2008/7/10
「恐怖と欲望」
経済の本質は恐怖と欲望である。ケインズは言った。99%の人が悲観しているとき1%の人は楽観して株を買う,と。しかしケインズも株で大損した一人でもあった。この世の終わりと思える暴落時,株を買えるのはほんの一握りの相場師のみである。買い場売り場は年に必ず何回か訪れる。大暴落に備えコール・オプションの準備をしている人はプロ中のプロともいえよう。一日で10倍〜20倍の利益が出ることを知っている。基本的に株はリスクマネーがなければやってはいけない。リスクマネーとは例えば3000万円なくなっても構わない余裕資金がある場合のみ行うべきだ。そんな中で筆者が思い出に残る仕手戦がある。兼松日産農林,日本カーボン,井筒屋,ルック.....。仕掛けたのは加藤XXX氏である。当時の記録は日記に書いてあるがノート10冊に及ぶ。その他糸山英太郎氏の仕掛けた中山製鋼がある。彼は佐々木真太郎を父に持ちその愛人の子どもであったが叔父に笹川良一を持っていた。日陰の子どもであったからこそ愛の鞭はけたたましいくらい壮絶であった。中山製鋼仕手戦の最終局面で糸山は父に相談した。父は「勝つ見込みはあるのか?」との問いかけに対し糸山は「あります」と答え父は資金援助し西の売り方近藤紡は完敗した。現在糸山は田町にある糸山タワーのオーナーである。大物はみな一穴では収まらない。西武鉄道の堤康次郎の三男堤義明,そして堤清二も妾の子であった。とくに清二はギリシャ神話の「オイディプス王」そのものである。清二の正妻は清二を産んだ女性であった。
生まれてはならぬ人から生まれ、交わってはならぬ人と交わり、
殺してはならぬ人を殺した。それがこの俺だ!
三人の古典悲劇詩人はここをクリック
いわずとしれた日本演劇会の重鎮・蜷川幸雄演出、
当代人気随一の狂言師・野村萬斎主演で送る、最高の話題作!
【スタッフ】
■作 ……… ソフォクレス
■演出 ………… 蜷川幸雄
■音楽 ………… 東儀秀樹 【キャスト】
野村萬斎
麻実れい
山谷初男
沢竜二
ほか
蜷川幸雄・演出 野村萬斎・主演 当代随一の演出家・役者が激突!
映画「陰陽師」やドラマ「あぐり」などでも大活躍。絶大な女性ファンに今まさに人気急上昇中の狂言師・野村萬斎がギリシャ悲劇に挑む!
音楽は蜷川作品初参加の東儀秀樹が担当。
競演に麻実れい、吉田鋼太郎ら実力派の出演陣。
ハイビジョンカメラ9台によるマルチ撮影。豪華な映像をすみずみまで満喫できる仕様です。
野村萬斎のオフショット映像を映像特典収録。
【内 容】
ギリシャ四大悲劇の中でも最高傑作と誉れ高い、「オイディプス王」。そのあまりにスキャンダラスで、恐ろしい悲しみに満ちあふれた作品を、日本演劇界の重鎮・蜷川幸雄が、当代人気実力ともに随一の狂言師・野村萬斎を主役に迎えて、描いたのがこの「オイディプス王」です。古代ギリシャの地、コリントスの王として育ったオイディプスは忌まわしい予言を授かった。曰く、父を殺し、母を娶ることになるであろうと。あまりに恐ろしい予言から逃げるようにして放浪の旅に出たオイディプスは、隣国テーバイに災厄をもたらした怪物・スフィンクスを破ったかどで、請われてテーバイの領主となった。非業の死を遂げた前王ライオスの后イオカステを妻に迎え、しばらくは幸福な日々が続いた。だが、やがて暗雲立ちこめ疫病災厄が国中を覆い、それを払うために神託がもたらされる。そして、悲しくも恐ろしい真実が明らかになり、運命は一挙に破滅へと突き進む...。蜷川演劇独特の舞台美術、構成。そして進境著しい野村萬斎、麻実れいの魅力を余すところなく、9台のハイビジョンカメラが収録。およそ120分の舞台に、野村萬斎らのオフショット映像を収録。萬斎ファンの声にしっかりと答えます。2002年6月7日〜30日シアターコクーンにて。
日経ヴェリタスで「相場師伝」が掲載されていた。
人間は誰でも年をとってゆくが,こういうところで悠々自適の生活を送れる人たちは1%しかいない。ただ楽観してリスクをとった結果でもある。99%の人は暴落という恐怖に負けてしまうのである。
笹川・糸山連合の参謀、のちに対立し北浜去る、畠中平八氏(08/7/7)
中山鋼仕手戦では軍師役
原文
畠中平八は今年米寿を迎え、ますます健在である。「北浜の平ちゃん」と親しまれ、「最後の相場師」と自称する畠中は、清水一行の代表作『相場師』のモデルでもある。笹川良一に見込まれて、岩井証券社長に迎えられ、13年間采配をふるうが、最後は笹川と対立、不本意ながら辞めざるを得なかった。第2次大戦後の北浜を代表する勝負師である。
