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(上)米軍攻撃、60人超した死者
民間人が犠牲 遺体にも対面できず
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カーキ色の軍服を身にまとった兵士。大きな風呂敷包みを抱えた人たち。
1945年8月5日朝の国鉄新宿駅。中央線は八王子空襲の影響による不通から3日ぶりに全面開通し、長野行き下り419列車(8両編成)の車内はごった返していた。 「よく晴れた、暑い日でした」。当時13歳の黒柳美恵子さん(73)(大田区久が原)は、長野県飯田市の祖母の実家に疎開するため、2歳年上の姉良子さんとともに乗り込んだ。
母ますえさんが駅まで見送りに来た。姉と向かい合って座り、隣には男性の乗客が2人。「列車に乗れてホッとした。まさかその数時間後に銃撃を受けることになるとは」列車は定刻より遅れ、ゆっくりと走った。車窓から見える景色は、空襲で焼け野原になった住宅街から、次第にのどかな田畑風景に変わっていった。列車の中で姉とどんな話をしたのか、覚えていない。蒸し暑い、すし詰め状態の車内で「早く祖母の家に着かないかなあ」とだけ願っていた。
硫黄島から飛来した数機のP51戦闘機がそんなささやかな願いを打ち砕いた。
「銃撃の瞬間、姉が『美恵子!』と私の名前を叫んだことは覚えている」とっさに伏せた顔を上げた時、姉はもう動かなかった。後頭部に銃弾を受け、即死だった。隣の男性2人がどうなったのかは分からない。
神奈川県相模湖町の疎開先に戻る途中だった高橋道子さん(75)(小平市鈴木町)は八王子駅から乗車した。満席だったためデッキにいた。銃撃後、高橋さんは戦闘機が戻ってくる前に列車から飛び降り、草むらに伏せたが、両足に3発の銃弾を浴びた。「焼け火ばしを当てられたような感覚。銃撃が終わって逃げようとしたが、動けなかった」。足には今も大きな傷跡が残る。
湯の花トンネル列車銃撃事件は、列車銃撃空襲の被害としては国内最大とされるが、被害実態についての調査結果が公表されることはなかった。「軍の報道管制の影響もあったが、空襲で人が死ぬのが当たり前の時代だった。犠牲者の遺族で遺体に対面できた人は少なかったはず」。事件を調べている八王子市郷土資料館学芸員の小林央さん(40)は指摘する。現場に残されていた49体の遺体は翌日、一括して現場近くの沢で荼毘(だび)にふされた。
新宿駅で2人の娘を見送ったますえさんも良子さんの遺体には対面できなかった。「母は決して人に嘆き悲しむ様子を見せることはなかった。だけど、娘を失った苦しみが癒やされることはなかったと思う」と黒柳さん。命日には必ず銃撃のあった場所を訪れていたますえさんは、一昨年夏、96歳で亡くなった。くしくもそれは8月5日朝だった。「多くの民間人が犠牲になった。戦争がいかにむごく、つらいものであるかを忘れてはいけない」。60年はたっても、黒柳さんはそう強く感じている。
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(中)女性車掌「何もできなかった」
戦後国鉄を辞職 現場の慰霊碑に線香
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「毎年8月5日が来ると、東京の方に向かって手を合わせていました」。丹野玉子さん(78)は、茨城県日立市の自宅で西を向き、静かに手を合わせた。
事件の日、車掌として銃撃された下り419列車に乗っていた。戦局が厳しくなり、兵士として出征する男性の代わりに駅務員の女性が車掌に回された時代。18歳だった丹野さんは女性車掌の第1期生だった。「列車が新宿駅を発車してからも、いつ銃撃があるかとおびえながらの運行でした」。今も、その恐怖が現実となってしまった後のすさまじい車内の光景が、丹野さんのまぶたには焼き付いている。「列車を早く出せ!」。空襲警報のサイレンが鳴り響く浅川駅(現・高尾駅)で、数人の乗客が駅員にどなっていた。銃撃の約1時間前のことだった。
確かに、駅にとどまっていても安全とはいえなかった。約1か月前から、多摩地区では機銃掃射の被害が駅でも相次いでいたからだ。「小仏トンネル、せめて浅川駅からすぐの湯(い)の花トンネルまで行けば山峡地帯に入り、安心だとみんな思っていた」と丹野さんは振り返る。しかし、浅川駅を発車した列車は、まもなく米軍機に見つかってしまう。
