(1)和歌三神の謎
衣通姫(「そとおしひめ」または「そとおりひめ」と読む)は、歴史上の人物としてよりも、むしろ、和歌三神の一人として和歌の世界の中で知られている古代の女性である。
事の起こりは、紀貫之が書いた「古今和歌集」の「仮名序」の中の文章である。貫之はその中で小野小町の歌を評して、
「小野小町は古の衣通姫の流(りゅう)なり。あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」
と書いている。
これが、「小野小町の歌は衣通姫の歌と同じように、嫋々たる女心を歌ったものである」と云う意味であることは云うまでもない。しかし、この文章が誤解されて、もっと広い意味で、小野小町と衣通姫とが似ていると解釈するようになる。
日本書紀が衣通姫を絶世の美人であると述べているために、小野小町もまた類稀(たぐいまれ)な美人であったと理解されるようになる。そして、深草少将が、拒絶されてもされても百夜の間、小町の家を訪ねたと云う物語にまで発展してゆく。他方では、小野小町が優れた歌を数多く作っているので、衣通姫の歌もまた抜群に優れたものと考えられるようになり、遂には、和歌の神様として神格化され、和歌三神の一人にまでなる。
しかし、日本書紀が書き留めて、残されている衣通姫の歌は僅かに二首である。
「わが背子(せこ)が来べき宵なり 小竹(ささ)が根の蜘蛛(くも)の行い 今宵(こよい)著(しる)しも」
「常(とこ)しえに 君に遇えやも いなさとり 海の浜藻の寄る時々を」
これらは、たしかに叙情性の豊かな歌であり、それなりに見事なものではある。しかし、神業と云わねばならぬまでのものとは考え難い。和歌の神様とされるほどの歌ではない。
ところで、和歌三神とは、住吉明神、玉津島明神(衣通姫)、柿本人麻呂である。あるいは、第三番目を柿本人麻呂に代えて天満天神(菅原道真)とすることもある。和歌三神が選ばれたのは中世になってからと考えられるが、それにしても、実に変な取り合わせである。第三番目の神は明らかに歴史的現実の人物であるが、第一番目の住吉明神は宗教的架空のものであり、しかも、住吉の神が作った歌など存在もしない。何故、住吉の神は和歌の神なのか。その上に、第二番目が僅かな歌しかない衣通姫である。
住吉明神が和歌の神とされたのは、畢竟、住之江の浦が歌枕(和歌に詠われている名所)の一つであるからに過ぎない。かくて、玉津島明神(衣通姫)が和歌の神とされたのも、玉津島神社がある和歌浦が風光明媚な歌枕の地であり、しかも「和歌」と云う言葉を持つ地名であったために過ぎないと考えられる。
万葉集には和歌浦を詠んだ歌が十一首も残っている。特に山部赤人の歌は「片男波(かたおなみ)」の語源として有名である。
「若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み岸辺をさして鶴(たず)鳴き渡る」
その後も、奈良時代、平安時代を通じて多くの歌がここで作られている。

では何故、和歌浦の玉津島明神が衣通姫なのか。
もともと、和歌浦は「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていた。神亀元年、聖武天皇が行幸した時、これを「明光浦(あかのうら)」と改めた。これにより、その浦にある玉津島と云う小島に祀られていた神も「明光浦之霊(あかのうらのみたま)」と呼ばれるようになる。やがて、この「あかのうら」が「わかのうら」に転じ、これに「和歌浦」の文字が当てられるようになる。
ところが、何故か、いつの間にか、和歌浦の玉津島明神は衣通姫であると云うことになってくる。藤原清輔の「袋草子」(1191)や藤原顕昭の「袖中抄」がそれである。
そして、やがて、それが発展して、不思議な物語が生まれてくる。南北朝時代の北畠親房(1292~1354)が「古今集註」の中で記しているもので、平安時代中期の光孝天皇の夢枕に彼女が立ったと云う物語である。すなわち、
光孝天皇が和歌浦に御幸して宿った夜、その夢の中で、一人の女性が立っていたので、
「そなたは誰れ人なるぞ」
と訊ねると、
「わらわは衣通姫なり」
と答えて、
「立ち帰り またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき和歌の浦波」
という歌を残して消えて行く。と云う謎めいた物語である。
この物語によって、玉津島明神が衣通姫であるとする考えが通念として定着してくる。。
それにしても、この「立ち帰り・・・・・・」と云う歌は、見方によれば、まことに奇怪な歌である。阿久根治子氏が「流刑の皇子」の中で指摘しているように、この「もう一度、この世に戻って来ますよ」と云う言葉は、まるで成仏することができず、無明の闇をさまよっている幽魂の言葉である。一体これは何なのか。歴史上の彼女は、何か恨みを抱きながら死んでいったのではあるまいか。
玉津島明神が衣通姫であるされので、彼女は和歌の神と云う事になったが、彼女を和歌浦に結びつけたのは何なのか。何故、玉津島明神が衣通姫なのか。私はその謎を追ってゆこうと思う。
(2)衣通姫についての五つの謎

とにかく、わが国の古代史の中で最大級の美人の一人である。日本書紀が、その美貌を讃えている女性と云うと、まず第一に挙げられるは継体天皇の母振媛(ふるひめ)であるが、それにも勝る美人がこの衣通郎女(いらつめ)であり、書紀は、
「顔かたちすぐれて比ぶものなし。その艶(にお)える色は衣(きぬ)を徹(とお)りて照れり。このゆえに時人(よひと)衣通の郎姫(いらつめ)と名付けて云えり。」
(容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以時人号曰衣通郎姫也。)
と賛辞を呈している。
