☆喪われた化合物の名誉のために(3)〜アスパルテーム〜

 前回に引き続き、今回は人工甘味料アスパルテームを取り上げてみます。「買ってはいけない」の著者たちはずいぶんとアスパルテームが嫌いらしく、これを含む食品(アイス、チョコレートなど)が多数槍玉に挙げられています。

 甘味を感じさせる化合物の代表といえばもちろん砂糖(スクロース)です。砂糖は体を動かすための重要なエネルギー源ですが、摂り過ぎれば肥満・糖尿病などを招くことはご存じの通りです。そこで昔から多くの代用甘味料が開発されてきました(甘い化合物に関してはこちらもご覧下さい)。

砂糖(スクロース)

 かつて用いられた甘味料にチクロやサッカリンがあります。これらはそれぞれ砂糖の30倍、500倍の甘さを持ちます。このうちチクロは分解物に発癌性があるため現在使用が禁止されていますが、この分解反応が体内で起こるとはあまり考えられず、EU圏や中国では使用可となっています。サッカリンも弱い発癌性があるとして一度は使用禁止になりましたが、この実験はサッカリンの錠剤を膀胱内に埋め込むという現実からかけ離れた条件であったため見直しを受け、現在は発ガン物質リストから外されています。

 これらは同じ受容体に作用して甘味を感じさせるはずなのですが、ご覧の通り砂糖とは似ても似つきません。このあたり味覚の発現はなかなか解明できない問題を含んでいます。

チクロとサッカリン。赤が酸素、青が窒素、黄色が硫黄、紫がナトリウム。

 さてこうした状況の中、サール社によって開発されたのがアスパルテームです。アスパルテームは下に示す通りの構造を持ち、砂糖の200倍という甘さを示します。

aspartame

 アスパルテームは一見ややこしい構造ですが、実はアスパラギン酸とフェニルアラニンという2つの天然アミノ酸が結合したものです。これらは前項のグルタミン酸同様タンパク質の構成成分であり、人体にとって絶対必要な化合物です。要するにアスパルテームはたまたま強い甘味を持っているというだけの、ありふれたタンパク質の断片であるに過ぎません。

 アスパルテームは体内に取り込まれるとほぼ瞬時に2つのアミノ酸とメタノールとに分解されます。もちろんアミノ酸は無害、メタノールには毒性がないでもありませんが、アスパルテーム分子全体に占める割合いが少ないため、普通に調味料として使う分には何の問題もない量です。コーヒー1杯に入れるアスパルテーム由来のメタノールの量は数mg程度ですが、一部の発酵飲料にはコップ1杯にメタノールを300mgも含むものがあり、この程度では健康に影響を起こすことはありません。こうしたことは「買ってはいけない」では一言も触れられてはいませんが……。

アスパルテームの代謝物。左からアスパラギン酸、フェニルアラニン、メタノール。

 「買ってはいけない」では、このフェニルアラニンが含まれているのがいけない、と説きます。必須アミノ酸であるフェニルアラニンがなぜ毒だというのか?「フェニルケトン尿症」と呼ばれる遺伝病を持った新生児が、フェニルアラニンを多量に摂ると知能に重篤な障害をもたらすため、だそうです。

しかしこの病気を持つ子供は8万人に1人、しかも生まれた時に必ず行なわれる検査により容易に判定できます。これでアスパルテームが危険というなら、喉に詰まらせて死ぬ可能性がある餅の方がよほど危険ではないでしょうか?そもそも生まれたばかりの自分の子供に、アスパルテーム入りのアイスやチョコを食べさせる親がいるとはあまり思えませんが。

結局こうした抗議があったため、アスパルテーム入りの食品にはまるで毒物ででもあるかのように「フェニルアラニン含有」の表示が義務づけられています。もちろんフェニルアラニンは牛乳などあらゆるタンパク食品にもたくさん含まれているので、アスパルテームだけを特別扱いしてもあまり意味はないのですが。


 さて、「買ってはいけない」では、アスパルテームのもたらす巨額の利益に目がくらんだサール社や味の素が研究者を買収し、FDA(アメリカ食品医薬品局、日本の厚生省にあたる)に圧力をかけて認可させ、販売にこぎつけたような記述がなされています。一企業に籍をおく研究者から言わせてもらえば、「そんなアホなことができるか!」です。どうもこの著者たちは、大企業というものは金の力にものを言わせてなんでもしたい放題と思いたがっているようですが、はっきり言って映画かドラマの見過ぎでしょう。残念ながらFDAはそんな甘っちょろい組織ではありません。国家権力がたかが一企業の圧力に屈するはずもなく、厚生省も薬害エイズ事件以降極めて慎重になっています。

アスパルテームをめぐる攻防戦はFDA史上最大と言われ、いまだに語り草になるほどのものです。FDAはやっきになって有害性を実証しようとしたにも関わらず、結局問題点は見いだせず、認可せざるを得なかったというのが本当のところです。

 

 雪印や三菱自動車の例を見てもわかる通り、これだけマスコミの発達した世の中にあっては、一度信頼を失えばそれはどんな大企業といえども致命傷になりかません。製薬企業の安全性確認などは執拗なまでのもので、筆者も苦労して開発した化合物がちょっとしたキズで落とされて泣いたことが何度もあります。

 もちろん認可する側の基準も大幅に厳しくなっています。例えばアスピリンは、100年以上使い続けられている最もありきたりな鎮痛剤ですが、飲むと若干胃が荒れるという副作用があります。このため、もし今アスピリンが新薬として申請されたなら、まず認可されることはないだろうと言われます。少しでも危険とわかっているものを力ずくで上市しようなどできるはずもなく、するはずもありません。

アスピリン。鎮痛薬として常用される。

 もちろん人間のやることですから完璧はあり得ず、時に副作用などの問題が出てマスコミを賑わします。しかし企業側は常にリスクを最小限にすべく最善の努力を図っていること、問題が発生した場合にもできる限り迅速で誠意的な対応をしようとしている会社が大多数であると筆者は思っています。闇雲に利益だけを追求する会社が生き残れる時代ではなくなっていることを、誰よりも認識しているのは企業側の人間ですから。

 

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