菅野直
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菅野直 | |
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1921年9月23日 - 1945年8月1日 | |
生誕地 | 朝鮮竜口 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1941年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中佐 |
戦闘 | 太平洋戦争 |
菅野 直(かんの なおし 1921年9月23日 - 1945年8月1日)は、太平洋戦争期の日本海軍の戦闘機搭乗員。宮城県角田町(現角田市)出身[1]。海軍兵学校70期、第38期飛行学生。最終階級は中佐。零式艦上戦闘機・局地戦闘機紫電改を操り、個人・協同含め敵機撃墜破数72機[2]。
目次 |
幼少~中学時代
菅野は警察署署長だった父親と厳しい母親の元、菅野家の次男として生まれた。菅野の姉は「直が中学1年の頃まで添い寝をしてあげていた」と語っている。
しかし、(旧制)中学へ進学すると、石川啄木に傾倒し短歌を詠むことが好きで、同級生と文学について論議を交わすサークルまで作るほどの文学好き少年となっていた。当時を知る人の証言として、「当時の菅野は、勇猛果敢と伝え聞く菅野隊長と同一人物とは思えないほどの軟派[3]な男であった」と口を揃える。
海軍兵学校~飛行学生時代
1938年12月、海軍兵学校70期として入校。1943年2月、戦闘機専攻学生となり大分航空隊へ配属される。
教官との空中模擬戦では、模擬戦で教官機とあわや接触という状態を何度も繰り返し、よく飛行機を壊し「菅野デストロイヤー」というあだ名で菅野の名前は徐々に海軍内に知れ渡っていくこととなる。
南方戦線
1944年4月、第343海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分隊長として南洋に進出する。同年7月、同隊解隊後に第201海軍航空隊の分隊長を任ぜられる。この頃の菅野はまさに豪快な男であった。ヤップ島での防空戦闘では零戦を駆り、アメリカ陸軍爆撃機B-24の垂直尾翼を撃墜したり、1度に2機のB-24を撃墜するといったこともあった。
特攻と菅野
1944年10月、レイテ沖海戦。海軍はこの戦いから特攻を開始する。この時菅野は第201航空隊の分隊長としてフィリピンに配属されていたが、海戦直前に内地へ一時帰還していた。
そして、初の神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長となる、菅野と海軍兵学校の同期である第201航空隊戦闘301飛行隊分隊長関行男大尉も同じくフィリピンに配属されていた
その後菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務めることとなったが、落下傘を装備しての任務は、部下たちにも禁止した。基地に帰還する時搭乗していた輸送機の操縦桿を自ら握り、墜落すれすれのスタント飛行によって敵の奇襲から逃れるということもあった。その時不時着したルバング島では救援の到着するまでの数日間、原住民に対して島の王様のように振る舞っていたという。
第343海軍航空隊
フィリピンでの戦績は思わしくなく、菅野もいずれは特攻するしかないほどの状況となりつつあった。そんな中、菅野に内地帰還命令が下る。航空機至上主義を掲げた源田実が発案、自らが司令を務める二代目「第343海軍航空隊」隷下の戦闘301飛行隊「新選組」(新「撰」組ではない)隊長への転属であった。菅野以下、戦闘301の面々は続々と松山基地に集結、局地戦闘機「紫電」及び「紫電改」にて錬成を開始する。その後、時を同じくして出水・大村各基地にて錬成を続けていた戦闘407・701各飛行隊と合流、松山基地にて編成を完結した。
ここでの菅野は「猛将」と異名されており、熱血漢ぶりを存分に発揮していた。B-29邀撃時には、前上方より背面急降下でB-29のコクピットのみに狙いを定め、搭乗員の顔が見えるほどまでに接近し接触寸前で交わしていくという攻撃方法を編み出す。
8月1日 最後の戦闘
菅野の指揮する戦闘第301飛行隊所属の堀光雄飛曹長(戦後、三上と改姓)の戦後の回想によると、この日、隊長菅野以下紫電改20数機は九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊発見の報を受け、これを邀撃すべく大村基地を出撃した。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見。敵上方より急降下に入ったとき、何機かの紫電改の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電する。これを聞いた堀飛曹長機が菅野機を探したがどこにも見当たらず、自機の翼を傾けて下方を覗いたところ、はるか下方を水平に飛ぶ菅野機を発見、即座に近づいたところ左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見した。堀機が菅野機を離れ戦闘に戻るとやがて再び菅野からの無線が入電した。「空戦ヤメ、全機アツマレ」菅野がいると思われる空域へ向かう途中再び入電、「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」そして菅野機は空のどこにも見当たらなかった。燃料の続く限り捜索したがついに見つけることはできず、海軍基地はもとより、陸軍飛行場にも菅野が着陸していないか問い合わせたもののどの基地にも着陸していないとの報告であった。結局この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となった[4]。
同日のアメリカ軍の戦闘記録によると、当のB-24の一団は敵機撃墜0と報告しているが、近隣空域でP-51の一団がフランク(陸軍四式戦闘機疾風のコードネーム)と空戦、4機を撃墜と報告している。日本側にこの日、疾風を装備する陸軍部隊が同空域で行動した記録がないため、343空の紫電改と疾風を米軍側が誤認したものと思われる。また、撃墜機数と未帰還機数の不一致は戦果誤認と思われる。これから推測すると、菅野はP-51に撃墜された可能性が高いと思われる。
菅野の行方も生死も不明のまま、終戦後1ヶ月以上経った9月20日、源田は菅野を空戦の末の戦死として二階級特進を具申している。ここで菅野は正式に8月1日に戦死と認定され、中佐に昇格した。
なお存命中に愛用していた財布が、東京都市ヶ谷にある靖国神社の遊就館に展示されている。
伝記
- 碇 義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』
- (光人社、1991年) ISBN 4-7698-0588-8
- (光人社NF文庫、2007年) ISBN 978-4-7698-2542-5
関連項目
注記
- ^ 生誕地は現北朝鮮の平壌に近い竜口。
- ^ 日本軍には個人撃墜破戦果を軍が公認するという制度は存在しない為、自己及び列機搭乗員等の申告による推定。
- ^ 当時は文学や読書が好きな者を指して軟派と称しており、現代の「ナンパ・軟派」とは意味が違う。
- ^ なお菅野はこの日、愛機「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。