すなわち、、「衣通姫」と云うのは本当の名前ではない。美しい肌の色が衣を通して照り輝いたので、人々がその美しさを讃えてこのように呼んだものであると云う。
では、本当の名前はどうなのか。諸本の記すところは、
@「とうしのいらつめ」(登富志郎女:応神記)、
A「ふじわらのことふしのいらつめ」(藤原琴節郎女:応神記)
B「ふじわらのことふしのいらつめ」(布遅波良己等布斯郎女:上宮記逸文)
C「そどうしのいらつめ」(衣通郎女:允恭紀)
D「おとひめ」(弟姫:允恭紀)
これらを見れば、@の「とうしのいらつめ」が本当の名前と思われる。AとBの「ふじわらのことふしのいらつめ」は飛鳥の藤原の里に住んだためである。Cはその美しさを讃えるために、本当の名前から転じて呼ばれたものである。Dは忍坂大中姫の妹であるためである
衣通郎女は允恭天皇の妃。出自は息長(おきなが)氏、父は稚野毛二派(わかぬけふたまた)王(若野毛二俣王)、母は息長真若中(おきながまわか)比売(母母思己麻和加中比売(ももしきまわかなかひめ))、姉が允恭天皇の大后忍坂大中姫(おっさかのおおなかつひめ)(踐坂大中比弥王)である。(括弧内は上宮記逸文の表記)
上宮記逸文に従ってその系譜を描くと、

古事記は彼女について何一つ述べておらず、日本書紀のみが彼女のことを記している。書紀が記すところの大略は次のようである。
彼女は姉の縁によって允恭天皇の妃となる。天皇は藤原の地に屋を構えて彼女を居らしめて深く寵愛する。しかし、姉がそれを嫉妬してやまないので、遠く離れた和泉国の茅渟(ちぬ)に別宮を作って、そこに住まわせて頻繁に通い、また、諸国に彼女のための御名代(みなしろ)藤原部を定めたと云うものである。
この衣通郎女について書紀は多くの文言を費やしているが、それにもかかわらず、一歩退いて考えると、実に多くの謎に包まれている。
謎と考えられる事柄を取りまとめてみると、次の五点に集約されよう。
(1)允恭天皇の妃になった経緯の異様さは何であるのか。
(2)姉の忍坂大中姫は本当に彼女を嫉妬したのか。
(3)允恭はなぜ彼女を遠く離れた南河内の茅渟(ちぬ)に住ませたのか。
(4)允恭の皇女軽大郎女(かるのおおいらつめ)を古事記はなぜ衣通郎女としたのか。
(5)木梨軽皇子と軽大郎女皇女との姦通事件とは何なのか。
(3)允恭天皇即位の謎
(イ)庶腹の子
しかし、これらを解明するためには、それに先だって允恭天皇にまつわる謎を解き明かしておかねばならない。允恭天皇についての最大の謎はその出自であり、即位事情である。
記紀は允恭天皇(雄朝妻稚子宿弥(おあさづまわくごのすくね))を仁徳天皇と大后磐之媛との間の第四皇子としているが、これは疑問である。
@疑問を感じる原因の第一はその名前である。「雄朝妻稚子宿弥」とは、単に「葛城の麓の朝妻の部落の若者」と云う意味であり、この名は、父の「大鷦鷯(おおささぎ)」(仁徳天皇)、兄の「去穂別(いざほわけ)」(履中天皇)、「瑞歯別(みずはわけ)」(反正天皇)、子の「穴穂(あなほ)」(安康天皇)などの名とは異質である。地名を負った名前と云うだけならば、兄に住江仲皇子、異母兄弟に大草香皇子がおり、必ずしも異とすべきでないかも知れないが、決定的なことは「宿弥(すくね)」と云う称である。「宿弥」とは古代の尊称の一つであるが、この時代、このような称を持つ者はすべて臣下であって、王族では彼以外には誰もいない。後年、天武十三年、八色の姓が定められ、それを真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿弥(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなき)の八段階とした時、宿弥が第三位の姓とされていることに照らして考えると、彼が当初は王族にも加えられてなかったことを暗示している。
Aこのことは、中国の史書「宋書倭国伝」が記す倭の五王の記事においても感じられる。五王は、讃を履中、珍を反正、済を允恭、興については異論もあるが安康、武を雄略と見るのがほぼ定説となっているが、この場合、中国の史書は済については血縁関係を述べていない。すなわち、「讃死し弟珍立つ」「済死す。世子興貢献す」「興死し弟武立つ」とのみである。このために、つとに藤間生大氏は反正と允恭の兄弟関係に疑問を投げかけ、原島礼二氏は両者を別系統としている。
|
讃
珍
済
興
武 |
弟
?
世子
弟 |
履中天皇 (仁徳天皇)
反正天皇
允恭天皇
安康天皇 (木梨軽皇子)(市辺押磐皇子)
雄略天皇 |
|
これらの点から考えると、允恭の母は仁徳の大后磐之媛と同じ葛城出身の女性ではあるが、磐之媛以外の人ではなかろうか。磐之媛が葛城襲津彦を父に持つ葛城本宗の娘であるのと異なり、傍流の娘、あるいは更に、土着先住民の娘ではなかろうか。磐之媛の生家が葛城高宮にあったことは彼女の歌から知られているが、允恭を生んだ娘は高宮より1キロばかり東北の朝妻の部落の娘であろう。朝妻は高宮からは見下される位置にある。このことが自ずから社会的地位関係を表している。
ではなぜ、記紀は允恭をも磐之媛の娘としたのか。
磐之媛について書いている別稿で述べたように、記紀は、仁徳が菟道稚郎子を殺害してその王位を奪ったことを隠蔽すために、磐之媛を嫉妬深い女性と云うことにした。そして、幾つもの嫉妬話を捏造し、夫仁徳が他の女性と関係を持つことを断固拒んだと描いたため、身分の低い娘に生ませた子があり、しかも、それが皇位を継いだなどとは、とても書くことができなかったためであろう。つまり、もし皇位を継がなかったならば、允恭は史上から抹殺されるべき人物であった。このため、同じ葛城であることを幸いとして、允恭をも磐之媛の子としたのであろう。
書紀は、允恭が即位を固辞する言葉として、次のような言葉を記述している。
