界の人々、そして自国の領土での試合でありながら、見物席には座れない中国人が幕の外から試合の成り行きを覗いていました。 ロシア人の レスラーは 既に占領した中国領土 に堂々と立ち、日本人のレスラーは日本列島と朝鮮半島に足を置いて迎え撃つ姿勢でした。更にリングの下には白色、黄色と書いてありました。 かつて眠れる獅子といわれた清( しん )国( 中国 )は、19世紀末から20世紀初頭にかけて西欧列強により思いのままに侵略され、 領土を奪われて眠れる豚とまで酷評されていました。しかし政府や中国人たちは植民地支配の危機に対して国をあげて有効な対抗措置 もとらず、中国の領土で行われ、しかも中国の今後の運命に重大な影響を及ぼす日露戦争の際も、ただ漫然と傍観していただけでした。
中国の二重基準もし日本がロシアの南下政策に屈して日露戦争 ( 1904〜05年 )を戦わなかったならば、あるいは敗戦したならば、ロシアが既に占領していた満州 ( 清を建国した満州族が居住していた 中国東北部 )や 遼東半島 、 朝鮮半島 は ロシア領となっていたことは間違いありません。さらに当時清 ( しん )国を分割支配する計画が、英、仏、独、ロシアなど列強の間ですでに決められていましたが、日本が国家の命運を賭けた日露戦争に勝利したため、ロシアが不凍港 ( 冬でも凍らない港 )を求めて アジアで採った 南下政策 を阻止し、ロシアの支配から満州を奪回し、列強による清( しん ) 国に対する分割支配も回避されました。
フランスの新聞 フィガロ ( Le Figaro )に掲載された風刺画でも、巨大な熊 ( ロシア )に対抗する非力な日本の敗戦が、明らかに予想され描かれていました。日本は世界の人々の予想に反して世界の大国 ロシアを見事打ち破りましたが、日本人が流した血と汗の結果、清 ( 中国 )はヨーロッパの列強による領土分割を防ぐことができました。日露戦争によって 清 ( しん、中国)が国家存亡の危機から救われた事実 には、中国は口を閉ざしています。 しかも日露戦争が当時ロシアが支配していた中国領土内で起きた戦争であったにもかかわらず、ロシア( ソ連 )の中国侵略について、 少しも非難をしない二重基準 ( ダブル・スタンダード )は、理解し難いことです。上記二枚の風刺画を見たうえでも、日露戦争は自衛の為の戦争ではなく、中国、韓国、反日左翼主義者が主張するように、 侵略戦争だったと貴方は思いますか?。
韓国の二重基準同じように行動に一貫性がない、ダブル・スタンダードの得意なのが韓国です。1983年9月に サハリン上空で、大韓航空機がソ連 の戦闘機に撃墜されて267名が死亡しましたが、1990年にソ連と国交正常化をした際にはお得意の謝罪要求、賠償要求をしませ んでした。1950年(昭和25年)6月に起きた朝鮮戦争の際には、途中から北朝鮮に加勢する中国義勇軍百万人の参戦により、韓国は戦争 初期に次いで、1951年 ( 昭和26年 )1月には二度目の ソウル陥落という事態になりました。しかし1994年の中韓国交樹立 の際には、かつて中国軍に国土を侵略占領されたという過去の屈辱を都合良く忘れて、侵略に対して謝罪も補償も要求しませんでした。
首都の表記法中国語では韓国の首都ソウルのことを漢城と書きますが、韓国政府は中国との国交正常化交渉の際に首都の表記を、中国語の発音で ソウルに近い首烏爾にするように要望しましたが、四百年間も中国の属国であった朝鮮王朝時代から使用してきた名称であるとして、中国に拒否されました。その結果中国では今もソウルのことを 漢城( 中国 の市街の意味)と呼んでいます。その一方で日本は 植民地時代から昭和40年まで55年以上使用していた 京城 ( けいじょう )という呼び名を韓国から言われるがままに止めて、ソウル に変更しました。この主体性の無さ!。 韓国は昔から強者には卑屈な態度をとり続け、日本のような弱腰外交の相手に対してだけは居丈高になり、謝罪や理屈に合わない金銭 の支払い要求を延々と続けているのです。
注:)
注:)マニフェスト
(1)、涙の道アメリカの植民地主義、侵略主義に汚れた過去について言及すれば、英国からアメリ カに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。先住民族であるインデアンを騙して土地を次々に奪い取り、反抗する者達を容赦なく虐殺しては西へ西へと開拓(先住民の視点から すれば侵略)を進めました。インデアンは嘘をつかない、という言葉がありますが、白人達のアメリ カ合衆国や地方政府はインデアンと結んだ条約、協定を 300回以上 も平然と破り彼等の土地を手に入れました。 第七代のアンドリュー・ジャクソン大統領 ( 1767〜1845年 )は野蛮人 ( インデアン )を東部諸州から一掃すると称して1830 年に強制移住法を作り、全インデアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分けるミシシッピー川( セントルイス、メンフィス から、メキシコ湾岸のニューオルリーンズに至る流れ )よりも西側に立ち退かせることにより、 彼等の全ての土地を手に入れました。 騎兵隊に追い立てられて先祖伝来の土地を離れた何千、何万ものインデアンが、強制移住のためにミシシッピー川の西側へと歩いた 道は、その当時 涙の道 とも言われました。 ジョージア州から強制移住させられた チェロキー族 に例をとると、1万2千人のうち5ヶ月間の旅で4千人が病気と飢えで死亡しました。 ところが折角移住したミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを政府が知ると、四年後には、さらに西の西経 95度に境界を移動させ、1858年にミネソタが州に昇格するのに伴い更に百マイル西方に境界を移動されました。
