空襲で焼け残った鉄筋コクリート製のアパートや学校などの建造物は修復され活用されていましたが、それらの建物も老朽化に伴い取り壊わされ新しい建物に替ってしまいました。終戦後60年経った今日空襲の傷跡が残る殆どの建造物は存在しなくなりましたが、取り壊しを免れた2つの建物をここに紹介します。 |
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慰霊碑裏の説明日立航空機株式会社立川発動機製作所は太平洋戦争中陸軍専管航空発動機生産工場として時局の要請にこたえていた。昭和20年2月17日、4月19日、4月24日と相次いで米軍機の空襲をうけ左記110名の尊い犠牲者を出し工場は廃墟と化した よってここにこれらの霊を慰めるため碑を建てるものである。 |
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権次郎さんは完成した観音様を拝むことはできませんでしたが、この観音様の木彫見本の完成だけは権次郎さんの息のあるうちに間に合い、既に目は見えなくなっていましたがこの木彫を抱き涙して喜んだそうです。 |