「自分は久しく篤い病に罹り歩行もできなかった。何とか病を除きたいと手術を受けたが、それでもなお癒らなかった。それを知って父仁徳は、勝手に身を傷つけるは大不孝であると怒り、お前はたとへ長生きできても皇位を継ぐことはできない。とおっしゃった。また、兄たちも私を暗愚であると軽蔑しておられた」
この言葉は、允恭がその母の出自の低さ故に、磐之媛の子たちよりも下位にあり、皇位継承に無縁な、云うなれば臣下であったことを暗示している。このことは彼の即位事情に投影される。
(ロ)允恭の母は野伊呂売
私は、このような允恭の本当の母について、一つの仮説を持っている。それは、応神記が応神の第十妃として記す「葛城の野伊呂売(ののいろめ)」ではないかと云う考えである。「ノノイロメ」とは「野にいた美しい女」と云う普通名詞である。彼女は郎女(いらつめ)でもなく比売(ひめ)(媛、姫)でもない。
単なる「女(め)」であり、賤しい出自である。磐之媛を嫉妬の女としたために、仁徳の妃の一人として記すことができないので、その父の応神の后妃の一番最後にちょこんと加えたものと考える。記はその子として、伊奢能麻和迦(いざのまわか)王を書いているが、「イザノマワカ」とは、
応神の第一妃高木入比売の第三子と同じ名であり、また、応神の別名「イザサワケ」や、履中の名「イザホワケ」と類似しており、これらを材料として創られた名と思われる。
古事記では、「ノノイロメ」はもう一個所,孝元記の中で建内宿祢(たけのうちのすくね)の第七子、怒能伊呂(ののいろ)比売(ひめ)として出てくる。そして、孝元記は更に念を入れて、建内宿祢の第九子に若子宿祢(わくごのすくね)の名を記している。これは、何と、允恭の「ワクゴノスクネ」そのものである。
しかし、彼女は葛城地域に住んではいるものの、襲津彦流の、いわゆる葛城氏ではなく、古くから葛城地方に土着していた先住民系統の子ではなかろうか。
なお、日本書紀には「ノノイロメ」の名は全く出てこない。抹殺されているのである。
(ハ)クーデター的擁立
允恭は反正亡き後、平穏に後を継いでいるいるのではない。書紀はこの時後継候補者として他にもう一人、仁徳と日向の髪長媛との間の子、大草香皇子が存在したことを述べ、允恭は再三にわたって皇位継承を辞退したが、群臣の推挙、后大中姫の決死の懇願を拒むことがてぜきず、遂に皇位を継いだと述べている。
これは単に、彼を謙譲の人として描くものではなく、皇位は順当には日向系の大草香皇子に継がれるべきものであったが、その順位を覆して、本来は継承権のない允恭が継いだことを暗示するものである。
従って、允恭の擁立はクーデターに近いものであったと見られる。そのクーデターを推進したのは誰なのか。常識的に考えれば、葛城氏のように思われる。なんとなれば、履中、反正と葛城系の皇子が皇位を継いできたのに、ここで日向系の皇子に移るということは、葛城一族の存亡の危機である。そこで彼らは本来は皇位継承権のない允恭を引っ張り出し、強引にそれを実行したと考えるのが順当である。
しかし、この場合、葛城氏は必ずしも允恭擁立に向かわなかったようである。特に、葛上郡に本拠を置く葛城本宗家は允恭擁立に反対の立場を取ったようである。即位後日も浅い五年の七月、允恭が葛城玉田宿祢を職務怠慢の罪で誅殺していることが、そのことを窺わせる。
どうやら、允恭擁立の中心になったのは、奈良盆地東部の諸族と見られる。そのまた中心になったのは息長氏である。すなわち、允恭の后忍坂大中姫の出身部族である。息長氏は近江国坂田郡に本拠を置き近江一円を勢力下にした部族である。その一部は大和にも進出し、盆地東部の初瀬谷の忍坂に居を置いていた。忍坂大中姫もそこに住んでいた時に允恭(当時はまだ雄朝妻稚子宿祢)と結ばれたのである。従って、彼は盆地西部の葛城の朝妻からここへ通い婚をしていたのである。この息長氏が、わが娘婿の擁立に奔走することは当然である。そして、近隣の諸族、阿倍、大伴、物部、多、和邇などのを結集して允恭擁立を謀ったかのようである。
なお、書紀は玉田宿祢誅殺事件を五年のこととしているが、あるいは、即位以前のことであって、反対派の領袖を抹殺するためのクーデターであったのかも知れないと考えさせられる。
なお、息長氏については、応神天皇の母を息長帯媛としたり、忍坂大中姫の父稚野毛二派王を応神天皇の子としたりなど、早くから応神王朝の中で高い地位を占めていたかのように記されているが、これらは多分に後の粉飾であろう。当時、息長氏は地方豪族としてはそれなりの存在ではあったが、中央では殆ど力を持っていなかったと思われる。
そのことを暗示させる物語が書紀の中にある。すなわち、大中姫がまだ少女の頃、家の庭で遊んでいると、闘鶏(つげ)(現在の奈良県山辺郡都祁(つげ)村)の国造(くにのみやつこ)が馬で通りかかり、垣根越しに見下ろしながら、少女に対して傲岸な口をきく。彼女は、何と無礼な男と、怒りで心の中を煮えたぎらせ、
「覚えていなさい。私はお前の無礼を決して忘れないわよ」と言葉を返す。
後日、彼女は允恭の大后となった時、その時の男を探し出し、
「決してお前を忘れないと云ったあの日の言葉を覚えているでしょうね」
と責めて、死刑にしようとしたが、その男は額(ひたい)を地にすりつけ頭を地に叩きつけて謝るので、その位を落とすにとどめた。と云うものである。
このエピソードは、彼女の勝気で激しい気性、とりわけ、「いまに見ておれ」と云うすさまじい星雲の思い、あるいは野心を示すものではあるが、それと同時に、息長氏もその頃はまだ、近郊の土豪からも下位に見られる地方豪族に過ぎなかったことを雄弁に語っている。
息長氏が中央政界において一定の勢力を確保し、遂には後に継体天皇となる男大迹(おおと)の大王を輩出するに至る端緒は、この允恭擁立にあったと私は考えている。書紀はその間のエピソードを重ねて次のように記している。