昭和10年、15歳で北浜の佐藤株式店の丁稚となるが、「満々たる野心を抱いて、小柄でやせているくせに、土佐っぽの父親譲りの向こう気の強さで誰にも負けまいと、いつも肩をいからせていた」(「相場師」)。
当時、場立ち(市場代表者)になることが相場師への登龍門だった。夢がかなった平八は仲間が寝静まったころ、床を抜け出し、ケイ線引きに打ち込んだ。昭和14年、英仏両軍がドイツに宣戦布告、「遠い国の戦争は買い」とばかり突進する。平八は郵船と商船の新株を計600株も買い、見事に勝負勘が的中、一挙に1万2000円(現在なら約1000万円)が転がり込む。が、その金はネオン街に雲散霧消した。
太平洋戦争に従軍、復員した畠中は、ヤミ物資のブローカーで大もうけ、それを元手に株を買う。まだ取引所は再開されていないから集団売買の時代だが、3円で買った住友金属が50円にハネ上がったり、すってんてんになったり、浮沈を繰り返す。昭和22年には金田証券に入り、相場師として本領を発揮、同35年には社長に就任する。
当時の専門誌は「常に相場を愛し、相場に体を張ってきた。金田証券を手中に収めた立志伝中の人物だが、おごったところは全くなく、涙もろく『北浜の平ちゃん』で親まれてきた」と評した。株の強弱論戦でも東の石井久立花証券社長、西の畠中平八金田証券社長は対幅を成した。
畠中は、岩本栄之助、野村徳七、松井伊助など北浜130年の歴史を彩る先輩相場師に対し畏敬の念すら抱いている。そしてこう語る。「相場師は男のロマンに命を賭けるというくらい誇り高いものでした。一般の人を巻き込んで、いろんなトラブルを起こしている人をもって相場師と解釈されたのでは、先輩に対して申し訳ないことになります」
だから昭和40年不況で金田証券の自主廃業に踏み切った時、畠中は別荘から家の座布団に至るまで、私財一切を売り払って、株主や同業者に迷惑をかけることはなかった。
一時は業界を去ることも考えたが、歩合セールスマンとして須々木証券(現日産センチュリー証券)に入社、たちまち才覚を発揮、証券セールス日本一と書き立てられる。その働きぶりは笹川良一の目にとまる。日本船舶振興会会長で、戦前派右翼の大物である笹川は株や商品相場が大好きで、北浜の岩井証券の大株主でもあった。笹川は歩合セールスマンをいきなり社長に抜てきする。畠中の相場師経営者として奮迅の活躍が始まる。
昭和46年から同48年にかけて中山製鋼所株の大仕手戦が繰り広げられる。この戦いに糸山英太郎、笹川良一の連合軍が買い方、近藤紡こと近藤信男が売り方に陣取り、大乱戦の末、解け合いとなるが、近藤紡は40億円の巨損をこうむった。近藤は翌年他界するが、売り将軍・近藤信男を死に至らしめた中山鋼事件で糸山、笹川連合の軍師をつとめたのが畠中だった。
平ちゃん株は天井知らずで、大阪証券取引所理事など公職も増えていくが、好事魔多しとや。大腸がんやクローン病など数々の大病を患い、大手術を受ける。病魔にも打ち勝って畠中の信奉者はますます層が広がっていくが、昭和57年、突如岩井証券社長を退任、株界を去る。
平ちゃんが笹川親分とたもとを分かつに至ったのは、内部告発で背任横領の疑惑をかけられたためだったが、公判の途中で和解が成立、畠中の疑惑は晴れ、1億2000万円の退職金は支払われた。その直後の父娘の会話。
娘「お父ちゃん、服でも買うてえな」
父「すまんな、あの金はもうない。相場ですってしもうた。ゲンの悪い金は身につかんもんや」
無冠の素浪人となった畠中。自らの命を救ってくれたブラジル産の健康茶「タヒボ」に賭ける第2の人生が始まる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・株は相場を張って、上がるから利益が得られるのであって、買い占めてその会社を乗っ取るという考えを持つべきではない
・金や地位に恋々とする必要はない。名だけは惜しむ
・誇り高い先輩相場師の何かを受け継いで最後の相場師という名前を飾りたい
(はたなか へいはち 1920〜)
大正9年2月、大阪府出身、昭和10年北浜の佐藤株式店に入社、同17年出征、同22年金田証券に入り、同35年社長、同40年証券不況で自主廃業、同43年須々木証券に入り、「証券セールス日本一」と称される。同44年岩井証券社長、同48年中山製鋼株仕手戦で参謀役、同57年オーナーの笹川良一と対立、辞任、同60年健康茶「タヒボジャパン」設立、著書に自伝「最後の相場師 畠中平八 タヒボに賭ける」など。(写真は畠中平八氏より提供)
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。