その後は開拓以外にも西部では ボナンザ ( Bonanza,スペイン語の Good Luck から豊かな鉱脈のこと )を目当てにして原住民の 土地を奪い続け、1864年に起きた サンドクリークの虐殺では女性子供を含めてインデアンを一度に368名も虐殺しました。1890年12月に サウス・ダコタ州の インデアン居住地で起きた ウーンデッド・ニー( Wounded knee )の虐殺では、女性子供を含む 200名 の インデアンが第7騎兵隊により虐殺されましたが、写真は3日間放置された遺体を埋めた時の様子です。 米国はインデアンの土地を全て奪い取り、人里離れた狭い地域にインデアン居留地( リザベーション )を作って隔離し、居留地に住むことを 条件に食糧を支給し、生活保護を与えて現在に至っています。 部外者が自由に居留地を訪れることは禁止されていますが、先住民としての誇りを奪われ飼い殺し同然の生活に希望を失った彼等の多 くは、アルコール依存症になって暮らしています。
(2)、アメリカによる侵略の軌跡
日本の真珠湾攻撃を宣戦布告なしの、 卑劣な攻撃 ( Sneaky Attack )とか 騙し討ち ( Traitorous Attack )などと米国は非難しましたが、メキシコに対して卑劣な攻撃をして勝利を納めた将軍こそ、後に第12代のアメリカ大統領となった、 ザカリー・テイラー その人でした。米国民は 卑劣な男 を大統領に選んだのです。
次ぎにアメリカは、
注:)フィリバスター( Filibuster 、不法侵略者) 国内で ( インデアンから )土地の収奪をした アメリカは、外へ向かっても フィリバスター ( 不法侵略者 )を繰り広げた。 1842年の テキサス 独立、さらに連邦によるその併合、続いて メキシコ戦争。現在の アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、 ネヴァダ はこうして米国の領土となった。さらに メキシコからの カリフォルニ アの強奪と、目まぐるしく侵略し領土を拡大した。と述べました。
日本も弱肉強食の時代に 植民地を持つか、南下する ロシアの植民地 にされるかの瀬戸際でしたが、朝鮮半島、台湾を植民地とし支配し、満州族出身で清 ( しん ) 王朝の最後の皇帝であった宣統帝溥儀 ( ふぎ ) を満州 ( 中国東北部 ) に擁して満州国を設立( 昭和7年、1932年 )し、その地域を間接支配していました。
広大な アフリカ大陸は植民地帝国主義、侵略主義の欧州七ヶ国 ( イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ベルギー )により 25 以上もの植民地、地域に分割支配され 、ここでも独立国は、 エチオピア、南ア連邦、 リベリア の僅か 3 箇国 にしか過ぎませんでした。( なお南ア連邦については、1941年当時 英連邦に所属する自治政府があったので、一応独立国に入れました。)
つまり太平洋戦争開戦 ( 1941年 )当時、 アジアと アフリカ 全土に存在した独立国の数は、
もし日露戦争 ( 1904〜05年 )に日本が敗れたならば、日本も ロシアの領土か植民地にされていた事は間違いありません。私は外国の侵略から日本を守り抜いた明治時代の人々に、心から感謝しております。
侵略主義に汚れた過去を持つ欧米諸国にとって、また日本を貶 ( おとし )めようとする反日左翼主義者にとって、非常に都合が
悪い 白人種 による アジア侵略の実態こそが 、 太平洋戦争の原因 とは何かを考え、議論する際の出発点
なのです。
7:戦争を仕掛けたのは日本か米国か?(1)、黄禍論とレインボー計画日清戦争(1894〜95年 )当時、ドイツ皇帝 ウイルヘルム二世 ( 1859〜1941年 ) は黄色人種の進出によって、今後白色人 種に災禍がもたらされるとする 黄禍論 ( Yellow Peril )を唱えましたが、これが白人諸国に広がり、白人社会に存在した人種差別意識や有色人種に対する嫌悪感により支持されると共に、警戒感を造成しました。続く日露戦争 ( 1904〜05年 )では、国際社会の 99 パーセントが大国 ロシアの勝利を予想したにもかかわらず、アジアの小国日本が勝利を収めたことが契機となり、 アメリカは日本が白人による世界支配体制を脅かし、将来前述した 西進主義 に大きな障害になるとして 仮想敵国 とみなすようになりました。それ以後対日戦争計画 ( War Plan Orange 、オレンジ計画 )を策定しましたが、このオレンジ計画は兵器の発達進歩に合わせて何度も内容が更新されました。 しかし昭和16年 (1941年 )9月27日に、日、独、伊の三国同盟が成立し三国との戦争が予想される事態になると、米国の 戦略は国ごとの戦争計画を一色で表すのを止めにして、新たな戦争計画を 「 レインボー5 」 と名付けるようになりました。 それによれば日米開戦の場合に取るべき米国の作戦は アメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入 を絶ち、沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるというものでした。 そのための布石として米国は ハワイと フィリピンの マニラ ( スービック湾 ) に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図りました。
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