即位の儀式の準備も整ったが、それでも允恭は皇位を承けることをためらい、儀式に臨もうとしなかった。その時、后大中姫は、手を清める手水の椀を捧げて彼の前に進み、「皆様が待っています。手を清めて儀式に出て下さい」と云うのだが、彼は振り返りもせず、黙ったままだった。彼女は「私はここを動きません」と云うと、何時までも何時までも、同じ姿勢でその場に立ちつくした。折から師走の酷寒、風も激しい日。彼女が寒さに震えて思わず椀からこぼした水は、彼女の素肌の腕にかかって忽ち氷になった。それでも彼女は動こうともしなかった。彼女は寒さのため次第に意識が薄れ、やがて、椀を持ったまま、その場に倒れた。物音に驚いた彼は、彼女を抱き起こし、「お前たちがそこまで云うのなら、私も皇位を承けよう」と云った。と云うものである。
事実、彼は皇位継承を躊躇したのであろう。単に謙譲の主として描きたかったと云うだけのものではなかろう。彼は、つい最近まで、葛城の麓の村で、友達たちと一緒に畑を耕し、車座になって酒を飲み談笑していたのである。それが、急に担ぎ出されたのである。ためらうのは当然であろう。
それにしても、この物語は、彼女大中姫の、何としても人々を見返してやりたい、そのためには我が夫を帝位につけねばならない、この千載一遇をどうして逃すことができよう、とするすさまじいまでの思いを示しており、他方、息長氏の必死の擁立活動を暗示するものである。
(ニ)大草香皇子
本来ならば皇位を継ぐべきであった大草香皇子とは、どう云う人物なのか。
彼の母は日向出身の髪長(かみなが)媛。その髪長媛の父は日向の諸県(もろがた)君牛諸(うしもろ)。日向国諸県郡、すなわち大淀川の広大な流域地帯の首長である。応神紀十三年の一書によると、牛諸は応神天皇に長年仕えてきたが、年老いたので致仕して故郷に帰る時、自分の身代りにと、美人の誉れ高い、我が娘髪長媛を貢上する。応神の子の仁徳は、この媛の美しさを一目見て激しい恋心を抱き、父から媛を貰い請ける。
日向は隼人の地である。従ってこの記事は、応神自身が隼人出自であるとまでは語っていないが、少なくとも応神王朝の成立に隼人たちが大きな力を貸したことを示すものである。記紀において、神功皇后の身辺に影のごとく常に扈従する武内宿祢(たけのうちのすくね)(建内宿祢)は、実はこの諸県君牛諸に他ならないと考えられる。古事記では、この時仁徳が武内宿弥に媛を私にくれないかと頼んでいるからである。葛城氏はその系譜において、自らの始祖襲津彦を武内宿祢につなぎ、更にそれを皇統に接続したのであろう。
この髪長媛には大草香(おおくさか)皇子と幡梭(はたひ)皇女の二子があった。大草香の草香は河内国河内郡の地名である。彼は現在の東大阪市日下町に住んでいる。そこは仁徳の本拠地河内の中であり、しかも、上町台地上にある仁徳の宮殿高津宮とは、河内湾をはさんで対岸である。彼は父仁徳の膝下に居る。そして、河内は、崇神記に登場する吾田媛(あだひめ)以来、河内隼人の地である。彼は河内隼人たちに護られ、その強大な力を背景として育った。彼は仁徳大王の正妃の一人の子であり、もう一人の正妃磐之媛の子供たちがすべて死んだ今日においては、彼こそ応神王朝を継ぐべき正系であった。
このような大草香を押しのけて皇位についた允恭としては、大草香をいただく隼人系と融和をはかることが、政権安定のためには何よりも必要であった。大草香を彼の根拠地である住吉から引き離して、自らの根拠地である大和の忍坂(おっさか)に招いて長期にわたって滞在させることも行ったと思われる。
和歌山県隅田八幡宮所蔵の、かの有名な人物画像鏡の銘文「癸未年八月日十男弟王在意柴沙加宮時」云々は、「允恭天皇がその男弟とともに皇后の忍坂宮にいた時」(水野祐氏)あるいは「大草香王がその男弟とともに允恭皇后の忍坂宮にいた時」(神田秀夫氏)と解釈されているが、それらは、いずれにせよ、允恭の大草香に対する融和政策を暗示するものである。
なお、允恭の後を継いだ安康天皇に至ると、彼は父允恭のこのような穏和な融和政策を歯がゆいものと考えて、一転して強行策に転ずる。すなわち、大草香皇子に云われもない濡れ衣の罪を着せて攻め殺してしまい、その妻を奪って自分の妻にすると云う荒技に出る。更に、安康天皇の後の雄略天皇は、大草香皇子が残した男児眉輪(まよわ)王(目弱王)をも殺害し、遂に髪長媛以来の隼人系を殲滅してしまうが、それは後日の話である。
いずれにもせよ、当時、大草香皇子と云う存在は、政局の渦の中心的な震源地であったことを見るのである。衣通郎女についての謎の一部も、この渦から発生しているように思われるのである。
(4)登場の異様さの謎
日本書紀は、衣通郎女が允恭天皇の妃となった経緯について、次のように述べている。
@允恭大王の七年冬十二月、新しい皇居の造営が完成した祝宴で大后忍坂大中姫が舞を舞う。当時の風習では、舞い終わると座長に「娘子(おとめ)を奉りたいと存じます」と云うのが常であったが、大后は何も云わない。大王は「何で定まった挨拶をしないのか」と問う。そこで大后は再度舞って後、定型の挨拶をする。すると大王は「その娘子(おとめ)とは誰か」と訊ねるので、大后はやむを得ず「私の妹、弟姫(おとひめ)」と答えた。弟姫と云うのが衣通郎女である。
A大王は七度も使いをつかわして、近江の坂田の母の所に住んでいる弟姫を召すが、彼女は姉の嫉妬を恐れて応じない。大王は、再度、舎人(とねり)の一人、中臣(なかとみ)烏賊津使主(いかつおみ)をつかわす。烏賊津使主は弟姫の家の庭に至って、「ご承諾下さるまではここを動きません」と、七日七夜動かず、食物を与えても食べない。しかし、実は、密かに衣服の袖の中に用意していた乾し飯を食べていたのである。それと知らず、弟姫は遂に応諾する。
B大王は大いに喜んだが、大后に遠慮し、藤原の地に別に殿舎を造って、そこに彼女を住まわせ、夜毎そこへ通うのであった。