「米軍機が高尾山の上空に見えた次の瞬間にはすさまじい銃撃が始まっていた」。丹野さんの車掌仲間で、偶然、列車に乗っていた和田栄子さん(79)(茨城県北茨城市)はそう言う。銃撃を受けた列車は、2両目の途中までトンネルに入った状態で止まった。動きを止めた車両の天井や側面に、容赦なく銃弾が撃ち込まれた。客車の間の貨物車両にいた丹野さんは、銃撃の間、じっと通路に身を伏せ、その後、機関士が無事かどうか確かめようとして先頭車両に向かった。
そこで目にしたのは、血まみれで折り重なって倒れている人、あちこちに散らばる肉片。そして助けを求めるうめき声。「累々と人が死んでいた。助けたいけれど何もできなかった。自分もパニックだった」後に丹野さんは、車掌として、銃撃のあった日時と場所を記した事故報告書を国鉄に提出した。しかし軍や国鉄に事情を聞かれることはなかった。終戦後まもなく、丹野さんは国鉄を辞めた。
現場近くで慰霊祭が開かれていることを知ったのは半世紀以上もたってからだった。2001年夏、丹野さんは和田さんとともに56年ぶりに現場を訪れた。「あの日と同じ、良く晴れた暑い日。線路の向こうにぽつりぽつりと民家が見え、当時とあまり変わっていないように思えた」慰霊碑に線香を供え、長年あった胸のつかえが少し取れた気がした。
「あれだけの銃撃で、全く無傷で生き残れたのは奇跡だった。亡くなった人たちのことを思うと、今でもふびんでなりません」丹野さんは自分の人生と重ね、60年という歳月の重みをかみしめている。
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(下)戦禍次代に伝える
住民や遺族、今年も慰霊祭へ
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銃撃の惨事があった線路脇。そこに5歳の男児から70歳の女性まで、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑が立つ。事件から47年後の1992年夏、地元・旧浅川町の住民が中心の「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が建立した。近くには、事件から5年後に地元青年団が建てた供養塔もある。
「この辺に住む人にとって、盆暮れやお彼岸に犠牲者を供養することは自然なことなんです」。安藤礼子さん(56)は、そう言って花を供えた。銃撃後、自宅の庭に多くの犠牲者が横たえられたことを、安藤さんは一昨年亡くなった母八重子さんから聞かされた。近隣住民は、負傷者を運ぶために自宅の雨戸を外して安藤さんの家に集まり、救護活動を手伝った。「現場の惨状は目を覆うばかりだったと、母がよく言ってました」
事件当時の報道や記録がほとんどない中、列車銃撃事件に改めて光を当てたのは八王子市郷土資料館が85年にまとめた「八王子の空襲と戦災の記録」だった。「特定の地域への空襲とは異なり、たまたま乗り合わせた人が犠牲になる列車空襲は、犠牲者や負傷者の住所もまちまち。骨の折れる作業だった」。編さんに加わった都立松が谷高校の斉藤勉教諭(47)は言う。
斉藤教諭は、当時の国鉄や警察資料を調べるだけでなく、列車の乗客や遺族らからの聞き取り調査も進めた。その結果、事件当時の警視庁資料では死者52人、負傷者133人となっているが、病院への搬送中や後日に死亡した人を含め、最低でも死者が65人に上ることが分かった。
慰霊の会の取りまとめ役でもある斉藤教諭は「犠牲者の身元を含め、被害の全容はいまだにはっきりしない。当時を知る人が少なくなる中、今こそ戦争の惨禍に目を向けるべきだろう」と語る。
「毎年、慰霊祭に行くのは大変。でも、このような悲惨な事件があったことを忘れてはいけない」。立川署の警察官だった父を亡くした手島昭司さん(64)(山梨県山梨市)は、今年も5日にトンネル近くで開かれる慰霊祭に出席する予定だ。母みよのさん(89)は体調が優れず、足を運べない状態だが、手島さんは毎年、息子や孫たちを連れて出席してきた。「戦争の惨禍を次の世代にしっかりと伝えたい」。言葉に力がこもる。
会社員だった父を亡くした武田笑子さん(75)(三鷹市牟礼)も、妹とともに慰霊祭に参加する予定だ。「初めて銃撃のあった現場を訪れたのは事件から18年後。それまでも、それからもずっと地元の人たちは供養を続けてきてくれた。体が動くうちは行きたい」トンネルには現在、何事もなかったかのように列車が通過し、慰霊碑の周囲に茂る夏草を揺らす。しかし全長約160メートルのその空間には、今も惨劇の記憶が秘められている。あす5日、60回目の命日がやって来る。
(この連載は末吉光太郎が担当しました)
以上 2005年8月2日〜4日読売新聞多摩地方版連載より。
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