東方および東方町は埼玉県深谷市の北東部に存在する地名である。
読みは「東方(ひがしがた)」、「東方町(ひがしがたちょう)」である。
概要
明戸 | 上増田 | 本田ヶ谷 | 下増田 |
宮ヶ谷戸 | 西別府 | ||
原郷 | 東方 | ||
国済寺町 | 東方町 | 別府 | |
幡羅町 | 新堀 | ||
上柴町東 | 東方 |
深谷市東方付近の住所略地図。
実際は複雑に入り組んでおり、
上記の図の通りではないことに注意。
東方より東の「下増田」「西別府」「別府」「新堀」は熊谷市である。
埼玉県深谷市には「東方」と「東方町」という地名が存在する。東方町には5丁目まで存在している。深谷市北東部・熊谷市と接する位置にある。最寄駅はJR高崎線籠原駅。
大まかには、北部に「東方」、その南部に「東方町」がある。そのさらに南、国道17号線とJR高崎線に挟まれた地区は「幡羅町(はたらちょう)」という住所となる。さらに幡羅町の南には、また「東方」という住所が飛び地のように存在している。この辺りは隣の熊谷市との境も複雑で、非常に紛らわしい。詳しくは、Yahoo!地図を参照のこと。
東方町南端には国道17号線が走り、東方公園がある。「東方」の地名は、「日本歴史地名大系第11巻 埼玉県の地名」によると庁鼻和(こばなわ)城から東の方角にあるのが地名の由来だという。
地理学的には櫛挽(くしびき)台地の北東端に位置し、北部は利根川の沖積低地に移行している。北西部を福川(丈方川)が流れている。南部の東方町には住宅が多いが、所々畑が点在する。特に幡羅町には、昭和50年代に行われた大規模な土地区画整理事業により工場が立地している。北部の東方に入ると、畑の面積が広くなり民家はまばらとなる。畑は典型的な近郊農業である。
以前、夏になると農協の主催でヒマワリの巨大迷路が出現していた。5万株のヒマワリによる全長4Kmもの巨大迷路であった。かつては毎年開催されていたが、2003年8月9日頃に来た台風で壊滅的な被害を受け、それ以降は開催していないらしい。
東方にある某コンビニには、午後9時くらいになると猫が現れるらしい。
交通
東方地区にはJR高崎線がかすめているが、駅は存在しない。最寄駅の籠原駅か深谷駅からバスを利用すると便利である。深谷駅及び籠原駅からバスで10弱分程度で到着する。なお、籠原駅からの場合徒歩での移動も可能である。
東西に中山道や国道17号線が通る。また、東方の北東部には国道17号線深谷バイパスと上武バイパスがかすめている。南北には市道「東通り」が通っている。中山道には、江戸から18番目の「東方一里塚」があったとされるが、痕跡は残されていない。
歴史
以下は、現在の「東方」「東方町」と呼ばれる辺りについての記述である。
東方地区は古くから開けた土地であり、隣の原郷にかけて木の本古墳群が点在している。木の本古墳群からは20弱の古墳が出土しているが、そのうち3基が東方地区から出土している。「深谷市史」によると、1950年に火の見塚と呼ばれる古墳が半壊した際、箱式石棺と直刀、成年男子の頭骨などが出土したという。周辺に分布する埴輪などから六世紀中頃から七世紀の古墳であると推定されている。
原郷には、7世紀後半から10世紀前半まで存在した幡羅(はら)郡の郡衙(郡役所)があった場所であると推定されており、東方地区にも幡羅遺跡が眠っている。現在深谷市が遺跡確認調査を行っているが、幡羅遺跡は一面畑に覆われており、状態は良好に保存されていると見られている。これは全国的にも珍しいことである。
東方には深谷上杉氏家臣の居城跡と伝えられる東方城跡があり、市の指定文化財(史跡)に指定されている。現在では土壇・土塁・空堀などの遺構が残っている。
東方城の歴史は詳しくは残っていないが、戦国時代にこの地を治めていた深谷上杉氏は深谷城を本拠とし、東方城はその支城として建設されたようである。
深谷上杉氏は越後上杉氏(上杉謙信)と小田原北条氏との間で帰属がめまぐるしく変わったが、1574年からは北条氏政の支配下に入った。小田原北条氏支配下では、東方城は深谷右兵衛兼永・深谷左兵衛吉教の居城となったという記録が「大武鑑」に残っている。村の北方には「お姫屋敷」「御所屋敷」「御庫屋敷」「中間町」と呼ばれる場所があり、かつて深谷上杉氏家人の居館後の名残といわれている。豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原北条氏が滅びると、本城の深谷城とともに東方城も接収された。
その後、徳川家康が関東に入部すると、家臣の松平康長が1590年に1万石で東方城に封じられ、東方藩が設置された。 康長は関ヶ原の戦で功を上げ、1601年に上野国白井藩に加封された。東方城は廃城となり、東方藩も廃止された。
1617年5月に旗本・江原政全が「深谷乃内東方村」に300石で、1625年には旗本・長谷川筑後守正成が同じく300石で徳川氏から封じられている。一七世紀中葉に編纂された「武蔵田園簿」によれば、東方村の石高は田方五二八石余・畑方一千一四七石余であり、幕府領と旗本江原・長谷川など六家の相給であったと記されているが、一七世紀後半の「元禄郷帳」では旗本四家の相給と記されている。1804年~1829年の間に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、幕府領・岩槻藩領と旗本六家の相給で、家数126件であると記されている。
1889年4月、町村制施行により、東方村は、原郷村の一部、国済寺村の一部、柴崎村、本田ヶ谷村と合併し幡羅(はたら)郡幡羅村大字東方となる。1896年4月には幡羅郡が大里郡、榛沢郡、男衾郡と統合し大里郡幡羅村大字東方となり、1955年には幡羅村が深谷町等と合併し深谷市大字東方となる。2006年に深谷市は大里郡岡部町、川本町、花園町と合併。合併の際に大字を廃止し、住所表記も深谷市東方となり現在に至る。
寺社
熊野大神社
927年創建されたとされる神社で、伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱を祀る。深谷上杉家の重臣岡谷加賀守清英は社領を寄進したとされ、今でも、神社北方にある熊野免という年貢を免除した土地が残っている。
全久院
全久院は曹洞宗の寺院であり、1591年、松平康長が祖先である戸田弾正左右衛門宗光のために建立し菩提寺としたとされる。
本山は福井県永平寺と神奈川県総持寺。深谷七福神が設置されている。
弥勒院
真言宗智山派の寺。熊野山良光寺と号す。江戸時代には熊野大神社の別当寺であった。東方城主松平康長が古河に移封された際、当寺の僧も移住したという。
商業施設
コンビニ
飲食店
その他
関連動画
参考文献
関連リンク
関連項目
読み:ヒガシガタ
作成日: 2009/01/20(火) 15:02:38 最終更新日: 2009/01/26(月) 17:52:35 ページ番号: 1038223 リビジョン番号: 169865
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