ここで、中臣烏賊津使主と云うのは、中臣(なかとみ)氏(あるいは藤原氏)の系図で雷大臣(いかずちのおおみ)として出てくる人物と見ることができる。中臣氏(あるいは藤原氏)は津速魂命(つはやむすびのみこと)、およびその三世の孫天児屋根命(あめのこやねのみこと)に始まる壮大な系図を持っているが、これは後世の創作と思われる。当時彼らは大和国高市郡大原村(現在の明日香村小原(おおはら))に住んでいた小さな家族であり、烏賊津と云う名の当主は、允恭天皇がたまたま近くに皇居を定めたので、そこに出仕し、天皇の近辺の用を行う舎人(とねり)の職を得ていたものに過ぎないと考えられる。
江戸時代の国学者谷川清士(ことすが)は、允恭天皇の「遠つ飛鳥宮」と云うのは高市郡の鳥形山、すなわち現在の飛鳥坐(あすかにます)神社の後ろの小丘辺りではなかろうかと云っている。そうすると、そこは大原とは極めて近い場所である。この大原の地は「藤井が原」略して「藤原」とも呼ばれていた。清らかな水が湧き出る井戸の上を藤の大木が覆っていたからと云う。中臣鎌足が藤原朝臣の姓を賜ったのは、この地名によるものである。
すなわち、允恭天皇は烏賊津使主が衣通郎女を連れてきた縁によって、彼に彼女のための殿舎をその家の近くに作らせ、彼に彼女の日常の面倒の一切をみさせていたものと考えられる。そして、この事が中臣氏が大きくなってゆく端緒となった。
後に、衣通郎女が和泉国の茅渟(ちぬ)に移った時も、恐らく、烏賊津使主らは彼女を護って和泉国へ赴いたことであろう。和泉国には大鳥郡を中心に中臣氏の同族と称する氏族が多く散在しているのも、このためではあるまいかと私は思うのである。大鳥郡には中臣殿来連(とのきのむらじ)、蜂田連、大鳥連、和太連、民直(たみのあたい)、評直(こおりのあたい)などが見られ、和泉郡には宮処朝臣(みやところのあそん) がある。こられのうち、和泉郡の宮処朝臣の名は衣通郎女に始まる茅渟(ちぬ)宮に関係あるものだろう。すなわち、もともとは衣通郎女の御名代として作られた藤原部を、中臣氏はその代行管理者としての立場を利用して次第に自領化してゆき、在地の者どもを擬制的に同族化していったものであろう。
それはさておき、衣通郎女のこのような登場の仕方は、あまりにも異様ではあるまいか。
最も不可解なことは、舞を舞った後「娘子(おとめ)を奉らん」というのが当時の風習であったと云う点である。そのような話は歴史の中でも民俗の中でも、他には聞いたことがない。百歩譲って、そのような風習があったとしても、その場合「娘子」というのは舞姫自身のことで、「今宵私の身体を捧げます」と云う意味と解釈するのが自然である。もう百歩譲って、それが別の女性を捧げると云う意味であったとしても、何も自分の身内のものである必要はない筈である。大中姫の近辺にはその日常に奉仕する女性が多数いた筈で、それらの中から一人を選んで献じてもよい筈である。
このように考えてみると、そこには何か隠された意図があるとしか考えられない。それは何なのか。
@一つ考えられることは、息長氏が宮廷内における勢力を、より以上に拡大するために、更に妃をもう一人送り込もうとするに当たって、他の氏族からの抵抗に配慮して仕組んだ演出ではないかと云うことである。しかし、姉妹が同一の夫を持つこと、いわゆるソロレート婚(sororate)は当時は決して珍しいことではなかったし、まして、妹が絶世の美女であるなら、そこまでの演出は不必要と思われる。現に古事記には、大后の妹田井中比売のための御名代として河部を定めたとの記事があり、これは、衣通郎女のみならず、次姉の田井中比売(上宮記逸文では田宮中比売)も同時に允恭の妃になったと見られるからである。
Aもう一つ考えられるのは、後で大中姫の嫉妬を述べるための伏線として書紀の筆者が創り上げたものではないかと云うことである。、たしかに、その可能性はあるが、しかし、どうも、それだけとは思えない。
Bもう一つ考えられるのは、これは、後の藤原氏が祖先の功績を述べるためのものに過ぎないと云う見方である。話の後段にはそれもあるだろうけれど、それだけなら、何も前段の話は必要ない。
そもそも、允恭紀における話は仁徳紀の中に出てくる話と多くの点で類似している。
@仁徳の大后磐之媛と、允恭の大后大中媛は、どちらも嫉妬深く、きつい性格の女性である。
A磐之媛は単身山城の筒木に行き、そこを動かぬが、允恭紀でも、衣通郎女が単身和泉国に行き、そこに住む。
B仁徳は磐之媛に帰国を説得するために的(いくは)の口持臣(くちもちのおみ)(記は和邇臣口子(わにのおみくちこ))に行かせるが、允恭は衣通郎女を招くために中臣烏賊津使主を行かせる。
C口持臣は、土砂降りの雨の中を庭前に座り続けるが、烏賊津使主も七日間庭前に座り続ける。
D仁徳も允恭も謙譲の人としている。仁徳は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と皇位を譲り合うが、允恭もなかなか皇位に就こうとしない。
E更に付け加えると、仁徳の皇子たちは兄弟で殺し合うが、允恭の皇子たちも兄弟で殺し合う。
どうやら、書紀の筆者は著述の前提に、允恭をこの応神王朝の中興の名君として描きたいと云う意図があり、そのために、この王朝の創業の名君仁徳に似せて描いたのではあるまいか。そして、この「娘子(おとめ)献上」の話も、この意図のもとに大部分は創作されたものではあるまいか。
(5)大中姫の嫉妬の謎と衣通郎女の和泉定住の謎
書紀によると、允恭は夜毎に藤原の衣通郎女を訪うので、大中姫は嫉妬の思いをつのらせる。大中姫が大泊瀬(おおはつせ)皇子を出産する晩も、藤原へ行こうとするので、大中姫の怒りは遂に爆発し、「私が生死の間をさまよっているというのに、あなたは妃と戯れようというのですか」と云って、産殿(うぶどの)に火を放って死のうとする。それやこれやで、天皇は遠く離れた和泉国の茅渟(ちぬ)に別宮を作らせて、そこに郎女を住まわせる。そして、自らは、日根野で遊猟すると称して頻繁に茅渟に行幸する。
大中姫は允恭に、行幸の回数を減らせと迫り、「これは、妹を嫉んで云うのではありません。行幸のたびに、その出費に百姓どもが苦しむからです」と云う。
これはどこまで信用できる記事であろうか。私には、どうも書紀の筆者は、后妃が天皇のもとを離れて遠隔地に住んでいる場合、真実の政治的意図を隠して、それを女性の嫉妬のためとする傾向があるように思われる。いや、政治的意図を察することができないので、女の嫉妬としてしまうのかも知れない。仁徳の磐之媛大后の場合も真実の意図は、山城地方の和邇氏が不穏な動きをするのを封ずるために、磐之媛自らが軍勢を率いて筒木に駐屯したと見るべきであろうことは
別稿で述べた。
衣通郎女の場合も、河内国に勢力を持っている大草香皇子の勢力を削くために、その南部に楔を打ち込むことが本当の目的ではあるまいかと私は考える。茅渟の宮守護の名目で多くの軍隊が駐屯したことは云うまでもなく、天皇の日根野遊猟も軍隊の示威活動であったと考えられる。当時、和泉地方は河内の国の一部であった。奈良時代に入ると、大島、和泉、日野の三郡を統べて、茅渟宮を警護する和泉監(いずみのげん)と呼ばれる役所が置かれ、更には三郡が和泉国として河内国から分立することになるが、その始まりはここにあったと見られる。
このように見てくると、大中姫の嫉妬と云うものは多分に疑わしいものとなってくる。そして、その文脈を遡れば、「娘子献上」の物語は、その前段は大中姫の嫉妬の伏線、その後段は藤原氏の功績談から作られたものと考えるのが妥当ではないかと云うことになる。
(6)二人の衣通姫の謎
記紀は允恭天皇には次の九人の子供があったとし、母はいずれも大后忍坂大中姫であるとしている。
@ |
木梨軽(きなしかる)皇子 |
(記は、木梨軽王) |
A |
名形大娘(おおいらつめ)皇女 |
(記は、長田大郎女) |
B |
境(坂合)黒彦皇子 |
(記は、境黒日子王) |
C |
穴穂(あなほ)皇子 |
(記は、穴穂命)(安康天皇) |
D |
軽大娘(かるのおおいらつめ)皇女 |
(記は、軽大郎女、亦の名は衣通郎女) |
E |
八釣(やつり)白彦皇子 |
(記は、八瓜白日子王) |
F |
大泊瀬(おおはつせ)皇子 |
(記は、大長谷命)(雄略天皇) |
G |
但馬橘大娘皇女 |
(記は、橘郎女) |
H |
酒見皇女 |
(記は、酒見郎女) |
これらの名前は、古事記、日本書紀とも全く一致しているが、ここで、古事記は第五子の軽大娘皇女について「亦の名は衣通郎女」と付記し、「御名を衣通王と負わせる所以(ゆえん)は、その身の光、衣より通り出づればなり」と付記している。 日本書紀も、この皇女について、「また艶妙」と書いているが、衣通姫と呼ばれたとは書いていない。
すなわち、衣通姫は二人いる。
@日本書紀では、允恭天皇の妃(忍坂大仲姫の妹)
A古事記では、 允恭天皇の娘(忍坂大仲姫の娘)(軽大郎女)
となっているのである。
これは何故か。私は、これはどちらかが間違いと云うのではなく、二人とも衣通姫と呼ばれたのであり、この二人は母子ではなかったかと考える。
日本書紀の允恭紀には余りにも創作と思われる事柄が多いので、日本書紀の方が間違いであると断じたくもなるが、上宮記逸文が布遅波良己等布斯郎女の名を記しているので、大中姫の妹に衣通郎女がいたことは否定できないからである。
その前提として私が考えるのは、允恭の九人の子供をすべて忍坂大中姫の子としたのは、彼女を嫉妬深い女としたための作為であって、本当は複数の女性の腹から生まれているのではあるまいかと云うことである。そして、大胆に想定すると、それは次表のような母子関係ではあるまいかと私は思うのである。
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母 |
子 |
忍坂大仲姫
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名形大娘皇女
穴穂皇子
大泊瀬皇子 |
衣通郎女
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木梨軽皇子
軽大娘皇女 |
氏名不明
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境黒彦皇子
八釣白彦皇子 |
氏名不明
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但馬橘大娘皇女
酒見皇女 |
|
このように想定する理由の第一は、何と云っても、允恭没後に起こる諸事件にある。
@軽兄妹の姦通事件
允恭二十三年、木梨軽皇子は皇太子となるが、同母妹の軽大娘皇女と姦通し、これが発覚する。軽皇子は皇太子であったので罪せられなかったが、妹の軽大娘は伊予に流罪になる。このことがあったため、四十二年、允恭が没した時、群臣は軽皇子に従わず、穴穂皇子を擁立する。かくて、軽皇子と穴穂皇子との間で戦端が開かれようとするが、軽皇子側は形勢が悪い。そこで、軽皇子は物部大前宿祢(もののべおおまえのすくね)を頼んで、その家に隠れるが、大前宿祢は軽皇子の信頼を裏切って穴穂皇子の側に立つ。遂に、軽皇子は大前宿祢の家で自害する。 古事記も同様なことを記しているが、書紀と異なる点は、@同母兄妹の相姦が発覚するのを允恭が没した直後のこことしたこと。A軽皇子は伊予に流され、妹の軽大娘はその後を追って伊予に行き、二人で心中自殺する。
かくて、穴穂皇子が允恭の後の皇位を継ぐ。
A大草香皇子殺害事件(珠縵(たまかずら)事件)
安康天皇はその元年、大草香皇子の妹の幡梭(はたひ)皇女を弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子の妃に招こうと考え、根使主(ねのおみ)に使いさせる。大草香はこの申し出を快諾し、契約の証として「押木の珠縵(たまかずら)」と呼ばれる宝物を安康に献上する。ところが、根使主はその宝物が欲しくなり、天皇に手渡さず、大草香は縁談を拒絶したと報告する。安康はこの讒言を信じて兵を送って大草香を殺してしまう。その上で、幡梭皇女を取って弟大泊瀬皇子の妃とし、更に、大草香の娘の中磯(なかし)皇女を我が妃にする。
B眉輪王の安康弑逆と雄略の兄弟殺戮事件
大草香の子眉輪(まよわ)王は父の仇を晴らすべく、寝ている安康を刺し殺す。これを聞くと、弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子(後の雄略天皇)は、これは背後に糸を引いている者がいると考え、まず、八釣白彦皇子を詰問して殺し、次いで、境黒彦皇子を責める。黒彦皇子は隙を見て、眉輪王と共に葛城円大臣(かつらぎのつぶらおおみ) の家に逃げ込んだので、大泊瀬皇子は大臣の家に火を放ち、大臣、黒彦皇子、眉輪王の悉くを焼き殺す。
いかに暴君とはいえ、このような残虐極まる殺戮が同母兄弟の間で行いうるであろうか。また、忍坂大中姫がまだ存命しているなら、彼女は自らの子供同士が殺し合うのを黙っている訳はない。私は、彼らは異母兄弟に違いないと思うのである。その上で、その母子関係を表のように推定したのは、次のような点による。
@大泊瀬は允恭七年の記事によって、間違いなく忍坂大中姫の子である。すなわち、大泊瀬を出産する夜、允恭が衣通郎女の藤原宮へ行こうとするのを見て、大中姫が激怒したとあることによる。
A大泊瀬と穴穂は常にタグマッチを展開している。穴穂は弟のために妃を招こうとし、大泊瀬は兄が殺されると一類と思われる者どもを次々と殺してゆく。従って、この二人は同母兄弟と考えられる。
B木梨軽皇子について書紀は「容姿(かたち)佳麗(きらきら)しく、見る者おのずから感(め)でる」と、飛び切りの美男子であったと述べている。日本書紀がこのように男性の美しさを記した例は他にはない。また、軽大娘についても書紀は「また艶妙」と記し、古事記はこの皇女を衣通姫としている。美男美女の子供は美人の母からのみ生まれると考えると、これらの兄妹の母こそ允恭妃衣通郎女と考えねばならない。すなわち、二人の衣通姫は母と娘である。母が衣通姫と呼ばれたので、その娘もまた衣通姫と呼ばれるようになったのではあるまいか。兄妹の母が住んだ和泉国には、和名抄によると和泉郡軽部郷がある。兄妹の名の「軽」はそれに係わるものである。逆に云えば、「軽」の名を持つことが、この兄妹の母が衣通郎女であることを証明するものである。
C境黒彦と八釣白彦とは、その名前が類似している事、雄略が相次いで殺していることから考えて、また別の母から生まれた兄弟と考えるのが妥当ではあるまいか。
D名形大娘皇女については、よくは分からない。しかし、出生順から見ると、最初に允恭の妻になった忍坂大中姫の子と考えねばならないように思われる。
(7)軽兄妹姦通事件の謎
このように見てくると、木梨軽皇子と軽大娘の軽兄妹の姦通事件とは何だったのか。これは、畢竟するに、皇位継承権を皇太子である軽皇子から奪い取ろうとした穴穂皇子の陰謀ではなかったか。更に突き詰めると、忍坂大中姫が当時まだ在世しているとすれば、我が実の子に皇位を継がせたいとする忍坂大仲姫の陰謀ではなかったろうか。
そもそも、同母兄妹の相姦が、当時、それ程までの社会的禁忌だったのだろうか。
我が国の古代においては、異母兄妹間の結婚はごく普通のことだった。それのみではない。同母兄妹の相愛もしくは結婚と思しきものもなしとしない。中大兄皇子(天智天皇)とその同母妹間人(はしひと)皇女との相愛もその例であり、また、崇神天皇とその后御間城(みまき)姫も同母兄妹であった可能性がある。それよりも何よりも、軽兄妹の相姦を非難し二人を死に至らしめた穴穂(安康天皇)自身が同母姉弟間で結婚している。
すなわち、古事記によると、穴穂皇子はやがて皇位につくと、父の異母弟の大草香皇子を殺して、その妃となっていた同母姉の長田大郎女を奪って皇后にするという挙に出ている。日本書紀の方は、大草香の妃であった女性を従妹にあたる中磯(なかし)皇女であったとして同母姉弟ではなかったようにしているが、そのために各所に不自然な点がちらついている。大草香皇子が同母妹(幡梭(はたひ)皇女)の娘(中磯(なかし)皇女)、すなわち姪を妻とする不自然さは有り得ないことではないとしても、弟(雄略天皇)が兄(安康天皇)の妻(中磯皇女)の母(幡梭皇女)を妻とするという決定的な不自然さになっており、明らかに同母姉弟の結婚を隠蔽しようとしていると読みとることができる。

かくて、軽兄妹姦通事件と云うのは、後世の大津皇子刑死事件ときわめて類似している。持統天皇、すなわち鵜野讃良(うのささら)皇女は我が子草壁皇子の皇位継承を確かなものにするために、
同母姉太田皇女所生の大津皇子に有らぬ罪を被せて斬刑に処す。

そう云えば、大津皇子と大伯皇女の兄妹の間には、単なる兄妹以上のものがあったのではないかと云う説もある。阿久根治子氏は大伯皇女の歌
「わが背子を大倭(やまと)へやると小夜ふけて あかとき露に我が立ち濡れし」
と云う歌の、「濡れし」と云う語は、いわゆる「濡れ場」のそれであって、男女の交わりを意味している可能性もあると指摘している。
軽兄妹が愛し合ったことは事実であろう。しかし、そのために群臣の心が軽皇子から離れたとするのは、日本書紀の作為に過ぎないであろう。要は、允恭没後、安康や大中姫らが露骨な多数派工作を行って群臣を味方に着けて、軽皇子を追い落としたと云うことであろう。
本居宣長も「古事記伝」の第三十九巻の允恭記の注釈の中で、軽皇子の流刑の真因は允恭崩御後の皇位争いと断じている。そして、女の方が軽い刑となるのが定法であるから、軽大娘のみを伊予に流したとする書紀の記述は誤りであると記している。
宋書倭国伝が記す倭の五王のうち「興」については、一般には安康天皇と見る向きが多いが、これには異論があり、木梨軽皇子、あるいは市辺押磐皇子と見る説もある。私は「興」は安康天皇とするよりも、木梨軽皇子とする方が妥当であると考えている。理由は、
@「興」は「済」の世子と書いてある。世子とは「天子の後継者」、すなわち、太子(皇太子)の意味である。中国では世子以外の男子は「公子」と云って厳密に区別する。書紀によると、木梨軽皇子は允恭二十三年に太子となっているが、安康は太子となったことがない。
A安康の名は穴穂。「興」は「穂」の転訛したものと云うが、恣意的な感がある。それに対して、木梨軽皇子の「軽」は呉音では「キョウ」、「興」の呉音も「キョウ」である。
B書紀によると、安康の在位期間は僅かに三年足らずである。それに対して、宋書倭国伝によると、世子興は約十七年ばかり在位したと見られる。他方、木梨軽皇子は十九年間皇太子の地位にあったとされている。
このように「世子興」を軽皇子と見ると、允恭の在位期間が問題となってくる。書紀は允恭の在位期間を四十二年としているが、実際には、軽皇子が皇太子になった二十三年のしばらく後に允恭は薨去し、その後の十九年間は軽皇子が皇太子のまま治政にあたったのではなかろうかと考えさせてしまう。
皇太子のまま政務を見た例としては、@聖徳太子の推古天皇の摂政としての二十九年間、A中大兄皇子の孝徳天皇・斉明天皇の皇太子としての二十三年、などがある。木梨軽皇子の場合もこれらに類するのではあるまいか。では、なぜ軽皇子は皇太子のままであったのか。すなわち、皇位を継げなかったのか。考えられることは次のどちらかである。
@我が子穴穂に継がせたいとする大后忍坂大中姫の意志が働いたのか。
A実際には皇位を継いだが、兄妹相姦の話を忌んで、書紀の筆者が抹殺したのか。
(8)その結末:悲劇の美女衣通郎女
愛媛県宇摩(うま)郡、現在の川之江市の近辺には、木梨軽皇子、軽大娘皇女に関わる伝承が数多く残されている。
@伊予国宇摩(うま)郡妻鳥(めんどり)村字東宮(現在の川之江市妻鳥町字東宮)に東宮山(あるいは春宮山)と呼ばれる標高八十米ばかりの小さな丘があり、その山頂に東宮山古墳と云われる横穴式石室を持った円墳がある。地元ではこれを木梨軽皇子の墓であると伝承する。かつてこの古墳を地元の人たちが掘り出すと、長宜孫子銘の内行花文鏡など十五点の遺物が出土したが、その中には、魚形や皿形の歩揺を着けた見事な金銅透彫帯冠もあったと云う。更には、この東宮山の真北の、昔海岸だった所には東宮石と呼ばれる石があり、ここが軽皇子が上陸した地点だと伝えている。
A伊予国越智郡の大島に皇太子神社と云う神社があった。現在はその島の吉海町津島の田中神社の境内社となり、王太子神社と云う。この神社の祭神は王崎明神と姫崎明神の二柱とされ、王崎明神と云うのは木梨軽皇子、姫崎明神と云うのは軽大娘皇女のこととされている。そして、伝承は、軽皇子はここに泊し、ここから伊予の中心である温泉郡(ゆのぐん)(松山市や道後温泉のある所)に向かおうとしたが、折からの北西風によって来島海峡の難所を越える事が出来ず、吹き流されて宇摩郡妻鳥に漂着し、また、兄を追って来た軽大娘皇女もここまで来たが、ここで亡くなったと伝えている。
Bなお、松山市姫原に軽神社(軽之神社)がある。その東方の潮見には二基の石塔があり、姫塚とも呼び、軽兄妹の比翼塚とされているが、これは新しいもので室町時代に兄妹の供養のために作られたものである。
私は、これらの伝承は無視することはできないと考える。伊予国と云うと何と云っても温泉郡である。しかるに、温泉郡ではなく、辺縁の宇摩郡や越智郡にこのような伝承が残っていると云うことは、それが決して創作されたものではないことを示している。
そして、この点から見ると、この事件の結末は、物部大前宿祢の家で皇子が自害したとする日本書紀の記すものよりも、古事記が記すように、皇子は伊予に流され、追ってきた皇女と心中自殺したとする方が、より真実に近いと考えねばならない。ただ、心中したとしたのは、たぶんに後世の人の思いであって、真実は伝承のように、二人は別々に死んだのかも知れない。
この軽兄妹相姦事件については全く別の見方も出来ぬではない。すなわち、木梨軽皇太子はその治世の十六年目の年、妹たちを率いて伊予国の温泉に行幸に出かけた。その留守に、かねてから皇位に野望を抱いていた穴穂皇子は兵を起こして畿内を制圧し、伊予国にも軽皇太子を入れるなと命令を下し、来島海峡を封鎖させたので、行き場を失った皇太子はやむを得ず宇摩郡に上陸したが、そこで亡くなったと云うストーリーである。ちょうど、斉明天皇が紀伊の湯に行幸になった留守に有馬皇子が兵を挙げようとした事件と同じ筋書きである。しかし、いずれにもせよ、軽兄妹が悲運にも命を落としたことに変わりはない。
かくて、余りにも悲惨な運命の星によって、愛する子供たちを二人とも失った母、衣通郎女の心中はいかばかりであったろう。心の底から、この世のすべてを恨んだことだろう。しかも、自分を愛してくれた允恭は既に亡い。美しかった頬は落ちこけ、流れるようであった黒髪を振り乱し、心も心にあらず、彷徨い歩いたに違いない。
そして、大胆に思いを致せば、遂に海に身を投げたのではあるまいか。そして、その場所が和歌浦であったのではあるまいか。「立ち帰り またもこの世に跡垂れむ」と云う不気味な幽魂の呪いのような歌も、このように考えてくると、むべなる哉と思われる。かくて、彼女は玉津島神社の祭神となり、このことによって和歌三神の一人となったのではあるまいか。